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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(1001~1300年)
                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

李朝

1010 年:ベトナムに李朝が成立。

☆ 中華から  とうとう独立  李朝・大越

 

ベトナム北部は漢の時代より中国の影響下にあり、国の形成が阻まれていたが、唐末~宋初期の動乱の時勢を背景として、独立王朝が現れた。968年から短期の王朝が2つ(丁朝・黎朝)続いた後、1010年に李朝が成立した。その後、1054年には国号を大越と改称。13世紀に外戚の陳氏に滅ぼされ、陳朝が成立する。

 これは、どの程度そのまま信用していいのか判断が難しい話だが、司馬遼太郎によれば「ベトナム人は、自分たちが利口だという選民意識を持ちすぎている」のだそうで、周囲の民族(チャム族〔チャムパ人〕やクメール族〔カンボジア人〕やラオス人)に対してかなり残虐なことを近代までやり続けてきたようだ。そのような民族的性格と表裏の性質として、大国に対する抵抗姿勢も極めて強力であって、宋に対してだけでなく、後々、元やフランスやアメリカとも対抗姿勢で対峙することになる。

カヌート

1016 年:カヌートによるイングランド征服。

☆ カヌートの  遠い昔の  大帝国

 

イングランドは、ゲルマン民族大移動の後、移り住んできたアングロ=サクソン人が5世紀から9世紀まで七王国を築いており、9世紀前半にエグベルトがこれを一旦統一した。しかしこの頃より北欧からのヴァイキング(ノルマン人ともデーン人とも呼ぶ)の侵入が顕著になった。9世紀末にはアルフレッド大王がこれを撃退したが、ノルマン人の侵入は継続した。​(アルフレッド大王は政治家としても学者としても優れた人物であったらしい。陸海軍を創設し、学問を奨励した。)

 11世紀初め、ノルマン人のカヌート1世は、父であるデンマーク王とともにイギリスに攻め入った。父の方は1014年に戦死したが、カヌートは勢力を拡大して、1016年にイングランド王となった。また兄の死後にはデンマーク王も兼ねることになり、さらにノルウェーおよびスウェーデンの南端部も征服し、広大な海上帝国を築いて「カヌート大王」と呼ばれた。しかし、その死(1035年)の後に大帝国は崩壊し、イングランドではアングロ=サクソン系の王家が、一時的に復活した。

【日】1016年に、藤原道長が外孫の後一条天皇を立てて摂政になった。藤原氏全盛期の始まり。翌1017年、道長は長子の頼道に摂政を譲り、その後、頼道は第68代・後一条(位1016-36)、第69代・後朱雀(位1036-45)、第70代・後冷泉(位1045-68)の3天皇にわたり、摂政・関白をつとめた。

東西教会分裂

1054 年:東西教会の分裂。

☆ お互いに  統合しないぞ  東西で

 

8世紀にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を出してから、ローマ教皇(西方教会)と、コンスタンティノープルの東方教会はいろいろな点で見解を異にして対立が強まっていたが(教義解釈、礼拝方法・組織のあり方、教皇権など)、1054年に双方が互いに相手方を破門するという形で決裂に至った。西方の「カトリック」(普遍)に対し、東方教会は、「正教」(Orthodox:正統)と称することになる。

【日】前九年の役(1051-62年)の最中。何故これが「前《九》年」と呼ばれるようになったのか、定説はない。天皇は70代・後冷泉(位1045-68)。関白:藤原頼通。

セルジューク朝

1055 年:セルジューク朝のバグダッド入城。

☆ トルコ人の  統合 これから  セルジューク

 

アッバース朝が中央アジアに進出してから、トルコ人奴隷を兵士として用いるようになったが、次第に実力を持つトルコ人の軍人が現れるようになった。セルジューク朝は1038年頃に、現在のイラン東北部のあたりに起こった、イスラム教(スンナ派)化されたトルコ人の王朝である。(元々は中央アジアのアラル海の東南のあたり〔サーマン朝の治下・カラハン朝の西〕にいた種族が、サーマン朝がカラハン朝に滅ぼされたことで東のカラハン朝から圧迫を受けるようになり西進してきたものらしい。)これが更に西方に進軍し、1055年にシーア派を信奉するブワイフ朝を倒してバグダッドに入城した。1058年には、アッバース朝のカリフからスルタン(支配者)の称号を受ける。カリフは精神的な権威、スルタンは軍事・政治などの現実的な権威を代表しているので、カリフ⇔スルタンの関係を、日本の天皇⇔将軍の関係になぞらえると分かりやすい。アッバース朝(天皇家)がこれで終わるわけではないが、帝国を軍事的・政治的に支配するのは、セルジューク朝(たとえば、源氏)というわけである。つまり実質的にはセルジューク朝が、ブワイフ朝に代わってアッバース朝イスラム帝国の支配権を(正式に)得たわけで、トルコ人スルタン(将軍)によるイスラム帝国の統合・統治がここから始まった。セルジューク朝の領土は、西端は小アジア・地中海東岸、イラク・イランを含み、東端は西トルキスタンのサマルカンド・バルハシ胡あたりにまで及んだ(カラ=ハン朝と接した)。セルジューク朝は、しばらく繁栄を誇り、ビザンツ帝国を脅かしたりしたが、12世紀に入ると内紛が起こり始め、ホラズム西遼に攻められて滅んだ。

 詩人であり天文学者・数学者でもあったオマル=ハイヤーム(1048-1131年)はセルジューク朝のスルタン、マリク=シャーに仕えた。ハイヤームによって、暦法の改定・施行などが行われた。

【日】セルジューク朝(入城1055-1157):日本では平安時代後半。バグダッド入城時は前九年の役(1051-62年)の最中で、天皇は70代・後冷泉(位1045-68)。関白:藤原頼通。滅亡したのは1157年であるが、これは保元の乱の翌年。

ムラビト朝

1056 年:ムラビト朝の成立。

☆ ベルベルの  イスラム統合  ムラビト朝

 

11世紀から、北アフリカ・サハラ砂漠原住のベルベル人の間にイスラム教が拡がり、1056年にモロッコの地にムラビト朝が起こった。初のアフリカ人イスラム教国家ということで注目される。1076年にはガーナ王国を滅ぼし、その後、アルジェリアやイベリア半島にも勢力を伸ばしたが、12世紀に同じベルベル人イスラム教国のムワヒド朝に滅ぼされた。

​(「ベルベル人」という呼称はローマ人による蔑称で、ギリシャ語の「バルバロイ」〔わからない言葉を話す人〕に由来するのだそうだ。ベルベル人は、元来はコーカソイドであるらしいが、一部、黒人と混血の進んだ部族もあるらしい。)

【日】前九年の役(1051-62年)の最中。時の天皇は70代・後冷泉(位1045-68)。関白:藤原頼通。

ノルマン朝

1066 年:ノルマン朝の始まり。

☆ ノルマン公  取ろう 無理やり  イギリスを

 

10世紀にフランス北部にできたノルマン人国家、ノルマンディー公国のウイリアムは1066年に、イングランドにおけるアングロ=サクソン王家の新王即位に際して、教皇庁の有力者を巧妙に味方につける形で異議を唱え、イングランドを攻めて征服した(ノルマン・コンクエスト)。彼は、ウイリアム1世としてイングランド王となり、ここからノルマン王朝が始まる。ウィリアムは封建制度をフランス流よりも少々改良した形で導入し、王権が強くなるような体制作りを行った。(ウィリアムはフランス王の臣下でありながら主君よりも強大なイギリス王であるという奇妙な存在になったのである。)このノルマン王朝は100年たたないうちに途絶え、プランタジネット朝に代わることになる。しかしながらプランタジネット家もフランスから来た家である。イングランドという国は、ノルマン・コンクエスト以降長きにわたり、ノルマンフレンチを話すフランス人王侯貴族がイングランド人(アングロ=サクソン人)を支配する国であり続けた。現在の英語が、元々のアングロ=サクソンによるゲルマン語の系統を基調としながらも、大量のラテン語-フランス語系の語彙を取り込んだものになっている背景には、このような事情もある。

(少々苦しいけれども、「取」→「と」→「とう」→10と読み取ってもらいたい。)

【日】ノルマン朝(1066-1154):日本は平安時代。ウィリアムが即位したときは平安中期の藤原摂関政治全盛期で、天皇は70代・後冷泉(位1045-68)、関白:藤原頼通。ノルマン朝が途絶えるのは平安後期で、鳥羽上皇の院政期(1129-56年)。

王安石

1069 年:王安石の改革。

☆ 新法に  入れろ 急場の  富国策

 

中国の北宋(960-1127年)では、文治主義の下で多数の官吏を登用し、また外敵から攻められたり消極的な歳幣外交を行ったりしたので、11世紀半ばには著しい財政難となった。(特に陝西において西夏〔チベット系タングート族〕と行われた戦争〔1038-44〕は巨額の軍事費を伴った。また戦後の経済恐慌が発生した。)第14代の神宗皇帝のとき、1069年に副宰相に抜擢された王安石は、"新法"による改革を試みた。(翌1070年には宰相に就任。したがって改革の始まりを1970年と見做す場合もある。)彼の改革策は、貧農や中小商人などへの低利貸し付け(青苗法・市易法)や物価・流通安定化策(均輸法)、傭兵を漸次縮減して兵農一致・国民皆兵主義を導入(保甲法)、職役の強制割り当てを止めると同時に官戸への優遇措置を抑制する(募役法)など、全般に弱者の負担軽減に配慮した富国強兵策(産業・軍事・財政再建策)であったが、既得権と結びついている保守派の士大夫的官僚たち(旧法党)の反対に合って、なかなか成果が上がらなかった。王安石は1076年に引退して、10年間の余生を送ったが、旧法党(司馬光など)と新法党の対立はその後も長く続いて泥仕合の様相を呈するようになり、宋の国力を弱めることになった。王安石は後世まで不当な悪評を浴びた。

 司馬光は王安石の新法に反対したため王安石の新法改革時代には中央から退けられ、その間、洛陽で19年の歳月をかけて『資治通鑑』を編纂した。戦国時代の初めから五代の末まで1360年ほどを扱った編年体の歴史書である。神宗が1085年に亡くなると、司馬光は宰相として呼び戻され、1年あまりで病没するまでに、新法を廃止してしまった。

【日】71代・後三条天皇(位1068-72)。後三条は摂政・関白を外戚に持たない天皇だったので、荘園を持つ摂関家にはばからず1069年に延久の荘園整理令を出した。

カノッサ

1077 年:カノッサの屈辱。

柔軟な  対応 望めず  屈辱だ

 

各地の教会の司教の任命権は、実情としてもともと各国の君主にあった。(君主が教会組織を"行政的"に利用することは、ある意味、当然のことと考えられていた。)しかし1073年に教皇に就任したグレゴリウス7世は、世俗勢力が聖職売買などを行うことを問題視し、君主の叙任権を否定した。(グレゴリウス7世としては、権力志向ということでなく、キリスト教のための教会組織改革の一環というつもりだったようで、教会内の粛正なども併せて行っている。そもそも彼は"クリュニー派"であって、彼の方針はクリュニー修道院による刷新運動の路線上にある。)神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はこれに反発し、教皇と衝突したため、教皇は1076年にハインリヒを破門した。このことで神聖ローマ領内諸侯のハインリヒへの反目が表面化し、ハインリヒは教皇に謝罪して破門を解除してもらわなければ失脚する状況に追い込まれた。ハインリヒは1077年に自ら厳冬のアルプスを越えて北上道中のグレゴリウス7世の下へ赴き、教皇が滞在するカノッサ城(イタリア半島北部)の門前に雪中3昼夜にわたり赦免を乞い続け、ようやく破門を解かれた。これだけを見ると、教皇の絶大な権力を象徴する事件のように見えるが、実は後日譚がある。この事件の後、神聖ローマ領内で情勢の変化が生じ、再び力を得たハインリヒは1081年に武力で教皇を攻めた。グレゴリウスはローマから逃れ、1085年に南伊で憤死したとのことである。(再度破門されたハインリヒも力を失い1106年に失意のうちに死ぬことになるけれども。)

 つまり、この時期の教皇は、状況の「風向き」次第で、絶大な権力を持ち得る存在であったということも一面の事実であるが、その地位は、必ずしも政治システム的に安定したものではなかったということもまた事実である。そもそも教皇庁-フランク王国の関係が成立した当初から、教皇と皇帝はどちらが優位とも言えない"互恵関係"にあり、教皇が皇帝に帝冠を与える一方で、教皇人事が皇帝の認可によって確定するという慣行もあったわけである。「カノッサの屈辱」よりも、むしろハインリヒが2度目の破門に打ち勝てなかったことのほうが、その時流における「教皇の絶大な権力」の形成を物語っている。

【日】天皇は第72代・白河天皇(位1072-1086)。ただし白河は、むしろ1086年に上皇になってから「院政」を始めて権力を振るうようになる。

ホラズム

1077 年:ホラズム建国。

☆ ホラズムが  一応 難なく  国を建て

 

「ホラズム」は、元々はアラル海南方・アム川下流域を指す地名である。この地は1042年以降、セルジューク朝に併合されていたが、1077年に、セルジューク朝から太守に任じられたマムルークのアヌーシュ=テギンが(太守に任じられたわけだから、難なく?)ここに、実質的にセルジューク朝から独立した国(軍閥政権)をつくった。これが「ホラズム朝」の始まりと見なされる。ホラズム朝はその後、西カラハン朝を滅ぼし、イラン全土にまで版図を拡げた。13世紀にチンギス=ハンの侵攻を受けて滅亡する。

【日】ホラズム(1077-1231):日本は平安~鎌倉時代。建国のときは平安後半で、天皇は第72代・白河天皇(位1072-1086)。ホラズムが完全に滅ぶ1231年は鎌倉時代で、第3代執権・北条泰時(1224-42年)のとき。翌年、御成敗式目を制定。

クレルモン公会議

1095 年:クレルモン公会議(十字軍派遣を決定)

☆ ウルバヌス  遠く 御威光  十字軍

 

11世紀なかばにスルタンの称号を得て、アッバース朝を(ブワイフ朝を退けて)実質的に引き継いだセルジューク朝は、小アジアに進出して、ビザンツ帝国を脅かすようになった。ビザンツ皇帝はローマ教皇に助けを求めた。そこで教皇ウルバヌス2世は1095年にクレルモン公会議(クレルモンはフランス中南部の都市。現・クレルモン=フェラン)を開き、イスラム勢力に対して聖地回復ための聖戦の開始を決議した。(教皇と"西側の皇帝"の関係が正常であれば「皇帝軍」を派遣すればよさそうなものだが、"カノッサの屈辱"事件〔1077年〕以来、教皇庁と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の関係は最悪だったので、ウルバヌスは皇帝抜きの連合軍を作らねばならなかった。)翌1096年には、多数の諸侯・騎士からなる第1回十字軍(彼らは胸に十字の印を付けた​。主力はフランスとノルマンの騎士である)が出発して、1099年に聖地の占領に成功、エルサレム王国を建てた。ローマ教皇の威光は、西欧世界のみならず遠くエルサレムまで届いたわけである(ウルバヌスは聖地奪回の報が届く直前に死去したが)。しかし、エルサレム王国は12世紀後半にアイユーブ朝のサラディンによって滅ぼされた(1187年にエルサレム陥落、1191年に王国滅亡)。十字軍の遠征は13世紀後半まで全7回(数え方によっては8回)行われたが、成功したのは第1回のみであった。

【日】白河上皇による院政(1086-1129年)の時期。

ウォルムス協約

1122 年:ウォルムス協約。

☆ ウォルムス協約  教皇による  いい人事 

 

ウォルムス協約は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間で1122年に結ばれた、叙任権闘争に一応の終止符を打つ協約である。聖職任命権は教皇側に属することが確認された。聖職者に関しては、教皇が、教皇の都合で「いい人事」をやる、ということである。帝権・王権は、もはや教会を直接統制できなくなった。

(教皇側が勝利したように見えるし、事実そうなのだけれども、皇帝側が全面譲歩したわけではない。交渉の結果、司教領を国王〔皇帝〕の知行とし、国王がそれを司教に授封するという形になった。そして司教の選挙は国王が監視し、選出された司教の叙任は国王による授封の後に行うことになっている。こういう微妙な部分があって、叙任権問題は、まだ尾をひくのだけれども。)

​ 王権がもはや教会組織を政治・行政目的で利用することが難しくなったことにより、この頃から各国とも国家的なレベルでの封建制による組織化が促されていくことになる。

【日】白河上皇による院政(1086-1129年)の時期。

北宋滅亡

1127 年:北宋の滅亡。

日々受難  金に攻められ  北宋ほろぶ

 

12世紀初めに中国東北において、それまで契丹族のに服して半牧畜・半農耕の生活を行っていた女真族の金が、首長の完顔阿骨打(完顔〔わんやん〕部の阿骨打〔あくだ〕​という名である)に率いられて独立して国を建て(1115年)、勢力を拡大した。遼は金と北宋に挟まれて滅んだが​(1125年)、そのあと金と北宋の間に紛争が起こった。(宋は策を弄し、金に対して背信行為をやっていたのである。)金は北宋に1126年と1127年の2回にわたり侵入し、首都開封を陥落させ、上皇の徽宗(きそう)と皇帝の欽宗を捕らえた(靖康の変。「靖康」は北宋最後の年号)。二帝は満州の奥地へと送られた。これで北宋は滅亡したのだが、たまたま拉致をまぬがれていた皇帝の弟が、(当人の意志でというより宰相の思惑により)南に移って変則的な形で即位して南宋を建て、2年後に臨安(杭州)に首都を置いた。南宋は、一時は失地の回復を試みるがかなわず、結局、金に対して臣下の形を取って和議を結んだ(1141年)。

(徽宗〔位1100-25〕は政治にまったく関わろうとせず、カネを湯水のように道楽に使う"文化人"だったようで「風流天子」などと呼ばれた。院体画の「桃鳩図​(とうきゅうず)」などは有名。金が首都・開封にまさに攻めてくるというときになって譲位をしているのだが、これは官僚たちにも、とてもじゃないがこのような天子の下で国難にあたることはできないと思われていたということのようである。)

 北宋から南宋の時代にかけての儒学(宋学)的思想においては、漢民族が異民族から強い圧迫を受けていたことを背景にして、華夷の区別(中華思想)や君臣の身分関係に過剰にこだわる「大義名分論」が強調された。その考え方は欧陽脩(1007-72年)、司馬光(1019-86年)などを経て、南宋時代の朱熹(1130ー1200年)によって「朱子学」として大成された。朱子学は鎌倉時代に日本にも伝わり、いろいろ独自に再解釈されて、その後の日本史にも大きな影響を与えている。後醍醐天皇による建武の中興は、朱子学のイデオロギー的影響下で起こったという側面がある(後醍醐にしてみれば自分が日本で唯一の「君」〔王〕で自分以外は全部「臣」、武家政権などは「夷」でさえあったかもしれない)。室町時代に朱子学は禅僧に学ばれるようにもなり、江戸時代には封建秩序の確立という観点から幕府公認の御用学問となった。幕末から明治維新にかけての尊王攘夷運動(〔将軍ではなく〕天皇を日本の「王」として戴き「夷」〔この場合は西洋人〕を攘〔はら〕う)にも、水戸学などを通じて多大な影響を及ぼすことになる。

【日】南宋(1127-1279):日本では平安~鎌倉時代。南宋が始まるのは平安後期、白河上皇による院政(1086-1129年)の時期。南宋滅亡時は鎌倉後半で、北条時宗が第8代執権(1268-84年)のころ。

カラキタイ

1132 年:カラ=キタイ(西遼)の建国。

いい道に  誘われ建国  カラ=キタイ

 

契丹族(おそらくモンゴル系)のが、遼から独立した東北方の金(女真族)と、南方の北宋によって挟撃されて1125年に滅ぼされるが、遼の皇族である耶律大石(やりつたいせき)は、その前年の1124年から騎兵を引き連れて西への移動を始め、金の軍に追われながら移動を続けた。その道のりが快適であったかどうか分からないが(本当はそんなことはないだろうが)中央アジアに到達するとトルコ民族の東カラハン朝に代わって、1132年に"皇帝"に即位して西遼(カラ=キタイ)を建てることに成功したのだから結果的には「いい道」であったと言えるかもしれない。首都はベラサグン(おそらくカシュガルから北350キロくらいのところ。現キルギス内)。その後、西方にも版図を拡げ、最大版図時の西端はアラル海、東端は天山山脈のあたり。領土の西側ではセルジューク=トルコ帝国(ホラズム)と、東側では金とせめぎあった。王族・支配層は仏教を信仰したようである。しかしながら西遼は、13世紀に入ると西のホラズムから圧迫を受けて敗れ、チンギス​=ハンから逃れてきたナイマン部に帝位を簒奪され、100年たたないうちに滅んだ。

【日】鳥羽上皇による院政(1129-56年)の時期。

ゴール朝

1148 年:ゴール朝の成立。

☆ トルコ人  いい世 始める  ゴールです

 

ゴール朝は、アフガニスタンを本拠としたトルコ人イスラム国家で、1148年に始まる。その後、ガズナ朝を滅ぼして​(1186年)、北インドへ進出、ベンガル地方までを征服した。すぐに衰退が始まり、13世紀初めに滅亡した。ゴール朝から出た将軍が、デリー王朝を始めることになる。

【日】ゴール朝(1148-1215):日本では平安~鎌倉時代。成立時は平安後期で鳥羽上皇による院政(1129-56年)の時期。滅亡するのは鎌倉初期で、第3代将軍・源実朝、執権第2代北条義時の時代。

プランタジネット朝

1154 年:プランタジネット朝が始まる。ヘンリ2世即位。

☆ プランタジネット 「いい後進に」と  ヘンリ2世

 

イングランドでは、11世紀に征服王朝として始まったノルマン朝が12世紀半ばで途絶えた。血縁の関係で、フランスのカペー朝下のアンジュー家からイングランド王が出ることになり、イングランドでプランタジネット朝が1154年から始まった。つまりプランタジネット朝は、初めはイングランドとフランスの西半分を領有する王朝であった。しかしこの王朝がノルマン朝の「いい後進(後輩)」になったと言えるかどうかは評価の難しいところで、ヘンリ2世は、元々は友人であったカンタベリー大司教トマス・ベケットと激しく対立し、ヘンリの臣下が(勝手に)ベケットを暗殺するという事件が起こったりして人望を失った。​(ヘンリ2世は国内体制の確立のために粉骨していたようで、不運な事件に見舞われたために不当に世評を落とした感じがあるけれども。)2代目のリチャード1世は、第3回十字軍では英雄扱いになっているけれども、戦闘ばかりが好きな人物で、政治家としてはほとんど何もしてないようである。3代目には不名誉なジョン失地王を輩出してフランス側の領地を失っている。

【日】プランタジネット朝(1154-1399):日本では平安~鎌倉~室町時代。成立時は平安後期で鳥羽上皇による院政(1129-56年)の時期。2年後の1156年、鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇派と後白河天皇派の対立から保元の乱が発生。後白河天皇派が、平清盛や源義朝らの活躍により勝利する。王朝が終焉を迎えた1399年は、室町時代前半で足利義満(既に将軍職は辞していた)および第4代・義持(任1394-1423)の時代。

アイユーブ朝

1169 年:アイユーブ朝の成立。

☆ アイユーブ  日々 労苦にて  聖地に迫る

 

シーア派国家であるファーティマ朝の大臣でありながら、スンナ派を信奉していたクルド族出身のサラディンは、1169年に国を奪い、アイユーブ朝を建国してエジプトを支配した。その後、シリア方面にも勢力を伸ばし、1187年にはエルサレム王国(第1回十字軍が建てた国)を滅ぼして、聖地をイスラム側に奪回した。アイユーブ朝は13世紀半ばに、内部のトルコ人奴隷兵に倒されることになる。

(サラディンを出したクルド人は、イラク・トルコ・イランにまたがる山岳地帯クルディスタンを本拠とする少数民族。元々はアーリア系らしい。大部分がスンナ派イスラム教徒である。現在に至るまで民族としての自国を持たないが、他民族に同化することもなく、イスラム世界において複雑な意味を持つ存在となっている。)

【日】アイユーブ朝(1169-1250):日本では平安~鎌倉時代。建国時は平安末の平氏全盛の時代で、2年前の1167年に平清盛が太政大臣になっている。この時代、後白河院(​院政1158-79、1181-92)が、台頭する平家と(そして源氏とも)複雑な関係を持つ。滅亡時は鎌倉中期で、第5代執権・北条時頼(1246-56年)のころ。

第3回十字軍

1189 年:第3回十字軍。

☆ 第3回  いい役 演じる  獅子心王

 

第1回十字軍(1096-99年)で占領に成功したエルサレムが1187年に陥落したことは、ヨーロッパ諸国の王にとっても衝撃的であった。そこで、これを受けて1189年に始まった第3回十字軍は、いい役者がそろい、物語のネタになるようなエピソードも残した十字軍であった(残念ながら役者同士の反目があったけれども)。ドイツ(神聖ローマ帝国)から皇帝フリードリッヒ1世、フランスからカペー朝フィリップ2世(尊厳王)、イングランドからはプランタジネット朝リチャード1世(獅子心王)など錚々たる君主が参加。アイユーブ朝のサラディンがこれを迎え撃ったが、リチャードとサラディンは敵同士ながら親交も深めたとされ、サラディンも捕虜を全員助けて敵からも認められる人格者として伝えられたりしている。十字軍側としての聖地の奪還は成らず、1192年に休戦条約が結ばれた。最大規模の十字軍であったにもかかわらず、成果は巡礼者のエルサレム通行権の確保にすぎなかった。

​(このころ〔といっても広く12世紀頃ということだが〕ヨーロッパ大陸では十字軍に伴う人的交流・情報交流や、中世都市の発達を背景に「12世紀ルネサンス」という現象が起こっている。大学の創設やスコラ哲学の成立など。)

【日】1189年は、源頼朝が奥州を平定、源義経が追い詰められて自害した年である。4年前の1185年に源氏は平家を滅ぼし、頼朝は朝廷から守護・地頭の任命権を獲得している。そして3年後の1192年に後白河院が崩御し、頼朝は征夷大将軍になる。つまりこの1192年を鎌倉幕府成立の年とする説を取るならば、第3回十字軍は、ちょうど平安時代の最後の4年間に行われていたことになる。

第4回十字軍

1204 年:ラテン帝国の成立(第4回十字軍)。

☆ 第4回  人に お知らせ  ラテン帝国

 

1202年に始まった第4回十字軍は、教皇インノケンティウス3世(位1198-1216。教皇権の絶頂期とされる)の提唱によって行われた。(諸国の王が参加することはなく、北フランスの騎士が主力。)しかし、奇妙な脱線が起こることになる。船による遠征が計画されたのだが、船舶を提供することになったベネチア商人の意向や、ビザンツ帝国における帝位争いなどの複雑な事情がからんだ結果、本来の聖地回復の目的は棄てられることになり、ベネチアの商敵でもあったコンスタンティノープルを占拠して、そこにラテン帝国を建ててしまった(1204年)。教皇も初めのうちこの暴挙を咎めたが、ラテン帝国が建ってしまうと「東西教会の統合を祝福」したとされる。(東方教会を支配下に置く形になったことを喜んだということだろうか。)ただし、やはり教皇としては、結局聖地に向かわなかった十字軍には不満だったようである。ラテン帝国は半世紀ほど続いた(ビザンツ帝国に奪回され消滅。1261年)。

 この顛末は、「教皇権の絶頂」であったはずのインノケンティウス3世の時代が、実はすでに「教皇権の衰退」にさしかかっていたことを示しているのであろう。

【日】1202年に源頼家が第2代将軍に就くが、御家人と対立したため翌1203年には将軍職を剥奪されて伊豆・修善寺に幽閉され、1204年に北条時政によって暗殺された。「北条政権」の始まり。

モンゴル帝国

1206 年:チンギス=ハン、モンゴル帝国を建てる。

☆ チンギス=ハン  いずれ 向かうぞ  西方へ

 

12世紀前半にモンゴル系・契丹族のが滅ぶと、モンゴル高原で、それまで遼に服属していた諸部族を統合する動きが起こり、チンギス=ハンは1206年に、モンゴル系・トルコ系諸部族を合わせたモンゴル帝国を建てた。彼は西方遠征を行い、カラキタイ〔モンゴル系〕の王位を奪っていたトルコ系のナイマン部を滅ぼし(1218年)、イラン~西トルキスタンを支配していたホラズムを滅ぼした(1221年)。さらにモンゴルの拠点からは南方(中国北西部)にあるチベット系タングート族の「西夏」も攻めて、事実上壊滅させた(1227年)。(また配下に、中国東北北部~河北を占める女真族の金を攻めさせた。金が滅ぶのは1234年のことになる。)チンギス=ハンは西夏遠征の際に陣中で傷が悪化して、モンゴルへの帰途に死去するが(1227年)、その後も彼の子や孫が帝国を引き継ぎ、13世紀なかごろにはモンゴル帝国は東欧​付近までに版図が拡がる超巨大帝国になる。​モンゴル軍はすべて騎兵から成り、馬の装甲はなく兵士も軽装で、機動力と馬上からの弓矢の使用が軍事的成功をもたらしたようである。

(個人的な感想を述べさせてもらうと、私はモンゴル族が何故、こんなに急速に超巨大帝国を作ったのか、肌感覚として、その"動機"が分からない。かつての大帝国であったアケメネス朝とか"アレクサンダー帝国"とかローマ帝国などは、本質的には近隣にあってある程度の利害関係のある周辺地域に領土を拡げたという理解が可能だけれども、どうして東アジアのモンゴルに成立した国がいきなり西アジアやヨーロッパまで攻めていかねばならなかったのか? もっとも、うんと過去の例で、スキタイ〔BC7世紀?-BC3世紀?〕なども、本拠は黒海北岸のあたりなのに、その文物は東アジア北方にまで及んでいる。草原地帯の遊牧騎馬民族の感覚というのは、そういうものなのかもしれない。)

【日】北条義時、第2代執権(1205-24年)。

デリースルタン

1206 年:インド奴隷王朝が成立。デリー=スルタン5王朝の始まり。

☆ スルタンを  いつも お迎え  デリー朝

アフガニスタンを本拠とするゴール朝(1148-1215年)の将軍であったアイバクは、デリーにおいて自立し、1206年に奴隷王朝を開いた。アイバクが、元々トルコ人奴隷兵(マムルーク)であったことから、このような王朝名になっている。これはインド内部での初のイスラム国家であった。奴隷王朝を含め、デリーを都とするイスラムの5王朝が1526年まで320年続くことになったが、この5王朝をまとめて「デリー=スルタン朝」と呼ぶ。王朝の支配者としていつもスルタンを戴く形であったわけである。(大雑把に言えば、5王朝で13・14・15世紀くらいである。)

【日】デリー=スルタン5王朝(1206-1526):日本では鎌倉~室町時代。最初の奴隷王朝成立時は鎌倉初期で、第3代将軍・源実朝(位1203-19)および、北条義時、第2代執権(1205-24年)の時代。5王朝最後のロディー朝がムガル帝国に攻められて滅びる1526年は室町後期で、すでに戦国の世。この年、武田信虎が、富士北麓の梨の木平で北条氏綱勢を破っている。

皇帝フリードリヒ2

1215 年:神聖ローマ皇帝にフリードリッヒ2世が即位。

☆「君主なら  自由に行こう」と  教皇批判

 

両シチリア王であったフェデリゴ1世は、1215年に神聖ローマ皇帝に選出され、フリードリッヒ2世として20歳で帝位に就いた。(両シチリア王国は11世紀後半にノルマン人が建てた国であるが、フリードリッヒ2世の父である皇帝ハインリヒ6世〔シュタウフェン家〕はシチリア女王と結婚してシチリア王位を得ていた。)シチリアの地は、当時としてはヨーロッパよりも進んでいたイスラム文化との接点にもなっており、彼はイスラム文化の影響も受けて多面的(かつ異端的)な教養を身につけていた。彼は、教皇と対峙し、かなり効果的な教皇批判を初めて行った人物である。(晩年のインノケンティウス3世も、それに続いた歴代の教皇も、彼にてこずらされている。)また第5回十字軍(1228-29年)を、戦争というより外交交渉の形で行ったことにも大いに注目される(13世紀の時点で、キリスト教徒とイスラム教徒という異教徒の間で、対話と交渉を通じて互いの権利を認める"条約"をアイユーブ朝と締結している。人類史の中で、うんと控えめに言っても600年ほど先行している考え方ではないだろうか? ただし当時、フリードリッヒが肯定的な評価を得ることはなかったようだけれども)。「最初の近代君主」と評される。1250年没。

​ 彼はシチリア国王としても優れた政治家であり(中央集権・官僚行政・国法典)、また、いろいろな学問や文学にも関心を持っていた。文化振興を行うだけでなく、自身が動物学研究を行ったり、シチリア口語で詩を書いたりもしている。後にダンテは彼のことを「世界の驚異」と呼んだ。イタリア統一を目指していたようであるが、それは叶わなかった。

(意外といえば意外ということにもなるが、フリードリッヒ2世の姻戚から、スコラ哲学の大成者トマス=アクィナス〔1225-74年〕が出ている。ドミニコ修道会に学び、パリやローマなどで神学教授を勤めた。イスラム世界から流入したアリストテレス哲学などの影響を受け、神学と哲学を統合し体系化した。)

(「自由に」→「じゆうに」→「じゅうに」→12と読み取ってもらいたい。)

【日】2年前の1213年、第2代執権の北条義時(1205-24年)が、それまでの政所別当に加えて侍所別当も兼ねるようになっている。執権政治の確立期。6年後の1221年には承久の乱があり、朝廷に対する武家政権(幕府)の優位が明確になった。

大憲章

1215 年:大憲章の制定。

☆ 失政の  人に ひと言  大憲章

 

イングランド(プランタジネット朝)のジョン王は、フランスに持っていたフランス半分ほどの領地をほとんどカペー朝フィリップ2世に奪われ(このためジョンは失地王と呼ばれる。フランス側から言うと「フランス人はひとつの国民になった」)、司教の叙任権問題で教皇インノケンティウス3世から破門されるなど失政を重ねた。財政難のため(これは先代の兄リチャード1世による十字軍遠征出費のせいもあるが)重税を課したので、これに貴族たちが反発。貴族たちは1215年に「大憲章」を制定して、これをジョン王に認めさせた。王が独断で課税などをする権限を制限する内容であり、イギリス憲政史上のひとつの過程として重要視される。しかしながら「人民の権利」は全然重視されておらず、特権階級(貴族)が元々持っていたはずの特権の再確認という意味合いが強いけれども。

 西ヨーロッパの歴史において13世紀は、イギリス(イングランド)やフランスが、単なる「地域」から「国」らしきものに変わった時期と言ってよいかもしれない。イギリスでは、この大憲章制定から模範議会の開催(1295年)へと、ブリテン島内の諸侯が王権を制限する「国内体制」の萌芽が形成され、フランスでは対照的にフィリップ2世~ルイ9世が主導的に王権を伸ばす形で「国内」がまとめられていった。これらに対して神聖ローマ帝国(乱暴に言えばドイツ​・オーストリアとその周辺")では、「国」レベルに強くまとまる傾向はなかったけれども、13世紀前半に「最初の近代君主」フリードリッヒ2世が(イタリア南部、両シチリアから)出て、大空位時代を経て13世紀後期にハプスブルク家が登場してくる。

【日】北条義時、第2代執権(1205-24年)。日本では6年後の1221年に承久の乱があり、朝廷に対する武家政権(幕府)の優位が明確になった。さらに11年後の1232年には朝廷による法令とは別の形で、武家政権による初の法典「御成敗式目」が制定されることになる。これは第3代執権・泰時(1224-42年)の時代。

陳朝

1225 年:陳朝の成立。

☆ 陳朝で  人に 都合の  よい施策

 

ベトナム北部では、李朝から陳氏が禅譲を受ける形で、1225年に陳朝が成立した。陳朝はを撃退し、14世紀に入るとベトナム中南部のチャンパも攻めて領土を拡げたが、14世紀末に王が宰相に暗殺されて滅ぶ(1400年)。国の施策が関係しているかどうかは分からないが、陳朝時代に、漢字を元にして字喃(チュノム)と呼ばれるベトナム語表記用の国字がつくられた。これは20世紀初頭まで使われたという。

(王を暗殺した宰相は胡氏を名のり胡朝を建てたが、わずか7年で、永楽帝に攻められ滅んでしまった〔1407年〕。その後、再びベトナムは明の支配を退けて、1428年に後黎朝を建てる。)

【日】陳朝(1225-1400):日本では鎌倉~室町時代。建国時は鎌倉前期で北条泰時が第3代執権(1224-42年)。4年前の1221年に承久の乱(後鳥羽上皇による北条氏追討計画。失敗)があって、その後、鎌倉幕府の支配が畿内・西国にまで及ぶようになっている。陳朝が終わるころは室町前半で第4代・足利義持(1394-1423)の時代。​第3代・足利義満は1394年に将軍職を辞したが、実権は義満が握っている。

ワールシュタット

1241 年:ワールシュタットの戦い。

☆ ワールシュタットで  人に 示威する  バトゥの軍

 

チンギス=ハンの孫(長子ジュチの子。ジュチは父と不和になり父より早く死去)であるバトゥは、第2代オゴタイ(チンギス=ハンの第3子。遺言による​。位1229-41の下で西方遠征を担当した。1240年にロシア(キエフ公国)を滅ぼして、さらにポーランド・ハンガリーに侵入し、1241年にドイツ・ポーランド諸侯連合軍をリーグニッツ(シレジア地方の都市)で完膚なきまでに破った。モンゴル軍の威力がヨーロッパ世界の人々に対しても十二分に示されたといえるだろう。(ヨーロッパ軍が重装騎兵主体〔歩兵も加わる〕であったのに対し、モンゴル軍は全軍軽装騎兵で、後者のほうが圧倒的に機動力に勝った。しかも情報・諜報戦という面でもモンゴルのほうが優れていたようである。ヨーロッパ軍はモンゴル軍についてほとんど情報を持たなかった。)この戦いは、ワールシュタットの戦いと呼ばれるが、「ワールシュタット」は「死体の地」という意味で、後からリーグニッツの古戦場を指す通称になった。

 同年末にオゴタイの死去が伝えられたが、バトゥはモンゴルに戻ろうとせず、ヴォルガ川(カスピ海北岸に注ぐ川)河畔のサライを都として1243年にキプチャク=ハン国を建てた。この国は、1480年のモスクワ大公国独立によって権威が衰え、1502年にハン国の分家クリム=ハン国のために滅ぼされる。(「キプチャク人」というのは元々11~13世紀に現在のウクライナからカザフスタンの草原地帯に存在したトルコ系遊牧民族のことなのだが、主としてその土地を征して引き継いだ、という意味合いの国名である。もちろん被征服民としてロシアの大公・諸侯も含まれたけれども。)

(「示威」はここでは「しい」→41と読んでおいてもらいたい。濁らせて「じい」と読む方が一般的かもしれないが、「しい」と読むのも間違いではない。)

【日】北条泰時、第3代執権(1224-42年)。

マムルーク朝

1250 年:マムルーク朝の成立。

☆ マムルークの  人に 困るよ  十字軍

 

エジプト・シリア地方を支配するアイユーブ朝(1169年~)は、トルコ人奴隷兵(マムルーク)を買い集めて軍に用いたが、そのマムルークの勢力が国内で強まり、1250年にアイユーブ朝を倒してマムルーク朝を開いた。十字軍を撃退し、またモンゴル(イル=ハン国)からの攻撃も防いだ。16世紀にオスマントルコに征服されたが、マムルーク朝の領主層はオスマントルコ内に諸侯として残った。

【日】マムルーク朝(1250-1517):日本では鎌倉~室町時代。成立時は鎌倉中期で北条時頼が第5代執権(1246-56年)。オスマントルコに征服された1517年は室町後期で既に戦国時代。この年、武田信虎と今川氏親との間に和睦が成立している。

大空位

1256 年:大空位時代(神聖ローマ皇帝の不在)が始まる。

☆ 大空位  次の皇帝  いつ頃だ?

 

神聖ローマ帝国では、各諸侯の力がそれぞれ分権的強く、これらをまとめる皇帝の選出が困難だったために、皇帝が決まらない大空位時代が1256年から始まった。空位の状態は17年続いた。神聖ローマにおいて狭義の"皇帝権"("教皇権"と対峙する意味での)を持ち得た最後の皇帝がフリードリッヒ2世(位1215-50)だったと言えるかもしれない。大空位時代の後に登場するハプスブルク家は、教皇権が衰えてゆく中で、それ以前とはかなり違った権力構造を作り上げてゆくことになる。

【日】北条時頼、第5代執権(1246-56年)。

イルハン国

1258 年:イル=ハン国の成立。

☆ イスラム[教]を  人に 公約(?)  イル=ハン国

 

チンギス=ハンの孫(4男トゥルイの子で、モンケ、フビライの弟)にあたるフラグは、1258年にバグダッドを攻め落とし、イラン・イラクの地にイル=ハン国を建てた。この年が、アッバース朝滅亡の年ということになる。(アッバース朝最後のカリフとその皇太子は処刑された。)イル=ハン国は、初めは実はイスラム教徒を圧迫し、ネストリウス派キリスト教を保護した。しかしやがて第3代テグデル(位1282-84)イスラム教を信奉してそれを内外に表明するようになり、第7代カザン=ハン(位1295-1304)のときイスラム教を国教にして、税制などもイスラム式に変更した。ここにイラン=イスラム文化が成熟することになったが、15世紀にティムール帝国に攻められて分裂・消滅した。

(西方4ハン国のうち、イル=ハン国より先行して成立していた他の3ハン国〔オゴタイ・チャガタイ・キプチャク〕はむしろ元々領内にイスラム教徒が多いことをそのまま反映して早くからイスラム化しており、これらはネストリウス派時代の初期イル=ハン国と​は宗教面で対立していた。)

 イスラム世界が栄えた時代、イスラム圏では偶像崇拝排斥の教義のために絵画らしい絵画の製作は行われず、専らデザイン的なものだけが描かれていた。しかしイル=ハン国では、この時代のモンゴル帝国内の東西交流の中で入ってきた中国絵画(あるいは装飾絵画の付いた陶器など?)からの影響で、細密画(ミニアチュール)が描かれるようになった。これは(やはり"教義"への遠慮があったのかどうか)壁画などのように広い空間に飾る大きなものではなく、贅をつくした書物の中の小さな挿絵で、カザン=ハンの時代にとりわけ発達したようである。

​【日】イル=ハン国(1258-1411):日本では鎌倉~室町時代。成立時は鎌倉時代の半ばで、イル=ハン国が消滅したのは室町前半、3年前に足利義満が死去し室町幕府4代将軍・足利義持の時代。

身分制議会

1265 年:シモン=ド=モンフォール、身分制議会の開催。

☆「ヘンリさん  人に むごい」と  初議会

 

イングランドでは、ジョン失地王の後を継いだプランタジネット朝ヘンリ3世(ジョンの息子)も、大憲章を無視して暴政を行い続けたので、貴族の指導者シモン=ド=モンフォールが王を捕らえ、1265年に貴族・聖職者に州や都市の代表(市民)を加えた身分制議会を初めて開催した。このとき加えられた州や都市の代表が、下院の起源とされる。「ヘンリさん」は「ヘンリ3世」にかけてある。

【日】モンゴル帝国のフビライが、日本を服属させようと考え始めたのが1265年のことである(元寇に至る動きの発端)。3年後の1268年、フビライの命を受けた高麗の使節団が初めて日本を訪れている。これは北条時宗・第8代執権(1268-84年)が就任した翌々月のことである。その後、元寇までに4回ほどフビライは使節を派遣したが、日本側は積極的に応じる姿勢を示さなかった。

第7回十字軍

1270 年:第7回(最後)の十字軍。

☆ 戦(いくさ)やめ  人になれかし  十字軍

 

第6回(1248年~)と第7回(1270年)の十字軍(数え方によっては第7回と第8回)はフランス(カペー朝)のルイ9世が起こしたものである。ルイ9世はキリスト教信仰に篤い王として聖王と呼ばれ、国内の異端(アルビジョワ派)の討伐なども行っているが、聖地回復は彼にとって悲願だったようだ。(聖地を支配するアイユーブ朝を挟み撃ちする意図で、ルブルックをモンゴル帝国に派遣したりもしている。​もっともルブルックが持ち帰ったモンケ=ハンの返書は「フランス人はモンゴル人に降伏しろ」という調子のものだったようだが。)第6回のとき、ルイはエジプトで捕虜になり、身代金を払って帰国。第7回ではチュニスの地で病没している。

(ルイ9世〔位1226-70〕は、単に信仰面だけではなく政治業績も併せて、中世君主の中で最も理想的な人物像が伝えられる存在である。即位時は4歳で母后が摂政であったが、後に30年以上にわたって直接政務にあたり、国内制度を良心的に整備して国の基礎を固めた。)

 第2回以降、十字軍は聖地を奪還することなく終わったが、ヨーロッパ社会にいろいろな影響を与えた。現実の十字軍の活動は、純粋に聖地回復を望むということばかりではなく、領地・戦利品の獲得や略奪や、交易権益の拡充などを考える者も多かった。(十字軍の時代、イスラム世界はヨーロッパよりもはるかに栄えていたわけで、十字軍という出来事の本質は、文化的に遅れた地域であるヨーロッパの蛮人たちがイスラム圏へ略奪に出かけて行って、高度な文明の一端を見た、ということなのかもしれない。​"教科書的"な世界史の中では、中世のヨーロッパ人が"蛮人"であったという観点は、あまり強調されないのだが。

【日】北条時宗、第8代執権(1268-84年)。

1271 年:元の成立。(フビライが国号を元と定める)

いつにない  中国風の「元」と決め

 

チンギス=ハンの孫で、初め兄モンケ(第4代​。位1251-59)の下で中国方面の攻略を始め、モンケの死後に第5代のハン位を得たフビライ(位1260-94)は、都をカラコルムから大都(北京)に移した(1260年)。このときのフビライによるハン位獲得の強引さのために、モンゴル帝国全体の中では強い反目が生じたが(ハイドゥの乱〔1260-1301〕の発端。ハイドゥは第2代・オゴタイ=ハンの孫で、"ハイドゥの乱"はハイドゥがフビライに対して繰り返し仕掛けた戦闘を指すが、この対立を背景に諸ハン国は独立状態に移行してゆき、モンゴル全体としての形でのハンの選出は結果的にフビライで打ち止めとなる)、フビライはハイドゥに対応しながら中国方面の攻略を進め、後に国号を(北方民族ではあるけれども)中国風の「元」と定めた(1271年)。この頃フビライは中国北部・西部から、南宋のみならず周辺地域に勢力を拡大しようとしており、日本にも服属を強いるためにたびたび使者を送っていた。鎌倉幕府はこれを退けたので、1274年に元は九州北部に攻め込んだが、大風雨に会い退却した(文永の役)。元が南宋を滅ぼして中国を統一するのは、元の成立から8年後のことになる。

(「東方見聞録」のマルコ=ポーロは、単に旅行者として当時の北京を訪れたというのではなく、1270年代から20年ほどフビライに仕えている。)

​「北京」の地は、古来からひとつの要地ではあったようだが、元々の漢民族国家の拠点であった長安や洛陽からすると、ずいぶん高緯度である。(大雑把に緯度で比べると前者は日本の奈良のあたり、後者は秋田のあたり。)この地を首都にしたのは元に滅ぼされた「金」が最初であるが、これも漢民族ではなく女真族の国であった。現在の中国が、元々はどちらかというと"北方異民族の拠点"であった北京を首都にしていることは、古代からの中国史を眺めると、ちょっと意外な感じもする。

(ここでは「いつ」をまとめて1と読み取ってもらいたい。)

【日】鎌倉幕府で北条時宗、第8代執権(1268-84年)。翌1272年、後嵯峨法皇が崩御し、その次代以降の皇室に、第89代・後深草天皇の系統(持明院統)と第90代・亀山天皇の系統(大覚寺統)の対立が生じることになった。(後深草と亀山は兄弟である。)元がほろぼされる1368年には、室町幕府の第3代将軍に、まだ10歳ほどの足利義満が就任している(任1368-94)。

大空位終

1273 年:大空位時代が終わる。

☆ 空位 終え  人に 情けの  ハプスブルク

 

ハプスブルク家の始祖ルドルフ1世が1273年に神聖ローマ皇帝に選ばれ、17年間の大空位時代は終了した。ハプスブルク家は、ここから歴史に現れる。彼が選出された理由は、情け深くて人望があるというより、むしろ他の諸侯から御しやすい存在と見られたということのようである。しかし諸侯の思惑とは違ってルドルフは外交・軍事に手腕を発揮し、神聖ローマの混乱を収める働きをした。ハプスブルク家興隆の最初の基礎固めが、彼によって行われた。その後、15世紀中盤以降には、神聖ローマ帝位をハプスブルク家が独占するようになる。

 なお、ハプスブルク家はルドルフ以前にはスイス北部を本拠地としていたが、ルドルフは教皇との関係修復を図りつつ家領政策を進め、オーストリアの支配権を獲得した。そしてハプスブルク家の本拠地を、ドナウ川に臨む交通の要地ウィーンに移した。以後、ウィーンは中世から近代・第一次大戦までハプスブルク家(と神聖ローマ帝国)ゆかりの地として続くことになる。(ただし1346年から、三十年戦争が終わる1648年までは、どちらかというとプラハのほうが本拠地だったようで​もあるし、細かく見てゆくと実情はかなり複雑で、一貫した本拠地という言い方はできないけれども。)

【日】北条時宗、第8代執権(1268-84年)。翌1274年、元寇の1回目(文永の役)。

宋滅亡

1279 年:南宋の滅亡。

いつになく  激しい進軍  宋ほろぶ

 

元を建てたフビライは、南方に残る南宋の攻略にかかって、順次、要衝を抑え、揚子江を下ってゆく形で南宋の都・臨安に迫っていった。南宋の防衛のためにかき集められた艦隊は大敗し、臨安の前面にモンゴル軍が迫った。もはや城下で戦っても戦果を望めない南宋の朝廷は降伏を決定してモンゴル軍に伝え、臨安は戦禍にさらされることなく平穏にモンゴルの支配下に入った(1276年)。モンゴル軍は残る各地に帰順を促し、あるいは討伐を加えて占領地を拡げていった。南宋政府において主戦派であった一部の遺臣たちは、帝の兄弟を奉戴して南方に逃れつつ抵抗活動を続けたが、モンゴル軍に激しく追跡され、1279年に広東の厓山(がいざん)という島において長い消耗戦の末に敗れた。これで南宋勢力は完全に一掃され、モンゴル軍は中国統一を達成した。

("南宋滅亡"の年として、正論としては臨安政府が降伏した1276年とするのが妥当かもしれないけれども、ここでは南宋の勢力が完全に潰えた時点ということで1279年にしておく。ちなみに、元の時代に書かれた、太古から宋代までを扱った歴史読本『十八史略』〔1321-23年〕は、この南宋の"完全滅亡"をエンディングに置いているのだそうだ。)

【日】北条時宗、第8代執権(1268-84年)。5年前の1274年に1回目の元寇(文永の役)。2年後の1281年に2回目の元寇(弘安の役)。

模範議会

1295 年:模範議会の開催。

☆ エドワード  千人 糾合(きゅうごう)  模範議会

 

イングランド(プランタジネット朝)のヘンリ3世の子、エドワード1世は、スコットランドに侵攻するための戦費調達を目的として、1295年に議会を招集した。聖職者・貴族のほか、各州2名の騎士、各都市2名の市民を代表とし、これが当時のイングランドの実情に合っていたと見られることから、この議会は後世、「模範議会」と名付けられた。王の側から、議会を認めると同時に、むしろこれを利用しようという意図だったのであろう。参加者が千人というのは誇張で、数百人(400~500人くらい?)だろうが、多かったという意味合いで千人にしておく。(「糾合」は、人を寄せ集めること。「糾」は〔糸を〕より合わせる意。)

 プランタジネット朝では2~4代目に、何らかの"異常"を感じさせる王が続いたが(戦争好きのリチャード1世、ジョン失地王大憲章を無視したヘンリ3世)、これに対して5代目のエドワード1世は"真っ当なイギリス君主"と呼んでよい存在かもしれない。議会と立法を重視して国内体制の整備を進め、"外征"面では大陸(フランス)よりもウェールズやスコットランドに目を向けていた。

【日】北条貞時、第9代執権(1284-1301年)。2年後の1297年、永仁の徳政令を発令。

オスマントルコ

1299 年:オスマントルコの建国。

☆ オスマン建国  周囲の人に  汲々

 

オスマントルコは、モンゴル人に追われて西トルキスタンからアルメニアを経て小アジアに入ったトルコ人が、1299年に建てたスンナ派イスラム教国である。14世紀後半から東欧方面へ領土を拡げ始め、15~16世紀には勢力を拡げて3大陸にまたがる大帝国になるが、最初のうちは小アジアとバルカンのごく一部で周囲の圧力に耐えて​、そのせめぎ合いに汲々としていたようにも見える(バルカン方面に侵攻してはいるのだけれども)。後には、メッカの地を得て、カリフ政治の後継を称するようになる。オスマントルコ帝国は20世紀、第一次世界大戦後まで(~1922)存続し続ける。

【日】北条貞時、第9代執権(1284-1301年)。

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