納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(1701~1800年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1701 年:スペイン継承戦争が始まる。
☆ スペインに 一難を言い 継承戦[争]
1700年にスペイン王カルロス2世が死去すると、フランスのルイ14世が推していた、ルイ14世の孫にあたるフェリペ5世がスペイン王として即位した。しかしこのことに対して、ブルボン家の勢力拡大を懸念するイギリス・オーストリア・オランダが難色を示し、同盟を組んで1701年にフランス・スペインに対して宣戦布告をした。スペイン継承戦争の始まりである。戦場はヨーロッパだけでなく、北米植民地にも拡がった(アン女王戦争)。1713年のユトレヒト条約で終結する。(12年も戦争が続いたわけだ。)
【日】第5代将軍・徳川綱吉(任1680-1709)の治世。
● 1701 年:プロイセン王国が承認される。
☆ 王国として いい名を披露 プロイセン
国としてのプロイセンは、ブランデンブルク選帝侯領が、東方バルト海沿岸のドイツ騎士団領(1525年より"公領プロイセン")を17世紀前半に併合して成立した領地であったが(三十年戦争の頃。ドイツ地域においてオーストリアについで大きな国になった)、スペイン継承戦争の際に皇帝(オーストリア)を助けたことによって、1701年にプロイセン王国の名称を与えられた。プロイセン王国は官僚による国内の中央集権化を進めた。第2代のフリードリッヒ=ヴィルヘルム1世(位1713-40)の時代に国内産業と軍備(暴力的な徴兵と暴力的な厳しい軍事訓練が行われたようである)が大いに強化され、第3代のフリードリッヒ2世(位1740-86)の時代にはヨーロッパにおける列強のひとつになった。プロイセン王国の首都は(1709年以降)ベルリンに置かれていた。19世紀後半になるとプロイセン王国の主導で、ドイツが統一されることになる。
(この前年の1700年、ライプニッツはブランデンブルク選帝侯フリードリッヒに働きかけて、ベルリン科学アカデミーを創設させ、初代会長に就任している。この選帝侯がプロイセン王国初代のフリードリッヒ1世となったわけである。)
(「いい」→1と読み取る。)
【日】第5代将軍・徳川綱吉(任1680-1709)の治世。
● 1702 年:アン女王戦争が始まる。
☆ 一難を 踏み越えハドソン アン女王
スペイン継承戦争に付随して北米で争われた英・仏の植民地戦争は、アン女王戦争と呼ばれる(1702-1713年)。アン女王は、名誉革命で追われたジェームズ2世の娘(即位したメアリ2世の妹)であり、名誉革命の際にイギリス王に招かれたウィリアム3世が1702年に没した際(落馬して鎖骨を折って死去したのだそうだ)に、イギリス王位とスペイン継承戦争への対応を引き継いだのである。イギリスの宣戦はアン女王の即位後に行われた。イギリス軍は勝利を収め、ハドソンやニューファンドランドなどを獲得することになる。(ハドソンは直接の戦場にはならなかったが要地である。)フランスはルイ14世の下で財政が窮乏していたし、ユグノー追放(ナント勅令廃止。1685年)によって産業力も衰えていたので、1694年にイングランド銀行が設立されて政府への財政支援を可能にしてあったイギリスは、相対的に有利であった。
(当時、ホイッグ派が反仏的で戦争に積極的、トーリー党は必ずしも戦争積極推進派ではなかった。アン自身はトーリー党びいきだったが、大臣は両党から選んで、あまり偏りのない混合内閣を作っていた。)
【日】第5代・徳川綱吉(任1680-1709)の治世。1702年は元禄15年、赤穂浪士討ち入り事件の年である。
● 1707 年:グレートブリテン王国の成立。(イングランドのスコットランド併合)
☆ スコットランドも いいな おんなじ ブリテン国
17世紀初め以降、イングランド王国(イングランドおよびウェールズ)とスコットランド王国は、ステュアート家による同君連合の関係にあったが、1707年に連合法によって合同して、大ブリテン王国となった。ステュアート家は元々スコットランド王家であったわけだから、むしろ、どちらかというと、スコットランドから「イングランドも、いいな」と念をおしている感じだろうか。
(「いい」→1と読み取る。)
【日】第5代将軍・徳川綱吉(任1680-1709)の治世。
● 1713 年:ユトレヒト条約の締結。
☆ 各国の 非難 諫(いさ)めて ユトレヒト
ブルボン家によるスペイン王家の継承を認めるかどうかで、1701年にヨーロッパで始まったスペイン継承戦争は、1713年のユトレヒト条約の締結で終わった。これはルイ14世死去の2年前のことである。ブルボン家から出たフェリペ5世のスペイン王位継承は、フランスとスペインが合同しないことを条件に許された。しかしながらその代償として、イギリスはフランスからニューファンドランドやハドソン湾を獲得するなど、植民地戦争として見るとイギリスの勝利であった。スペイン王室は現在もブルボン家である。
イギリスはスペインからもジブラルタル、ミノルカを得たほか、スペイン植民地への貿易権も獲得した。
(ユトレヒトは、アムステルダムの南南東30キロほどのところの都市名である。オランダはフランス・スペインに反対する立場でイギリス・オーストリアとともに参戦した。)
【日】儒学者・新井白石による「正徳の治」(1709-15年)の時代。
● 1714 年:ハノーヴァー朝の始まり。ジョージ1世の即位。
☆ ステュアート 後継いないし ハノーヴァー頼み
イギリスでは、アン女王の死をもって、ステュアート朝は途絶えた。遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯を迎えることになり、1714年にジョージ1世として即位、ハノーヴァー朝が始まった。ジョージ1世は英語を解さず、自分の意志で英国の政治に口を出すこともなかった。(閣議の結論だけ、フランス語で報告を受けたそうである。)大臣の中の「首相」が閣議を主催することになったため、この後、王は"君臨すれども統治せず"が伝統となり、イギリス政治において内閣の機能が発達することになる。ハノーヴァー朝は(第一次大戦中の1917年にウィンザー朝と改称しているが)イギリスで現在まで続いている王統である。
(ドイツの哲学者ライプニッツが長年仕えたハノーヴァー選帝侯は、ジョージの祖父のエルンスト=アウグストである。エルンストや、その妃ゾフィー、その娘ゾフィー・シャルロッテはライプニッツを高く評価し厚遇したが、ジョージは彼をあまり良く思っていなかったようで、ジョージは英国王室に迎えられてイギリスに移ったときに、ライプニッツをロンドンには招かなかった。エルンストとゾフィー亡き後に、ハノーヴァーに取り残された晩年のライプニッツは、もはや支援者に恵まれることはなく不遇だったようである。1716年、70歳で死去。)
(作曲家のヘンデルはドイツ出身で、1710年に25歳でハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長になったが、ロンドンと行き来があったようで、ロンドンでオペラを上演したり、1713年頃には『アン女王の誕生日のための頌歌』の作曲もしている。アンからは終身年金を受けることになった。アンの没後はジョージ1世と良好な関係を持ち、後にイギリスに帰化した。『水上の音楽』は、ジョージの船遊びの際の曲として1715-1717年頃に作曲・演奏されたものらしい。)
【日】儒学者・新井白石による「正徳の治」(1709-15年)の時代。翌1715年に、近松門左衛門『国姓爺合戦』。
● 1721 年:ウォルポール、首相に就任。
☆ 一難に ひと肌 脱いだ ウォルポール
イギリスで、1720年に南海泡沫事件が起こった。これはスペイン継承戦争時以降に発行しすぎた国債を政府の政策として引き受けていた南海会社("南海"は南米東西海岸。政策として植民地と貿易の特権を与えられた)の株が急激に高騰した後、大暴落したという事件である。南海会社が発端となった投機熱がきっかけとなって、色々な業種でこれに追随して投機を煽る泡沫会社が続々と現れたが、政府がこれらの泡沫会社を違法とする措置をとると、南海会社自体の株まで大暴落を起こしたのである。この混乱を収拾するために、ホィッグ党で経済・財政に明るいとされるウォルポールが1721年に首相に任ぜられた。貴族ではないウォルポールは下院重視の政治運営を行い、責任内閣制を定着させ、自由経済(とはいえ国内産業の保護も行う国民的重商主義)を重視した。ウォルポールの政権は1742年まで、21年間続くことになる。その間、平和外交の維持に腐心していたが、任期の最後近くに意に反してオーストリア継承戦争に巻き込まれることになる。(オーストリアを援助。イギリスとしてはオランダに敵側フランスからの触手が及ぶのは制海権上好ましくなかったし、プロイセンの勢いはハノーヴァーへの脅威であった。)
(デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は1719年、スウィフトの『ガリバー旅行記』は1726年に出版されている。この頃のイギリスでは、海外植民地の探索・経営の時代背景の下で、架空の"海外世界"への旅行譚・冒険譚のような文学が生み出されて読まれた。)
【日】徳川第8代将軍・吉宗の将軍在任(享保の改革)の期間が1716-45年で、だいたいウォルポール時代と重なっている。もちろん両者の政治的な色合いは全く違うけれども。この年1721年には、目安箱が設置されている。
● 1727 年:キャフタ条約の締結。
☆ 雍正帝 鄙(ひな)に 仲良く キャフタ条約
清の第5代、雍正帝(位1722-35)は、1727年にロシアとの国境を定めるキャフタ条約を締結する。1689年のネルチンスク条約は東北部北方での国境条約であったが、キャフタ条約ではモンゴル北辺領域に国境が定められた。(非常に大雑把な言い方をすると、今のモンゴル国の北の国境あたり。)このとき清は(辺鄙な)外モンゴルにも進出を進めていたので、再度の条約によって辺境境界の再確認が必要となったわけである。特に仲良く、というわけでもないかもしれないけれども通商などについても定められ、宣教師の北京留学なども許された。雍正帝には、チベット方面への外征や、軍機処(はじめは軍事機密保持機関、後には政治中枢になる)の設置などの功績もある。
ロシア側の皇帝は、ピョートル1世が2年前(1725年)に死去しており、ピョートル2世であった。
【日】第8代将軍・徳川吉宗(任1716-45)による「享保の改革」の時代。
● 1735 年:乾隆帝の即位。
☆ 大事業 人並み超える 乾隆帝
清の第6代、乾隆帝は1735年に即位するが、康熙・雍正・乾隆の3代が清の最盛期である。乾隆帝は新疆を征して領土を拡大(「新疆」は新しい領土の意味。乾隆帝時代にこう呼ばれるようになったらしい)、チベットの支配権を確立し、李氏朝鮮・ビルマ・タイなどを朝貢国に加えた。また藩部(モンゴル、新疆、青海、チベットのような、ある程度の自治を認めた間接統治区域のことである)を統括するための理藩院の整備も行った。(清朝においては、満州族・漢民族・モンゴル・ウイグル・チベットが、建前としては比較的、それぞれ独立という体制だったわけである。もちろん満州族が他に優越するわけだが。)彼が文化事業として手掛けた「四庫全書」は古今の図書を最大限に集め、約8万巻ほどもある図書を経(儒書)・史(歴史・地理)・子(諸子百家・科学技術)・集(文学)の4部に分類して編集したという大事業であった。(乾隆帝はわりと古典文学好きだったようで、"集"が入っているのはそういうことなのだろう。)ただしその60年におよぶ長い治世の末期から徐々に帝の政治に対する関心は薄れて清の世の中は乱れ始め、乾隆帝退位の翌年(1796 年)から白蓮教徒の乱が始まっている。
【日】乾隆帝(位1735-95):即位時は、第8代将軍・徳川吉宗(任1716-45)による「享保の改革」の時代。退位時は、第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の「大御所時代」の初めのころ。
● 1740 年:プロイセンでフリードリッヒ2世が即位。
☆ 隣国を いなし 収める フリードリッヒ
1740年に、プロイセン王国第2代の王として即位したフリードリッヒ2世(~1786)は、代表的な啓蒙専制君主のひとりであると同時に、戦争の天才でもあった。オーストリア継承戦争、七年戦争に加わって(加わって、というより自ら仕掛けたというほうが正しいかもしれないが)隣国オーストリアからシレジア(シュレジエン)を獲得した。(当時、シレジアは比較的工業の発達した地域で、プロイセンとしては新領土として"旨味"があったのである。)またオーストリア・ロシアと組んでポーランドの分割によっても領土を拡げた。「君主は国家の第一の下僕である」として内政改革にも注力、(「下僕」と言っても政治手法は極めて専制的なものではあったが)プロイセンを強国にした。フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと交わったり(ただし、すぐに不和になっているが)、ロココ建築で知られるポツダムのサン・スーシー宮殿を建てたりもしている。
(フリードリッヒ2世は、1740年にフランスの数学者モーペルテュイを、また1741年には当時ペテルブルクにいたスイス出身の数学者オイラーをベルリンに招いた。オイラーはベルリン科学アカデミーの数学部長として25年間貢献し、1766年に再びエカテリーナ2世治下のペテルブルクに戻ることになる。当時の啓蒙専制君主の存在は、一流の学者への研究環境の提供という面でも、重要な意味を持っていたわけである。)
(J..S.バッハの次男にあたる作曲家カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、1740年にフリードリッヒ2世のベルリン宮廷楽団員に任じられている。1768年にハンブルクに転出するまでベルリンでフリードリッヒの寵愛を受けた。彼はバロック音楽から古典派への移行期の重要な作曲家で、ハイドンやベートーベンにも影響を与えたとされる。)
【日】フリードリッヒ2世(位1740-86):即位時は第8代将軍・徳川吉宗(任1716-45)による「享保の改革」の時代。2年後の1742年、公事方御定書が完成。没年は第10代・徳川家治が没して、田沼意次が失脚した年にあたる。
● 1740 年:マリア=テレジアの即位。オーストリア継承戦争が始まる。
☆ テレジアの 即位に 非難 容赦なし
プロイセンでのフリードリッヒ2世の即位と同年、こちらも啓蒙専制君主のひとりとされるマリア=テレジアが即位した。テレジアの父カール6世は男子に恵まれなかったため、生前、女子であるマリアの継承を国事詔書で欧州諸国に認めさせていた。しかし1740年に実際にカール6世の後を継いでマリアが即位すると、フランスのルイ15世は、オーストリア・ハプスブルクを弱体化させる好機と見てオーストリア継承権を主張、バイエルン侯もマリアの即位に反対した。イギリスとオランダはオーストリアの側(マリア=テレジア側)につき、プロイセン・スペインなどはフランスとともに敵対側にまわって、列国の領土拡張戦争にもなった。1748年のアーヘンの和約で、国事詔書は認められたが、シレジア地域(シュレジエン:現在はポーランドの南西部に属する)の領有権はオーストリアからプロイセンに移った。(プロイセンの参戦の仕方は全く筋の通らない奇妙なものであった。勝手にシレジアに侵入を始め、「シレジアをよこせばマリア=テレジアの王位継承を認めてやる」と言ったのである。)
(ヴェネチアの作曲家ヴィヴァルディは、1740年にオペラ興行のためにウィーンに赴いたが、カール6世が亡くなったためにオーストリア国内が服喪期間に入って興行は中止。オーストリア継承戦争も始まって帰国できないでいるうちに体調を崩し、翌1741年にウィーンで死去した。享年63歳。)
(ゴロ合わせが少々苦しいが、勘弁してもらいたい。「ようしゃ」→「ヨオしゃ」→「40しゃ」)
【日】マリア=テレジア(位1740-80):即位時は第8代将軍・徳川吉宗(任1716-45)による「享保の改革」の時代。2年後の1742年、公事方御定書が完成。マリア=テレジアは1780年に死去するまでオーストリア帝位に留まった(最後の頃は息子のヨーゼフ2世と"共同皇帝"という形であったが)。この時は田沼意次の時代(老中職1772-86年)。将軍は第10代・徳川家治(任1760-86)
● 1744 年:ワッハーブ王国の成立。
☆ 回教堕落 非難しましょう ワッハーブ
18世紀、アラビア半島において、イスラム教の新宗派であるワッハーブ派が起こった。神秘主義をイスラム教の堕落と見なして非難し、イラン人やトルコ人の影響を排した復古主義を掲げる宗派である。これはマホメットの教えの原点に立ち返れという主張であると同時に、アラブ人の民族自覚にも影響を与えるものであった。ワッハーブ派は、豪族サウド家と結んで1744年にワッハーブ王国を建てた。王国は19世紀にエジプトのメフメト=アリーに滅ぼされたが、20世紀前半にこれが再興されて、現在のサウジアラビアになっている。サウジアラビアはワッハーブ派国で、イスラム諸国の中でも、コーランにある戒律を特に厳格に守ろうとする禁欲的気風が極めて強い国である。
【日】第8代将軍・徳川吉宗(任1716-45)による「享保の改革」の時代。
● 1756 年:七年戦争が始まる。
☆ 七年後 非難 被る マリア=テレジア
マリア=テレジアは、オーストリア継承戦争でプロイセンに奪われたシレジア地方の奪回を狙って、フランス・ロシアなどと結んで1756年にプロイセンに対して七年戦争を始めた。つまりプロイセンはこの時点で大陸においては敵の3国に包囲される孤立無援状態だったわけだから、開戦までのオーストリアの外交戦術はかなりうまく行っていたと言えるかもしれない。特に、ブルボン家のフランス(ルイ15世)が、ハプスブルク家のオーストリアの側についたのは異例のことで、「外交革命」と言われたりもする。イギリスはプロイセンの味方についたが、フランスとの植民地戦争のほうに忙しく、援助金は出したが軍隊を出すことはなかった。一時は苦境に陥ったフリードリッヒ2世であったが、1761年末にロシア女帝エリザヴェータ(ピョートル大帝の娘)が急死し、ドイツ生まれのフリードリッヒ3世(エリザヴェータの姉の息子。気まぐれな性格で、在位期間はわずか7ヶ月ほどであったが)が即位するとロシアの態度は一転してプロイセンの味方となり、プロイセンは戦争を引き分けに持ち込んでシレジアを守ることができた。マリア=テレジアは、当初の目的であるシレジア奪回に失敗したわけだから、非難を被ったかもしれない。(それよりもまず、彼女自身が悔しい思いをしただろうが。)また、この戦争は同時に、英仏による植民地争奪戦という意味合いも持つことになり、七年戦争の際の北米における英仏の戦争はフレンチ=インディアン戦争と呼ばれる。(これはイギリス側からみて、フランスとこれと結んだ現地勢力が敵だったという事情による命名。)北米でもインドでもイギリスが勝利し、イギリスによる世界の植民地支配の覇権が決定づけられた。
【日】第9代将軍・徳川家重(任1745-60)。前年の1755年、安藤昌益『自然真営道』。
● 1757 年:プラッシーの戦い。
☆ プラッシー クライヴ勝つも 一難 御難
七年戦争の際、インドにおいても英仏の植民地戦争が行われた。イギリス東インド会社の傭兵隊を率いたクライヴが、プラッシーにおいて1757年にフランスとベンガル地方政権の連合軍を破り、ベンガルにおけるイギリスの覇権が確定した。(プラッシーはベンガル地方の村。因みに当時のムガル帝国はすでに統一的な支配力を失っており、各地に地方勢力が分立している状態で、その重要な一地域がガンジス下流のベンガル地区だった。)これによってイギリスのインド支配の基礎が築かれ、クライヴは一旦はイギリス本国においても功績を認められたかに見えた。しかし、インドでの強引な行為(現地人に対する簒奪や残虐行為もあったかもしれない)と巨額の蓄財(イギリス本国の利害関係者にしてみると、出先のイギリス人による横領に見えるわけである。横領はクライヴひとりでなく他の東インド会社社員もやっただろうが)に対して次第に非難が起こり、彼はイギリス議会で弾劾された。結果的に無罪にはなったものの(1773年)、クライヴは自殺している。東インド会社はこの後、イギリス政府および議会の厳しい監督下に置かれるようになった(1774年)。
なお、この2年前(つまり七年戦争開戦の前年)の1755年、イギリス本国でサミュエル=ジョンソンにより『英語辞典』が出版されている。彼は「典型的なイギリス人」「文壇の大御所」と呼ばれた人物で、彼の『英語辞典』は20世紀にオクスフォード英語辞典が編まれるまで、最も権威のある英語辞書と見なされた。ジョンソンの辞書の出版は、英仏の植民地戦争の背景として、英国の側の国力(民間力)の充実を象徴する出来事のひとつと言えるかもしれない。
【日】第9代将軍・徳川家重(任1745-60)。
● 1762 年:エカテリーナ2世の即位。
☆ エカテリーナ 非難 ろくに 気にしない?
ロシアで1762年に即位したエカテリーナ2世は女傑である。(彼女は元々、プロイセンのフリードリッヒ2世の家臣の娘で、ロシア女帝エリザヴェータが皇太子妃としてプロイセン王女を望んだ際、フリードリッヒが代わりに推薦したのである。1745年に皇太子〔後のピョートル3世〕と結婚したが、口うるさい義母エリザヴェータと暗愚な亭主の振る舞いに耐え続けながら読書に専念する生活を送ったようである。)亭主であったピョートル3世は、いろいろ問題のある人物で国民からの支持もなかったとはいえ、エカテリーナはクーデタを起こしてピョートルを排除し自ら帝位に就いたという人であるから、他人からの非難などいちいち気にしなかったのではなかろうか。(しかしロシアの"敵国"であるプロイセン出身の彼女は、ロシア国民の世評には常に細心の注意を払っていたという一面もあるようだが。)ポーランド分割を行い、オスマントルコからクリミア半島を獲得し、極東方面にも進出した(日本にも外交使節ラクスマンを派遣)。ヴォルテールなどとも文通して、社会制度の改革を試みた啓蒙専制君主でもあるが、プガチョフの農民反乱(1773年~)が起こってからは反動的な傾向も出てくる。貴族は優遇され、農民の立場は限りなく奴隷に近づいた。アメリカ独立戦争の際には諸国に中立を呼びかけたが、フランス革命の際には脅威を感じ、自由主義を弾圧した。
【日】エカテリーナ2世(位1762-96):即位時は第10代将軍・徳川家治(任1760-86)の時代。死去する1796年まで帝位に留まったが、このときは第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1763 年:七年戦争終結。(パリ条約)
☆ 7年で 墺仏の人 南無三(ナムサン)だ
オーストリア・フランス・ロシアとプロイセン・イギリスが主に戦った七年戦争は、1763年のパリ条約によって終結する。(「パリ条約」というのは通算7回ほどあるが、最初のものである。)オーストリアのマリア=テレジアはシレジアの奪還に失敗し、フランスはインドでも北米でも植民地支配の主導権をイギリスに奪われた。(フランスはこの後、インドシナ方面の計略を進めることになる。)プロイセンはヨーロッパにおいて大国への仲間入りを果たしたが、その後フリードリッヒ2世は1786年に没するまで財政や国内経済の再建に力を尽した。(フリードリッヒ2世は、後世、過剰にその人物像を美化したエピソードなども語られるようになり、"大王"と呼ばれる。しかし彼自身はやはり専制君主であって、社会の階層構造の枠組みを重視し、ユンカー貴族の特権を維持する一方で、苛酷な税制によって農民を苦しめた。18世紀のドイツ地域に市民階層は育たず、啓蒙思想も根をおろさなかった。)
(作曲家モーツアルトは、マリア=テレジア〔位1740-80〕と、その子ヨーゼフ2世〔位1765-90。初め15年間は母親と共同統治〕の時代の人である。七年戦争終結前年にあたる1762年、6歳のときにチェンバロ演奏の"神童"としてマリア=テレジアに対して御前演奏をする機会があり、その際に7歳であったマリア=テレジアの娘マリア=アントニア〔後のフランス王妃マリー=アントワネットである〕にプロポーズをしたという逸話がある。モーツアルトは1991年に35歳で病没、マリー=アントワネットは1992年にフランス革命中のジャコバン派による恐怖政治の下で37歳で処刑される。偶然だけれども両者の生きた時期はほとんど同時期である。)
【日】第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1764 年:ジェニー紡績機の発明。
☆ 紡績に 一難 無用 ジェニーなら
産業革命は、まず18世紀半ばにイギリスで、木綿工業の分野から始まった。ジョン=ケイの飛び杼の発明(1733年)によって、綿織物を織る作業が効率化されたことに続き、1764年には、ハーグリーヴズがジェニー紡績機(多軸紡績機)を発明して、綿織物を作るための綿糸も大量に生産できるようになった。「ジェニー」はハーグリーヴズの妻、もしくは娘の名だとする俗説(とその発明のエピソード)が言われているが、この名の本当の由来はよく分からない。木綿工業の分野ではこれに続いてアークライトの水力紡績機(1769年)や、クロンプトンのミュール紡績機(1779年。これはハーグリーヴズとアークライトの両方の原理を応用したもの。ミュール〔mule〕というのは騾馬〔らば〕、すなわち馬と驢馬〔ろば〕をかけあわせた雑種のことで、つまりこれは多軸紡績機と水力紡績機の"あいの子"だというわけである)も発明された。カートライトは力織機を発明し、織布行程の機械化を実現した(1785年、人力手回し式。1787年に蒸気機関を導入)。アメリカではホイットニーが綿繰り機(綿の実を、綿と種子に選り分ける機械)を発明した(1793年)。
(17世紀頃まで、イギリスで衣料に用いられていた素材は、主として羊毛を用いた毛織物であったけれども〔英仏百年戦争の発端のひとつが、羊毛の毛織物工業が発達していたフランドルの支配権争いだったことを思い出されたい〕17世紀末以降、東インド会社が輸入する綿布が英国内で普及するようになっていた。これはイギリスにおいてこのころ既に発達していた手工業による毛織物産業に打撃を与えるものだったので18世紀には毛織物工業保護のためにインド産の綿布の輸入する法律が施行されていた。しかしながら綿製品への需要はあったので、当時、綿布ではなく原綿〔綿花〕をインドから輸入してイギリス国内で綿糸・綿布を作ろうという気運も生じていたらしい。そして、当時は新しい工業であった木綿工業は、毛織物工業と異なり、既存のギルドなどからの圧力を受けることがないという意味では、自由な参入が可能であった。産業革命による技術革新が最初に木綿工業の分野で始まったことには、このような背景がある。綿花の生産・供給は、奴隷貿易とのからみで、新大陸における「プランテーション」の農産物のひとつとしても重要になってゆくし、後のアメリカ合衆国における南北戦争〔1861-65〕のときの南部11州の綿花大農場からの綿の輸出先も、主にイギリスだったわけである。)
【日】第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1765 年:印紙条令の制定。
☆ 否! 無効 印紙条令 反対だ
イギリスは、七年戦争(1756-63)を有利な形で終わらせることに成功したが、かなりの戦費を使ったため国庫は空に近い状態であった。首相グレンヴィルは北米の植民地から金を搾り取る方法をいくつか考えたが、そのひとつが1765年に制定された印紙条令である。これは北米の13植民地に対して、新聞・暦・法律文書・商業手形・卒業証書などに有料印紙の貼付を義務づけた法令である。(フレンチ=インディアン戦争が終わった後も、イギリス本国兵は警備のために北米に駐屯を続けたが、この駐屯費の1/3を植民地人に負担させるべきだ、という理由付けがなされた。)これは、いかなる職業の人も課税されるという性質の法令であったため、いたるところで反対運動が起こった。北米植民地は連合して印紙条令会議をニューヨークにて開催、13植民地のうち9植民地の代表が参加し、本国に対して条令の廃止を要求した。「代表なくして課税なし」はこのときのスローガンで、植民地からの議員の選出は無かったわけである。本国からも撤廃に賛成する意見が出て、翌年撤廃された。しかしながら、イギリス本国の北米植民地を犠牲にしようとする重商主義的方針は、その後も基本的には変わらなかった。
【日】第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。2年後の1767年、田沼意次は10代将軍家治の厚い信任を受け、御側御用取次から側用人へと出世している。
● 1769 年:ワットによる蒸気機関の改良。
☆ 蒸気機関 ワットの一難 報われる
ワットは長期間、継続的に蒸気機関の改良と事業化に携わっており、その経緯として伝えられているいくつかの話を見ると、必ずしも互いに整合していないように見える部分もあるので、単純に「蒸気機関の改良は****年」決めるのは無理がある。しかしながら大まかに話を拾い集めると、1761年ごろに蒸気機関(ニューコメンの蒸気力ポンプ。これは半世紀ほど前から鉱山の廃水などに使われていたようである)の存在を知って関心を持ち、1765年ごろに改良型の実動模型をつくり、特許を取得したのが1769年ごろのことのようである。ここでは特許取得を、一応の"改良"達成と見なしておく。金策の他、精度のよい部品を製造できる職人との取引など、ワットにとって開発途上の難事は多かったようである。しかし、それまで工業用の動力としては人力と水力くらいしかなかったところに蒸気機関が利用され始めると、産業革命はさらに様相を変えながら進展することになった。
(全く別の話だが、イギリス人"キャプテン・クック"は1769-70年にニュージーランドとオーストラリア大陸東岸を調べ、これらがイギリス国王の領土であると宣言した。オーストラリアを「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名したのだそうだ。オーストラリアは1788年以降、シドニーを拠点としてイギリスの"流刑植民地"となるが、これは、それまでの流刑先だった北米植民地〔アメリカ〕が独立してしまって、代わりの流刑先が必要となったためであるらしい。オーストラリアへの流刑制度が廃止されるのは1840年である。)
【日】第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1772 年:第1回ポーランド分割。
☆ ポーランド 一難! 何しろ 分割だ
ポーランドでは1572年にヤゲロー朝が断絶してから、貴族間が争い、国力が衰えていた。1772年にプロイセン(フリードリッヒ2世)、オーストリア(マリア=テレジア、ヨーゼフ2世)、ロシア(エカテリーナ2世)の3国に領地を奪われ、国土の4分の1を失った。(マリア=テレジアは、かの憎いフリードリッヒ2世と足並みを揃えて他民族の土地を奪うことに反対したようだが、宰相と息子ヨーゼフ2世に説得されてしぶしぶ同意したらしい。)さらに第2回(1793年)、第3回(1795年)の分割によってポーランドは完全に消滅した。その後、ナポレオン戦争後に、ポーランドはロシアの支配下に入り、第一次世界大戦後の1918年に独立を認められて共和国となる。
【日】1772年、田沼意次が老中に就任(~1786年)。第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1773 年:茶条令制定。ボストン茶会事件。
☆ 茶条令 非難 波立つ ボストンで
イギリスで1773年に茶条令が制定された。これは東インド会社の大量の茶の在庫を、北米13植民地で独占販売する権利を会社に付与したものである。東インド会社の救済策であると同時に、北米植民地へのオランダからの茶の輸入(密輸)を妨げるという目的もあった。これに対して植民地側では、植民地の貿易を本国が独占・支配するための動きと見て反対運動が起こった。そのような中の急進分子が、同年、ボストンに停泊している東インド会社の茶船を襲撃し、積み荷の茶を海中に投棄するという事件を起こした。この事件は「ボストン茶会事件」と呼ばれた。イギリス本国はボストン港を閉鎖するなど、さらに高圧的な態度を示した。
【日】老中・田沼意次(1772-86年)の時代。第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1774 年:ロシアがクリミアを獲得。(クチュク=カイナルジ条約)
☆ クリミア奪取 エカテリーナに 非難なし?
ロシアのエカテリーナ2世は、1768年にクリミア人(当時クリミア=ハン国。オスマントルコが宗主権を持っていた)がロシア帝国南部を襲撃してきたことを機に、オスマントルコと戦争を行った。これに勝利したロシアは、1774年のクチュク=カイナルジ条約で、クリミア半島を含むアゾフ海沿岸域や、ドニエプル河口などを獲得した。領土を拡大し、後の南下政策にもつながる成果であって、大方、ロシアの宮廷内において非難はなかった(かもしれない)。ただし、このときの戦争中に(1773年~)農奴制の廃止を訴えるプガチョフの乱が発生しており、農民に対するエカテリーナの態度は硬化してゆくことになる。
(クリミア=ハン国は、キプチャク=ハン国の始祖バトゥの弟の子孫が1430年ごろにクリミアに建てた国で、1502年に本家キプチャク=ハン国を滅ぼした。しかしオスマントルコやロシアからの圧迫を受け続け、最後には上述のようにロシアに併合される。現在も、このクリミアの地を拠点として"モンゴル帝国の末裔"と称する「クリミア=タタール」と呼ばれる人々が存在しており〔これはモンゴル帝国の末裔といいながらもモンゴル族というより主としてトルコ族のようで、歴史的経緯はなかなか複雑みたいだ〕20世紀・21世紀の現代に至るまでソ連・ロシアによって理不尽に翻弄され続けているようである。ロシアにとってクリミアは南方につながるためにどうしても抑えておきたい要地なので、そういうことが起こってしまう必然性もあるわけだけれども。)
【日】老中・田沼意次(1772-86年)の時代。第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。この年、1774年には、杉田玄白・前野良沢らにより『解体新書』成る。
● 1776 年:アメリカ独立宣言。
☆ 柔軟な ロックに学んで 独立宣言
1774年に、北米植民地は大陸会議を開いて、イギリス本国政府の植民地に対する高圧的な施策に抗議をしたにもかかわらず、本国の態度は変わらなかった。1775年4月にはレキシントン(ボストンの北西20キロの地点)で武力衝突が始まり、植民地側はワシントン(後の初代大統領。任1789-97)を総司令官として戦うことになった。1776年1月にジャーナリストのトマス=ペインによる「常識(コモンセンス)」と題されたパンフレットが飛ぶように売れたことで"独立"の気運は高まり、植民地の代表は1776年7月4日にフィラデルフィアで独立宣言を発表した(これを記念して、アメリカでは7月4日が祝日「独立記念日」となっている)。これはトマス=ジェファソン(後の第3代大統領。任1801-09)らが起草したものだが、17世紀イギリスの思想家ジョン=ロックの(国民が権利を守るために政府を替えることもできるという、柔軟な)思想に影響を受けており、民主主義哲学に基づいて人間の自由・平等、独立の正統性をうたっている。ただしここでいう「人間」とはヨーロッパ(主にイギリス)から新大陸に侵入してきた白人たちだけであり、たとえば元来の原住民(いわゆるアメリカ・インディアン)は「人間」ではない駆逐・迫害の対象だった(一応はインディアン各種族と条約を結ぶという形はあったようだが、それは結局、迫害のための条約みたいなものになったし、白人側が条約すら守らずインディアン区域を侵犯するようなことも多々あった)。したがって、「アメリカの独立」(1783年に承認される。次項)は一面において世界の歴史における「人間」の自由・平等実現への重要な過程ではあったにしても、これを過度に美化して捉えるのもいかがなものか?というところもある。植民地人のイギリス本国に対する反感の主な原因は、教科書的な常識としては本国による課税などの政治的圧迫とされるわけだが、歴史家アーノルド・トインビーによると、本国に対する別の不満要因として、植民地の白人が原住民の土地を自由に略奪することを本国から抑制されたため、ということもあったらしい。(古い西部劇で、アメリカ・インディアンが無条件に悪役として扱われ、白人によるインディアン党閥が無条件に英雄的な行動として扱われているのを観ると、そういう感覚が何となく推測できる。)
(同じ1776年にイギリス本国の方では、重商主義を批判し、自由主義経済を説いたアダム=スミス『国富論』が出版されている。)
【日】老中・田沼意次(1772-86年)の時代。第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1783 年:アメリカ合衆国の独立が承認される。(パリ条約)
☆ ひと悩み 独立承認 パリ条約
1775年4月に始まったアメリカ独立戦争では、最初は独立軍が苦戦した。しかしフランス・スペインがアメリカ側につき、北欧諸国は露エカテリーナ2世の提唱で中立を保ったこともあって(世界の植民地争奪戦で圧倒的な優位に立っているイギリス本国に味方する国はなかった)最終的に独立軍が勝利した。イギリスは(ひと悩みしたあげく)1783年にパリ条約においてアメリカ合衆国の独立を承認した。同時に合衆国側は、ミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。
(「パリ条約」という条約は七年戦争のときに続いて二度目である。この独立戦争でフランスがアメリカ側についたのは、七年戦争の際に植民地を奪われた"相手国"イギリスへの報復という意味合いであろう。)
【日】老中・田沼意次(1772-86年)の時代の後半であるが。1782-86年の天明の大飢饉の最中であり、この1783年には浅間山の大噴火が起こるなど、災厄の時代であった。第10代将軍・徳川家治(任1760-86)。
● 1787 年:アメリカ合衆国憲法の制定。
☆ 連邦主義に 非難はないか? 米[国]憲法
1783年にイギリスからの独立を承認された米東部13州は、ただちにひとつの"国"になったわけではなく、13州の不完全な連合体という体裁のものであった。しかし保守派を中心として、ひとつの独立国として中央政府がしっかりした権限を持つべきだという考え方が出てきた。そこで1787年9月にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され(議長はワシントンが務めた。ジェファソンは公使としてパリにおり不参加)、ここでアメリカ合衆国憲法が定められた。この憲法は、各州の自治を大幅に認めながらも、中央政府の権限を強化する「連邦主義」に則ったものであった。しかしながら、この連邦主義に批判が無かったわけではない。この後、憲法を支持する連邦派(保守派)と、憲法を批判し州権主義を主張する反連邦派(急進派)の対立が残ることになる。(連邦派は現在の共和党、反連邦派は現在の民主党につながる。)ワシントンは連邦派、ジェファソンは(少々意外な気もしないではないが)反連邦派であった。(ジェファソンの考えとしては、連邦政府が強くなってしまっては、折角イギリスの支配から逃れた意味が半減する、ということだったのだろう。)翌々年の1789年(奇しくもフランス革命が始まる年だが)に、連邦政府が発足し、ワシントンが初代大統領に就任した(任1789-97)。
アメリカ合衆国としての新首都が、南部のメリーランドとヴァージニアにまたがった地区に儲けられた。正式には「コロンビア特別行政区」であるが、通称「ワシントンD.C.」である。(立地計画は1790年~、首都となったのは1801年。)
【日】1787年は田沼意次失脚の翌年にあたり、この年に松平定信が老中に就任して寛政の改革が始まっている(~1793年)。アメリカは日本における田沼時代(老中就任1772-86年)の間に、イギリス本国からの独立を果たし、独立国としての歩みを始めたわけである。将軍は第11代・徳川家斉(任1787-1837)だが、はじめ家斉は政務を松平定信に任せた。
● 1789 年:フランス革命が始まる。(国民議会の人権宣言採択など)
☆ 三部会 旧制度への 非難 湧く
フランスでは、ルイ14世の晩年以降に国家財政の低迷が始まり、七年戦争(1756-63)では新旧大陸の主要植民地も失い、ルイ16世(位1774-92)の時代には完全にゆきづまり状態に陥って(にもかかわらず、アメリカ独立戦争〔1775-83〕に加担して莫大な戦費を使うのみならず、ブルボン王家自体も〔王妃マリー=アントワネットも含め〕すさまじい乱費をやり続けていたようである)、蔵相が特権階級への課税を試みるも抵抗にあってままならなかった。そこで、17世紀初め以降ひらかれなかった三部会が1789年に招集された(5月5日)。三部会では聖職者・貴族に有利な議決方法に平民が反対してもめた。まさに旧制度(アンシャン=レジーム)を代表する特権階級への非難が湧き上がる状況だったわけである。平民の議員たちは三部会から離れ、「国民議会」と称して(6月17日)新たな憲法を制定することを宣言した(球戯場の誓い。6月20日)。これに対してルイ16世が弾圧を加えようとしたところからフランス革命の動乱の幕が切って落とされる。この年にバスティーユ牢獄の襲撃があり(7月14日)、ラファイエットらによって起草された人権宣言が、国民議会によって採択され(8月26日。これは新憲法の前文にあたる。本文の審議は1791年9月3日完了)、ヴェルサイユにいる国王を糾弾するための「ヴェルサイユ行進」があって(10月5日)、ルイ16世はパリへ連行された。
当初、国民議会(立憲議会)を主導したラファイエット侯爵(武名で知られた貴族。アメリカ独立戦争の際には私財をを投じて参戦、「新世界の英雄」と言われた)やミラボー伯爵(重農主義学者を親に持つ。財務長官テュルゴーの友人でもあり財政問題を重視)が目標としたのは(本音としては)王とブルジョワが手を結んだブルジョワによる議会政治だったわけで、王を廃したり、下層平民までを包含する"平等"を達成しようとする考えは無かった。(下層平民のほうも初めは、王朝を廃したいと希望してはいなかった。)ただ自分たちの目的のために、下層平民によるエネルギーの"有効活用"を試みた、ということだったのだろう。
【日】寛政の改革(1787-93年)の3年目。この年、旗本御家人の財政救済のために、貸借の破棄令〔棄捐令〕を発布。第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)。
● 1791 年:ヴァレンヌ逃亡事件。国民議会による憲法発布。立法議会の招集。
☆ 憲法・立法 一番 泣く人 アントワネット
1791年6月に、ルイ16世と王妃マリー=アントワネットは、王妃の実家であるオーストリアへの逃亡を企てたが、パリから200キロほど東のヴァレンヌで人々に見つかり、パリに連れ戻された(ヴァレンヌ逃亡事件)。嫁ぎ先で革命騒ぎが起こり、国外脱出もままならないアントワネットは、泣きたい気持ちであったかもしれない。(王侯として矜持の強い人だったようなので、泣いたりしなかったかもしれないが。ただしこの逃亡計画には、逃亡のために特注で作られた大型馬車が用いられ、アントワネットはそこに豪華な身の回り品やワインをたっぷり積ませたのだそうである。こういう感覚は貧乏な平民には分からない。)この事件を境に、民衆は国王に対する敬愛の情を完全に失った。ただし仮にルイ16世を断罪するとすれば、フランスにおける革命の動向に反対する諸外国からの軍事介入を誘発する危険があったので、王に対する扱いは微妙な問題となった。(8月にはオーストリア皇帝とプロイセン王が共同で「ピルニッツ宣言」を発表し、武力介入の可能性を表明した。)共和政(すなわち王の廃止)を要求する一部の市民団体は、ラファイエットらによって弾圧を受けた。
同年9月、フランスの国民議会は立憲君主政の憲法(1791年憲法)を発布。国民議会は解散となり、最初の選挙(その選挙制度は一般市民というより有産者に有利なものであったが)を経て、10月に新たに「立法議会」が招集された。立法議会では、立憲君主政を主張するフイヤン派(貴族主体。フイヤン修道院で結成されたクラブを母体とする。ラファイエット派はここに含まれる)と穏和共和派のジロンド派(商工業ブルジョア主体。この派にジロンド県出身者が多かった。"穏和"共和派といっても対外的には主戦派であったが)の勢力が争う形勢であったが、翌1792年、政権を握ったジロンド派は、諸外国の君主からの革命への干渉に対抗するために、ルイ16世にオーストリアへの宣戦をさせた(4月)。議会ではほとんどの議員がこれを支持したようである。ベルギー領に進駐していたオーストリア軍を攻撃したフランス軍は、立て続けに惨敗した。
なお、話は前後するが、この年(1791年)の4月にミラボーが42歳で病没しており、このときパリの民衆はこぞって彼の死を悼んだ。しかし翌年、生前のミラボーが裏で宮廷に通じていたことが明らかになると、その評価は一転、名声は地に落ちることになる。この、やや早かった人気絶頂の中での死は、むしろ本人にとって幸いであったかもしれない。
(ここでは「一番」→1と読むことにする。)
(この年、ウィーンにて作曲家モーツアルト没[35歳]。ハイドン[58歳]はウィーンから第1回のロンドン演奏旅行[1791ー92]に赴いている。モーツアルトがウィーンで活動を始めた1781年頃からその死去まで、モーツアルトとハイドンには親交があったようである。そもそも18世紀までの西洋の作曲家というのは、王侯貴族や教会に従属的に仕える立場の"音楽職人"であって、市民社会における"フリーの作曲家"という立場を初めて確立し得たのはベートーベンであるが、晩年のハイドンのロンドンでの活動は、その先駆的な成功であったと見ることもできるだろう。早世したモーツアルトは"フリーの作曲家"として成功することはなかった。)
【日】寛政の改革(1787-93年)の5年目。前年1790年に寛政異学の禁。第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)。
● 1792 年:国民公会の招集。フランス第一共和政の樹立。
☆ 公会で いきなり国は 共和政
1792年7月、ジャコバン・クラブ(1789年にジャコバン修道院で結成された頃は、かなり保守的な立憲派から後のフイヤン派・ジロンド派的な傾向までを包括する幅広い集団であったが、徐々に分裂して、急進化した共和主義者〔モンターニュ派〕が主力として残った)に属していたロベスピエールは、秘密の革命指導部をつくり、非合法的な義勇軍組織("蜂起のコミューン")の組織作りをはじめた。彼らはルイ16世が外国の君主と結ぼうとしていると見なし、王宮にデモを仕掛けて(王軍と激しく衝突したが)成功をおさめ、ルイ16世は義勇軍によって監禁された(8月10日。蜂起の扇動者・殊勲者はダントンで、彼は「8月10日の男」と呼ばれることになる)。
(フイヤン派は立憲君主主義を主張し、自由主義的貴族の主張を代弁した。ジロンド派とモンターニュ派はともに共和派ではあるのだが、ジロンド派が市民の最上層のブルジョワの権利を代弁したのに対し、モンターニュ派はそれよりさらに一段階下の"小ブルジョワ"を主体的に考えた。後者のほうが、より下層の民衆〔農民を含む〕までのエネルギーを利用しやすい立場にあったわけである。)
また、ロベスピエールは、コミューンの"実力"を後ろ盾にして議会に制限選挙の撤廃を要求し、その結果「立法議会」にかわる、普通選挙による「国民公会」の召集が決まった。(「公会」は「Convention」で、社会"契約"という含意があるらしい。)国民公会(8月20日召集)では共和派が多数を占めたために、即座に王政の廃止・共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。この後の国民公会ではジロンド派とジャコバン派(の中のモンターニュ派)が対立するが、次第に後者が台頭し、ジロンド派を抑えてゆく。ジロンド派は(なお、何らかの形の"かつての国王"の政治利用の可能性を考えて)ルイ16世の処分を回避しようとしたのだが、ジャコバン派の主張が通り、翌1793年1月14日に議決が行われて死刑が確定、21日に革命広場(コンコルド広場)でギロチン刑が執行された。3月には(王の処刑の問題のほか戦局や経済利害の問題もからんで)イギリスの首相ピットが提唱して第1回対仏大同盟が形成される(イギリス・スペイン・オーストリア・プロイセン・オランダ・ポルトガル・サルデーニャ・ロシア)。
【日】寛政の改革(1787-93年)の6年目。この年、ロシアの軍人ラクスマンが、日本への使節としてエカテリーナ2世の国書を持って根室に来航、日本に通商を求めた。しかし幕府は鎖国の方針によりこれを拒絶し、退去させた。第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)。
● 1794 年:テルミドールのクーデター。(ロベスピエールの処刑)
☆ テルミドール 非難の急所は ロベスピエール
フランス国民公会の下で、急進共和派として台頭したジャコバン派は、国王の処刑を主張、議決によりルイ16世はギロチンにかけられて刑死した(1793年1月)。ジャコバン派は、穏健な(かつ、内外の危機に対して無為無策の)ジロンド派を攻撃し、ロベスピエールが煽動しておいた蜂起組織が公会を包囲して、"実力で"公会内のジロンド派を圧迫したこともあり、中央からジロンド派を排除することに成功した。そして、ジャコバン派が作成していた新憲法案を、共和国憲法として成立させた(1793年憲法。6月24日)。憲法自体は極めて民主的な内容のものであったが、当時、外国からの侵攻・内乱・食糧危機などに早急に対応する強硬な施策が必要な状況下で新憲法は棚上げにされ(結局、施行されなかった)、ジャコバン派による独裁体制が始まった。(元々は国民公会の下部委員会であったはずの公安委員会が、事実上の独裁行政機関になり、ロベスピエールが主導的な立場に立った。)独裁政治は恐怖政治へと移行してゆき、ロベスピエールによって政敵の粛清が進められたが(同じジャコバン派〔モンターニュ派〕内の穏健派ダントンをギロチン台に送ったのは1794年4月5日)公安委員会内部は政敵の策略によって分裂に追い込まれ、ロベスピエール自身も逆に公会で追い詰められ、政敵に捕らえられて1794年7月28日に処刑された。これをテルミドールのクーデターと呼ぶ。(「テルミドール」は、前年に制定された革命暦における"熱月"のことである。テルミthermiが「熱」であることは英語のサーモthermoから類推できる。)ジャコバン独裁は非難を受けるべき存在になっており、その核心が、ロベスピエールだったわけである。このクーデタの後、ジャコバン派は勢力を失い、恐怖政治はひとまず終わった。ジャコバン派(モンターニュ派)は、いわば"小ブルジョワ"重視の路線を目標にしたと言えるであろうが、このクーデターは"大"ブルジョワ権力による反動とも見なされ得る。まだフランス社会は「ブルジョワのための革命」以上の民主的地点に到達できる段階には来ていなかったということだろう。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。前年、寛政の改革が頓挫し、老中松平定信が辞任して以降は、徐々に家斉が権力の中心となったが、家斉は政務に注力する人物ではなく、放漫政治による退廃的な時代に移行してゆく。
● 1795 年:総裁政府の樹立。
☆ ひとりでなく 五人の総裁 まとまらず
テルミドール事件があってジャコバン派が衰えた後、それまで「平原派」と呼ばれていた中間派が勢力を増し、これは「テルミドール派」と呼ばれる(概ねブルジョワ層による支配を目指した政治"屋"的勢力と言ってよいだろう)。しかしテルミドール派には依然、左側に民衆派(ジャコバン派はまだ存在する)、右側に王党派の敵があって攻勢を受け続け、両者の勢力の均衡点を狙い続けたが、政情は安定しなかった。1795年4月、国民公会は改めて新憲法の制定に着手し、8月22日にいわゆる「1795年憲法」を可決した。これは制限選挙を復活し、1791年の憲法を基調としてブルジョワ有利の性格を強めたようなものである。憲法を発布した国民公会は解散し、1795年11月2日に5人の総裁と二院の立法府による政治組織が成立した(「総裁政府」と呼ばれる)。制度的には独裁の危険をさけるために極力、権力分立の形が採られたが、権力分立は権力の不安定を生む。ロベスピエール独裁に比して新政府は5人の総裁を持ったが、政府内部に方針の対立もあり、効果的に国内外の問題を収拾することはできなかった。
総裁政府の統治期間中に頭角を表してきた軍人がナポレオンである。1796年、ナポレオンはイタリア方面軍最高司令官に任命され、翌1797年までイタリア北部(当時はほとんどオーストリア領)に遠征して、多くの会戦で敵のオーストリア軍に勝利し、諸都市を「解放」し、いくつかの"衛星共和国"を建設した。そして1798年には敵対するイギリス-インド植民地間の通行の要所であるエジプトを抑えてイギリスを牽制する目的(ナポレオン自身が総裁政府に進言した作戦である)で、エジプト遠征に赴いた。(しかし翌1799年に急遽帰国してクーデターを起こし、総裁政府を倒すことになるが。)
(ナポレオンは、ドイツの文豪ゲーテの書簡体小説『若きウェルテルの悩み』〔1774年刊行。青年ウェルテルが婚約者のいる女性シャルロッテに恋をし、絶望して自殺するまでを描いた〕を愛読書としており、エジプト遠征の際に携えていって、7回も読んだのだそうだ。)
(「ひとり」→1と読み取る。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1796 年:カジャール朝の成立。
☆ カジャールは ロシアに睨まれ 一難 苦労
イランで16世紀初めに起こったサファヴィー朝は、18世紀前半にアフガン人に滅ぼされた。その後、短期の王朝が続いた後、1796年にカジャール朝が成立した。カジャール朝は、20世紀前半まで続くが、ロシアやイギリスなどからの干渉に苦しめられた。(西アジアから中央アジア〔トルキスタン〕にかけての地域は、ロシアが北方から、イギリスが南方からの進出を狙い、各所で両者がせめぎ合いを続けた。)カジャール朝は、19世紀初めにはロシアにカフカス(グルジア)を奪われ、その奪還をめざしてロシアと戦って敗れ、治外法権を認めさせられた(トルコマンチャーイ条約。1828年)。1907年の英露協商で、イギリスとロシアの勢力範囲が設定され、第一次大戦後にはイギリスの保護国にされ、その支配を受ける。
【日】カジャール朝(1796-1925):日本は江戸~明治~大正時代。王朝成立のころ日本は第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。王朝がパフレヴィー朝に代わる1925年は大正時代の末で、治安維持法・普通選挙法の成立など。
● 1796 年:白蓮教徒の乱。
☆ 清朝は 白蓮教徒に 一難 苦労
清は乾隆帝治世(位1735-95)の末期から、官僚の腐敗などによって秩序が乱れ始め、重税に苦しむ民衆が各地で反乱を起こすようになった。その最も大規模なものが、1796年に始まった白蓮教徒の乱である。湖北省に始まったが、河南・陝西・四川・甘粛にも拡がった。この年に即位した嘉慶帝(位1796-1820)は乱を平定しようとしたが、大臣・地方官たちは(叛徒が城のある街を攻めなかったので)急いで平定しようとも考えなかったらしい。政府軍はまるで役に立たず、政府は民兵を募集して、これを先頭に立てて戦った。乱は8年間続き、清朝の統制力のなさが浮き彫りになった。白蓮教(びゃくれんきょう)は14世紀頃に始まった宗教的な秘密結社で、弥勒教の一派にあたる。元の末期の紅巾の乱や、清の末期の義和団事件にも、白蓮教が関わっている。(清朝では最初、国法で白蓮教を禁じていたのだが、乱の最中の1799年、嘉慶帝は〔反逆者は罰するにしても〕単に白蓮教の信者であるというだけでは罰しないことにしてしまった。1813年の天理教の乱〔白蓮教の一派である〕を受けて嘉慶帝は再び白蓮教を国禁に戻すが、このような場当たり的な方針変更が、禍根となって尾をひいてゆく。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1799 年:統領政府が成立。
☆ 外圧に 否! 救急の 統領政府
フランスでジャコバン派のロベスピエールが処刑された後、5人の総裁による総裁政府が設けられたが、社会秩序の混乱は収まらなかった。その一方で、軍人ナポレオンが革命軍において頭角を現し、総裁政府の信任を得るようになった。イギリスは、ナポレオンのエジプト遠征(1798年5月~。イギリス-インドの連絡を絶つことが目的)に対抗し、フランスによるエジプト確保を阻んだが、さらに、オーストリア・ロシア・オスマン帝国などと第2回対仏大同盟(1799年3月)を結んでフランス本国の国境をおびやかすようになった。戦局が不利に傾き、これに対応できない不安定な総裁政府へのフランス民衆の批判が高まったことを知ったナポレオンは、孤立状態になっていたアレクサンドリアから急ぎ帰途についた(8月)。10月にパリに戻ったナポレオンはクーデターの計画を練り、そして1799年11月9~10日にそれを実行した(ブリュメールのクーデター。"ブリュメール"は革命暦の"霧月"のこと)。総裁政府を倒した後、ナポレオンは新憲法を発布して「統領政府」を立て、自らは第一統領に就任した(12月25日。統領は3人いたが、第二・第三統領は顧問的地位で、行政権は第一統領に集中した)。外圧に対する急場の対処をしようという形ではあるが、このときからナポレオンは事実上の独裁権を持つことになる。ときにナポレオン30歳である。
(フランス革命の"終結"をいつと見なすか、いくつか考え方があるらしいが、この憲法発布と統領政府の成立の時点とするのが有力のようだ〔始まりからちょうど10年間ということになる〕。ナポレオン自身、憲法発布の日の布告で「革命は終わったのである」と言ったのだそうだ。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
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