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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(1601~1700年)

 

                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

ステュアート朝

1603 年:ジェームズ1世の即位。ステュアート朝の始まり。

☆ ステュアート  今後いろいろ  お騒がせ

 

エリザベス1世(位1558-1603)は生涯結婚をせず、ザ・ヴァージン・クィーン(処女王)と呼ばれることになるが(​不妊体質だったのではないかという推測も一部にあるが、本当のところは分からない。王室同士の婚姻により外国からの内政干渉が起こることを避ける意図もあったかもしれない。米植民地のヴァージニアという地名も彼女にちなむ)、そうすると当然、子供がないわけで、テューダ朝はエリザベスで絶えた。そこで、スコットランド王がイングランド王位を兼ねることとなり、1603年にジェームズ1世として即位した。ここから1714まで100年余りにわたり、イングランドはステュアート朝時代となるが(つまり大雑把に見ればステュアート朝は17世紀の王朝である)、この時代には​王権神授説を唱える専制的・反動的な王が次々に出て、革命も相次いで起こり、立憲政治を確立するための運動が繰り返された。17世紀、フランスで絶対王政が最盛期を迎えるのとは対照的に、イギリスでは混乱の中で、王権を制限する方向へのプロセスが進んでゆく。

("ヴァージニア"に関する補足:エリザベス1世は北米植民計画を1583年に認可したけれども、その生前に具体的な成果は得られなかった。1607年、ジェームズタウン〔ジェームズ1世に因む命名〕にイギリス人による最初の恒久的開拓地が設置され、ここを含む地域がエリザベスに因んで"ヴァージニア"と呼ばれるようになったようである。)

​(シェイクスピアはエリザベス朝からジェームス1世の時代にかけてのロンドンの俳優兼座付き劇作家であった〔活動期間はだいたい1586-1611年くらい〕。シェイクスピアの劇団は1594年に宮内大臣がスポンサーになり、ジェームズ1世が即位すると国王がスポンサーとなって「国王一座」と称した。)

【日】ステュアート朝(〔イングランド〕1603-1714):日本では江戸時代。ジェームズ1世のイングランド王即位と同じ年に江戸幕府が開かれている。アン女王の死去によってステュアート朝が終わるのは江戸時代中盤で、新井白石による正徳の治(1709-15年)の頃。将軍は第7代・徳川家継(任1713-16)。

オランダ独立

1609 年:オランダが事実上の独立を達成。

☆ オランダは  一路 臆さず  独立達成

 

1568年に、ネーデルラント地域がスペインの支配に抗して始めたオランダ独立戦争は、北部7州による1581年のネーデルラント連邦共和国独立宣言を経て(目標に向けて臆することなく戦い)、1609年に休戦に至った。この時点でオランダの事実上の独立が達成されたと言える。ただし正式に独立が認知されるのは、1648年のウエストファリア条約(ドイツ三十年戦争後の講和条約)のときになるけれども。この事実上の独立の時点からオランダは世界の商業・金融の中心として発展し、17世紀前半にはスペインに代わりオランダがその最盛期を迎えた。​(反面、世界で初めて、一般市民による気違いじみた投機ブームも起こったようであるが。)さらにその後、世界の覇権は英仏に移ってゆくことになる。

​(オランダの独立は、広い意味での「ブルジョワ革命」と見なしてよいのかもしれない。スペインの王権から〔経済的にも〕独立したわけであるし、その後のオレンジ家の「総督」は、る意味では「王」のような存在であるにしても、絶対王政のような強い中央権力ではなかった。)

 なお「国際法の祖」と呼ばれたオランダのグロティウスが『海洋自由論』を出版したのが、この1609年のことである。(『戦争と平和の法』は1625年。)このころオランダが世界の商業・貿易の中心であったわけで、オランダにこの時期、このような法律学者が現れたというのは、うなずけることである。

​【日】1609年、オランダは平戸に商館を開設している。江戸時代、後に鎖国体制が形成されてゆくが、西洋の国の中ではオランダとのみ、幕府・長崎奉行の監視下での交易が続くことになる。(オランダ商館は1641年に出島に移された。)

ロマノフ朝

1613 年:ロマノフ朝の成立。

☆ モスクワの  広い 見晴らし  ロマノフ家

 

モスクワ大公国では、イワン4世(雷帝)が1584年に死去した後に、しばらくの間内紛状態が続いた。(ポーランドやスウェーデンに攻められたが、義勇軍は1612年に、モスクワをポーランド軍から解放した。)そして、1613年にロシア5名家のひとつロマノフ家のミハエル=ロマノフ(16歳)が皇帝に選ばれて即位、ロマノフ朝が始まった。16世紀までのロシアは文化的に極めて遅れており、貴族もただ家柄だけで無学を恥じぬ風であったようだが、ロマノフ朝初代ミハエル(位1613-45)、第2代アレクセイ(位1645-76)下で、徐々にヨーロッパ人やその文化・技術を受け入れるようになり、たとえばモスクワ郊外に「ドイツ人部落」などというものも出来たらしい。ロマノフ朝ロシア帝国は、やがて啓蒙専制君主による絶対主義の時代を迎えて領土を大きく拡大してゆき、20世紀前半の第二次ロシア革命のときまで続く。

【日】ロマノフ朝(1613-1917):日本は江戸~明治時代。王朝成立と同年(1613年)イギリスが平戸に商館を開設(~23年まで)。翌1614年、大坂冬の陣。ロマノフ朝がロシア革命によって終焉を迎える1917年は、大正6年。第一次世界大戦参戦中で、日本はアメリカとの間で、中国における権益に関して「石井・ランシング協定」を結んでいる。

後金

1616 年:後金の建国。ヌルハチが即位。

☆「満[州]族が  いろいろやる」と  ヌルハチ即位

 

南宋の時代に華北までを支配した女真族(満州族)は、元・明の時代には衰えていたが、明末の時期にヌルハチが中国東北部で諸部族を統一し、1616年に後金(こうきん)を建てた。​(つまり明に対して独立を宣言したわけである。)ヌルハチは、外征の他、軍制・行政組織の基礎となる八旗の導入や、満州文字の制定などを行った。この後、第2代ホンタイジ(位1626-43)のときに内モンゴル・チャハル部や朝鮮を従え、国号を清と改めた(1636年)。第3代の順治帝(位1643-61)のときに中国全土をほぼ統一することになる。

(普通、「満州族」を「満族」と略することはないけれども、ここでは許容してもらいたい。)

【日】後金-清(1616-1912):​日本は江戸~明治時代。後金建国前年の1615年に大坂夏の陣で豊臣家滅亡。徳川支配体制が完全に固まった時期である。そしてこの1616年に徳川家康が没している。数えで75歳。清が辛亥革命によって滅んだ1912年には明治天皇が崩御、大正元年となる。

三十年戦争

1618 年:ドイツ三十年戦争が始まる。

☆ ドイツにて  広い野戦の30年

 

イギリスやフランスでは16世紀中に王権によって、かなりの程度、国内の宗教的統一が進んだが、300以上の諸邦・都市の寄せ集めであるドイツ(神聖ローマ帝国)では、1555年のアウグスブルクの和議以降も新教2派と旧教がモザイク状に共存し、時々に諸侯の私的な政治的経済的"都合"によって所々に"改宗"が起こったりもして、不安定な対立状態が解消されなかった。上から不本意な"改宗"を強要されて、従わなければ処罰される民衆には不満が蓄積する。1617年にボヘミア王が交代し、この新たな王(この後、1619年に神聖ローマ皇帝に選出されるハプスブルク家のフェルディナント)が旧教政策を強化すると、新教徒たち(新教貴族や民衆)の反抗が起こり、ボヘミア内の新教派諸侯がこれを契機に連合して1618年に反乱を起こした。これが三十年戦争の発端である。しかし海外からの介入が入り、新教・旧教間の闘争は、次第に諸国間の政治的覇権闘争へと転化していくことになる。デンマーク、スウェーデン(王グスタフ=アドルフ自ら参戦、1632年戦死)、および旧教派であるはずのフランス​(ルイ13世、宰相リシュリュー)が新教側を支援し、スペインが旧教側を支援、皇帝フェルディナント2世(位1619-37)はもちろん旧教側の総代である(皇軍総司令官にワレンシュタインを任じた。ワレンシュタインは1634年、部下にそむかれて暗殺される)。ドイツの諸侯もそれぞれがそれぞれの立場で自国(自領)の強化のために戦った。この戦争は、ウエストファリア条約によって終結することになる。当時の軍隊はどこも、現地での略奪・暴行を当然のこととして行ったので、ドイツ国内は村々まで荒れ果てた。ドイツの人口は3分の1に減ったという。

(なお、この1618年にブランデンブルク選帝侯領と東方バルト海沿岸のドイツ騎士団領〔プロイセン公国〕が併合して「プロイセン」〔ブランデンブルク=プロイセン〕が成立している。この年、プロイセン公が死去し、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねる同君連合となったため。これが「プロイセン王国」として皇帝から承認を受けるのは1701年であるが。)

【日】三十年戦争の期間161848年は、日本の江戸幕府3代将軍・徳川家光の在任期間162351年〔28年間〕と、だいたい重なっている。

ピルグリム

1620 年:ピルグリム=ファーザーズが、プリマスに定住を始める。

☆ プリマスの  色に 驚く  ピルグリム

 

イギリスでは16世紀に国教会ができて、17世紀初め、ステュアート朝のジェームズ1世は国教を国民に強制したので、イギリスのカルヴィン派信者(ピューリタン)の中には、信仰の自由を求めて新天地に移住しようとする者もあった。1620年、ピルグリム=ファーザーズと呼ばれるピューリタンの一団がメイフラワー号で渡米し、プリマスに定住を始めた。現在のプリマス(マサチューセッツ州)は観光地・避暑地として人気があり、近くにキャンプ地もあるそうだから、彼らは新たに見る土地の景色の色合いに、新鮮な驚きを感じたかもしれない。

(「ピルグリム(pilgrim)」はラテン語由来の語で、元の意味は「野を通って行く人」。そこから「旅人」「巡礼者」の意味になった。「ピルグリム=ファーザーズ」は「巡礼始祖」もしくは「巡礼父祖」と訳される場合もある。)

 後に「東部13植民地」を形成することになる北米東岸の植民地は、ピルグリム=ファーザーズのように宗教的な動機によって建設されたものもあるが、そうでないものもある。最初に形成された南部のヴァージニア(1607~)は、当初は宗教意識とはほとんど関係のない"経済的"植民地であって、後に地域議会によってむしろイギリス国教が採られることになる。その南に形成されたノースカロライナ・サウスカロライナも概ね同様のようである。当初の宗教色が明確な植民地としては、北部では、

・マサチューセッツ(ピューリタン)、プリマスと隣接して建設され合併することになる。

・ペンシルヴェニア(クエーカー教徒〔平和愛好・兵役拒否で知られるによる植民地で"ペン"はその指導者ウィリアム=ペンに因む。州内最大都市"フィラデルフィア"は、"友愛の町"という意味なのだそうだ)。

南部(というか南北境界)では、

・メリーランド(旧教徒。州名の"メリー"は、旧教保護者であったチャールズ1世の王妃ヘンリエッタ="マリア"に因む)

など。13植民地の最後に最南に建設されたジョージア(1733~。ジョージ2世〔位1727-60。ジョージ1世の子〕に因む)は、その南にあるスペイン領フロリダとの緩衝地帯として、半ば国策として建設された。

アンボイナ事件

1623 年:アンボイナ事件。

☆ 血の色に  惨劇を見る  アンボイナ

 

16世紀末から、オランダは海洋貿易でアジアに進出した。(1602年、国内の各交易会社を合せたオランダ東インド会社を設立。これは近代株式会社の起源とも言われる。スペインとの対立関係もあって、アジアと"直接に"貿易を結ぶ必要に迫られたという事情もある。)インドネシアのジャカルタを拠点とし、ポルトガルの勢力を排して香辛料貿易の権益を得た。同様にアジア進出をすすめるイギリス(1600年、東インド会社設立)に対しても、当初は資金的に圧倒的優位を占めていた。そして1623年に「アンボイナ事件」が起こり、オランダはインドネシア方面を独占的に支配することになる。アンボイナは、インドネシア東部の小島であるが、ここでオランダ人がイギリス商館の商人を捕らえ、拷問にかけたうえで斬首し、国際問題になった。(イギリス人が同島のオランダ人を皆殺しにして貿易を独占しようとする陰謀が判明したことによる措置だというのがオランダの主張であった。イギリス政府はそんな"陰謀"話はオランダ官憲のデッチ上げだと主張したが、有効な報復の方法を見いだせなかった。)この事件以降、イギリスは東南アジアよりもインド政策に注力するようになる。しかしイギリス側としては、この事件は、スペインからの独立戦争において味方をしたオランダからの"恩を仇で返す"行為と感じられて反感は強く残ったようである。後にイギリスによる航海令英蘭戦争という本格的な対立が起こることの、ひとつの素地となったかもしれない。

【日】この年、イギリスは平戸商館を閉鎖し、日本から撤退。​結局、イギリスは日本との交易をオランダに妨げられた形である。同年、徳川家光(任1623-51)が第3代将軍に就任。

権利の請願

1628 年:権利の請願。

☆ 権利の請願  異論に反発  お互いに

 

イギリスで、ジェームズ1世(位1603-25)の王位を継いだ息子のチャールズ1世(位1625-49)も、父親と同様に議会の承認なく重税をかけたり、関税を設けたり、人民に公債を強要して従わない者を強制的に逮捕・投獄するなど、専制的な政治を行った。公債の募集がうまくいかないため、チャールズ1世は1628年に第三議会を開いた。反感を募らせた議会は「権利の請願」を起草・可決し、王による徴税や逮捕の権限を制限しようとした。しかしチャールズはこれに従わず、翌年議会を解散し、主要議員を投獄するなどして専制政治を続けた。王と議会が、互いに互いの異論に反発し合ったわけである。11年間、議会が召集されることはなく、多額の税や罰金の徴収の矛先は一般人民のみならず貴族・郷紳・大商人にも向けられて、チャールズは完全に孤立した存在になっていった。ピューリタンたちは苛烈な弾圧を受けた。

【日】第3代将軍、徳川家光(任1623-51)の治世。翌1629年にキリシタン狩りのための「踏み絵」が始まっている。

清教徒革命

1642 年:清教徒革命が始まる

☆ 王政へ  異論 世に問う  清教徒

イギリスで権利の請願(1628年)が出された後も専制政治を続けたチャールズ1世は(位1625-49)、1639年に起きたスコットランドの反乱(カルヴィン派であるスコットランド教会に対してチャールズがイギリス国教会の制度を強制しようとして反発が生じたのである)の鎮圧費用を得る必要があり、やむなく1640年に11年ぶりに議会を開いた。議会は王の側近の処刑を決定してこれまでの王政を糾弾し、王は武力弾圧を試みたために、議会派と王党派の間で内乱が勃発した(1642年)。これが清教徒革命の始まりである。議会派を主導したはクロムウェルで、彼らは主にカルヴィン派を信奉する清教徒(ピューリタン)であったために、このように呼ばれる。(議会派に属したのは、おおまかに言うと、大商人やこれと結びつきの強い一部の郷紳、中産商工業者や自由農民〔ヨーマン〕などであったようだ。王党派のほうは貴族、保守的郷紳、これに下属する農民など。)1649年にチャールズ1世が処刑されて革命成就という形になるがその後もイギリスでは政治的に不穏な状況が続く。

(『失楽園』で知られるミルトンは清教徒であり、革命期にはクロムウェルのラテン語秘書となって活動した。チャールズ1世処刑の直後に、この処刑の合法性・正当性を主張し、革命議会を弁護するような文書を書いている。1652年に失明。1660年に王政復古で王党派に政権が戻り、ミルトンは不遇の身となったが、その後、口述での詩作に専念したようである。叙事詩『失楽園』は、1667年に発刊。)

(全くの余談だが、1642年1月にガリレオが亡くなり、同年のクリスマスの日に、ニュートンが生まれている。)

【日】第3代将軍、徳川家光(任1623-51)の治世。前年の1641年、オランダ商館が平戸から長崎の出島に移されている。

ルイ14即位

1643 年:ルイ14世の即位。

☆ フランスで  富むよ 栄える  太陽王

 

フランス・ブルボン王朝では、初代アンリ4世の死後、ルイ13世(位1610-43)と宰相リシュリューの時代(王政を安定化、農民からの搾取強化。この時期にドイツ三十年戦争に介入して、ハプスブルク家との対抗上、新教側を支持。)を経て、1643年にルイ14世が即位している。ルイ14世はフランス絶対王政の最盛期を象徴する王であり、「太陽王」と呼ばれることになる。ただし即位したのは4歳のときなので、在位期間72年のうち初めの18年間は、宰相マザランが政務を行った。マザランはフロンドの乱を鎮圧し、ドイツ三十年戦争後のウエストファリア条約で、フランスの領土を拡大した。​三十年戦争終結後もスペインとの戦争は続いたが1659年に終結、ピレネー条約で国境を確定させた。

(「フロンドの乱」〔1648-53年〕は、パリ高等法院を中心とした貴族勢力が起こした反乱である。三十年戦争の戦費をまかなうための増税に対して、貴族も民衆も不満を爆発させた。一時はマザランが亡命を余技なくされたりしたが、結局フロンド派のほうが統一を保つことはなかった。)

【日】ルイ14世(位1643-1715):日本は江戸時代。即位のときは第3代将軍、徳川家光(任1623-51)の治世。1643年には、田畑永大売買の禁令が出された。年貢を安定的に徴収できるようにするための施策。ルイ14世は1715年に死去するまで王位に留まったが、これは日本では新井白石による正徳の治(1709-15年)の最後の年。将軍は第7代・徳川家継(任1713-16)

明滅亡

1644 年:明の滅亡。

☆ 明の皇帝  疲労 心身  ぼろぼろに

 

は、その末期に女真族からの攻勢を受け、社会不安のため各地で暴動も起こった。毅崇・禎崇帝(位1627-44)は聡明な人物であって、政府から宦官の勢力を一掃し、徐光啓などを登用して財政・内政の立て直しを図った。前帝の下で暴威を振るっていた非東林党は弾劾にさらされ、東林党が要職を占めることになった。しかし徐光啓は1632年に死去し、その政策が成果をあげるまでには至らなかった。国内各地で流賊が蜂起するようになり、北方では満州族が建てた後金(1636年には「清」となる)が、明を脅かすようになった(秘密裏に和平も試みたが、秘密が漏れて言官から攻撃され挫折)。賊徒の首領である李自成は華北を荒らしまわったが、政府は反乱に対処することができず、李自成は北京を占領した。毅宗は疲労・心労で心身ともに、ぼろぼろになっていたものであろうか、1644年に景山(皇城中の庭山)で自ら命を絶った。

 李自成は皇帝になるつもりで準備を始めたが、そのとき北方で清に対峙していた呉三桂が清に降り、自軍と清のドルゴン軍(ドルゴンは順治帝の摂政)を先導して北京に入城、李自成はわずか40日で北京を逃れることになる。同年、ドルゴンは北京に順治帝を迎え、清朝政権の発足を宣言した。北京陥落の後も、南京など南部各地に明の仮政権が出来たけれども、それらは清に降った洪承疇・呉三桂など漢人武将の指揮によって着実に制圧されていった。

(明末・清初の時代に考証学〔陽明学の実践主義を批判、古書の訓詁を重視する〕を起こした学者、黄宗羲〔こうそうぎ。1610-95〕は「孟子」などに見える民主思想〔それは漢民族偏重の思想であったが〕を称揚し、皇帝や官僚の横暴を激しく批判した。黄宗羲は後に「中国のルソー」と呼ばれ、彼の著作は辛亥革命五・四運動の際にしばしば利用された。)

【日】第3代将軍、徳川家光(任1623-51)の治世。

ウエストファリア条約

1648 年:ウエストファリア条約の締結。

☆ ウエストファリア  異論 ようやく  収まった

1618年に国内の宗教対立から始まったドイツ三十年戦争は、諸外国からの干渉を招き、1635年頃以降は国内的な動機は失われ、諸外国(特に"新教側"のフランスとスウェーデン)の意向と惰性で続けられた。1641年にようやく和平交渉の発端が見出されたが、いろいろなもめごとを経て1644年にウエストファリア会議が始まった。4年もの討議と酒宴と外交駆け引き(この間にも戦局は逐次変化した)の後1648年のウエストファリア条約の締結をもって三十年戦争は終結する。宗教戦争の終結という意味では、ドイツで旧教はもちろん、ルター派と、さらにはカルヴィン派も認められるという形で解決した。ただし、三十年戦争は、諸国・諸侯の利害戦争という側面が強く、ウエストファリアの講和会議は、史上初の国際会議と言われることもある。フランスやスウェーデンは領土を獲得し、スイスとオランダの独立が(正式に)承認された。また300を越えるドイツ諸邦それぞれにほとんど完全な主権が認められたため、この条約により、神聖ローマ帝国は事実上消滅したものと見なされる(正式な完全消滅はナポレオン戦争のときになるが)。17世紀、隣のフランスでは絶対主義王政の全盛期を迎えるが、ドイツ(神聖ローマ帝国)はこれと対照的に、疲弊と分裂が進んだわけである。このような事情は、独墺地域(東部)における再販農奴制の強化や、18世紀における啓蒙専制君主の出現にも影響しているものと見られる。

(この条約で没落がはっきりしたのは、神聖ローマ帝国ともうひとつ、スペインである。言い換えれば"両ハプスブルク家の没落"ということになるが、スイスとオランダの独立が承認されたことは、ちょうどこれに対応しているわけである。)

【日】第3代将軍、徳川家光(1623-51)の治世。

スイスオランダ承認

1648 年:スイス・オランダの独立が正式に承認される。

☆ 独立し  富む世は来るか?  スイスにも[オランダも]

 

スイスは、ハプスブルク家の支配を受けていたが、13世紀末から独立運動を起こし、15世紀末には事実上の独立を達成していた。(ウィリアム・テルは〔伝説だけれども〕スイスの民衆の英雄で弓の名手。14世紀初頭の話ということになっている。悪役ゲスラーというのが、ハプスブルク家の支配を象徴する代官である。)史上初の国際会議である1648年のウエストファリア講和会議において、正式に独立が承認されることとなった。スイスはカルヴィンの宗教改革の地でもあり、金銭的にというよりも、精神的な意味での富饒が期待されたかもしれない。同時に正式に独立が承認されたオランダは、1609年のスペインからの事実状の独立以降、すでに世界貿易の支配権を把握して繁栄を極めていたが、​この後、1652-74年の3度の英蘭戦争でイギリスに敗れ、徐々にイギリスに覇権をうばわれて衰えてゆくことになる。

(オランダが、世界の商業・金融を抑える"覇権国家"であった時代におけるオランダの代表的な画家は、"光と影の画家"レンブラント〔1606-69年〕であり、"空間写実と光の画家"フェルメール〔1632-75〕であった。これら2人は、大枠としてはバロック絵画の画家として扱われるが、「バロック」の語感から想像されるような王侯貴族のための画家〔その代表はフランドル出身の宮廷画家ルーベンス[1577-1640]〕ではなく、当時の富裕なオランダ市民から受注を受けたり、パトロンになってもらうような存在であった。)

【日】第3代将軍、徳川家光(1623-51)の治世。

イギリス共和政

1649 年:清教徒革命成立。イギリスで共和政が始まる。

☆ 清教徒  異論 よく聞け! 共和政

 

イギリスで、専制政治を行うチャールズ1世が武力で議会を抑えようとしたために、1642年に議会派と王党派の間で内乱が始まった。清教徒(ピューリタン)であり議会派のクロムウェルは、自ら新たに騎兵隊を組織し("鉄騎隊"と呼ばれた)、他の議会軍も改組をして("新模範軍")、これらの軍を率いて王党派を破った。王は捕虜となった。その後、議会派ピューリタン内で急進的な独立派(各個人・各教会の独立性を尊重)と穏健な長老派(全教会を長老制度で統一的に統制しようとする)とが、革命を更に推し進めるか否かで対立したが、前者であるクロムウェルは長老派も議会から追放した。その後の独立派も必ずしも一枚岩ではなかったのだが(更に急進的な水平派の台頭)、チャールズ1世が逃亡して再びスコットランド軍や王党軍を動かして議会軍に反撃を試み、再び独立派に敗れるということが起こると、もはや元々王権を制限できれば王を存続させてよいと考えていたクロムウェルでさえ、王を裁判にかけて処刑するほか選択肢はなくなった。1649年1月に裁判が行われてチャールズ1世に対する死刑が執行され、議会は君主制を廃止した。

 このときから1660年の王政復古までが、イギリスの共和政時代である。王に対して、議会からの異論をよく聞けということで起こった清教徒革命であったが、実質的にはクロムウェルが独裁体制を固めてしまうことになり、共和政下でも、異論をよく聞くという政治は行われなかった。クロムウェルは1640年以来の「長期議会」(1648年の長老派追放以降は「残部議会」とも呼ばれた)を1653年に解散して、自らは「護国卿」という独裁的な地位に就いた。議員も新たに(財産選挙によって)選ばれたが、軍事独裁化するクロムウェルの前に力を持ち得なかった。

【日】徳川家光(任1623-51)の治世の最後の頃。この年、慶安の御触書が出され、農民の日常生活に厳しい制限が加えられた。

航海令

1651 年:航海令の発令。

☆ オランダへ  敵意 色濃い  航海令

 

クロムウェルは、重商主義政策を採ったが、1651年には航海令(航海条例)を発した。これはイギリスにオランダの商船が出入りすることを禁じた法令である。イギリス国家の重商主義が自国有利の制限貿易・保護貿易主義に結びついたわけであるが、このときイギリスの航海令が、世界の中継貿易を掌握していたオランダに打撃を与えるであろうことは目に見えていた。翌年、英蘭戦争が起こることになる。

【日】徳川家光(任1623-51)死去。幼少の家綱が第4代将軍に就任するが、直後に由井正雪の乱。兵学者である由井による、牢人を利用した倒幕未遂事件である。

英蘭戦争

1652 年:英蘭戦争(第1次)が始まる。

☆「オランダの  異論 誤認」と  クロムウェル

 

イギリスで1651年に航海令が発令されると、オランダはその撤廃を求めて交渉団を派遣したが、協議は難航した。そのうち両国の艦隊がドーバー沖で遭遇して衝突が起こった。これ発端となり、1652年に英蘭戦争が始まった(第1次英蘭戦争)。クロムウェルは(本音としてはこの戦争に乗り気ではなく、むしろ国内の貿易商人に突き上げられる形で戦争に突入したようなのだが)、建前として、オランダ側の異論・異議はオランダ側の誤認だというスタンスを取り続けたのであろう。大型軍艦など海軍の戦力的準備に勝ったイギリス側が優勢の形で講和に持ち込まれた(1654年、ウエストミンスター条約)。イギリスはオランダに航海令を承認させ、またオレンジ公(当時のオランダにおいて主戦派の旗印のような存在)をオランダ総督(実質的な王のような地位)にしないことを約束させた。その後も第2次(1665-67年)、第3次(1672-74年)の英蘭戦争が続いた。(オレンジ家は1672年に総督家として復活し、その後、対英政策を協調策に転換してオレンジ公ウィリアム3世はジェームズ2世の娘メアリと政略結婚。その関係からイギリス名誉革命〔1688年〕以降はイギリス王を兼務するようになる。)互いに相手の本土への侵攻に成功することはなかったが、結局はイギリス優勢に終わり、17世紀末には、制海権と世界商業の覇権は、オランダからイギリスに移る。​(但し、第2次・第3次の際、イギリスは戦争自体に関しては全然優勢ではなかったとする文献もある。覇権の移行は単純に英蘭戦争の結果として生じたのではなく、国際貿易全体の構造変化によるものと見るわけである。)

【日】第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。大老・老中らの補佐を得て、安定政権を現出。

アウラングゼーブ

1658 年:アウラングゼーブの即位。

☆ ムガルにて  異論 御法度  アウラングゼーブ

 

ムガル帝国において、1658年に第6代アウラングゼーブが即位した。アウラングゼーブは、タージ=マハルの建造で有名な第5代シャー=ジャハンの第3子であるが、クーデターによる即位であった(父を監禁し、兄弟たちを殺害して即位)。彼は外征で成果を上げ、版図を南方デカン方面に拡げた。ただし、ムガル帝国でアクバル帝以降に続けられてきたヒンドゥー教徒との融和策は、アウラングゼーブによって廃され、異教徒への税制差別が復活した。彼自身は厳格なスンナ派イスラム教徒であり、ヒンドゥー教徒からの異論は御法度(ごはっと)ということだったようだ。結果的に国内でヒンドゥー教徒からの支持を失い、シク教徒(ヒンドゥー・イスラムの折衷宗教)による反乱なども招いた。

​ アウラングゼーブは1707年に死去するが、それ以降、ムガル帝国には凡庸な君主しか出ず、国力は急速に衰えていった。

​【日】第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。前年の1657年、明暦の大火」で江戸城本丸が焼失。

イギリス王政復古

1660 年:イギリス王政復古。

☆ 革命が  徒労 陋劣(ろうれつ)  王政復古

 

イギリスで1649年に清教徒革命が成った後、クロムウェルは急進的な独立派を従え、権力を集めて独裁を進めた。しかしクロムウェルの死(1658年)の前後から「革命の行きすぎ」を是正する気運が現れ、穏健な長老派が勢力を回復し、王党派とも妥協をはかることになった。そうして「残部議会」が復活させられ、さらには長老派議員も呼び戻されて「長期議会」復活と話が逆戻りし、1660年にはフランスに亡命していたチャールズ1世の息子を戻して、チャールズ2世として王位につけることになってしまった(王政復古)。1661年に開催された議会では、王党派が多数派を占め、国教徒でない清教徒は独立派であれ長老派であれ苛酷な扱いを受けることになる。そしてやがて、チャールズ2世(位1660-85)も革命前のチャールズ1世と同様に、専制的な王政をしくことになる。革命は一旦、徒労に終わる形となり、陋劣な王政の状態に戻ってしまった。

(「陋劣」は、志が低く、自分の利益だけを考える言動がひんしゅくを買うような様子のことである。)(この年、チャールズ2世の勅許の下で、英国王立協会が発足している。これは最も古い科学学会として、現在まで続いている。)

【日】第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。典型的な老中政治が行われていた。

康熙帝

1661 年:康熙帝の即位。

☆ 中国の  ヒーロー  無比の  康熙帝

 

清の第4代皇帝、康熙帝は、歴代の中国の皇帝の中でも名君中の名君として、唐の李世民と双璧をなす。その即位は1661年。但し即位のときは8歳で、初めのうちは重臣による政権運営が行われ、15歳から親政を始めた。三藩の乱(1673-81年)を平定、台湾にいた明の残存勢力である鄭氏も討って(1683年)完全に中国を統一した。さらに外モンゴルまで外征し、東北方ではロシアのピョートル1世を相手にネルチンスク条約を締結した。康熙帝自身は朱子学に基づく聖王政治を心がけたが、学問全般にも熱心で、漢人の学者を味方につけるために学者採用試験を行い、文化事業を進めさせた(前王朝の歴史すなわち明史の編纂や、漢字辞書『康煕字典の編纂など)。さらにフェルビーストなどの宣教師を側近に採用して西洋文化にも接した(宣教師は数学・天文学・地理学・暦法などの知識もあったが、実利的には優れた大砲の製造技術を持つという点も重要であった〔帝はキリスト教には関心を持たなかった〕。三藩の乱の平定の際、フェルビーストの製造した大砲が威力を発揮したのだそうだ)。1708~17年には、神父たちに測量をやらせて地図を作らせている(『皇輿全覧図』)。また、税制の改善(地丁銀制につながる税制改革)など内政にも努めた。1722年没。次の第5代・雍正帝(位1722-35)、その次の第6代・乾隆帝(位1735-95)と賢帝が続いたことも、中国史上では注目される。

(康煕帝に接した神父ブヴェが著した『康煕帝伝』によって、名君としての康煕帝は早くからヨーロッパでも知られたようである。)

【日】康熙帝(位1661-1722):日本は江戸時代。即位時は第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。死去したときは、第8代・徳川吉宗(任1716-45)。

ルイ14親政

1661 年:ルイ14世、親政を開始。

☆ 王政の  ヒーロー  無比の  太陽王

 

4歳で即位したフランスのルイ14世は、22歳になった1661年から親政を始めた(宰相マザラン死去の翌日に親政を宣言)。蔵相コルベールの重商主義政策に助けられて国力を強化。(古くからの貴族は没落傾向、商工業ブルジョア市民層が社会進出する時節であったし、コルベール自身も政府主導の産業育成策を推進した。またイギリス・オランダに対抗して海外植民地も各方面に開拓。たとえば北米ルイジアナの"ルイ"は王の名に因む。)ルイ14世の豪奢な生活は絶対王政の象徴として見られ、「太陽王」と呼ばれた。同年に清で即位した康熙帝と比較されることも多いが、ルイのほうは外征にはほとんど成功しておらず、成果のない外征と宮廷の贅沢のために晩年には財政も悪化させた。さらに、ナントの勅令を廃止するというような愚策もやっているので(1685年。多く新教徒が迫害を受けるようになって国外に逃れ、国内産業を衰退させた)、ルイが"優れた"君主であったかというと疑問符がつく。下層民は重税に苦しみ、飢えに苦しんだ。

(ルイ14世親政の時代に、フランス科学アカデミーが創設され〔1666年〕、パリ天文台も開設されているが〔1671年〕、これらは蔵相コルベールによる政策であった。イタリアからカッシーニが招かれて初代の天文台長となった。デンマークから招かれたオール・レーマーも、木星の衛星の食の時間ずれに基づく光速の推定など、重要な仕事を行った。)

(雑学的な余談。フランス史における有名な謎として「鉄仮面」の話がある。これはルイ14世の時代に、その存在自体が秘密として扱われた"囚人"のことで、はじめサント=マルグリット島〔フランス南部の都市カンヌの沖合の島〕の城砦に収監され、後にバスティーユ牢獄に移され、1703年に死去した。素性は伏せられていたが高貴な出自であったらしく、"囚人"とはいえ極めて丁重に扱われたが、常に鉄の仮面を被らされており〔布のマスクだったという説もある〕、それを取って人に顔をさらすことは厳しく禁じられていた。この話は1751年にヴォルテールが出版した『ルイ14世の世紀』によって世に知られるようになった。この"囚人"が誰だったのか?というのが現在も謎なわけで、50もの説があるらしいが、この人物はルイ13世の王妃とマザランが関係して生まれたルイ14世の異父兄だというのがヴォルテールの推測である。他に、ルイ14世の双子の兄弟だという説もあるようで、つまりブルボン王朝内で内紛を生じさせないための措置だったと推測するわけですね。19世紀に小説家デュマ〔父〕の書いたダルタニアン物語シリーズの中の鉄仮面のエピソードは「双子の兄」説を採って書かれている。)

【日】親政開始時は第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。ルイ14世は1715年に死去するまで王位に留まったが、これは日本では新井白石による正徳の治(1709-15年)の最後の年。将軍は第7代・徳川家継(任1713-16)

審査律

1673 年:審査律の制定。

☆ 旧教に  異論 涙の  審査律

 

イギリスの王政復古によって王位に就いたチャールズ2世(位1660-85)は、亡命中にフランスで旧教にかぶれたためであろうか、(イギリス国教ではなく)旧教をイギリスで復活させようと画策した。表向きは「宗教の寛容」と見える態度を取りながら、ルイ14世にイギリスの旧教復活援助のための資金援助を受けるような密約を結んだりしていた。1672年に王が(勝手に)出した「寛容宣言」の真意が旧教の復活にあると見抜いた王権制限派の議員たちはこれに反対して宣言を撤回させ、(涙を流したかどうかは分からないが)国教徒の多い議会は1673年に「審査律」を制定、官吏と議員を国教徒に限ることを取り決めた。チャールズ2世は、旧教を主流に据えることに失敗したので、この後は国教会をむしろ利用して議会を支配しようとする方向に舵を切るが、王の専制の姿勢は変わらない。議会は、王の専制政治に対抗するために、6年後の1679年には不法な逮捕・投獄を禁じる「人身保護律」も制定した。

 1670年代末ごろには、議会は、貴族たちによる王権伸張派のトーリー党と、大商人や中産階級を主とする王権制限派のホイッグ党が"政党"として発展し、対立するようになった。清教徒はホイッグ党に属していて、こうなると、チャールズ2世はトーリー党を利用してホイッグ党を弾圧するという構図になる。

(別の話題だが、グリニッジ天文台を設立したのはチャールズ2世で、1675年のことなのだそうだ。当時イギリスは意欲的な海洋進出国であって、正確な星の観測を、確実な外洋航海への支援につなげるという意図があったらしい。)

【日】第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。

三藩の乱

1673 年:三藩の乱。

☆ 三藩の  人 胸さわぎ  乱 起こす

 

清の第3代、順治帝(位1643-61。但し即位時6歳の幼帝で、摂政の叔父が実権を持った)は、中国全土への侵攻を進めるにあたって、清に下った漢人の軍人も用いた。ほぼ統一を果たすと、それらの軍人の中から呉三桂らの3人を取り立て、中国南部に3つの藩(雲南・広東・福建)を置いて、彼らを藩王に任じた。しかし清は、その後(第4代、康熙帝になると)、中央集権強化のために藩の取り潰しが検討されるようになった。(軍政地区を残しておくことの潜在的危険もあったし、三藩に支払う莫大な軍費が財政を圧迫したということもある。)康煕帝は三藩廃止の英断を下したが、これを伝え聞いた呉三桂は対決して独立しようと決意、他の2藩や地方軍閥を併せて1673年に三藩の乱を起こした。乱は8年続いたが、康熙帝によって平定された。これで南部を含めた帝国の基礎が築かれたことになる。

【日】第4代・徳川家綱(任1651-80)の時代。

ピョートル1

1682 年:ピョートル1世の即位。

☆ ピョートルの  色は匂へど  大躍進

 

ロマノフ朝ロシアで1682年に即位したピョートル1世(大帝)は、典型的な啓蒙専制君主である。​但し即位時は10歳。初めの頃はお家騒動的な状況の中で微妙な立場にあったようだが、当人はそういう状況をよそに「遊技隊」を引き連れて自由に遊び回っていたらしい。政治活動を始めたのは20代半ばごろからのようである。みずから西欧を視察し(ロシア皇帝が外国に行くのは前例がなかった)、内政・軍事改革と産業振興を、西欧を手本として進めようとした。(要するに"ヨーロッパに追いつけ"の"富国強兵"、明治の日本みたいなものである。)対外的に積極的な進出を試み、スウェーデンを相手に北方戦争(1700-21)を行ってバルト海域に勢力を伸ばし(それまでの大国スウェーデンを没落させ、それと入れ替わった形である。ペテルブルクを建設し首都とした)、また東方で清とネルチンスク条約を結ぶなどした。ピョートルは身長2メートルの大男、筋力が強い怪力男であると同時に手先が器用な人物でもあったという。積極的な西欧化の主導者として無常観などとは無縁であったであろう。(念のため注釈を入れておくと「色は匂へど」は、仏教の無常観をうたったとされる「いろは歌」の冒頭の句。)在位期間は1725年(死去)までの43年間に及んだ。

(ピョートルは死の前年に科学アカデミーの設立を指示しており、彼が亡くなった1725年に、ペテルブルク科学アカデミーが発足している。ここでたとえば、スイスの数学者ダニエル・ベルヌーイやオイラーがポストを得ることになる。)

【日】ピョートル大帝(位1682-1725):ピョートルの在任期間は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(16801709)の時代をほぼすべて含み、新井白石の正徳の治(170915年)の時代を経て、第8代・徳川吉宗(171645)の初めの9年間までに重なっている。

清台湾領有

1683 年:清が鄭氏を下し、台湾を領有。

☆ 鄭(てい)  下し  清の支配に  異論 止み

 

台湾には、1661年に明の遺臣の鄭成功の一族が入って、台湾に手を伸ばしてきていたオランダ勢力を一掃し、ここを支配していた。(成功の父親は福建人の密貿易商人であったが、福建にあった太祖8世の孫だという唐王をかついて王侯に封じられた。"遺臣"というのはそういうことなのだが、成功は父親と違って儒学を身につけており、明に忠誠を誓うという風であった。ただし成功は1662年に死去している。)中国南部で三藩の乱を1681年に平定した康熙帝は、台湾にも圧力をかけ、成功の死後に力を失った鄭氏は1683年に清に降った。​(このときオランダは、清に貿易を許されたいがために清朝の遠征軍を助けたようである。)鄭氏(鄭成功の孫)が降伏してしまった後では、清が台湾を支配することに、表向きは誰も異論がなかった(かもしれない)。19世紀末に日本領となるまで、台湾に対する清の支配が続いた。

【日】第5代将軍・徳川綱吉(16801709)の治世。(鄭成功は明末に、その功績から国姓である「朱」を称することを許されたために「国姓爺」とも呼ばれ、民族的英雄と見なされた人物である。日本で江戸時代に人形浄瑠璃で人気を博した『国姓爺合戦』[初演:1715年]は、近松門左衛門が鄭成功の活躍を材に取り、脚色を施して作り上げた作品である。鄭成功の父・芝龍は​、日本の平戸に住んだ時期があり、成功の母親は日本であった。)

ウィーン包囲2

1683 年:オスマントルコによるウィーン包囲(第2次)。

☆ ウィーン包囲  異論 はさまず  大失敗

 

第2次ウィーン包囲が1683年に行われたが、これはオスマントルコの大規模なヨーロッパ侵攻としては最後のものである。包囲はしたが、攻めあぐねているうちに、ヨーロッパ諸国連合軍に包囲を打ち破られることになり失敗に帰した。オスマンの軍人たちは、自軍の拙速な策に異論をはさまなかったことを後から悔いたかもしれない。これに続いて起こったオスマントルコとオーストリア・ロシアなどの神聖同盟との間の大トルコ戦争​(~1699年)でもオスマンは敗れ、領土の割譲に追い込まれた。このあたりからオスマントルコの衰退が始まる。

【日】5代将軍徳川綱吉(16801709)の治世。

名誉革命

1688 年:名誉革命が起こる。

ヒーローは  入ってくる人  ウィルさん

 

イギリスで王政復古後、チャールズ2世の後に王位を継いだ弟ジェームズ2世(位1685-88)も旧教徒であって、再び旧教重視の施策に戻し、反乱に対抗して常備軍を増強し、専制政治を続けた。(審査法を無視して旧教徒を公職に任じたり、国教会に「信仰寛容宣言」〔つまり国教以外の容認〕を強要して反抗を誘発したりした。国教会との衝突によって王はトーリー党の支持すら失った。)議会はこれに対抗し、ホイッグ党・トーリー党共同で、ジェームズの長女でオランダに嫁いでいた新教徒のメアリと、その夫であるオランダ総督のウィリアムにイングランド侵攻を要請、これを受けてウィリアムは、オランダ軍を率いて1688年にイングランドに入った。不利な状況を認識したジェームズ2世は、結局、翌1689年にフランスに亡命することになる。ウィリアムとメアリは、ウィリアム3世(位16891702)およびメアリ2世(位168994)として共に王位に就き、議会が提出した権利の宣言を承認した。この革命は、無血で成し遂げられたために「名誉革命」と呼ばれる。「ウィル」はウィリアムの愛称で「さん」は「3世」にかけてある。名誉革命以後、イギリスにおいてある程度の議会主権政治が成立し、トーリー党(貴族・地主主体)とホイッグ党(中産市民主体)による政党政治が始まった。(ただし"政党"と言ってもそれぞれ未だ党是も組織面も未熟な、派閥の寄せ集め状態ではあった。たとえばトーリー党の一部の最右翼としてジェームズ2世の復位を企てる者さえあったのである。また、大臣は王が任命する形は従来通りで、組閣には王の意向が直接反映されたので、議会との"ねじれ"が起こりえた。)

 なお、イギリスの哲学者・政治学者であるジョン=ロックが『統治二論』を出版したのは2年後の1690年。これは名誉革命を理論的に基礎づけたものと見做されている。

(ジェームズ2世は1687年に、ケンブリッジ大学の権利の剥奪を試みたが、ニュートンが巧みにこれに反対して大学を守った。)

【日】5代将軍徳川綱吉(16801709)の治世。前年の1687年に生類憐みの令が出されている。

ネルチンスク条約

1689 年:ネルチンスク条約の締結。

ヒーローは  国の境を  定めます

 

清とロシアの間で、1689年に相互の国境を定めたネルチンスク条約が締結された。ロシアの皇帝は西欧化策を進める啓蒙専制君主のヒーロー、ピョートル1世(大帝)であり、対する清の皇帝は名君中の名君、康熙帝であった。中国が他国と対等な立場で条約を結んだことは注目に値するが、康熙帝に仕えたベルギー出身のイエズス会宣教師フェルビーストの助言があったのかもしれないとも言われる。両国間に通商が開かれた。​国境はアルグン川-スタノヴォイ山脈に設定されている。これは中国東北のかなり北方。大雑把に言えば北緯55度前後。(緯度の目安としては、樺太の北端くらい。)

​(そもそも中国の皇帝は、その中華思想によって、自分が本来的に"世界全部"の支配者だと思っていたわけで、"自国の国境"などというものは初めての画期的な概念であったろう。清が漢民族でない異民族王朝だったからこそ、という面もあったかもしれない。)

【日】第5代将軍・徳川綱吉(16801709)の治世。

北方戦争

1700 年:北方戦争が始まる。

☆ バルト進出  非難を恐れぬ  ピョートル帝

 

ロシアのピョートル1世は、バルト海方面への進出をもくろみ、ポーランド・デンマークと手を結んで、スウェーデンを相手に北方戦争を始めた(1700年)。初めスウェーデンが連勝したが、ピョートルは(周囲の非難を恐れずに)戦争を続行した。ロシアはバルト海東岸の地を抑え、1703年にはここに新首都ペテルブルクを築き、最終的にスウェーデンに対して勝利を収めた(1721年)。

【日】第5代将軍・徳川綱吉(16801709)の治世。

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