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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(1901~1940年)

 

                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

日英同盟

1902 年:日英同盟の締結。

☆ イギリスが  遠くを にらんで  日英同盟

 

イギリスは、19世紀には対外的に「光栄ある孤立」と称して、他国との同盟関係を結ばなかったが、20世紀に入って方針を変え、まず1902年に日本と日英同盟を結んだ。すでに中国に進出していたイギリスにとって、極東地域(イギリス本国からは、まさに"極東"〔far east〕というくらいに遠いけれども)におけるロシアの南下政策と中国(清)への介入は脅威であるという点で、日本と利害が一致したのである。(イギリスは、当時ボーア戦争〔1899-1902年〕のため、極東の方まで直接に軍事力を投入するだけの余力があまりないという事情もあった。)日本側は三国干渉の後、同盟相手としてロシアを選ぶかイギリスを選ぶかという2通りの考え方があって、伊藤博文などはロシアと互いに互いの権益を認め合う交渉が可能と考えて親露政策を主張していたが、ロシアの侵略主義を警戒して親英政策を主張する外務省の小村寿太郎の意見書(1901年)が政府方針として採択された。日英同盟は、第一次世界大戦を経て、ワシントン会議の四ヶ国条約締結まで続いた。

【日】余談だが、夏目漱石は1900-1902年にイギリスに留学している。文部省からの指示は英語教育法研究であったが、漱石は下宿で小説を読み漁り、"文学"の意味を探求して神経衰弱に陥るほどのめり込んだようである。留学中に堅実に成果を上げるでもなく、むしろ精神状態に疑念を持たれて半ば強引に帰国させられた漱石であるが、帰国後、日露戦争開戦の年に『吾輩は猫である』を書き始め、日本に口語体の近代小説を誕生させることになる。

日露戦争

1904 年:日露戦争が始まる。

☆ 両国が  重苦を しのぶ  日露戦[争]

 

1904年、日本は旅順(遼東半島先端)にいたロシア艦隊に奇襲攻撃をかけて、日露戦争を始めた。日本にとってロシアの極東での南下政策は、安全保障上の脅威であったからであるが(1900年の北清事変の際に、ロシアは満州を事実上占領してその後も駐兵を続け、さらに朝鮮半島への進出を目論んでいた。1902年の日英同盟締結も、このような動向を意識してのことである)10年前の日清戦争のとき、ロシアが主導する三国干渉で、一旦は獲得した遼東半島を返還させられたことへの遺恨もあった。(三国干渉以降に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という標語が日本の国民の間で盛んに言われたようだ。あえて薪の上に臥して痛みに耐え、あえて苦い胆を嘗めることも辞さずというくらいの強い気持ちで、ロシアから受けた屈辱を決して忘れるなという意味である。この慣用句は元々は中国の春秋時代後期、揚子江下流域にあった呉の国と、その南にあった越の国の間の故事〔復讐譚​伝説〕に由来する。呉王・夫差は臥薪によって、越王・勾践は嘗胆によって戦敗の屈辱を忘れぬようにした。​最後は越が呉を滅ぼす。)日本は陸・海で連勝したが財政難、ロシアも国内が革命さわぎ(第一次ロシア革命)で共に戦争継続が困難となり、翌1905年に米セオドア=ルーズベルト大統領の調停でポーツマス条約を締結、日本の戦勝という形で終結した。欧米以外の「後進国」日本が大国ロシアに曲がりなりにも勝利したことは、その後の世界に影響を与えた。(​さらに2年後の1907年には日露協約も締結され、日本にとって、ロシアの朝鮮半島への南下の脅威は一応、収まった形になる。)

(余談だが、イタリアの作曲家プッチーニによるオペラ『蝶々夫人』の初演が1904年のことである。内容は長崎を舞台にした没落藩士令嬢とアメリカ海軍士官の恋愛悲劇。

第一次ロシア革命

1905 年:血の日曜日事件。第一次ロシア革命。

☆ ロマノフの  日暮れ 混乱  血の日曜

ロシアではアレクサンドル2世の農奴解放令(1881年)以降、海外からの資本や産業の導入もあり、資本家や労働者という"市民"的階層も多少は形成され、都市部においては改革意識を持つ"知識人階級"も現れていた。しかしアレクサンドル3世(位1881-94)もニコライ2世​(位1894-1917)も一貫して反動政治を推し進めており、議会すら無く社会改善の手段を全く持たない国民に蓄積された不満は極めて不安定な社会的状態を現出していた。そこへ日露戦争の重圧がのしかかり、ロシア国民の不満の声はひときわ高くなる。そのような状況下で1905年1月、「工場労働者協会」を主導していた修道士ガポンの率いる民衆が、ペテルブルクで生活苦の打破を訴えてデモ行進を行っているところへ、皇帝の軍隊が射撃を行って三千人以上の死傷者を出すという事件が起こった(「血の日曜日」)。これを発火点として全土で労働者による革命運動が拡がり、さらに日露戦争におけるロシアの戦況が不利になると、軍の中にすら革命になびきかねない空気が出てきた。皇帝ニコライ2世もさすがに譲歩せざるを得なくなり、十月勅令を発して国会(ドゥーマ)の開催を約束した(第一次ロシア革命)。しかし国会は不完全なものであり、その後、皇帝および首相ストルイピンの革命派弾圧・反動の政治が進められた。ロマノフ朝は末期症状を呈しながら1917年まで続く。(ロマノフ朝の衰退を「日暮れ」と形容した。射撃事件が夕暮れ時に起こったわけではない。)

​【日】1905年は明治38年。ポーツマス条約。

四綱領

1906 年:インド国民会議カルカッタ大会で、四綱領を採択。

☆ インド人(びと)  旧例 無視して  四綱領

 

インドにおいて19世紀末から民族運動の急進派も現れ、反英抵抗運動が強まった。1905年、インド総督はイスラム・ヒンドゥーの分裂(ベンガル地域における反英抵抗の分断)を図ってベンガル分割令を公布した。(イスラム教徒の東ベンガルと、ヒンドゥー教徒の西ベンガルに2分割。露骨な分断政策への反対は激烈であったが、分割が強行された。)反英運動が高まる中で、1906年にカルカッタで開催された国民会議では、急進派の主導で異例の「四綱領」が採択された。その内容は、

(1)英貨排斥〔ボイコット。イギリス商品、主として綿布を購買しないこと〕

(2)国産品愛用〔スワデーシ〕

(3)自治獲得〔スワラージ〕

(4)民族教育の推進

であった。同年、イギリスは親英的なインド=ムスリム連盟の結成を支援して、国民会議派と対抗させた。インド=ムスリム連盟はベンガル分割令を支持することになる。またイギリスは反英派の中での過激派と穏健派の分断を巧みに図り、翌1907年の国民会議では急進派が離脱、民族運動は2つに割れてしまった。

 ベンガル分割法自体は、1911年に取り消された。インド支配を安定させるために、譲歩したということだろう。

(1906年、イギリス本国で「労働党」が成立している。労働党はマルクス主義〔革命主義〕ではなく、漸進的な社会改革を目指した。)

【日】明治39年。日本社会党結成。満鉄設立。

英露協商

1907 年:英露協商(三国協商の成立)。日露協約。

☆ バルカンで  得を 納得  英露協商

 

日露戦争に敗北し、極東での南下を阻まれたロシアは、方針を転じて再びバルカンを南下策の主軸に考えるようになる。バルカンでは、パン=ゲルマンを唱えるドイツ・オーストリアが、パン=スラヴを採るロシアと対立するので、ロシアは三国同盟(独・墺・伊)以外の国との協調を模索し(そうすればバルカン進出のために得になるであろう)、イギリスと和解して1907年に英露協商を結んだ。イギリス側も20世紀に入ってから孤立政策を解消しており、柔軟に和解に応じたわけである。なお、この協商成立に伴い、イラン南部とアフガニスタンはイギリス、イラン北部はロシアの勢力範囲と定められた。(アフガニスタンは18世紀にアフガン人による独立国家となっていたが、19世紀にはイギリスの保護国にされ、中央アジアから南進を図るロシアとイギリス領インドの間の「緩衝国」として扱われていた。そもそもウィーン会議後の19世紀の世界において、イギリスとロシアはほぼ一貫して"宿敵"だったわけで、両者が手を結ぶというのは大きな決断だったはずである。ドイツのヴィルヘルム2世が猛烈に海軍の増強をやっていたことも、背景要因として働いたかもしれないし、ドイツが3B政策でアナトリア-近東地域に進出しようとする動きを、共同で牽制したいという意図もあったであろう。)また、この英露協商には、日露戦争・第一次ロシア革命で弱体化したロシア軍備の立て直しをイギリスが支援するという含みもあったと見るべきである。ロシアがアンバランスに弱くなるという状況は、かえって好ましくないという判断も、イギリスにはあった。(この点、フランスにも同様の考え方があったと思われる。)この協商により、既に存在していた露仏同盟(1891年)・英仏協商(1904年)と併せて、三国協商(英・仏・露)の関係が成立したことになる。同年(日露戦争からまだ2年というのに)日露協約も結ばれている。

青年トルコ革命

1908 年:青年トルコ革命。

☆ トルコにて 「重苦  終われ!」と  青年革命

 

トルコでは、ミドハト憲法の停止(1877年)に不満を持つ人々(青年将校たち)が、19世紀末に「青年トルコ」という結社を結成した。青年トルコは「オスマン主義」(トルコは帝国内に多くの非トルコ系民族をかかえているが、その全住民に、宗教・民族の差をなくし平等な権利を与える)を、その国家統合の理念とした。青年トルコは1908年にクーデターを起こし、アブデュル=ハミト2世に迫って憲法を復活させ、政党として政権を握った(青年トルコ革命)。しかし非トルコ人たちは、民族主義的な立場からむしろオスマン主義政策に反抗し、また周辺諸国から領土的野心による干渉も受けたりして、政権は不安定であった。第一次世界大戦でドイツ側に加わって敗れ、青年トルコの政権は事実上壊滅した。(トルコはロシアが敵なのだから、ドイツ側についたのは本来必然だったかもしれないが〔それでもオーストリアとは如何か?というと微妙かもしれないが〕、実は青年トルコはドイツから軍事顧問を招き、直接にも多大な影響を受けていたのである。)

 なお、バルカンのボスニア・ヘルツェゴビナの2州はベルリン会議(1878年)以降、トルコの宗主権の下にありながらオーストリアが行政管理するという変則的な状態にあったが、この青年トルコによる内乱の混乱に乗じてオーストリアはこれらを併合してしまった。これら2州の住民はスラヴ系統であったので、これはパン=ゲルマン主義がパン=スラヴ主義の反感を煽った出来事だった。(ロシアはこのとき日露戦争第一次革命後の弱っていた時期で、ゲルマン主義の動きを食い止める余力を持たなかった。)両主義間の抗争は、第一次バルカン戦争(1912年)・第二次バルカン戦争(1913年)を経て、第一次世界大戦に向けてエスカレートしてゆき、その過程でトルコはヨーロッパ側の領土をほとんど失うことになる。

(全くの余談だけれども、1908年6月、帝政ロシア末期のシベリア奥地、ツングース族が住む土地において、世紀の謎とされる「ツングースカ大爆発」が起こった。「火の玉」の落下が4-500キロ離れた地点からも目撃され、爆発音も500キロまで届いている。永久凍土の原生林が、ほぼ東京都の全面積に等しい範囲にわたって破壊された。ソ連の時代に入って隕石落下説を念頭に国家的に大規模な調査が行われたが隕石はおろか、隕石由来の物質すら見出されなかった。その後も、いろいろな説を唱える人はいるが、究明の見込みはない。)

南アフリカ連邦

1910 年:南アフリカ連邦の成立。

幾十年  現地を悩ます  南ア連[邦]

 

1910年、イギリスのケープ植民地、トランスヴァール、オレンジ、ナタルが統合されて、イギリス自治領として南アフリカ連邦が成立した。「自治領」とはいえイギリスからの干渉は続き、極端な人種差別政策(アパルトヘイト)も行われたので、現地人の悩みは尽きなかったであろう。半世紀後の1961年にイギリス連邦から脱して、南アフリカ共和国になるが、その後も政情不安が続く。

​【日】1910年は明治43年。日韓併合。大逆事件​(幸徳秋水らの無政府主義者や社会主義者が不当に逮捕された)

日韓併合

1910 年:日韓併合。

幾十年  朝鮮 悩ます  日韓併合

 

日露戦争後、日本は日韓協約を結んで韓国(大韓帝国)の内政・外交への発言権を強めていった。1905年には統監府を置いて保護国化、内政権の掌握を進めた。1909年、統監の伊藤博文が反日独立運動家の安重根に暗殺されると、翌1910年、日本は韓国合併条約を結んで日韓併合を強行し、統治体制を強化した。日本の朝鮮半島統治は、このあと35年間続く。

​【日】1910年は明治43年。上述の日韓併合のほか、大逆事件が起こっている。幸徳秋水ら26名の無政府主義・社会主義者が逮捕・起訴された。(翌年全員に有罪判決。12名に死刑執行。)

メキシコ革命

1910 年:メキシコ革命が始まる。

☆ メキシコに  重苦 異例の  革命だ

 

メキシコではアメリカ=メキシコ戦争のあと、1858年にフアレス大統領が就任、一時ナポレオン3世の干渉を受けながらも退け、国内の自由主義改革に努めた。(1872年、心臓発作で死去。)しかし、その後、1876年の大統領選に敗れたディアス(彼は軍人でもあり、対フランス戦の戦功に対する報酬が少ないことに不満を持っていたらしい。以前からフアレスと対立していた)は、武装蜂起を行ってこれを成功させ、自身を大統領に任命した。ディアス大統領は独裁的に反対派を弾圧して無計画な外資導入を進めた。その結果、貧富の差が極端に拡大し、民衆の生活は悪化し続けた。(ディアスは社会改革というようなことに全く関心が無い人物だったようである。)ついに1910年になって、新興の大農園主マデロはディアス政権の打倒を宣言、これに同調して反乱が次第に各地で起こった。ディアスは大統領を辞任して亡命し、マデロが大統領に就任した。その後、複雑な内紛・曲折へて、1917年に民主的な憲法が制定されることになる。

​​【日】1910年は明治43年。日韓併合。大逆事件。

辛亥革命成立

1912 年:辛亥革命の成功。中華民国成立(清の滅亡)。

☆ 革命成るも  得意になれない  孫文は

 

義和団事件の後、清では海外の形勢に目覚めた留学生などを中心に革命勢力が現れてきた。その中で諸団体を結集させたのは孫文である。彼は三民主義(民族・民権・民生)を唱えた。1911年(十干十二支で辛亥の年にあたる)、清朝が財政策として出した外国借款による民営鉄道の国有化策は、民営鉄道に絡む仕事で利を得ていた各地の資産階級(郷紳)の反発を生んだ。この郷紳のグループはもともと革命的な考えを持たないのだが、運動を盛り上げるために地方の一般民衆に呼びかけを行ったところ、事態は予想外に急変していった(四川では貧農・飢民が暴徒化して暴動に発展)。これを機に武漢に革命軍が立ち、ほどなく中南部16省が清から独立した。(郷紳たちの勢力もほとんど寝返り、戦争らしい大規模な戦闘はあまり起こらなかった。既に清朝はほとんど見放されていたわけである。)翌1912年1月には南京で中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統となった。一方、清朝の軍の実力者であった袁世凱​〔天津を中心とする「北洋軍閥」を管轄していた〕は、革命軍にもはや余力がない様子を見て孫文と交渉し、清の宣統帝を退位させることを条件に自らが大総統になることを認めさせた。1912年2月に宣統帝の退位とともに清朝が終わり、孫文は辞任して袁世凱が臨時大総統に就く(10月には正式に大統領に就任)。袁世凱は孫文を退けて独裁を築こうとし、実際に一旦できた衆参両院も停止し内閣も廃して独裁を成立させたが、1916年に病死した。その後10年ほど、帝国主義諸国の支援を受ける軍閥諸勢力の分立抗争の時代が続くことになる。

(余談だが、映画などで有名な豪華客船タイタニックの事故は1912年4月の出来事である。イギリスからニューヨークへ向けて処女航海の途中、ニューファンドランド沖で氷山に衝突〔右舷が接触〕し、2つに折れて沈没した。1500人を超える犠牲者を出し、世界最大の海難事故と呼ばれた。)

【日】1912年、日本では明治天皇が崩御し、大正天皇が即位した。明治45年であり大正元年である。この年の第3次桂太郎内閣の成立が、翌年の全国的な第一次護憲運動の誘因となる。

第一次大戦

1914 年:第一次世界大戦の勃発。

行く年 来る年  大戦なかなか  終わらない

 

第一次世界大戦は、大局的に言えば帝国主義国家間の衝突であるが、バルカン半島におけるパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立の形で始まった。1914年6月、陸軍大演習の視察の関係でボスニアを訪れていたオーストリア皇太子(ゲルマン側である。ハプスブルク家)がセルビア人青年(スラヴ側である)に暗殺されるという事件が起こった。(ボスニアは当時のセルビア本国の西隣の地域であったが、オーストリアの支配下に置かれていた。スラヴ系のセルビア人にとって、ここは、ベルリン会議の際にオーストリア〔ゲルマン人〕によって"自治を奪われた領域"だったのである。)この事件によるオーストリアとセルビア+ロシアの反目が発端となって、ドイツ・オーストリア・トルコなど(同盟国)とロシア・フランス・イギリス・アメリカなど(連合国)の大戦争に発展した。この戦争は近代兵器が大量に投入されたことによって、従来の戦争とは全く様相が異なっていた。主要な参戦国が国の全産業力を傾注した総力戦を余儀なくされ、容易に終わらせることのできない消耗戦となった。1918年にドイツ内部が瓦解して11月に休戦が成立、ようやく大戦が終わった。(オーストリアのハプスブルク朝はここで終焉を迎える。)

​余談だが、英国の作曲家ホルストが、交響組曲「惑星」の作曲に着手したのが1914年で、1917年にはほぼ完成していたそうである。つまりあの組曲は、ちょうど一次大戦中に作られた作品である。ホルストはロンドン近郊の女学校で音楽教師を勤める傍ら、作曲を行っていたようである。音楽史的な区分の目安として、一次大戦まではロマン派の時代で、一次大戦後から現代音楽の時代とする見方があるようで、組曲「惑星」はちょうどロマン派の最後、現代音楽の境目に位置する作品と言ってもいいのかもしれない。)

​【日】1914年は大正3年。上述の第一次大戦参戦のほか、シーメンス事件が起こっている。これは軍艦購入等にかかわる汚職事件で、山本権兵衛内閣退陣。第二次大隈内閣。

パナマ運河

1914 年:パナマ運河の開通。

☆ パナマ運河  大洋またいで  行く人よ

 

1898年の米西戦争以降、アメリカにとって太平洋も明確な掌握範囲に入ったわけで、そうなると大西洋と太平洋を結ぶ運河が是非とも必要になる。1903年に、アメリカは、コロンビアからのパナマ独立(パナマ共和国の成立)を援助し、翌年の条約でパナマ地峡運河の開掘権を獲得した。1914年に運河が完成し、大西洋-太平洋間の船舶の航行が容易になった。(アメリカ議会は一旦、アメリカ船のみ通行料を免除する法律を可決したが、これがイギリスから条約違反と抗議を受けた。ウィルソン大統領はこれを妥当と考えて議会を説得し、アメリカ船優遇の規則は撤廃された。)以降、パナマ運河はアメリカの経済的、軍事的な利益に大いに資することになる。アメリカから見れば、カリブ海領域における「棍棒政策」の成功例とも言える。

【日】1914年は大正3年。シーメンス事件。第一次世界大戦に参戦。

対華二十一ヶ条要求

1915 年:対華二十一ヶ条要求。

☆ 中国に  一句 一言  突きつける

1914年7月に、第一次世界大戦が始まると、列国はヨーロッパを主戦場として戦闘を繰り広げた。日本は、日英同盟に基づいて8月に協商国側として参戦(ドイツに宣戦布告)。しかし日本は、ヨーロッパの戦争自体に協力しようとしたわけではなく、これを中国進出の好機として利用しようと考えた。(協商側の各国から何度かヨーロッパへの出兵を要請されたが、日本は「国防とは関係ない」という理由をつけて断っている。)ドイツの拠点青島(チンタオ)や、ドイツ領南洋諸島の赤道以北を占領し、1915年に1月に、対華二十一ヶ条の要求を​中国(中華民国)の袁世凱政府に提出した。そこには山東におけるドイツ権益の接収、東北・モンゴル東部などにおける広範な権益の要求が含まれていた。袁世凱政府は、初めは拒否する姿勢を示したものの、日本からの最後通牒をつきつけられて、やむなく承認した(5月7日)。これにより中国の対日感情は悪化し、中国民衆は5月7日を「国恥記念日」と呼んだそうである。ロシアとフランスは、中国に連合国側(協商国側)での参戦を勧告しようとしたが、このとき、中国における利権を望む日本はこれに反対した。

(1917年になると、日本の態度が変わり、駆逐艦を地中海に派遣したり、中国の参戦を容認したりするようになる。​さらに大戦末期にはシベリア出兵にも参加している。これは、ヨーロッパでの戦争が長引くにつれ、直接的な負担の少ない日本が最も有利な立場になってきたからである。)

【日】首相:大隈重信(第二次。1914-16年)、外相:加藤高明

第二次ロシア革命

1917 年:第二次ロシア革命。(三月革命・十一月革命)

☆ ロシアにて  一苦 一難  二次革命

 

日露戦争が始まると、ロシアでは戦争と物資の不足のために社会不安が増大して、第一次ロシア革命(1905年)が起こり、形としては議会も設置された。しかし実質的に皇帝専政の反動政治体制は変わらず、特に労働者たちの間に不穏な空気が醸成されていった。1917年3月、ペテルブルクで始まった労働者の暴動が各地に拡がり、それに呼応して軍の反乱も起こった。("軍"といっても"兵士"の中には徴集された下層農民が含まれているわけである。)このような状況下で、ニコライ2世​(位1894-1917)は、皇帝政府に批判的であったブルジョワ層を中心とする国会臨時委員会によって退位に追い込まれ、帝政ロシアは終焉を迎えた(三月革命)。臨時政府は初め、自由主義的な立憲民主党が主導したが、首相は主にメンシェヴィキと結んだ社会革命党(ナロードニキの政党)のケレンスキーに代わった(7月)。彼は戦争を止めず主戦論を唱える。しかし国内では、ブルジョワではなく労働者や貧農の立場を重視し戦争に反対する、レーニン(亡命先のスイスから4月に戻った)が率いるボルシェヴィキの勢力が拡がりを見せていた。同年11月に、レーニンらがついに蜂起し、「ソヴィエト政権」の樹立を宣言して、臨時政府を倒した(十一月革命)。翌年、レーニンは武力で議会を閉鎖し、ボルシェヴィキによる一党独裁体制を実現して、ドイツとの単独講和を結んだ。その後、ボルシェヴィキは共産党と改称することになる。

 「ソヴィエト」は「評議会」とか「会議」などの意味のロシア語なのだが、労働者〔民衆〕たちが自発的に形成した組織、というニュアンスを込めて使われた。第一次革命の際に結成されたのが最初で、三月革命の頃のソヴィエトは社会革命党とメンシェヴィキが多数であったが(ボルシェヴィキへの弾圧が酷かったためである)、レーニンが帰国して国内活動を再開してからボルシェヴィキがソヴィエト内の多数派になったのである。

(レーニンの理屈では三月革命はブルジョワ革命、十一月革命はプロレタリア革命、ということになるようだ。しかしマルクスは、ブルジョワの資本主義が充分に進展した段階においてプロレタリア革命が起こることを説いており、当時どう見ても西側の国より遅れた社会を持っていたロシアにおいて、一気にプロレタリア革命までが起こったことは、マルクス理論から見ても奇異な感じがあったはずである。革命の動機自体も一般民衆にとっては経済構造的な階級間闘争というより、見通しのない戦争による犠牲への不満といったものが主要な部分であったようで、たまたまマルクス主義が、その不満の受け皿になったという感じも無いではない。泉下のマルクスはどう思っただろう?)

【日】1917年は大正6年。石井・ランシング協定。アメリカが中国における日本の特殊権益を認めるとともに、中国の門戸開放・機会均等を約した。この年、アメリカは連合国(協商国)側で参戦しており、ヨーロッパへ注力する代わりに、中国政策を若干、消極化させたわけである。

メキシコ革命成立

1917 年:メキシコ革命の達成。

☆ メキシコで  一苦 一難  革命達成

 

メキシコでは、ディアス大統領(1877年~)が無計画な外資導入を進めたため、貧富の差が拡大した。マデロは1910年にディアス政権の打倒を宣言、これがメキシコ革命の発端となった。これに同調して反乱が次第に各地で起こり、ディアスは辞任して亡命した。その後、革命派が土地政策をめぐって複雑に分裂と抗争を繰り返し、曲折があったが、1917年には、農地改革については不充分ながら国民の権利を大幅に認めた憲法が制定されるに至った。ここからメキシコの近代化が進むことになり、他の中南米諸国にも影響を与えた。

【日】1917年は大正6年。石井・ランシング協定。

十四ヶ条

1918 年:十四ヶ条の発表。

☆ ウィルソンだ  十四カ条  説く人は

 

第28代アメリカ大統領ウィルソン(任1913-21)は、元々プリンストン大学の総長で、ニュージャージー州の知事を経て大統領になった人物である。16年ぶりの民主党出身大統領であった彼は「新自由主義」を唱えた。(「新自由主義」にもいろいろな意味・使われ方があるが、ウィルソンの主張は、行きすぎた経済格差を是正するという方向性のものである。関税切り下げ〔大企業過保護の緩和〕、反トラスト法、連邦準備制度〔銀行法〕の確立、累進所得税など。)そのウィルソンが、まだ第一次世界大戦中の1918年1月、「十四ヶ条」を発表した。これは、大戦後の講和会議の基本指針とすることを意図したもので、秘密外交の廃止・公海の自由・経済障害の撤廃・欧州諸国の民族自決主義・無併合・無賠償・国際連盟の設立などの国際協調主義的な内容を含んでいる。(一次大戦のときまで、外交というのは基本的に秘密のものだったわけですね。漏れ出る話や部外者による"観測"はあるにしても。)第一次大戦は、同年の11月に、オーストリアとドイツが降伏して終結を迎える。

【日】大正7年。シベリア出兵。原敬内閣成立。

ヴェルサイユ条約

1919 年:パリ講和会議。ヴェルサイユ条約の成立。

☆ 敗戦国に  重苦 重苦の  ヴェルサイユ

 

第一次世界大戦終戦後の1919年1月、パリで講和会議が開催された。6月にはヴェルサイユ条約が成立する。ドイツは植民地をすべて失い、アルザス・ロレーヌやポーランド・デンマークとの国境地域を割譲、巨額の賠償金も課された。ウィルソンの理想主義的な十四ヶ条は、この講和会議の基本指針として当初ヨーロッパ諸国民の期待を集めていたようだが、ウィルソンには、報復的な態度で会議に臨むフランスのクレマンソーやイギリスのロイド=ジョージらを抑え込むだけの力量がなく、理念は大幅に歪められた。(特にフランスはドイツに対して普仏戦争以来の遺恨があったわけで、48年前にドイツ帝国成立が宣言されたヴェルサイユでこの講和会議が開かれたことは、ある意味で象徴的である。)結局、戦勝国が自国の利を奪い合い、敗戦国に対して重苦を強いる、遺恨に満ちた復讐的な賠償請求がなされた。

 なお、日本はこの講話会議において、国際連盟規約に人種差別撤廃(各国民の平等・公正待遇主義)を盛り込むことを提案した。しかし日系人の排斥運動が起こっていた米国(特にカリフォルニア州)の世論および上院がこれに強硬に反対する姿勢を示したことを受けて、議長のウィルソンの態度も硬化した。​(加えてアメリカは、黒人問題という厄介な問題を抱えている。)採決において16名中11名の賛成多数が得られたが、米英が反対にまわっており、議長のウィルソンは「全会一致ではない」という理由でこれを不採択としてしまった。その後も米国における排日運動は続き、5年後の1924年には(カリフォルニア州だけの話ではなく)米連邦議会で排日移民法が成立することになる。米国の徹底した排日運動は日本人に反米感情を生み、太平洋戦争の遠因のひとつとなったとされている。

​【日】1919年は大正8年。日本統治下の朝鮮で、万歳事件。朝鮮群衆による民族独立運動である。

ローラット法

1919 年:ローラット法の施行。

☆ ローラット  一苦 一苦の  インド人

 

第一次大戦中、イギリスはインドの協力(物資・兵員提供)を得るために、戦後のインド自治実現を約束していた。しかしながら戦後の1919年に、約束を反故にしてローラット法を施行した。(こういうところは、いかにもこの時期のイギリスらしいと言うと、いささか偏見になるだろうか。)ローラット法はインド総督に、令状や裁判なしに逮捕・投獄を行う権限を与えたものである。イギリスによるインド民族運動の弾圧に利用された。これに対してインド民衆の反英感情は高まり、ガンディーの主導の下、非暴力・不服従運動が展開された(第1次:1919-22年)。具体的には、日を決めて一斉にあらゆる仕事を止めたり、イギリスに与えられた官位を返上したり、イギリスが設置した学校から子弟を引き揚げたり、英国製品をボイコットしたり、ということが行われた。(ガンディーは国民会議派において指導的な地位にあったが、必ずしも国民会議派だけを代表する存在ではなく、会議派とは無関係な独自の活動もいろいろやった。)もちろん政府は運動を圧迫し、ガンディーが逮捕されることもあったが、結果としてローラット法は1922年に廃止された。(第2次不服従運動というものもあった〔1930-34年〕。これは政府の理不尽な塩の専売〔塩税〕に反対する運動で「塩の進軍」とも呼ばれ、公然と違法に塩をつくる運動が展開された。)

 第二次大戦中の1942年8-11月には極めて大規模な「撤退要求」運動が起こり、ガンディーやネールが逮捕されるようなこともあったが、やがてイギリス連邦の自治領として、インド連邦と(イスラム教徒の)パキスタンが成立するのが第二次大戦後の1947年。インドが独自の憲法を発布して、ネールを首相として「インド共和国」となったのは1950年のことである。(ガンディーはインドとパキスタンの分離を喜ばず、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の協調を訴えていたが、1948年に極右のヒンドゥー教徒によって暗殺される。)

​【日】1919年は大正8年。日本統治下の朝鮮で、万歳事件。

五・四運動

1919 年:五・四運動。

☆ 条約反対  説く人 繰り出す  五・四運動

 

1919年、パリ講和会議で、中国の要求する日本の対華二十一ヶ条の取り下げや、山東のドイツ利権の返還は列国から退けられたが、北京政府はこれを承認しようとした。(辛亥革命後も、形式的には北京政府が存続していたのである。軍閥〔当時は安福派〕に実権を握られていたが、列国は北京政府を「中央政府」と見なしていた。孫文は南方の「広東政府」に在ったが、まだ「国民党軍」などは整備されておらず、これも地方軍閥的な軍事力〔陳炯明〕に頼らざるをえない組織で「政府」と言っていいのか危ういようなものであった。)また北京大学の進歩的教授、陳独秀・胡適に対する北京政府の弾圧もあり、同年5月4日に北京大学の学生を中心とするデモ隊が繰り出して、ヴェルサイユ条約承認への反対を主張する示威運動を行った。民族的な自覚を強めていた中国の国民はこれに反応して、条約反対や、排日を主張する運動が全国に拡がった。さらにこれは反政府運動にも発展した。これを五・四運動(ごしうんどう)と呼ぶ。結局、北京政府はヴェルサイユ条約の調印を拒否するに至った。

(1916年に袁世凱が死去した際、北京に一時的に自由な空気ができて、陳独秀や胡適が北京大学に迎えられていたのである。彼らは1915年に創刊された雑誌『新青年』の編集に携わり、革新運動を指導していた。)

​【日】1919年は大正8年。日本統治下の朝鮮でも、群衆による反日・民族独立運動(万歳事件)が起こっている。

コミンテルン

1919 年:コミンテルン(第3インターナショナル)の設立。

☆ コミンテルン  革命は行く  遠くまで?

 

第一次世界大戦中に革命を成功させ、共産党独裁政権を築いたレーニンは、共産主義革命が世界中に波及するもの(あるいは、波及させるべきもの)と考えていた。彼は、戦後の1919年、共産党の国際組織として、モスクワに「コミンテルン(国際共産党)」を設けた。共産主義革命を、遠く世界の隅々まで及ぼそうという意図があったわけである。その後、ハンガリーの革命を指導したが失敗。ポーランド・トルコ・中国などの民族運動を援助したが、「世界革命」とはならなかった。コミンテルンは二次大戦中の1943年に解散し、これに代わって1947年にコミンフォルムが発足する。

​【日】1919年は大正8年。日本統治下の朝鮮で、万歳事件。朝鮮群衆による民族独立運動である。

国際連盟

1920 年:国際連盟の発足。

☆ 米[国]抜けて  特に おろそか  国際連盟

 

米大統領ウィルソンの構想を(ある程度)反映したヴェルサイユ条約を受けて、1920年に国際連盟が発足し、ジュネーヴに本部が置かれた。世界の恒久平和を目的とし、安全保障・軍備縮小・紛争の解決などに努力をしたが、芳しい成果を上げることはなく、第二次世界大戦も防げなかった。総会の決議は全会一致が原則という、まとまりにくいものであったし、連盟は戦争防止の実力手段も欠いていた。提唱国のアメリカが上院の反対で参加せず、ドイツ・ソ連も除外したという、残念ながら欠陥の多い国際機構であった。(ドイツはロカルノ条約成立の後、1926年に遅ればせながら加盟を許されたけれども、1933年に政権についたヒトラーは、その年のうちに華々しく国際連盟脱退をやってのけた。​同年、日本も脱退通告。そしてその翌年、1934年という不思議なタイミングでソ連が国際連盟に加入する。

(ウィルソンは1919年9月に脳梗塞を起こして、左半身不随、言語障害といった重い後遺症が残ったため、その後1921年3月の任期末まで、大統領としての執務は事実上不可能であった。〔ただしこの事実は秘匿され、以後の決裁は夫人が代行していたらしい。〕そのような状況において、アメリカ上院はヴェルサイユ条約を葬ったのである。)

【日】1920年は大正9年。新婦人協会発足。第1回メーデー。

婦人参政権

1920 年:アメリカ合衆国で、婦人参政権の確立。

☆ 米[国]婦人  特に 邁進  参政権

 

19世紀後半から、徐々に各国で婦女の参政権導入の検討が進むようになっていたが、1910年代以降にその動向が特に顕著になった。各国の婦人参政権獲得年の例を挙げると、ノルウェー(1913年)、デンマーク(1915年)、ロシア(1917年)、イギリス(1918年)、ドイツ(1919年)、アメリカ(1920年)、カナダ(1920年)、スウェーデン(1921年)など。20世紀の大戦が各国の総力戦という様相になったことから、それぞれ戦時下で国内の女性の占める役割も無視できなくなったという事情も影響しているものと思われる。

 1920年におけるもうひとつの象徴的な出来事として、世界で初めて(ペンシルベニア州ピッツバーグで)民間ラジオ放送が始まったことが挙げられる。開局当日、放送は大統領選挙における共和党ハーディングの勝利を伝えたそうである。第一次大戦において戦場にならなかったアメリカは、1920年代に(29年の大恐慌発生まで)空前の繁栄の時代を迎える。現代的な意味での(猥雑な面も含んだ)「大衆文化」の始まりは、このあたりにあると見てよいのかもしれない。文学的には「ロストジェネレーション」(自堕落な世代)と呼ばれる。この時代には女性の生活様式も一変した。「職業婦人」というものが出現する一方、服装が現代的になり、化粧品なども普及した。映画など娯楽を享受するようになり、男女の付き合い方も変わった。

(「マ」→「マル」→「〇」という連想で、「邁進〔まいしん〕」の「ま」をゼロと読み取る。)

​【日】1920年は大正9年。新婦人協会発足。第1回メーデー。

ワシントン会議

1921 年:ワシントン会議の開催。

☆ ハーディング  引く武威  相談  ワシントン

 

1921年、ハーディング(共和党。民主党ウィルソンの次の米大統領。任1921-23)の提唱で、ワシントン会議が開かれた(~1922年。9ヶ国が参加)。海軍軍縮問題と、極東・太平洋地域問題が主な議題であった。第一次大戦後、列国の建艦予算は莫大なものになっていた。(アメリカの真意としては、日本が極東・太平洋地域で、現状以上に勢力を拡大しないように、釘をさしておきたいということもあっただろう。第一次大戦中に、この地域のドイツの進出先を日本が奪い、中国への干渉も進めたのだから。)米・英・日・仏・伊各国の軍の主力艦保有量が5:5:3:1.67:1.67と定められた。また対華二十一ヶ条は廃棄され、中国の主権尊重・領土保全を約した九ヶ国条約が結ばれた。太平洋諸島に関して、現状維持を日・米・英・仏間で定めた四ヶ国条約も締結され、日英同盟は解消された。この日英同盟の解消も、アメリカが切望するところであったのだろう。

(元々、国際的な軍縮問題は、国際連盟が扱う最重要テーマのひとつだったはずだけれども、アメリカが連盟に参加しなかったために、こういう"連盟は蚊帳の外"みたいな開催の仕方になったわけである。前年に発足したばかりの国際連盟の無力さを象徴していると言えるかもしれない。)

ソ連

1922 年:ソヴィエト社会共和国連邦の成立。

☆ 社会主義  いい国になれ  ソ連邦

 

第二次ロシア革命において、十一月革命を成功させて共産党一党独裁体制をつくったレーニンは、1922年にはロシアに加えウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)ザカフカース(南コーカサス)の4ソヴィエト共和国を統合して、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を成立させた。この頃までに、反革命軍は鎮圧され、外国からの干渉戦争も収まってきた。また1921年にレーニンが始めた新経済政策(一部に資本主義的な施策を導入)により、経済は回復に向かい始める。

(レーニンは1924年1月に急死する。54歳。)

(ここでは「いい」→1と読み取る。)

​【日】1922年は大正11年。日本共産党結成。

トルコ革命

1923 年:トルコ共和国の成立(トルコ革命)

☆ トルコでは  いい国 習い  共和政

 

青年トルコ革命(1908年)の後、オスマントルコは、青年トルコ内閣の下で、第一次世界大戦に同盟国側で参戦して敗退し、青年トルコは事実上消滅した。これに代わり、トルコ国民党を率いて現れた軍人ケマル=パシャは、第一次大戦後に結ばれたセーヴル条約を不服とし、ギリシャと戦って1922年にイズミル(小アジア西岸中央部)を奪回した。翌1923年に、彼は連合国側と新たにローザンヌ条約を結んで、治外法権の廃止・関税自主権の回復を行い、同年トルコ共和国を立てて初代大統領に就任した。これはオスマントルコの終焉でもあり、この共和政の樹立はトルコ革命と呼ばれる。(一次大戦での敗戦国であったトルコが、西欧と対等な独立国となったわけだから、これは奇跡のようなものである。)ケマルは実質的に一党独裁の体制を採りつつ、西欧(の良い国。特にフランスか?を見習った徹底的な近代化策を施行して、トルコをイスラム世界で最も近代化・西欧化した国に導いてゆく。アラビア文字は廃され、ローマ字が採用された。議会はケマルのトルコ民主化・近代化の貢献を称えて"アタテュルク"(トルコの父の意)という尊称を贈った。

(ここでは「いい」→1と読み取る。)

​【日】大正12年。関東大震災。虎ノ門事件(摂政宮裕仁が社会主義者に狙撃され危うく難を逃れた)。

ドーズ案

1924 年:ドーズ案。

☆ ドイツには  特に 良い案  ドーズ案

 

第一次大戦後、ドイツは巨額の賠償金を課されて、経済を立て直せる状況ではなかった。1924年、アメリカのドーズ(後にクーリッジ大統領の副大統領になる人物)を委員長とする賠償委員会は、ドイツの過酷な賠償負担条件を緩和するために、新たな賠償方式(ドーズ案)を策定した。外資を提供して経済安定を助け、ドイツの支払い能力を勘案した年賦を決定した。純粋にドイツのためというわけでもなく、ドイツの賠償支払いが可能になれば、賠償金を受け取った国からの対米戦債の支払いが促進されることを狙ったものとも言える。​この措置によって、アメリカを中心とする外国資本がドイツに流入するようになり、ドイツ経済はある程度の復興を見せたが、1929年に世界恐慌が起こると、再び深刻な経済打撃を被ることになる。

(なお、1923年11月にヒトラーがミュンヘンで右翼による一揆を起こそうとして失敗し、1924年4-12月に服役している。この時期、一時的に極右勢力が弱まり、ワイマール共和国政府が〔大統領:エーベルト、外相:シュトレーゼマンの下で〕ある程度の安定性を示した。)

【日】1924年は大正13年。前年に関東大震災があり、この年、清浦奎吾の「超然内閣」が組織されると、これに反発して第二次憲政擁護運動が起こった。

国共合作1

1924 年:第一次国共合作。

☆ 一時(一次)合作  軍閥打倒に  特に良い?

 

中国(中華民国)では、1921年にソ連の援助を得て、陳独秀を委員長とする中国共産党が結成された。孫文もソ連から顧問を招いて国民党の組織を改めた。国民党も共産党も、当時、北部に清末から残存している軍閥の打倒と帝国主義の打倒という目標が一致し、1924年、孫文は中国共産党員が党籍を保持したまま国民党に入党することを認めた。国民党は共産党と(一時的に)協力することを決めたのである(第一次国共合作)。(同年、広州に軍官学校が作られ、「国民党軍」の整備・構築が始まって、陳炯明のような軍閥的軍事力に振り回されない体制が出来はじめる。)孫文は翌1925年に肝臓癌で死去するが、この国共合作によって国民革命の機運は高まり、国民党は急速に勢力を伸ばした。しかしながら第一次国共合作は、孫文の後を継いだ蒋介石が反共産主義に方針転換したことにより、1927年に分裂・解消し、北伐(北部軍閥打倒)は1928年に国民党軍によって完了することになる。

【日】1924年は大正13年。前年に関東大震災があり、この年、清浦奎吾の「超然内閣」が組織されると、これに反発して第二次憲政擁護運動が起こった。

ロカルノ条約

1925 年:ロカルノ条約。

☆ ロカルノで  特に こだわる  協調策

 

第一次世界大戦後の混乱は徐々に収まり、国際協調の動きも出てきた。1925年には、ドイツを含むヨーロッパ主要国が、スイスのロカルノで安全保障条約を締結した(ロカルノ条約)。ライン国境地域の現状維持と不可侵、国際裁判による国際紛争の解決が約束された。これを踏まえ、翌1926年にドイツは国際連盟への参加を許されることになる。第一次大戦後のドイツでは、1919年に共和政が成立しており​(同年「ワイマール憲法」制定)、初代大統領エーベルトの下で、1923年からシュトレーゼマンが首相・外相として重要な仕事をした。(ヴェルサイユ条約の)履行政策を進め、通貨を安定させ、ドーズ案受諾・ロカルノ条約締結・国際連盟加入など平和維持につとめた業績が評価されて、シュトレーゼマンは1926年にノーベル平和賞を受賞している。​(フランスのブリアンが同時受賞。前年〔1925年〕にイギリスのオースティン=チェンバレン〔ジョセフの長男でネヴィルの兄〕が、やはりロカルノ条約締結の功績でノーベル平和賞を受賞している。)

【日】1925年は大正14年。日ソ基本条約。治安維持法。普通選挙法。

パフレヴィー朝

1925 年:パフレヴィー朝の成立。

☆ パフレヴィー  特に こだわる  近代化

 

第一次大戦中、カジャール朝ペルシャは中立を宣言し、イギリス・ロシアの勢力の後退によって自主権を回復した。しかし戦後、1925年にレザー=ハーンがクーデターを起こして実権を掌握し、パフレヴィー朝を開いた。(但しレザー=ハーンが皇帝として即位したのは翌1926年なのでパフレヴィ―朝の「成立」を1926年とする場合もある。)彼はトルコ共和国のケマルの改革を見習って近代化につとめ、民族自立を推進した。パフレヴィ―朝では聖職者の影響力が抑制され、政治・文化の世俗化が進んだ。

 1960年代以降、積極的な西欧化政策(白色革命)が進められたが、貧富の差を拡大させて国民の支持を失い、1978年のイラン革命でパフレヴィー朝は崩壊する。

 ちなみに「イラン」というのは「アーリア人の国」という意味で、イラン人自身は古来、自分たちの国を「イラン」と呼んでいたらしいのだが、ヨーロッパ人にとってこの地は「ペルシャ」であった。(ここで言う「アーリア人」はインド・アーリア人よりも広義の概念で、印欧語族全体、すなわちおそらく元々は黒海北岸~カスピ海北岸あたりもしくはその北部?にいて、ヨーロッパ・西アジア・中央アジア・インドに拡がった全種族を包含する。)パフレヴィ―朝は建国十年後の1935年に国号を「イラン」に改称し、諸外国にも正式文書においてこの呼称を用いるように要請したけれども、国際的にはその後、長らくこの国の国名の扱い方について少々混乱があったようである。(梅棹忠夫によれば)イラン人は現在でも、ヨーロッパ人よりもむしろ自分たちがアーリア系の本家本流だという意識があるために「イラン」という国名にこだわっているらしい。(つまり、イラン人のこだわりは、単にイスラム教・シーア派の本家本元ということだけではなさそうである。)憶測に過ぎるかもしれないがそのような気配は、西欧化を進めたパフレヴィ―朝よりも、むしろイラン革命後の「イラン=イスラム共和国」の反米・反ソ政策に顕著に見て取れると言えるかもしれない。

【日】1925年は大正14年。日ソ基本条約。治安維持法。普通選挙法。

イギリス連邦

1926 年:イギリス連邦の発足。

☆ イギリスが  特に 無理なく  連邦発足

 

第一次世界大戦後、イギリスの持つ各自治領が、自立・独立の動向を示したので(無理が生じないように)18世紀以降の「イギリス帝国」(もしくは「大英帝国」)の呼称は1926年に「イギリス連邦」と改称された。そして各自治領は、イギリス国王に忠誠を誓うことを条件に、事実上独立国としての自主権が与えられた。​第一次大戦によってイギリス本国は疲弊し、相対的な地位の低下が起こり、もはや"上位"に君臨する国ではなくなったわけである。この内容は1931年の「ウエストミンスター憲章」で法制化される。

​【日】1926年の年末に、大正天皇が崩御し、昭和天皇が即位。大正15年→昭和元年。

北伐開始

1926 年:北伐の開始。

☆ 北伐に  行くぞ 任務だ  蔣の軍

 

第一次国共合作以降の国民党の勢力拡大を背景にして、1925年、広州に国民政府が樹立されたが、中国全体は依然、軍閥が割拠している状態であった。(軍閥の勢力分布は、大きく分けて直隷派、奉天派、安福派、国民党系の4派があった。奉天派〔奉天省は現在の安寧省〕の張作霖は親日的であり、日本も奉天派を利用した。)1925年の孫文死去の後、国民党を率いることになった蔣介石は、翌1926年に打倒軍閥を掲げて政府軍(国民革命軍)を指揮し、7月に北伐(北方軍閥の征討)を開始した。1927年3月には南京・上海を占領したが、蒋介石が反共産主義に態度を転じたことにより政府軍に内部分裂が起こり、北伐は一時中断された。(一時は蒋介石がかなり劣勢になり、党内左派から「打倒蒋介石」を叫ばれるような状況もあったが、蒋は共産主義を嫌う上海ブルジョワから援助を受けて"反共クーデター"を指揮し、再び主導権を握った。)蒋介石は左派を排して南京に国民政府を樹立した。1928年に、このころ北京に進出していた軍閥、張作霖を目指して北伐が再開され、途上、奉天へと逃れようとする張作霖が日本軍の列車爆破によって爆死するという事件が起こり(張作霖が親日から親欧米に方針を切り替える動向を見せたためであったらしい)、北伐軍は北京を占領した。この時点で中国は一応、国民党による統一を見た。しかし国民党から迫害されて分離した共産党勢力は、やがて国内抗争の火種になってゆく。

【日】1926年の年末に、大正天皇が崩御し、昭和天皇が即位。大正15年→昭和元年。

不戦条約

1928 年:不戦条約。(ケロッグ=ブリアン条約)

☆ 小国に  特に やさしく  不戦条約

 

1928年に、パリで、米・英・仏・伊・日を含む15ヶ国により「不戦条約」が締結された(のち63ヶ国に拡大)。これは初め、フランス外相ブリアンが提唱し、アメリカ国務長官ケロッグが他の諸国も勧誘して成立したもので、国際紛争の手段としての戦争の排除を決めた条約であった。(ケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる。)これが実効性を持ったならば、自国の戦力が弱い小国には特に有難いものになったであろう。しかしながら具体的な戦争防止の手段も明確ではなく、制裁規定もなかったので、顕著な成果は認められなかった。

​【日】1928年は昭和3年。張作霖爆殺事件。

五ヵ年計画

1928 年:(第1次)五カ年計画の開始。

☆ スターリン  特に やらせる  五カ年計画

 

ソ連では、1924年にレーニンが死亡した後、スターリンが権力を徐々に握っていった。スターリンは、「世界革命」ではなく「一国社会主義論」を唱え、国内振興を重視した(後、第二次大戦後になると、東西対立の下で東欧諸国などに干渉するようになるけれども)。ソ連の工業国化と農業の集団経営化、資本主義国からの経済的自立と社会主義経済基盤の確立を掲げ、1928年に五カ年計画をスタートさせた。スターリンの指導権は完全に確立されたのである。(これには1921年にレーニンが始めた新経済政策〔一部に資本主義的な施策を導入〕の全否定という意味合いもある。農民も労働者も党の支配下に組み込まれ、その福祉は犠牲にされた。全体主義体制が出来上がったのだった。)資本主義諸国との交流が少なかったため、1929年からの世界恐慌の影響をあまり受けず、そういう点に関しては「計画経済」の試みは世界から関心を集めた。

 1933年、スターリンは第1次五カ年計画の総決算を発表した。1934年1-2月の党大会は「スターリンの勝利」を祝福するためのものであった。そして1936年から大粛清が始まる。

(これは、一応は"共産主義"体制の確立ということになるのかもしれない。しかし下層のプロレタリアートたちはブルジョワの支配から自由ではあるにしても、要するに新しい"上層階級"が形成されて、そこから搾取されるという構造は変わらない。あるいはむしろ、より苛酷になったというのが実情ではないか?)

​【日】1928年は昭和3年。第1回普通総選挙。三・一五事件(田中義一内閣が、共産党員や労働者・農民・学生・市民を大量検挙、関係団体を解散させた事件)。張作霖爆殺事件。

北伐完了

1928 年:北伐の完了。

☆ 北伐後  引くには引けぬ  財閥政治

 

蔣介石は、第一次国共合作のころは共産主義を礼賛していたが、アメリカの援助を受けたり浙江財閥と提携したりするようになり、反共産主義者になっていった。1927年に南京に共産党を排した国民政府を樹立し、1928年に北京に入城して北伐を完成し、(不完全ながら)一応は中国を統一した形になった。​(列国も南京政府を中央政府として承認した。)蒋介石は、北伐後も浙江財閥と結びつつ、アメリカやイギリスの援助を受けて、統一独裁政権を固めようとしてゆく。彼は共産党討伐を進めるとともに、新生活運動を提唱した。国民党は共産党に対する弾圧を続け、共産党も抗戦を続けたが、両党は1935年頃から再び抗日運動のための接近をはじめるようになる。

【日】1928年は昭和3年。日本の関東軍は、満州に帰還する張作霖を爆殺している。

世界恐慌

1929 年:世界恐慌が始まる。

☆ 全世界  特に 苦しい  大恐慌

 

アメリカでは、民主党ウィルソン大統領の任期が1921年に終わった後、共和党からハーディングクーリッジ・フーヴァーと3代の大統領が続き、フーヴァーの初年までアメリカは無類の経済的繁栄を誇った。自動車や電化製品など新産業が発展した時代である。(但しハーディングは独占資本の味方のような人で、数々の疑獄事件もあり、歴代大統領の中で最も評判が悪い。1923年8月に急死し、その死因に関して、いろいろな噂がとんだようである。)しかし1929年10月、ニューヨークの株式市場で突如、大暴落が起こり、これを発端として世界の未曾有の大恐慌(世界恐慌)が始まった。これは"独占段階に到達した無計画な資本主義の矛盾が表出した経済現象"ということになっている。銀行は倒産し、失業者が急増し、ヨーロッパ諸国にも、アメリカ資本の引き上げによって恐慌が即座に波及していった。この世界恐慌が英仏のブロック経済や、独伊のファシズム台頭を招き、第二次世界大戦の誘因となってゆく。

(1929年に「ホーリー・スムート法案」が米国連邦議会に提出され、翌1930年に成立している。これは米国内企業のために超高率関税を設定して外国製品を閉め出す、いわばアメリカの"ブロック経済"法案だった。不況が始まったために、この法案が出されたようにも見えるが、むしろこの法案の提出こそが、国際経済への信用を破壊し、恐慌自体を引き起こしたのだ、という見方をする人もいる。これが正しいかどうか私には判断できないが、「無計画な資本主義の矛盾」などという話よりは分かりやすい。)

​【日】1929年は昭和4年。小林多喜二「蟹工船」

ロンドン会議

1930 年:ロンドン軍縮会議。

☆ 軍縮で  戦(いくさ)を見直せ! ロンドン会議

 

1930年に開催されたロンドン会議は、ワシントン会議で設定された建艦中止期間満了を受けて開かれた軍縮会議である。主力艦の制限期間を1936年まで延長するとともに、補助艦に関して米・英・日がそれぞれ10:10:7とすることが追加された。条約締結の際に日本国内では、軍部や右翼から、政府が兵力量を制限する条約に調印したのは「統帥権の干犯」(天皇の軍事決定権限の侵害)にあたるという批判が巻き起こった。批准は何とか実現したものの、これで日本国内では協調外交路線が潰え、右翼が台頭してゆくきっかけとなってしまった。このロンドン条約の期限満了時に持たれた会議では、イタリアが参加せず、日本が英米と同等を主張して決裂、再延長はなかった。

【日】1930年は昭和5年。金輸出解禁の措置があり、これによって昭和恐慌がひきおこされた。

満州事変

1931 年:満州事変が始まる。

☆ 東北で  一苦 災難  満州事変

 

日本では、第一次世界大戦時の大戦景気の後、1920年代には戦後恐慌~関東大震災~世界恐慌の影響~金解禁による昭和恐慌と経済の混乱が継続し、社会不安がつのった。そのような世相を背景として軍部の勢力が「世界最終戦論」などを掲げて台頭し、大陸における権益意識を強めて暴走を始めるようになる。中国東北地方では張学良が排日運動を続けていたが、1931年9月に日本の関東軍は柳条湖(現在の遼寧省・瀋陽市のあたり)で南満州鉄道の爆破事件を起こし、これを張学良の軍による工作と発表して軍事行動に入った。そして翌年には、日本軍はほとんど東北部全土を占領して、清の廃帝宣統帝(溥儀)を執政として満州国を成立させ、1933年5月に中国と停戦協定を結んだ。(1934年には帝政を宣言、溥儀は傀儡の満州国皇帝となる。)このようにして満州国の政治・軍事の実権は日本の関東軍が完全に握ることになったが、しかし一方で、中国は1932年に満州事変を日本の侵略行為として国際連盟に提訴しており、これに応じたリットン調査団は、日本を非難する報告を行った。このため1933年3月に、日本は国際連盟からの脱退を表明した。

サウジアラビア

1932 年:サウジアラビアの成立。

☆ アラビアの  戦(いくさ)に終止符? サウジ国

 

アラビアの地は、第一次世界大戦までオスマントルコ領であったが、20世紀初頭から民族運動が起こり、1916年にヒジャーズ王国が成立した。イブン=サウドがこれを倒して併せ、1926年にヒジャーズ=ネジド王国を建てた。1932年に、国名を「サウジアラビア」("サウド家のアラビア"の意)に改称する。アラビアが他民族の戦争に巻き込まれることは終わりにしたいという思いもあったかもしれない。サウジアラビアはワッハーブ王国の再興として建てられた国で、ワッハーブ派が国教である。残念ながらアラビア半島で「戦に終止符」というわけにもいかず、現在もキナ臭い話はある。

【日】1932年は昭和7年。五・一五事件。

オタワ英連邦会議

1932 年:オタワ英連邦会議の開催。

☆ 連邦内  特産 封じる  オタワにて

ギリスでは1929年5月の総選挙で、初めて労働党が第一党となり、マクドナルド内閣(第2次内閣:1929-31年)が成立したが、この年に世界恐慌が始まることになる。マクドナルドは国費の削減案を立てたが各方面との調整がつかず、一旦辞職した。しかし彼は改めて挙国一致内閣を組織して、国費節約とブロック経済政策を始めた。(国費節約のほうは、失業手当の削減や官公吏の減俸など、労働党らしからぬ施策も多かった。海外から借款を得るための条件として財政均衡を言われ、やむを得ない面もあったかもしれないが。)1932年に開催されたオタワ英連邦会議(このときマクドナルドは労働党を除名されていたが、国王ジョージ5世からの"大命"により続投していたようだ)は、自治領間だけ関税を下げ、外部他国に対して高関税をかける"ブロック経済"を打ち出した会議である。英連邦内だけで経済を封じるという方針だが、これは世界的な不況の下で、広大な"連邦"(植民地)を持つイギリスのような国においてのみ可能な経済政策であった。(自由貿易政策から離れたわけで、連邦全域にわたる広い意味での"統制経済"と言えるかもしれない。)

【日】1932年は昭和7年。五・一五事件。

ニューディール

1933 年:ニューディール政策。

☆ 修正[主義]の  先駆 捧げる  ニューディール

 

1929年の世界恐慌の発生を受けて、アメリカのフーヴァー大統領(共和党)は対症療法的に多少の減税を行ったり、貿易不振が外国におけるドル不足によるものと考えて、第一次大戦による各国間の戦債の支払いを1年間延期する措置を取ったりした。しかし効果はほとんど現れず、共和党は支持を失って政権交代が起こった。1932年に大統領に当選した民主党のフランクリン=ルーズベルト大統領は、1933年から次々と積極的な経済施策を打ち出して、経済復興を図った。彼の経済政策は「ニューディール」(New Deal)と呼ばれるが(dealは政策・計画の意)、基調となっている考え方は、資本主義といえども野放しの自由主義経済をやめて、政治が経済に介入する計画経済の考え方を導入しようということである。つまりこれは明確な「修正資本主義」の初の試みと言える。象徴的な施策をひとつだけ挙げるならば、テネシー河開発公社(TVA)の公共事業による景気刺激策である。

​ また、フランクリン=ルーズベルトは、外交政策に関しては「善隣外交」を言った。パン=アメリカ主義を(棍棒政策のような武力威嚇ではない)平等な立場での実現に近づけようというもので、ラテンアメリカ諸国との通商関係の改善が期待された。

​【日】1933年は昭和8年。国際連盟脱退通告。

長征

1934 年:中国共産党、長征(大西遷)の開始。

☆「瑞金では  戦(いくさ) よそう」と  長征へ

 

1927年ごろから国民党による弾圧を受けていた中国共産党は、1931年に瑞金(ずいきん。江西省)に毛沢東を主席とする臨時政府(中華ソヴィエト共和国)を立てて抗戦していたが、おそらく瑞金を拠点とした発展的展開はもはや不可能と判断したのであろう。毛沢東らは、1934年に瑞金の基地を捨てて大移動を始めた。そして国民党軍と戦いながらの1万キロ以上の大行軍の末、1936年に延安(陝西省)にたどり着き、ここに新たな拠点を置いた。(瑞金→延安を地図上で直線的に結べばだいたい北北西に1350キロほどなのだが、大幅に西側に迂回して辺境の地を通ることを余儀なくされたので「1万キロ以上の大行軍」となったわけである。)実態としては、共産党はこの移動の間に兵員を大幅に減らしてしまうことになり、「征」(敵を打ち倒すという意)などではなっかたのであるが、共産党側ではこれを見栄を張って「長征」と呼んだ。国民党側からは「大流竄(るざん)」と呼ばれたのだそうだ。

ヒトラー再軍備

1935 年:ヒトラーが、再軍備を始める。

☆ ヒトラーが  戦(いくさ) 公認  再軍備

 

第一次大戦敗戦以降のドイツ経済は、1924年のドーズ案の施行以来、かなり持ち直していたのだが、1929年に始まった世界恐慌はドイツ経済に深刻な打撃を与え、不況下のドイツでは、右翼のナチスと左翼の共産党が勢力を伸ばした。共産党を嫌い革命の危険性を恐れる資本家や軍部がナチスを助けたために、ナチスは一挙に勢力を拡大し、1933年1月にはヒトラー内閣が誕生した。彼は他党を弾圧して一党独裁体制を実現し(全権委任法案可決)、1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると自ら「総統」と称して独裁的な国家統制を進めた。(1934-45年のドイツは「第三帝国」と呼ばれる。「第一」は神聖ローマ帝国、「第二」は普仏戦争後のドイツ帝国、ということである。)対外的には1933年に軍事平等権を主張して国際連盟を脱退し、1935年には再軍備宣言を行い、その翌年にはロカルノ条約を破ってラインラント(ライン川の主に左岸側。ドイツの工業地帯)に進駐することになるが、イギリスもフランスもこれに干渉できなかった。

 同年(1935年)、イタリアは資源獲得を狙ってエチオピア戦争を始めた。満州事変(1931年)などにつづいて国際連盟の試金石のような出来事であったが、連盟が議決した対伊経済制裁は効果を顕さず、翌1936年、エチオピアはイタリアに併合されてしまった。この問題に関しては​当初から多くの国(特にヨーロッパ中・東部や北欧の力の弱い国を含めて)が強い関心を持ち、共同制裁の効果に期待していただけに、この制裁の失敗は、国際連盟に対する強い失望と不信感を各国に感じさせた。

(まったくの余談だが、かつて「かぶと虫」の愛称で知られた丸っこいデザインのドイツ車「フォルクスワーゲン」は、ヒトラーがドイツ国民向けの政策として1934年に「国民車計画」を提唱し、自動車工学者のポルシェに設計させた車である。1935年に試作品が完成し、製造会社も設立されたが、第二次大戦に向けて会社は全面的に軍需生産会社へと移行してしまい、国民のための「フォルクスワーゲン」の生産が再開されたのは戦後のことである。「フォルクスワーゲン」は「国民の車」という意味だが、「国民の」という部分は意味深長である。)

​【日】1935年は昭和10年。天皇機関説問題化。第1回芥川賞・直木賞。

ワグナー法

1935 年:アメリカで、ワグナー法の制定。

☆ 団結権  ひとつ 組み込め  ワグナー法

 

アメリカで1935年にワグナー法(全国労働関係法)が制定された。労働者の団結権・団体交渉権を保証した労働史上画期的な労働法であるが、これも、ニューディール立法のひとつに数えられる。ニューディール全体に言えることであるが、社会主義的な考え方の影響が少なくないように見受けられる。

(「ワグナー」は、この法案を提案した上院議員の名前である。)

(余談だが、喜劇王チャールズ・チャップリンの代表作のひとつとされる「モダン・タイムス」が公開されたのは、この翌年1936年である。彼は量産工場の生産ラインで労働者として働き、解雇されてしまう主人公をコミカルに演じた。チャップリンは二次大戦後戦後の時代、米国の右派政治勢力から「共産主義者」のレッテルを貼られて、アメリカに戻れなくなった。〔以後、スイスに定住。〕)

【日】1935年は昭和10年。天皇機関説問題化。第1回芥川賞・直木賞。

スペイン内乱

1936 年:スペイン内乱。

☆ スペインで  戦(いくさ) 無理して  やりたいフランコ

 

スペインでは1931年に王政が倒れ、1936年には人民戦線内閣が成立した。これに反対する右派の軍人フランコは、同年、反乱を起こした(スペイン内乱)。注目すべきは、ドイツとイタリアが共同で(ベルリン=ローマ枢軸と称して)反乱軍を積極的に支援したことである。人民戦線側も戦ったが、海外の反ファシスト勢力からの援助は少なく、またこの国に多大な資本を持つイギリスやフランスは、人民戦線の勝利による共産化を恐れて、不干渉政策をとった。マドリードは陥落し、1939年にフランコ独裁政権が成立する。この英仏の不干渉政策は、東欧の親ナチ分子の勢力を強めることにもなった。

(スペインの作曲家ロドリーゴが、有名なギター協奏曲「アランフエス協奏曲」を作曲したのが、スペイン内乱が終わった年にあたる1939年である。「アランフエス」はマドリード州南部の古都の名で、ここがスペイン内乱で被害を受けたことから、ロドリーゴがスペインとアランフエスの平和を願って作曲したということらしい。)

【日】1936年は昭和11年。二・二六事件。

日中戦争

1937 年:日中戦争が始まる。第2次国共合作。

☆ [国共]合作で  戦(いくさ)長びく  日中戦[争]

 

満州事変以後も、中国の華北部へのさらなる進出を狙っていた日本は、19377月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった演習中の日本軍と中国軍の衝突をきっかけとして、中国との全面交戦状態に入った(日中戦争)。中国側ではこれに対抗するために、国民党と共産党の間で第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成されて、徹底的な抗戦が続いた。(参謀本部の石原莞爾は満州事変のときとは違って、この成算のない開戦には反対の考えであったが、中国中央軍の北上の報告を受けた閣議は、すんなり出兵を決めてしまい、日本政府〔首相:近衛文麿〕の発表は蒋介石をして徹底的な抗日を決意させてしまった。国民党と共産党の"抗日統一"の気運は前年末ごろから出てきていたのだが、日中戦争の勃発を受けて1937年9月に合作が成立した。)日本の軍部は、この戦争を短期で終わらせられると踏んでいたが、その目論見どおりにはならなかったのである。日本は2年後、第二次世界大戦に突入し、日本が敗戦を迎えるまで日中戦争も泥沼状態で継続した。

ミュンヘン会談

1938 年:ミュンヘン会談。

☆ ミュンヘンで  戦(いくさ)やめたい  チェンバレ

 

1938年3月、ドイツはオーストリアを併合し、9月にはチェコスロバキア内のズデーテン地方(ドイツと接するチェコ国内西側国境沿いの地域一帯)を併合しようとした。イギリス首相チェンバレンは融和策で臨もうと、同年9月末に、英・仏・独・伊によるミュンヘン会談をひらき、ヒトラーの望む通りにズデーテンのドイツ編入を認めた。チェンバレンとしては、これでドイツが大人しくなってくれることを期待したのであろうが、彼は完全に見通しを誤ったのである。また、この東欧地域側の問題に関して、ソ連を入れずに談合を行ったことになったわけで、ソ連はイギリスやフランスに対して強い不信を抱くことになる。

【日】昭和13年。近衛声明「今後(蒋介石の)国民政府を対手にせず」。国家総動員法。

第二次世界大戦

1939 年:第二次世界大戦の勃発。

☆ 6年間  戦(いくさ) 苦しい  二次大戦

 

ミュンヘン会談(1938年9月)の翌年3月、ドイツはチェコを占領・解体して、ボヘミア・モラヴィアを併合、次にはポーランドにも食指を伸ばし始めた。英仏は融和策を捨ててソ連との軍事同盟を模索し、3国の提携交渉が4ヶ月ほど行われたが、英仏側に社会主義国と積極的に手を組むことに躊躇があったためか進展がないうちに、突然、スターリンはヒトラーと独ソ不可侵条約を結んでしまった(8月23日発表)1939年9月1日、ドイツはポーランドへの進撃を始め、9月3日、英仏がドイツに対して宣戦して、第二次世界大戦が始まった。1940年6月にはイタリアがドイツ側で参戦、1941年6月にはドイツが不可侵条約を破ってソ連に宣戦した。(独ソ戦争が始まると、英仏はソ連援助の意志を明確に示した。開戦前の状況を考えると皮肉な展開であるが。)また、中国・東南アジアへ進出を図る日本と、これを阻止しようとするアメリカとの対立関係もついに戦争に発展、1941年12月には太平洋戦争も始まる。日本は1942年6月のミッドウェー海戦あたり、ドイツは1942年12月のスターリングラード戦あたりから、戦局が悪くなってゆく。イタリアでは1943年7月に米軍による本土南部上陸を受けてファシスト政権が倒れ、新政権は9月に無条件降伏を行い、10月には翻ってドイツに対して宣戦する。1944年6月には米英軍によるノルマンディー上陸作戦が始まった。ヒトラーはベルリン包囲戦中の1945年4月末に自殺して、ドイツは5月に無条件降伏をした。日本は同年8月に米軍により原爆を2発落とされて、無条件降伏を決めることになる。

​(ちなみに、ドイツの化学者オットー=ハーンらによるウラン核分裂の発見は、開戦前年の1938年で、実に微妙な時期にこれが発見されたものだと思う。ヒトラーはこれに関心を示さなかったが、アメリカでは1939年に「ウラン諮問委員会」がつくられ、1942年に原爆製造計画〔マンハッタン計画〕が戦時最高優先計画として承認された。アメリカは1945年に完成した原爆を広島と長崎に投下、日本の敗戦を決定づけた。)

【日】1939年は昭和14年。ノモンハン事件(日満・ソ蒙国境の武力衝突発生。日本の第23師団はほとんど壊滅した)。

ヴィシー政府

1940 年:ヴィシー政府の成立。

☆ ペタン内閣  ヴィシーに行くよ  穏便に

 

第二次大戦において、ドイツはまずポーランドを占領してこれをソ連と分割した。翌19404-5月には、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーに侵入し、6月にはパリを占領した。(このパリ侵攻作戦の際に、それまで様子見をしていたイタリアが参戦した。)6月16日に首相になったばかりのペタン率いるフランス政府が即座にドイツに降伏すると(6月22日に休戦協定成立)、ドイツはフランス北側を直接統治し、フランス政府はパリから中南部のヴィシーに移してフランス南側だけを統治させるという形を取った。ペタンは、必ずしもドイツに従うことが最終的に有利とも考えていなかったようであるが(穏便にやり過ごすために?)ナチス=ドイツへの協力を拒まずに行い続けた。連合軍によるパリ解放(1944年8月)とともにヴィシー政府は崩壊し、ペタンは戦後、戦犯として無期禁固刑となった。

【日】1940年は昭和15年。北部仏印進駐。日独伊三国同盟。大政翼賛会発足。

日独伊三国同盟

1940 年:日独伊三国同盟の成立。

☆ お互いに  行くよ お助け  日独伊

 

国際的な共産主義の動き(スペイン内乱につながった人民戦線内閣など)に対する防衛措置の協議を目的として、1936年に日独防共協定が結ばれたが、翌1937年にはこれにイタリアも参加して三国防共協定が成立した。ヨーロッパで第二次世界大戦の戦端が開かれた後、この協定が強化され、1940年9月に日独伊三国同盟が成立した。これは日本が1937年から始めた日中戦争が泥沼化し、フランス領インドシナへ南進した時期にあたる。(三国同盟の締結には、日本〔第2次近衛内閣〕の外相・松岡洋右が積極的に動いたようである。さらに翌年〔1941年〕、松岡はモスクワへ行き、4月に日ソ中立条約を締結する。松岡の意図としては、アメリカを日本と敵対させないために、力の均衡関係として日+独伊+ソが必要と考えたようだが、結果的にアメリカの立ち位置を更に敵側に追いやったようである。)

 日本は、日本の南進を阻止したいアメリカとの対立を深め、1941年8月にはアメリカによる石油禁輸措置、11月26には国務長官ハルによる、強硬に「一切の日本軍の撤兵」を要求するいわゆるハル・ノートの提示があって、日本は同盟国側としての対米開戦(12月8日)が避けられない状況に追い込まれる。

【日】1940年は昭和15年。北部仏印進駐。大政翼賛会発足。

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