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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(0501~1000年)

 

                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

ユスティニアヌス

527 年:東ローマ帝国で、ユスティニアヌス帝が即位。

☆ ビザンツで  栄光 担う  ユスティニアヌス

 

ユスティニアヌス帝は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に最盛期をもたらした「ローマ帝国中興の英主」であるが、その即位は527年である(~565年)。この即位の年は、奇しくも東ゴート王国のテオドリクの死去の翌年にあたる。ユスティニアヌスは東ゴート王国(イタリア)や、ヴァンダル王国(アフリカ)を滅ぼして、地中海沿岸のローマの旧領をおおむね回復することに成功した。また、「ローマ法大全」の編纂や、聖ソフィア聖堂の建築、養蚕の導入などを行った。ビザンツ帝国最初にして最後の賢帝と言ってよいであろう。

【日】ユスティニアヌス(位527-565):日本では、継体~欽明天皇(26~29代)の時代。継体天皇は現在まで続く皇統の確実な「始祖」とも言える存在である。527年に筑紫国造磐井の乱が起こり、翌年大和政権がこれを鎮圧している。おそらくこれは継体天皇の時代。ユスティニアヌスの晩年に近い562年、朝鮮半島において任那日本府が新羅に滅ぼされる。これは欽明天皇の時代。

ベネディクト

529 年:ベネディクトが最初の修道院を設立。

☆ 人々の  幸福祈る  ベネディクト

 

ベネディクトは529年、イタリアのモンテ=カシノ(ローマの南東130キロほどのところ)にベネディクト修道院を設立したが、これがキリスト教世界における修道院制度の始まりである。修道士は、服従・清貧・貞節を旨とし、ベネディクト戒律に従った。6世紀末には、教皇グレゴリウス1世が、すべての修道院をベネディクト戒律に従わせるようにした。都会であるローマを離れたベネディクトは「祈り、かつ働け」と説いており、これはベネディクト会の標語となっている。"労働"を"祈り"と同等に重要なものとして価値を認めたことは、おそらく画期的なことで、単に聖職者の世界だけでなく、西欧世界全体に計り知れない影響を与えたと言ってよいのかもしれない。修道院制度は、民族大移動後の西方において社会共同体を構築する上で、教皇権と結びついて極めて重要な役割を果たし、さらには中世全体を通じて民衆の教化や教会の刷新などの拠点として働いた。

(修道士のような信仰活動の形態は、東方には古くからあったようだし、西方では、たとえばアウグスティヌス〔354-430年〕が〔アフリカのヌミディアにおける司祭として〕先駆的な試みを行ったとも言われるが、後世に残る修道院制度はベネディクトが始めたものである。)

​【日】おそらく第26代・継体天皇(位507?-531?)の最後の頃。

ホスロー

531 年:ホスロー1世が即位。

☆ ササン朝  ホスロー1世  ゴーサイン

 

ホスロー1世は、531年にササン朝ペルシャで帝位に就いた。彼の治下でササン朝は黄金時代を迎える。東では突厥と結んでエフタルを滅ぼし、西ではビザンツ帝国(東ローマ帝国)と争って、東西に領土を拡げた。また、国内的にも専制体制を強化し、国力を充実させた。

​【日】ホスロー1世(位531-579):ホスロー即位の年は、おそらく第26代・継体天皇が没して、第27代・安閑天皇が即位した頃(?)。宣化(28代)、欽明(29代)の兄弟相続の時代を経て、第30代、敏達天皇の頃まで。

アンティオキア攻略

540 年:ササン朝ペルシャ、ビザンツ帝国と戦い、アンティオキアを攻略。

☆ ホスロー御司令  ビザンツ攻撃  ササン朝

 

ササン朝のホスロー1世は、しばしば東のビザンツ帝国(ユスティニアヌス帝)と争ったが、540年にアンティオキア​(地中海東岸北部の都市)を攻略、領土を拡げて威信を示した。

 しかし、この一事のみを取り上げると、大局的な錯誤を生じるかもしれない。ササン朝ペルシャとローマ帝国(もしくは東ローマ帝国)は、3世紀から7世紀にかけて領土を接していたわけで、この期間に両者の抗争は慢性的に続いていた。この抗争は、単なる領土抗争というだけでなく、「キリスト教」対「ゾロアスター教」という宗教抗争の側面も含んでいた。(両国とも、政治のために特定宗教を利用する国家だったわけである。)この慢性的な抗争は、両国自身を疲弊させたばかりでなく、地中海東岸や小アジアなどの地域を疲弊させ続けた。7世紀、南方からの新たなイスラム勢力の拡大により、この抗争は終焉を迎えることになる。

【日】2年前の538年(戌午説)、百済の聖明王から欽明天皇(29代:位539?-571?)に仏教が伝えられた。

東ゴート滅亡

555 年:ユスティニアヌス帝、東ゴート王国を滅ぼし、イタリアを奪還。

☆ イタリアで  今後 ゴートは  駆逐され

 

イタリアは、476年の西ローマ帝国滅亡以降、これを倒したオドアケルに支配されるようになり、その後493年にテオドリクがオドアケルを退けて東ゴート王国を建てていた。東ゴートは元々はビザンツ帝国から建国を了承されていたが、宗教問題(ビザンツはアリウス派の弾圧を始めた)などで次第に両者は反目するようになり、またテオドリクが526年に没した後には、東ゴート王国も弱体化した。そして、ローマ帝国の再統一をもくろむビザンツ帝国のユスティニアヌス帝に攻められて、東ゴート王国は555年に滅ぼされてしまった。しかしビザンツ帝国のイタリア支配も長くは続かず、ユスティニアヌス没後3年目の568年、北方から約5万人のロンバルド族が南下してきて、イタリア北部にロンバルド王国を建てることになる(首都はイタリア北部のパヴィア)。王国はその後、中部イタリアまで進出し、ローマ教会(当時は形式的に東ローマ帝国領)に圧力をかけるなどした)。ロンバルド族は、中世初期の時代に地中海世界にやってきた最後のゲルマン民族である。(中世中期にはまたノルマン人の流入が起こるけれども。)ロンバルド王国は、8世紀後半にフランク王国のカール大帝によって滅ぼされる。

【日】第29代・欽明天皇(位539?-571?)の治世。

隋統一

589 年:隋が中国を統一。

☆ 隋 統一  楊堅だれも  恐くない

 

581年に、北朝最後の北周から禅譲を受ける形で王朝交代を実現した楊堅(ようけん)は、国号を「隋」として、589年に南朝の陳を滅ぼして中国全土を統一し、南北朝時代を終結させた。(楊堅は北周において帝の外戚であり、宰相を務めていた。)楊堅は西晋滅亡からおよそ270年ぶりの中国統一を成し遂げたわけで、楊堅は、もう恐いものなしという心境だったかも知れない。

(約270年ぶりの「漢民族による中国統一」と言いたいところで、実際に楊堅は自身が漢人だと称していたけれども、実は血筋としては鮮卑であるらしい。しかしもうこの頃、華北の鮮卑人は元々の遊牧民的性質を失って充分に「漢化」していたと推測されるので、文化的には「漢民族による中国統一」と言ってもさほど瑕疵はないかもしれない。)

 楊堅は、新都市計画により都・長安を造りかえた。そして均田制・府兵制などを整え、科挙制度の基礎を築くなど(地方官が有力豪族の子弟を官吏に推薦する「九品中正」を廃して、試験選抜による実力主義の官吏任用方法を導入)、隋・唐時代の巨大な中央集権国家体制を確立・維持するための重要な布石を敷いた。民心にも気を配り、仏教の興隆にも力を尽した。賢帝と評してよいかと思われるが、604年の死去は息子(次子)の煬帝による暗殺だったのではないかという風聞もある。(楊堅は、そのとき病気ではあったのだが、楊堅の次男の楊広が、病室にいた他の者を別室にさらせた。そのあと、にわかに楊堅は死んだ。またこれ以前に楊広は策を弄して、元々は皇太子だった兄を廃太子に追い込むようなこともやっている。この楊広が煬帝として即位した。)もしこれが本当であれば、息子が最も危険な人物だったわけである。

【日】2年前の587年、用明天皇(32代)が崩御し、その後継争いから崇仏戦争が起こった。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしている。

『隋書倭国伝』には、600年に楊堅の下へ倭王の使者が訪れたという記述があるが、このことは何故か『日本書紀』には記載がなく、前後の経緯も不明である。607年には、遣隋使小野妹子が聖徳太子〔厩戸皇子〕の命により、隋の2代目の煬帝に朝貢し、おそらく太子が書いたとされる「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という国書を渡した。煬帝は無礼な国書と怒ったが、高句麗征服を目論んでいた煬帝は、当面日本を味方につけておく方が得策と考え、翌年国使をつかわした。)

グレゴリウス1

590 年:グレゴリウス1世、教皇になる。

☆ グレゴリ[ウス]1世  ごく冷静に  布教する

 

西ローマ帝国は5世紀に滅んだけれども、カトリック教会は生き延びて、キリスト教の広まりとともに、より重要な存在になっていった。ローマの司教は特別に「教皇」と呼ばれるが、ローマが使徒ペテロ(イエスの一番弟子と言ってもよいだろう)の殉教の地とされることから、「教皇」という尊称にはペテロの後継者という意味合いがあり、ローマ教会は全キリスト教会の"総本山"と見なされることになる。グレゴリウス1世は、590年に教皇の座に就いた。英語式なら「ウス」を省いて「グレゴリ」と呼んでもよい。グレゴリウス1世は、ゲルマン人に対する伝道を、ベネディクト派修道士を用いて推進した。(蛮族の脅威からローマ教会を守るということではなく、むしろ積極的に蛮族〔異端とされるアリウス派も多い〕を改宗させ、"ゲルマン世界"においてローマ教皇権を基礎づけるという方針を採ったわけである。)また、修道院にベネディクト戒律を守ることを指示し、各修道院を保護するなど、中世カトリックの基礎を築いた。その偉業を称えて「大聖グレゴリウス」とも呼ばれる。彼以降、ローマ教皇は、歴史の中で重要な役割を担う存在になってゆく。

 「教皇」は、英語表記では「Pope」であるが、これはギリシャ語の「父」を表す尊称に由来し、現在の幼児語「papa」(パパ)と同源であるらしい。

(西洋音楽のルーツとされる「グレゴリウス聖歌」は、言い伝えとしては、グレゴリウス1世が編纂したということになっている。実際にはカロリング朝下で9世紀ごろにローマとガリアの聖歌が統合されて成立したようだが。)

【日】2年後の592年、崇峻天皇(32代)が蘇我馬子の計略で暗殺され、推古女帝(33代)が即位。そして593年に聖徳太子が摂政となった(とされる)。

ヴァルダナ朝

606 年:ハルシャ王の即位。ヴァルダナ朝の北インド統一

☆ ヴァルダナが  統一宣言  朗々

 

中央アジア​(バクトリア地域)に興ったエフタルが5世紀半ばにクシャナ朝を倒し、さらにグプタ朝を攻めて西北インドに侵入すると、北インドは分裂状態になった。(グプタ朝は、6世紀半ば〔550年〕に滅んだ。)その中から、6世紀にヴァルダナ朝が台頭し、606年に,その王ハルシャ=ヴァルダナが北インドを統一した。王自身は仏教に帰依したが、ヒンドゥー教などの他の宗教も保護した。ハルシャ王の政治はきわめて平和的なもので、福利政策なども積極的に進めたようである。の僧、玄奘(明代の小説「西遊記」に出てくる三蔵法師のモデル)は、ハルシャ王の時代(633年)に王城やナーランダ僧院を訪れて歓待を受けた。因みに、ナーランダの地は、ゴータマ=シッダルタの時代にマガダ国の首都があったラージャグリハ(王舎城)にほど近い所にある(北に13キロほど)。(玄奘は帰朝後に見聞の口述を弟子に編纂させて『大唐西域記』全12巻を残すとともに、膨大な仏典の翻訳を行った。)また、ハルシャ王は唐の李世民に修好施設を派遣したりもしている(641年)。しかし、647年にハルシャ王が死去すると、後継者もなく、北インドは再び分裂状態になる。一代限りの王朝であった。

(ゴロ合わせが少々苦しいが、勘弁してもらいたい。「ろうろう」→「ロオロう」→「606う」)

【日】第33代・推古女帝(位592-628)、聖徳太子(摂政:593-622)の時代。翌607年に、聖徳太子が小野妹子らを遣隋使として隋の煬帝のもとへ派遣。

618 年:唐の成立。

☆ 李淵 立ち 「浪費 やめろ」と  煬帝倒す

 

の第2代皇帝、煬帝(ようだい。位604-618)は、莫大な資金と人力を投入して、杭州〔南京の南南東230キロ、銭塘江の下流の都市〕-江都〔揚子江下流の都市、南京の近く〕-洛陽〔黄河中流〕-北京〔海河流域〕を水路でつなぐ大運河の工事(煬帝は即位前に江都に駐在経験があってこの地を気に入っており、運河を利用して豪遊したかったのだろう)や、周辺諸地域への遠征(南方や西方には戦果を挙げたが高句麗遠征は3度失敗している)を精力的に行った。(大運河に関しては、3世紀の東晋の時代以降に江南の開発が進んだため、南北の交通運輸を重視したという見方も理屈としてはあり得るけれども、やはりその行状から察するに違うようである。)人民に対する酷使ははなはだしく、各地で人民による叛乱も頻発したが、帝自身はそのことを全く顧みなかったので、煬帝は希代の暴君と評されることになる。各地に隋打倒のための群雄が立ったが、李淵もそのひとりとして617年に挙兵し、帝が留守の長安を制した(このとき煬帝は江都にいた)。翌618年に煬帝が殺されたことを知ると、李淵は国号を唐と改めて(高祖として)即位し、息子の李世民の補佐を得て、中国の統一をすすめた。煬帝を直接殺したのは煬帝の臣下であったが、歴史の流れとしては、李淵が煬帝を倒したと言っても、まあ許されると思う。(「隋倒す」に変更してもよいけれども。)

(「李」氏は家柄としては元来、名門でも何でもないようなのだが、帝室の建前としてそれでは具合が悪かったようで、老子の子孫と称した。〔司馬遷の『史記』によると、老子のは李、は耳、は聃。〕そういう事情があって、唐王朝では代々、(官学・政治学としての儒教は別格として)宗教政策としては仏教より道教の優遇策を採った。しかし世の実情としては、仏教のほうが道教よりもはるかに強い勢力であったけれども。たとえば唐の成立に先立つ6世紀、智顗〔ちぎ。538-597年〕は法華経を主要経典に据える天台宗を興しており、実は晋王時代の煬帝から智者大師の号を受けている。隋末唐初の時代は、智顗の弟子の灌頂〔かんじょう。561-632年〕が天台宗を受け継いだ。別に唐の帝室も仏教を一貫して"冷遇"したわけでもなく、たとえば後の李世民や高宗〔李治〕は玄奘を厚遇したりしているのだけれども、総体的な優先順位となると「道先・仏後」の方針は基本的には変わらなかった〔則天武后は例外〕。)

​【日】唐(618-907):日本は大和~奈良~平安時代。建国時、日本は第33代・推古女帝(位592-628)、聖徳太子(摂政:593-622)の時代。唐の滅亡時は平安前半で、第60代・醍醐天皇(位897-930)の時代。

聖遷

622 年:マホメット、メッカからメディナへ聖遷。

☆ メッカでは  ろくに 増えない  信者たち

 

アラビア半島中西部の都市メッカの商人マホメット(ムハンマド)は、40歳ごろになって突然、神の啓示を受けたと称して布教を始めた。(マホメットは自身のことをユダヤ教・キリスト教を継承する「預言者」と位置づけている。してみると当時メッカのあたりにベドウィン族に混じって多少はユダヤ教徒やキリスト教徒もいたのだろうか?それとも商人としてシリアとの交易などの際に影響を受ける機会があったのだろうか?)しかし当初、アラブ人商人たちの腐敗と地元の多神教の偶像崇拝を批判したために、むしろ迫害に遭い、622年に北のメディナへと移った。これがのちに「聖遷」(ヒジュラ)と呼ばれるようになる。8年後、マホメットは1万の大軍をひきつれてメッカを征服、現地の信仰の中心とされていたカーバ神殿にあった数百もの神像をすべて破壊し、この神殿をイスラム教の唯一神アラー信仰の正殿とした。最初は迫害を受けた地であるにもかかわらず、イスラム教信者たちにとってメッカは聖地となった。(イスラム教徒が現在も公式暦として用いているヒジュラ暦は聖遷の年622年を元年とし、1年が354日の太陰暦である。)マホメットは各国(ビザンツ・ペルシャなど)に親書や使者をおくったが、彼の使者に会った唐の李世民が回教寺院の建立を許可したという逸話もある。広東に最も古い回教寺院が残っているとのことである。(もっともこの李世民のエピソードは信用できないという見解もあるが。)

 イスラム教の著しい特徴(少なくとも理念上)は、徹底した平等主義だと言えるかもしれない。コーランの教えに従う信者は、一切その出自によらず平等ということになっており、また、"聖職者"という地位すら存在しないようである。(学識者や礼拝指導者はいるにしても、それは神〔アッラー〕と個々の信者の間に介在する存在ではないらしい。)

​ もうひとつ(これは私見だが)世界宗教となったイスラム教の大きな意味は「商業肯定」の思想にあるのではないかという気がする。ゴータマ・シッダルタは王族出身で、在家の商人信者とも交流はあったけれどもあくまで出家(つまり脱・職業)を最重視したようだし、ナザレのイエスは大工の子だったかもしれないが、職業生活をしたような形跡は観られない。マホメットは明らかに「商人」だったのである。

(世界史を大局的に大雑把に見るならば、西アジアでのマホメット~イスラム帝国〔ウマイヤ朝アッバース朝〕の時代と、東アジアにおける南宋まで〕の時代がだいたい重なる。両者はともに、モンゴル帝国によって終焉を迎える。)

【日】この622年に聖徳太子が没している。マホメット(570頃632)と太子(574622)は、前者のほうが長生きしているが、同時代人である。

李世民

628 年:唐の李世民が中国統一。

☆ 貞観の世  ろくに 休まぬ  李成民

 

の第2代皇帝、(太宗)李世民は、中国史上最高の名君と称えられる人物である(清の康熙帝を第1に推す人もいるが)。即位は626年であるが、翌627年に元号を「貞観(じょうがん)」と改元し、628年に中国全土の統一を成し遂げた。李世民は、内政では唐王朝の基礎を固める施策として、隋で採用された均田制科挙制を継承し整えながら、三省・六部の政務機関を設け、州県制を敷き、律・令などの法典を整備した。対外的には北方の東突厥を討ち、西域、南海まで手を伸ばした。(640年、高昌〔トルファン〕に安西都護府が置かれ、648年にはこれが更に西の亀茲〔クチャ〕に移された)彼の治世は「貞観の治」と呼ばれて名高いが、これだけの偉業を成すには、休む間など無かったかもしれない。彼の治世は649年の死去まで続いた。

 なお、文化学術面においては、官学としての儒学を重視していた李世民は、孔穎達〔こうえいたつ/くようだつ〕らに命じて『五経正義』を編纂させた。これは儒家の聖典である五経(「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」)に対する当時の訓詁学に基づく注釈書である。これによって、科挙の試験などで拠り所とされるべき標準的な学説が固定化されることになったわけだが、副作用として自由な儒学研究を行えるような風潮は失われ、以後、儒教の思想的な発達が見られなくなってしまった。

(僧・玄奘がインドへの陸路往復の旅を行ったのは、629-645年のことである。帰国に先立つ644年、李世民がインドへ派遣していた特使からの報告で玄奘のことを聞きおよび、西域諸国やインドの詳細な情報が得られるものと喜び、帰朝に充分の便宜をはかるように指示を出した。〔上述のように、まさにこの頃、李世民は熱心に西域進出を手掛けていたわけである。〕玄奘の見聞の口述を弟子がまとめた『大唐西域記』は、帰朝の翌年646年に完成している。​その後も李世民は〔そして次代の高宗・李治も〕玄奘の仏典翻訳作業に対して充分な援助を与えた。​『大般若経』600巻の漢訳が玄奘の最大の翻訳業績とされる。

【日】628年、推古女帝(33代)崩御。翌629年に舒明天皇(34代)即位。(聖徳太子の子・山背大兄王は、蘇我蝦夷によって即位を阻まれた。)​翌々630年、第1回遣唐使派遣。

正統カリフ

632 年:マホメットの死去。正統カリフ時代の始まり。

☆ 教祖 逝(ゆ)き  無味になったか? カリフ国

 

マホメットは10年間、アラブ世界にイスラム教勢力を広めて、632年に世を去った。彼の死後、イスラム教徒は指導者として、カリフ(後継者)を選出した。初代アブー=バクルから4代目カリフのアリー(マホメットの娘婿)までは、選挙によってカリフが選出された。この4代を正統カリフと呼ぶ。(初代アブー=バクルはマホメットの親友で、マホメットの近親者以外で最初に入信し、マホメットの生前、彼の布教活動を補佐して勢力拡大に貢献した人物。入信後、娘をマホメットに嫁がせたので、義理の父ということにもなる。)マホメットがいなくなっても、イスラム教が無味になることはなく、むしろアラブ民族の結束が促された。この間、ササン朝ペルシャを滅ぼし、ビザンツ帝国を攻めてシリアやエジプトを征服するなど、アラブ人の勢力範囲は急速に拡がり、イスラム帝国の礎が築かれた。​「正統カリフ時代」は、この632年から、ウマイヤ朝が成立する661年まで。(ビザンツ帝国は、経済的に重要なオリエント諸地方を失うことで、ますます弱体化することになった。)

(イスラム教徒が支配する正統カリフ時代~ウマイヤ朝アッバース朝の帝国を、イスラム帝国と呼ぶ。)

​【日】第34代・舒明天皇(位629-641)の時代。

ニハーヴァンド

642 年:ニハーヴァンドの戦い。

☆ ニハーヴァンドで  無用になった  ペルシャ国

 

正統カリフ時代、イスラム教徒の軍はササン朝ペルシャを攻め、642年にイラン西部のニハーヴァンドで勝利を収めた。ササン朝の完全な滅亡は、その9年後になるが、ニハーヴァンドの戦いで実質的には崩壊したと見てよい。以後、イランの地は長く外部からの支配を受け、再びイラン人による国家ができるのは16世紀になる。

 ササン朝の滅亡以降、一部のペルシャ人はイスラム支配を逃れ、東方(中央アジア・インド・中国など)に移っていったようである。唐に移り住んだペルシャ人によってゾロアスター教への信仰が続けられ、これは「祆教」と呼ばれている。(唐代の伝奇小説『杜子春伝』に出てくる仙人のモデルは祆教の祭司なのだそうだ。)さらには8世紀の日本の平城京にペルシャ人の役人もいた。仏教の仏像に「光背」が付くようになったのも、ゾロアスター教徒の「拝火」の風習が仏教に影響を与えたものらしい。もっとも、ペルシャ系文化の東方伝播の問題は、単純にパターン化できないところがある。現在トルキスタンと呼ばれるあたりの東西交易に関わる地域には、元々、早くから(東方からトルコ人が、西方からイスラム教徒が進出する以前から。おそらく4世紀ごろには既に)西方からペルシャ系ソグド人などがかなり進出していたわけで、ゾロアスター文化の伝播はそういう時代にもあったのだろう。さらに遡れば、インド西北部にクシャナ朝を建てたクシャン人も元々はゾロアスター教徒の遊牧民だったらしい​(?)し、クシャナ朝は1世紀には東西交易の要衝だったということもある。しかしながら、この7世紀からペルシャ文化の"拡散・交流"に拍車がかかったということもあるかもしれない。

(ちなみに"トルキスタン"の範囲であるが、現在の地図上では"東トルキスタン"は中国・新疆ウイグル自治区、"西トルキスタン"はカザフ・キルギス・タジク・ウズベク・トルクメンの中央アジア5ヶ国の領域と見做すことが多いようである。ただし、このうちタジク人だけはトルコ系ではなくイラン系〔ペルシャ系〕なので、外して考えたほうがよいのかもしれない。素朴な素人考えでは「カザフ」=「コサック」かと思いがちだがこれは間違い。カザフ人はトルコ系で、たまたまこの地に後から〔19世紀〕スラヴとタタールの混血であるコサックが、ロシアの意向でこの地に入植したということらしい。)

【日】前年(641年)舒明天皇が崩御し、この年、第35代・皇極女帝(位642-645)即位。翌643年、蘇我入鹿が山背大兄王を襲い自死に追い込む。

ヴァルダナ死去

647 年:ハルシャ=ヴァルダナ死去。

☆ ヴァルダナ後  無用な抗争  巻き起こる

 

北インドを統一したハルシャ=ヴァルダナは、647年に亡くなった。そうすると国内はただちに分裂し、その後、小国が乱立する状態が長く続いた。10世紀ごろからは、イスラム教徒のトルコ人が、この地に侵入してくるようになる。

【日】647年は大化3年。つまり2年前の645年に乙巳の変があり、大化の改進が始まっている。天皇は第36代・孝徳天皇(位645-654)。

ウマイヤ朝

661 年:ウマイヤ朝の成立。

☆ ダマスクスから  朗々 行こう  ウマイヤ朝

 

マホメットの死後も、アラブ人イスラム教徒は勢力範囲を広げていったが、イスラム教徒間の対立も起こるようになった。正統カリフ時代、カリフは選挙で選ばれたが、第2代~第4代は暗殺されている。第4代のアリーが暗殺されたとき、シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤが、実力で政権を建ててカリフを名乗り、661年にダマスクスでウマイヤ朝を開いた。(シリア総督だったので、ダマスクスが首都になった。)これ以後、ウマイヤ家が世襲でカリフを出すようになったので、正統カリフ時代はウマイヤ朝の成立によって終わったことになる。(しかしウマイヤ朝が成立する際の抗争の過程でアリー家が滅亡してしまっい、これを"簒奪劇"として批判的に見る人もあったために、これは後々のイスラム世界にまで大きな影響を残すことになるが。)8世紀に入ると、ウマイヤ朝イスラム帝国の版図は​インダス川・中央アジアからアフリカ北部全域・イベリア半島を含むまでに拡がった。

【日】ウマイヤ朝:(661-750):日本は大和~奈良時代。王朝成立の年に第37代・斉明女帝(位655-661)が崩御し、この年から中大兄皇子が事実上の天皇として政務に携わったと推測される。即位して天智天皇となるのは7年後の668年であるが。ウマイヤ朝がアッバース朝に攻められて滅ぶのは奈良時代の半ばで、前年(749年)に孝謙女帝が父親の聖武天皇から譲位を受けている。

白村江

663 年:白村江の戦い。

☆ 相手方  ろくろく見ないで  白村江

 

朝鮮半島は4世紀以降、北部の高句麗、南西部の百済、南東部の新羅が並立する「三国時代」であった。この「4世紀」は中国において北方・西方の異民族が華北まで進出し(五胡十六国)、漢民族が力を失って江南へ追いやられた(西晋→東晋)時代であって、朝鮮半島における「三国時代」の成立も、これらの状況と連動する形で(ツングース系の「夫余」種族が関わる形で)起こったものである。しかし6世紀末に再び漢民族による中国全土統一国家(隋・唐)の時代を迎えると、また朝鮮半島の情勢は中国の思惑に影響される形で変わり始めた。そして7世紀後半になると、新羅が唐と結んで、660年に百済を討った。(このとき唐の実権は、則天武后にあった。新羅と結んだのは、むしろ高句麗を挟み討つために新羅の利用を考えていたものと思われる。)日本は中大兄皇子(天智天皇)の時代で、百済との関係が強く、また百済の残党から朝廷への"復活支援要請"もあったので、朝鮮半島の百済の残存勢力再興のため水軍を派遣することを決した。しかしやはり新羅側には唐が援軍を送り、663年に白村江の戦いにおいて日本は唐の軍に大敗、百済の残存勢力も完全に滅んで新羅の支配下に入った。新羅が唐と結んでいたことは、日本の方も分かっていたであろうけれども、やはり相手の戦力を見誤って無謀な戦いをした、という見方もありうる。

新羅統一

676 年:新羅が朝鮮半島を統一。

☆ 唐 頼り  無難 無理なく  新羅の統一

 

4世紀、中国華北に五胡が侵入して漢民族を江南へ追い、漢民族の朝鮮への影響力は弱まった。そのような状況下で、4~7世紀の朝鮮半島では北部に高句麗(こうくり)、南東部に新羅(しらぎ)、南西部に百済(くだら)の三国が並び立っていた。これを三国時代と称する。(南端部に任那〔加羅〕もあったがこれは弱小勢力だった。)しかし6世紀末に隋が再び中国統一を果たし、7世紀初めに唐が興ると、再び朝鮮半島への中国の影響が強まり、情勢に変化が起こった。7世紀なかばに唐と結んだ朝鮮半島の新羅は、唐の援軍を得て、百済を660年に、高句麗を668年に滅ぼした。そして676年には、半島内に駐留して新羅自体にも支配を及ぼそうとする唐の勢力を排して、朝鮮半島の統一を達成した。(つまり新羅としては、外交政略として唐を「頼り」はしたが、頼り切っていたわけではない。)その後、新羅は唐の脅威に対して、謝罪外交でしのいだり、渤海(高句麗人と同系統の民族が698年に沿海州に建国)の動向を利用しながら、半島支配を維持した。10世紀に高麗が出るまで、新羅による朝鮮半島の支配は続く。

【日】4年前の672年に壬申の乱が起こり、天武天皇が天智天皇(38代)の子・大友皇子を破って勝利をおさめた。第40代・天武天皇(位673-686)の時代。(日本書紀には大友即位の記述がないのだが、明治時代に諡号が贈られ、第39代「弘文天皇」ということになった。)

玄宗

712 年:玄宗皇帝の即位。

内部から  国政改革  玄宗即位

 

では、第2代の李世民の治世(626-649年)の後、7世紀終わりごろから則天武后・韋后が出て、内部に混乱が生じた。(武韋の禍〔664-710年〕と称する。則天武后は、第3代皇帝高宗〔李世民の子、李治。位649-683〕の皇后であったが、宮中で自分が気に入らない者をことごとく排除した。帝が病弱になるとほとんど全面的に実権をにぎり〔664年〕、ついには自分の二人の子供を廃帝にして690年に自ら即位したという中国史上突出した悪女である。それから15年間、武后は何故か、怪しげな僧侶たちを寵愛・重用し、似非仏教に基づく奇怪な政治を行った。韋后は第4代皇帝中宗〔李顕。位705-710〕の皇后だったが、李顕を毒殺し、摂政となった。)しかしそこで、実力で韋后を排除して、712年に譲位を受けて即位した第6代の玄宗は、政界の浄化を図ると同時に国政の改革(税制改革・節度使制の導入など)を精力的に行い、唐は再び盛期を迎えた。彼の治世は「開元の治」と賞される。しかし晩年の玄宗は、楊貴妃(「楊」は姓だが「貴妃」は名前ではなく後宮の最高地位の称号。745年に貴妃に冊立。名は「玉環」)を寵愛するなどして政治を怠るようになり、再び世の乱れを招いてしまった。退位の前年に安史の乱が起こっている。(安史の乱のため、長安を逃れて蜀へ向かう途上で皇太子に譲位。756年。)

​ 因みに、玄宗の時代の代表的詩人が、李白(701-762)と杜甫(712-770)である。李白は42歳のときに玄宗に召されて、宮廷に入ったことがあったが、宮中に彼を好まぬ者があって放逐され、その後はほとんど放浪生活を送った。杜甫は40歳のときに玄宗に「礼賦」(ある種の韻文)を奏上したというエピソードがある。その後44歳(安史の乱の頃)に微官ながら短期間の任官があったようだが、概して官途には恵まれず各地を点々と流浪した。

【日】2年前の710年に藤原京から奈良へ遷都。712年に『古事記』が成立している。第43代・元明女帝(位707-715)の時代。この時代の、皇統の継承関係は変則的で、一代前から見ると文武天皇→(母)元明女帝→(娘)元正女帝→(甥)聖武天皇(位724~)といった調子である。

 また、玄宗即位の5年後(717年)、日本からの遣唐使留学生として、吉備真備(きびのまきび)や阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、学問僧として玄昉(げんぼう)などが入唐している。真備と玄昉は735年に日本に帰朝して官僚として抜擢され、奈良朝の政治に深く関わることになる。阿倍仲麻呂のほうは(帰朝を試みることもあったが成功せず)玄宗・粛宗 ・代宗の3代の皇帝に仕えて770年に長安で没した。仲麻呂は、李白や王維などの詩人との親交もあったようである。

 玄宗が退位(譲位)する756年には、聖武大上皇が崩御。第46代・孝謙女帝(位749-758)の時代。

聖像禁止令

726 年:聖像禁止令。

☆ レオンさん  なじむ聖像  禁止する

 

ローマ帝国でのキリスト教の公認以来、イエスやマリアなどの聖像(偶像)の崇拝は広く行われ、人々はこれになじんでいたが、ビザンツ帝国の皇帝レオン3世(位717-741)は、726年に聖像禁止令を発した。(ビザンツ帝国では皇帝教皇主義なので、皇帝=教会首長である。ビザンツ皇帝は西方諸国の部族首長・封建領主的な王ではなくて、東方的な専制君主である。)神学上の理由のほか、修道院への政治的抑圧という意味合いも強かったかもしれない。教会・修道院は免税特権を持つ大領主だった。(東方領域にある修道院でも反発はあったのだが)西方のローマ教会側はゲルマン人への布教に聖像を多く用いていたため、とりわけこの禁止令に反発した。これに対するレオン3世の態度も強硬で、ロンバルト王と手を組んでローマ教会を圧迫させるようなことまで始めた。この後ローマ教会は東方から離れ、西側の新たな政治勢力(フランク)と結ぶことを志向するようになる。なお、聖像禁止令には、やはり根強い抵抗が続き、曲折の後843年に禁止令は廃され、ビザンツでも聖像崇拝が("イコン"〔平面像〕限定であるが)復活した。

「レオンさん」は、「レオン3世」にかけてある。(ローマ教皇レオ3世と紛らわしい。ローマ教皇の方は後のフランク王国カール大帝に帝冠を授ける教皇である。)

【日】2年前に第45代・聖武天皇(位724-749)即位。ビザンツで聖像禁止の時代に、聖武天皇は大仏を作ることになる。743年に大仏建立の詔。開眼供養は752年。

トゥール

732 年:トゥール・ポワティエの戦い。

☆ 情けなさに  落ち込むウマイヤ  トゥール戦

8世紀、ウマイヤ朝の勢力は、地中海方面ではアフリカ北岸からイベリア半島にまで及んでおり(西ゴート王国は711年に滅ぼされた)。更に北上してフランク王国にも攻め入った。しかし、フランク王国(メロヴィング朝)の宮宰カール=マルテル(任718-741)は、トゥール・ポワティエ間(現在のフランスの中西部)において、732年にウマイヤ朝の軍を撃退した。これによりウマイヤ朝は、ピレネー山脈以北への勢力拡大を断念することになる。カール=マルテルは、キリスト教世界をイスラム教徒から守ったことになり、結果的にはフランク王国とローマ教皇が政治的に接近する発端をつくったと言えるかもしれない。しかし​カール=マルテルは軍費のために多くの教会領を没収したりしていて、実は彼の教会政策の評判は悪かった。(しかもカール=マルテルはイスラム撃退のために、ローマ教会を圧迫していたロンバルト族の援助を受けたりもしている。)したがって、この彼の戦いがこの後のフランクとローマ教会の関係性を強めるような作用を持ったとすれば、それは少々逆説的なことのようにも思われる。ローマ教会がこの頃からフランクに接近を試み始めた背景には、おそらく"キリスト教世界云々"ということ以上に、聖像禁止令以降の東ローマ皇帝との反目があった。

 イスラム勢力による直接の支配を免れたフランク王国であったが、イスラムが地中海の東側を支配するようになったことは、フランク世界の東方との交易を著しく妨げた。このようなこともフランク王国"変質"の背景要因のひとつにもなっている。イスラム世界は中世ヨーロッパに影響を及ぼし続けた。

【日】第45代・聖武天皇(位724-749)の時代。

アッバース朝

750 年:アッバース朝の成立。

☆ おごそかな  号令かける  アッバース

 

ウマイヤ朝(661年~)はアラブ人の勢力範囲を拡大して帝国をつくり上げたが、被征服民に対しては、イスラム教に改宗した者でも、税制上の差別を行った。しかしこれはイスラム教信者の平等の教えに反するとして、革命運動が起こった。マホメットの叔父の子孫アッバース家が運動に加わり、750年に、ウマイヤ朝に代わってアッバース朝が開かれた。新たにバグダッドに都を置き、(おごそかな?号令をかけて)アラブ人も非アラブ人にも平等な税制を行い、新改宗者(イラン人等)も要職に就けるようにした。アッバース朝は名目上は、モンゴル軍に滅ぼされる13世紀半ばまで続くが、後ウマイヤ朝(イベリア)が756年に分離、ファーティマ朝(エジプト・シリア)が909年に分離したのみならず、10世紀以降はアッバース朝自体の実質的な実権もブワイフ朝セルジューク朝ホラズムへと移っていった。

【日】前年、第46代・孝謙女帝(位749-758)即位。(父・聖武天皇から譲位。)

タラス河畔

751 年:タラス河畔の戦い。(イスラム圏への製紙法の伝播)

☆ タラス河畔  製紙法なら  こいつから

 

アッバース朝は、建国の翌年にあたる751年、中央アジアのタラス河畔(現キリギス内)で唐と一戦を交えた。このときにアッバース軍は、唐人の捕虜を確保したが、この捕虜の中に紙すき職人がいた。(製紙法はこいつから聞けというわけで)中国の製紙法がイスラム世界へ伝えられたとされる。この捕虜たちはサマルカンドに送られて紙を作ることを命じられ、サマルカンドは紙の産地となった。後にハルン=アル=ラシードは、バグダッドにも製紙工場を作った。中国では漢の時代にすでに紙が知られていたが、他の地域への紙の普及は意外に遅く、長く羊皮などが用いられていたようである。イスラム圏からヨーロッパへの製紙法の伝播は、さらに遅れて12世紀ごろのことになる。現代人には、単なる「紙」のことの重要性が解りにくいけれども、これは社会における情報複製・伝達技術のキモだったわけで、中世後半においてこれを得たイスラム世界の文明的な繁栄と、これを得なかったヨーロッパ世界の"暗黒"との対比の一端が、ここから始まるわけである。古代ギリシャ文明の遺産の多くは、イスラム世界における「紙」によって、中世末期に再びヨーロッパにもたらされることになる。

​(それまで文書の書き付けに用いられていた羊皮などと比べた紙の利点は、もちろん第1にその"量産性"があるわけだが、もうひとつ「文書の改竄が困難」ということも言えるらしい。羊皮の上に字を書いてもインク〔に相当する色素材料〕は羊皮の内部深くまで浸透するわけではなく表面付近に留まるので、表面の字をこそげ落として恣意的に書き換えるということも比較的容易である。紙に文字を書くならば、インクを紙の繊維にまで浸透させることができるので、文書を見た目に分からないように部分的に改竄するのは困難である。)

【日】第46代・孝謙女帝(位749-758)の時代。翌752年は、奈良の大仏が完成して開眼供養が行われた年である。

ピピンの寄進

754 年:ピピンの寄進。

☆ 小ピピン  難航しました  土地寄進

フランク王国の宮宰カール=マルテルは、トゥール・ポワティエの戦い〔732年〕などでフランク王国内での地位を確固たるものにした。その子ピピン(7世紀初めの大ピピン、7世紀終わりごろの中ピピンと区別して小ピピンと呼ばれる。宮宰としては任741-751年。大ピピンの頃からメロヴィング朝では暗愚な王しか出なくなり、"宮宰政治"の時代に入っていた)は、父親とは違って信仰心が強かったのか、教会政治を重視した。ピピンは教皇に託宣を請い、王位につくことを教皇から承諾された。その結果751年にメロヴィング朝が廃されて、カロリング朝のフランク王国が始まったのである。(国内で簒奪劇をやったのではなく、あえて教皇の権威を関与させたという点が注目される。)小ピピンの国王としての在位期間は751-768年。このとき北イタリアは、6世紀後半にこの地をビザンツ帝国から奪ったロンバルド族が治めており、751年にはラヴェンナ(イタリア半島北東部、ヴェネチアから120キロほど南)をロンバルド族が奪い、ローマへ侵入する勢いを見せた。(この前後の背景事情としては、西ローマ教会と対立する東ローマ皇帝が、ロンバルト族にローマ圧迫をけしかけていたということもある。)754年に教皇から救援要請を受けた小ピピンは、ロンバルド征討を決定して、大軍を率いてイタリア中北部を征服し、ラヴェンナその他の多くの土地を教皇に献上した(ピピンの寄進)。これが教皇領の起源となる。小ピピンが、ロンバルド征伐において、特別にてこずったという話はないようであるが、かといって容易というわけでもなかったであろう。難航した、ということにしておく。

【日】第46代・孝謙女帝(位749-758)の時代。2年前(752年)に東大寺の大仏が完成して開眼供養。

安史の乱

755 年:安禄山・史思明の乱(安史の乱)。

☆ 唐の世は  難航 後退  安史から

 

節度使の安禄山(営州〔今の遼寧省のあたり?〕出身で、父はソグド人​〔西域・ソグディアナのペルシャ系住民〕、母は突厥​人と伝わる。華北・東北にまたがる軍閥巨頭となった)と、その配下の武将の史思明は、755年からに対して大規模な反乱を起こし騒乱は8年間に及んだ。節度使は本来、外敵から唐を守るために置かれた募兵の司令官のはずである。しかしこの事件では、節度使が唐を攻撃し、唐はウイグル(トルコ系)の援軍を得てこれを鎮圧するという皮肉な事態になった。この乱を境にして、節度使の軍閥化が進むとともに、均田制などの社会基盤秩序の崩壊も始まって、唐の国家統制力は急速に衰えてゆく。9世紀には政争や宦官たちによる謀略によって​皇帝の政治的自由も拘束され、秩序を失っていった。

​(安禄山は東西交易に携わるソグド人たちから資金を集めていたようで、乱の鎮定後は唐においてソグド人を迫害する動きもあったようである。)

 安史の乱は、宰相の楊国忠(楊貴妃の又従兄)と節度使の安禄山との対立関係から始まっており、その経緯から楊氏に反感をもっていた玄宗朝の武将・陳玄礼や事の経緯に憤懣やるかたない近衛兵たちは、756年、楊国忠らを殺害し、さらに玄宗に対して楊貴妃の殺害を強く要求した。玄宗は庇おうとしたが、結局は庇いきれずに殺害を許可した。このような事情を題材として、それから50年の後に白居易が作った叙事詩が「長恨歌」で、玄宗の怨根の情が表現されている。

【日】第46代・孝謙女帝(位749-758)の時代。翌756年、聖武大上皇(聖武天皇は749年に娘の孝謙に譲位していた)が崩御し、その遺品が東大寺に納入された。これが正倉院の宝物として後生に伝わる。

両税法

780 年:両税法の採用。

☆ 均田の  難は おしまい  両税法

 

からに受け継がれた均田制・租庸調の制度は、安史の乱の頃になると全く実情に合わなくなっていた。これ以上の均田制の続行は困難として、780年に宰相陽炎により、これらに代わる"両税法"が定められた。もはや公地公民ではなく、前提として土地の私有を認め、これに立脚して住地・資産に課税するという制度である。「両」は年に2回の徴税であったことを表す。ただし、均田制を無理やり続けることに付随する困難は終わったかもしれないが、そもそも均田制(私有地・地方有力者の醸成を極力抑制する公地公民制)が崩れたということは、唐が初めに敷いた社会統制制度が崩壊したということである。王朝側からの支配が届かないような、地方で土地を持つ有力者が、唐末に向けて徐々に力を持ち、唐王朝を揺るがすようになってゆくことになる。

【日】第49代・光仁天皇(位770-781)の時代。光仁天皇は第39代・天智天皇の孫であり、第40代・天武天皇以降9代続いた天武系から、再び天智系に皇統が戻った最初の天皇にあたる。翌年、第50代・桓武天皇(位781-806)即位。

アルラシード

786 年:ハルン=アル=ラシードの即位。

☆ アッバース[で]  なやむことない  アル=ラシード

 

アッバース朝の第5代、ハルン=アル=ラシードは、アラビアン・ナイトにも出てくる有名人である。アッバース朝イスラム帝国は、彼の治世(786年-809年)の下で最盛期を迎える。小アジアを征服し、内政では科学・芸術を保護、イスラム文化の黄金期を築いた。当時のイスラム世界の繁栄は、ヨーロッパ世界をはるかに凌いでいたであろう。そういう意味でも象徴的な人物である。フランク王国のカール大帝に使者を差し向け、文物を贈ったという逸話がある。

【日】日本の平安遷都を行った第50代・桓武帝(位781-806)の在位期間は、ハルン=アル=ラシードのそれと、かなり重なる。

カール戴冠

800 年:カール大帝、ローマ教皇レオ3世から帝冠を受ける。

☆ 戴冠し  やれ! 大仕事  カール帝

 

カール大帝(カール1世:位768-814)は、小ピピンの子である。フランク王国とローマ教皇との関係は、カロリング家の3代(カール=マルテル、小ピピン、カール大帝)にわたって強まり、800年にカール大帝は教皇レオ3世から"ローマ皇帝として"帝冠を受けることになった。これによって西ヨーロッパの秩序が、ある程度回復したとも言えるし、東のビザンツ帝国から分離した形の政治=宗教権力体制が西側に成立したとも言える。"ヨーロッパ"の定義の仕方はいろいろあるが、これを西側のローマ・カトリック文化圏を中心に捉えるならば、カール大帝こそがヨーロッパの礎を築いた人物だという見方も可能であり、彼は「ヨーロッパの父」と称される場合がある。戴冠と話は前後するが、カール大帝は北イタリアのロンバルド王国を征服(774年)し、また現在のクロアチアのあたりにいたアジア系のアヴァール族(柔然だという説がある)を退けた。またイベリア半島(後ウマイヤ朝)にも進攻を行ったが、中世フランスの代表的な騎士物語のひとつである武勲詩『ローランの歌』(11世紀に成立)には、カール大帝の甥であるローランのイベリア進攻の際の武勇が詠われている。カール大帝は、国内政策では中央集権体制の構築を試み、文化・教育を奨励した(カロリング・ルネサンス)。

(カール大帝自身は読み書きができなかったけれども、学問を尊重し、食事のときに人に書物を朗読させて聴いたり、神学議論をしたり、学者を集めて座談をすることを好んだと伝えられる。「読み書きができなかった」というのは、おそらくラテン語やギリシャ語での読み書きができなかったという意味だろう。この時代の西欧世界に、この2つの言語以外での「読み書き」という概念はなかったのではないか?)

【日】平安遷都を行った第50代・桓武帝(位781-806)が、この時代の天皇である。"ヨーロッパ"が始まったのとだいたい同じころ、東洋の島国では千年の都・平安京の時代が始まったわけである。翌801年、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、アテルイを降伏させている。

ノヴゴロド国

862 年:ノヴゴロド国の建国。

☆ リューリクが  やむにやまれず  ノヴゴロド

 

「ノルマン人(ヴァイキング)」は、元々デンマーク・スウェーデン・ノルウェーのあたり(後の「北欧3国」、14世紀末には「カルマル同盟」を構成する地域)を現住地とするゲルマン人の一派である。(地理的な意味では「北欧」にフィンランドを含める場合もあるが、フィンランドはウラル語族系フィン人の国であって、民族的には別系統である。)この地域では、キリスト教化がさほど進んでおらず、彼らの自然観・宗教観は、他のキリスト教化したゲルマン人とはかなり違っていたようである。8世紀以降、ノルマン人は彼らの優れた造船・航海技術を利用してヨーロッパ各地に進出を始めた。東欧方面では、リューリクに率いられたノルマン人の一派が、バルト海の奥(現在のサンクトペテルブルクのあたり?)から東欧内陸へと侵入し、862年にノヴゴロド王国を建てた。征服欲の強いノルマン人たちにしてみれば、やむにやまれぬという気持ちでの建国であったかもしれない。また、その南方にもほどなく(882年)ノヴゴロドから出たリューリク朝のキエフ公国が建てられたが、これらのノルマン人は先住のスラヴ人に徐々に同化してゆき、これがロシアの起源となった。(「キエフ」はサンクトペテルブルクから1000キロほど南、黒海から500キロほど北にある。)

「ロシア」という呼称は「ルーシの地」ということらしい。元々の「ルーシ」については、ノヴゴロド国やキエフ公国が成立したところに元々いた先住の東スラヴ民族の自称という説と、この地に侵入してきたノルマン人が「ルーシ族」と呼ばれたという説があるようである。そういうわけで、事情の子細は不明ながら、「ルーシ」すなわち歴史的な文脈における「ロシア」の地域名の範囲は、だいたい現在で言えばウクライナの南部を除く地域とベラルーシと今のロシア連邦の西部(ウラル山脈より西)を合わせた地域ということになりそうである。(「ベラルーシ」は「白いルーシ」の意味で、白は高貴や自由の象徴だそうだ。年輩者は「白ロシア」という呼称を覚えている。またウクライナは旧称「小ロシア」であった。)地域名ではなく国名としての「ロシア」は時代が下って16世紀、イワン4世の頃にモスクワ大公国が(自称として)使い始めたようである。

(さらに脇道に逸れた余談をひとつ。フィンランドがウラル語族系であることは上に述べたが、過去にアニメが制作されテレビ放映されたりして、我々日本人にもよく知られている「ムーミン」の物語は、フィンランドの女流の画家兼作家であるトーベ・ヤンソンによる創作である。「ムーミン」の諸作品に描かれているような自然観・世界観は、ノルマン系(ヴァイキング系)の文化とも、スラヴ系の文化ともかなり異質な発想に基づく所産ではないか? あれがフィン族文化の本質に通じるひとつのヒントなのかもしれないと、私は漠然と憶測しています。あくまで素人考えにすぎませんが。)

【日】天皇は第56代・清和(位858-876)だが、実質的には藤原良房が摂政として政務にあたった時代(事実上858-872年、正式な摂政としては866-872年)である。

メルセン条約

870 年:メルセン条約の成立。

☆ メルセンで  離れ離れに  フランク3国


カール大帝は、フランク王国(カロリング朝)に中央集権的な体制の導入を試みたが、充分に機能するには至らず、その死後には領土相続に関する争いも起こるようになった。元々フランク族には領土を分割相続する慣行があったこともあり、大帝の孫の代以降になると、843年のヴェルダン条約と、870年のメルセン条約によって、フランク王国は西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国に3分された。ヴェルダン条約ではイタリア(中部フランク王国)が東西フランクを割って北海沿岸まで領地を持つ形であったが、メルセン条約では境界が見直され、東西フランクが接して、イタリアはアルプス以南だけになった。(中部フランクでいちはやくカロリング系が衰退したために、これに対する分割が進んだわけである。)この3国の境界は大体、近代以降のフランス・ドイツ・イタリアの国境へと継承されている。

 それぞれのカロリング朝は、イタリアでは875年、東フランクでは911年(→選挙制に移行)、西フランクでは987年(→カペー朝)に、相次いで断絶することになる。

【日】第56代・清和天皇(位858-876)、摂政・藤原良房。

サーマン朝

874 年:サーマン朝の成立。

☆ 独立の  を進めて  サーマン朝

 

アッバース朝では、ハルン=アル=ラシード治世の頃から、領域内に事実上の独立王朝​(軍閥政権)が立つようになっていった。サーマン朝は、そのようにして起こったイラン系国家である。始祖サーマンは、アッバース朝の地方太守という形で独立の話を進めて、874年に建国、西トルキスタンからイランにかけて版図を拡げた。サーマン朝の下で、トルキスタンに居住していたトルコ人のイスラム化が進んだ。サーマン朝は10世紀末にトルコ人のカラハン朝に滅ぼされる。

(実は、サーマン朝が王朝として始まった年は、見方によって微妙なところがあり、873-875年頃としておくのが穏当なのだけれども、ここでは874年で覚えておくことにする。)

【日】第56代・清和天皇(位858-876)

黄巣の乱

875 年:黄巣の乱。

☆ 唐末の  [い]やな御時勢に  黄巣の乱

 

黄巣の乱は、唐末期の社会不安がとりわけ高まった時期におこった民衆の反乱であり、「黄巣」は反乱を指

導した山東の塩の闇商人の名である。唐政府は財政のために専売する塩の値をつり上げており、民衆にも、塩を安く供する闇商人を庇う風潮があった。政府はもちろん、そのような闇商人の取り締まりを試みたが、闇商人側もこれに対抗し、大規模組織をつくって武装して行商にあたっていた。875年に乱を起こした黄巣は、最初江南へ南下して各地の財貨・物資を獲得してから北伐を開始。880年に洛陽・長安へと進んで帝位に就いた(国号:大斉)。しかし彼は政治を行うことができず、やがて体制を立て直した唐軍に長安を囲まれて883年に長安を放棄、884年に自害した。(黄巣軍に属していた朱全忠は、既に黄巣を裏切って唐にくだっており、開封駐在の節度使に取り立てられた。)蜀の地(成都)に逃れていた僖宗(きそう)皇帝は翌885年には長安へ戻り、一応は唐が復した形にはなったが、実質的にもはや唐の権威は失われていた。

現代の先進国に生きている〔塩分摂取を控えろ、なんて言われている〕我々には解りにくいけれども、実は一定量の塩分摂取というのは、単なる味覚の問題ではなく、我々の生体を維持するために必要不可欠なものである。古代から、塩分をどのように摂取するかというのは人間にとって重大問題であった。塩に税金をかけるというのは、酒に税金をかけるよりもはるかに苛酷な課税なのだ。)

【日】第56代・清和天皇(位858-876)

唐滅亡

907 年:唐の滅亡。

☆ 節度使が  守ってくれない  唐ほろぶ

 

節度使は、元々は唐の辺境防備のための軍の長官であったが、安史の乱のころから内地にも置かれるとともに、軍閥化が進んでいって、唐の体制を守る存在ではなくなった。そして、いたるところに新軍閥が現れて割拠し、地方政権を樹立するようになった。907年に唐を倒したのは、884年に黄巣を裏切って唐に下り、開封(洛陽の東、約170キロ)節度使に任じられていた朱全忠である。(開封は煬帝の大運河と黄河が接続する物流の要衝であり、朱全忠は他の節度使と比べても、経済的に極めて優位なポジションにいたと言える。)朱全忠は、競合する軍閥の勢力を抑えてゆき、朝廷への干渉を強めた。皇帝を手中に置く節度使・李茂貞と戦ってこれを降伏させ、宦官や皇族を悉く殺し、禅譲劇の体裁をつくって梁(後梁:こうりょう)を建て、開封を都とした。しかし各地方の軍閥は後梁を認めようとせずに、それぞれが自立の態度をとったので、その後50年ほどの間に華北では後梁を含めて、武将による5王朝が交代する不安定な状況となり、並行して地方政権も並び立った(五代十国)。各軍閥の首領がそれぞれ自ら帝位に就いたり、年号を定めたりした。

(朱全忠は912年に息子に殺され、その後の後梁は弱体化・不安定化し、923年に山西省北部の晋に滅ぼされた。この晋が"五代"の2番目の後唐となる。その後、後晋〔936~〕・後漢〔947~〕・後周〔951~〕と続く。)

【日】第60代・醍醐天皇(位897-930)。(醍醐天皇は『源氏物語』の桐壺帝のモデルと考えられている。)

ファーティマ朝

909 年:ファーティマ朝の成立。

くれぐれも  アリー派よろしく  ファーティマ朝

 

アッバース朝の領内で、909年にチュニジアに建国され、その後、エジプトやシリアに向けて勢力を伸ばしたファーティマ朝は、シーア派(アリー派)を信奉した。シーア派では、第4代カリフ、アリーの子孫だけが正統なカリフであるべきことを主張し(アリーはマホメットの従弟で娘婿。カリフを決めるのは選挙でなく、マホメットにつながる血筋だという主張である)、アッバース朝の権威を否定する。(シーア派に対して、元々の正統派はスンナ派と呼ばれる。)ファーティマがカリフを称したことから、ここにイスラム世界においてカリフの分立状態が始まった。8世紀にイベリア半島部分に独立していた後ウマイヤ朝の王も、929年にカリフを称し、イスラム世界は3人のカリフによる分裂状態になった。ファーティマ朝は1171年まで続き、アイユーブ朝(1169-1250年)の創始者サラディンに滅ぼされた。

【日】ファーティマ朝(909-1171):日本では平安時代。平安前半の第60代・醍醐天皇(位897-930)の「延喜の治」の時代に始まり、平安末期の平氏全盛時代まで。

東カロリング絶

911 年:東フランク王国で、カロリング朝が絶える。

☆ カロリングに  続くいい人  選挙する

 

東フランク王国では、911年にカロリング朝の王統が絶えた。その後は特定の家の世襲ではなく、諸侯の選挙によって、王が選ばれるようになった。つまり諸侯の中に、他の諸侯を束ねて、自分の家から世襲の王を出すことを認めさせることができるような強い家がなかったということであろう。神聖ローマ帝国になってからも、このような状況は長く続いた。帝位が事実上、ハプスブルク家によって世襲されるようになるのは、15世紀になってからである。

【日】第60代・醍醐天皇(位897-930)の「延喜の治」の時代。

ノルマンディー公国

911 年:ノルマンディー公国の建国。

☆ フランスの  土地に食い入る  ロロの国

 

フランク王国の沿岸にノルマン人(ヴァイキング)が現れ始めたのは8世紀末、カール大帝の頃だが、次第に河川などを通じて略奪の手を奥地にまで伸ばし、9世紀後半から(特に大西洋に注ぐ河川の多い西フランクにおいて)農村でも都市でも被害は極めて大きくなった。更には侵入地で越年したり、そもそも"移住"目的で侵入してくるノルマン人も現れた。元々ノルウェーにいたノルマン人の族長、ロロ(妙な名前だがRolloである)が率いる一派は、フランス北部の一角に、食い入るように侵入し、西フランク王からセーヌ川下流の地を得て、911年にノルマンディー公国を建てた。11世紀には、ここからウィリアムがイングランド征服を行うことになる。また、この一派は地中海にも進出して、12世紀には両シチリア王国(シチリアと南イタリア)を建てた。

【日】第60代・醍醐天皇(位897-930)の「延喜の治」の時代。

916 年:遼の建国。

☆ 契丹の  苦渋 報われ  遼が建ち

 

中国東北、内モンゴルにおこり、ウイグルに服属していた丹(きったん。おそらくモンゴル系)族は、耶律阿保機(やりつあぼき:位916-926)が部族を統合すると勢力を強め、阿保機は916年に​自ら"皇帝"となって遼を建てた。(但し正確には、建国当時の国号は「大契丹国」で、「遼」という国号は947年以降に用いられた。)やがて、東は渤海を征服(926年)、西は内外モンゴルほぼ全域、南は河北・山西の北部(燕雲十六州)までを支配下に治め、北宋を圧迫した。(燕雲十六州は唐末五代の「後晋」が成立する際に遼が軍事援助を行った見返りとして獲得した領地である。遼は北方の本拠を保持しながら中国の要地までを領地に加えた最初の遊牧民国家である。)遼から圧迫を受けた北宋は「澶淵(せんえん)の盟」(1004年)を結ばされ、歳幣(毎年の金品贈与)を強いられ続けた。これは中国側にとって、唐代までの「中華思想」からは考えられない出来事である。遼は210年にわたり中華文明に同化することなく存続し、独自の文字(契丹文字)も作ったが、12世紀に女真族の金に滅ぼされる。(「澶淵」は「澶州」の雅称で、講和が行われた河北省南部黄河北岸の地を指す。)

 遼は北宋の北方・東北方を領したが、これに遅れて北宋の西北方の陝西・甘粛方面には、チベット系のタングート族が「西夏」(1038-1227年)を興した(カラ・ホト遺跡が知られる。内モンゴル自治区内)。これも北宋に圧迫を加え、やはり多大な歳幣を要求してこれを苦しめた。西夏も遼と同様に、漢字ではない独自文字(西夏文字)を考案している。日本で「かな文字」による文学が発達し始めたのはおそらく9世紀ごろ以降だと考えられるが、この時期に東アジアにおいて「漢字文化圏」でも独自文字の使用が始まるという事態には、何か背後に共通の意味があるのだろうか?(うがちすぎた見方かもしれませんが。)

【日】遼(916-1125):​日本は平安時代。建国時は平安中期で、第60代・醍醐天皇(位897-930)の「延喜の治」の時代。平将門の乱(939年)は失敗に帰してしまったが、将門の意識には耶律阿保機による渤海征服の事実があって、それが彼の「実力行使」を促す一因になったらしい。遼の滅亡時、日本は平安後期で、白河上皇による院政(1086-1129)の末期。第75代・崇徳天皇(位1123-1142)。

高麗

918 年:高麗の成立。

☆ 高麗が  新羅を討っても  悔いはなし

 

朝鮮半島において、新羅の豪族であった王建が918年に高麗を建てた。​(翌919年、王建は都を開城に置いた。開城は、現在、南北朝鮮休戦交渉地として知られる板門店のすぐ近くである。)建国時に新羅を討ったということではないが、その意図は当初からあったであろう。勢力を伸ばして、936年には朝鮮半島全土の統一を成し遂げた。実は王建は素性のはっきりしない人で、出自論争がある。国家として仏教を重視した。​高麗王朝は14世紀末まで続き、主に中国の五代、宋、元の時代に重なるが、13世紀にはモンゴル帝国からの圧迫を受け、13世紀半ば~14世紀後半の時期はモンゴルの属国になる。

(年表を大雑把に見ると、朝鮮の王朝交代は、中国の王朝交代と連動しているように見えなくもない。南北朝⇔三国、唐⇔新羅、宋⇔高麗、明・清⇔李氏朝鮮。)

【日】高麗(918-1392):平安~鎌倉~室町時代。建国時は平安中期、60代・醍醐天皇(位897-930)の「延喜の治」の時代。李成桂に国を奪われたのは、室町前期で、南北朝合一の年である。

ブワイフ朝

932 年:ブワイフ朝の成立。

☆ どさくさに  紛れてブワイフ  国を建て

 

ブワイフ朝は、カスピ海南岸地方出身の軍人の兄弟が、イラン南部ファールス地方に進出して、932年に(どさくさに紛れて?)起こしたイラン系軍事政権である。シーア派を信奉。後の946年には、バグダッドに入城し、アッバース朝の実権を奪った。ブワイフ朝は11世紀なかばに、トルコ人のセルジューク朝に滅ぼされることになる。ブワイフ朝では「イクター制」が開始された。これは軍人が功臣に対して(給与ではなく)分与地を与え、農民からの徴税権も併せて与える制度であった。(日本の戦国大名や、その重臣たちの主従様式に近いイメージだろうか。)イクター制および、これと実質的に同等の制度は、セルジューク朝以降も、イスラム世界で広く採用された。

 イスラム世界最高の知性と言われる医者・哲学者・科学者イブン・シーナー(980-1037年)は、サーマン朝に生まれて若い頃を過ごしたが、999年にサーマン朝がガズナ朝カラハン朝から攻められて滅ぶと、しばらく流浪生活を送った後、ブワイフ朝(ハマダーン君主・イスファハン君主)に仕えた。彼の代表的大著『医学典範』は1020年頃に完成したものと見られるが、12世紀にはラテン語に翻訳され、17世紀半ばまで西ヨーロッパの医学の規準となった。

​【日】ブワイフ朝(932-1055):日本は平安時代のなかごろ。939年に平将門の乱。セルジューク朝に滅ぼされる1055年は、前九年の役(1051-62年)の最中。

【日】イブン・シーナー(980-1037)の同時代人:たとえば紫式部(978?-1019?)。

北宋

960 年:宋(北宋)の建国。

☆ 趙匡胤  苦労を覚悟で  宋を建て

 

唐末の五代十国の混乱を収めたのは、宋の太祖・趙匡胤(ちょうきょういん)である。もともと五代の最後の王朝、後周の近衛軍長官であったが、五代で第一の名君と称された後周第2代の世宗柴栄(さいえい:位954-959)が病没すると、部下の将兵たちに推されて960年に禅譲の形をとって帝位に就き、国号を宋と定めた。(後周では世宗の7歳の遺児が一応3代目となったのだが、将兵たちは納得できなかったのである。)都は開封。中国の統一を達成するのは、第2代太宗・趙匡義(趙匡胤の弟)のときである(979年)。趙匡胤は、唐末から続いた藩鎮(地方軍閥)の乱立や武断的な風潮を抑制するために、軍の有力者を更迭して自ら膨大な軍を掌握し、軍閥の解体を進めた。また文治主義を採用し、文官たちを用いて各々の権限は極力分散し、君主自身による独裁権限の集中・強化を図った。科挙に殿試(皇帝による面接。殿中で行われたのでこのように呼ぶ)を導入したのも趙匡胤である。合格した"進士"たちは試験官よりも皇帝に忠誠を尽すようになった。趙匡義の時代にはさらに文治主義が徹底され、文官に比べて武官が一層冷遇されるようになる。

 宋は、周辺民族からの圧迫に苦しみ続け、対外的な軍事的威信は弱い王朝であった。しかしながら社会構造という観点から中国史を大局的に考える際には、唐から宋への移行期に、極めて大きな社会変革が起こったという捉え方もある(唐宋変革論)。宋代には、唐代まで力を持った世襲貴族と入れ替わるように、科挙制度の充実に伴って身分にとらわれずに能力・実力を身につける知識階級(士大夫)が出現して影響力を持つようになり、貴族(地主)による封鎖的・自給自足的な荘園経営が廃れて農奴は小作人化した。そして商業と商業都市が発展し、商品の流通を前提とした産業の分業化と専門化も進んだ(各地に"特産品"というものが現れた)。石炭の使用が普及して火力革命が始まり、西洋ルネサンスに先駆けて印刷(主に木版が普及したが活版も発明された)・火薬・羅針盤が実用されるという技術革新も起こった。

【日】北宋(960-1127):日本は平安時代。建国時は平安時代中ごろ、第62代・村上天皇(位946-967)の「天暦(てんりゃく)の治」の時代。北方の「金」に攻められて北宋が終わる1127年は平安後期、白河上皇による院政期(1086-1129)。

カラハン朝

960 年:カラハン朝の成立(?)。

☆ トルコの苦労を  癒すイスラム  カラハン朝

 

カラハン朝は、中央アジア初のトルコ人イスラム国家である。(版図は西端がアラル海、東端がカシミールのあたり。)アッバース朝サーマン朝の中央アジア進出により、徐々にこの地域のトルコ人たちにもイスラム教を受け入れる素地ができて、トルコ人もイスラムの教えによって癒されるようになったのかもしれない。カラハン朝は、王統起源が不明で成立年代も明確ではなく、伝説のような話になると9世紀くらいまで遡るが、ここでは明確にイスラム教国となった960年頃を成立時期と考えておくことにする。11世紀に東西に分裂し、東カラハン朝は12世紀に西遼(カラ=キタイ)に、西カラハン朝は13世紀にホラズムに滅ぼされる。ホラズムはすぐ後にチンギス=ハンに征服されることになる。

(トルコ民族はアルタイ語族なので、元々はモンゴルのあたりにいたのであろうが、隋・唐の時代には、それまで主にアーリア人〔特にイラン系ソグド人など〕の世界であった西域や中央アジアにも拡がり〔突厥・ウイグル〕、そこでさらに西方からのイスラム勢力と接触してイスラム化したわけである。〔カラハン朝の版図は、だいたい旧「西突厥」に重なるようである。〕この地域に対する「トルキスタン」〔トルコ人の土地〕という呼称は、カラハン朝のころ以降のものである。なお、「トルコ」の元来の発音は「テュルク」に近いようで、これがヨーロッパ語に音訳され、ポルトガル経由で日本に伝えられた結果として、日本での呼称は「トルコ」になっている。隋・唐時代の「突厥」は、「テュルク」の音訳であるらしい。現代英語での「トルコ人」は Turk〔ターク〕である。)

【日】第62代・村上天皇(位946-967)の「天暦の治」の時代。

神聖ローマ

962 年:東フランク王国のオットー1世、神聖ローマ皇帝として戴冠。

☆ オットーの  苦労に報いて  神聖ローマ

 

9世紀頃、東方から東ヨーロッパに進出してきたマジャール人は、かつてアヴァール人がいたハンガリー平原を拠点として、東フランク王国にも侵入・侵略してくるようになった。(マジャール人はウラル語族の遊牧民。ヴァイキングにも匹敵するような狂暴さ、残忍さを備えていたという。)選挙によって、936年にザクセン家(旧東ドイツ南部のあたり)から東フランク国王に即位したオットー1世は、激戦(955年)でマジャールの主力軍を撃退し、国内の統一感をある程度まで強めることに成功した。オットーは国内の聖職者や教会の掌握を進めるための施策として、イタリア政策(教皇との親和策)も重視した。当時、教皇ヨハネス12世は、無謀な教皇領拡張を図って逆に周囲から攻め込まれる状況になっていたが、オットーはこれを助けるために、教皇の要請を受けて北イタリアに遠征した。その見返りとして、オットーは962年に教皇から"神聖ローマ皇帝"として帝冠を受けた。このことにより、それまで東フランク王国であった現在のドイツ・オーストリアあたりと、同じ皇帝に属することになったイタリア王国(北部イタリア)を合わせた地域は、"帝国"と呼ばれるようになる。"神聖ローマ帝国"の呼称が使われるようになるのは、実際には13世紀以降であったようだ。神聖ローマ帝国は"帝国"という呼称にはそぐわない弱い政体で、諸邦の分立性が強かったけれども、実質的には17世紀まで、名目上は19世紀初めのナポレオン戦争のときまで続く。

【日】第62代・村上天皇(位946-967)の「天暦の治」の時代。

ガズナ朝

962 年:ガズナ朝の成立。

☆ トルコ人  苦労にめげず  ガズナ朝

 

ガズナ朝は、サーマン朝に仕えたトルコ人奴隷が、962年にアフガニスタンに建国した王朝である。同じトルコ人イスラム国家のカラハン朝から見て南西方向ということになる。そこから北インドへの侵入を(苦労にめげずに)繰り返して、インド辺境をイスラム化した。インドにイスラム教が入るのは、この時からである。また、ガズナ朝は北東のカラハン朝をも脅かしたが、12世紀になると新興のゴール朝セルジュークトルコに滅ぼされた。

【日】ガズナ朝(962-1186):日本では平安時代。成立時は平安中期で第62代・村上天皇(位946-967)の「天暦の治」の時代。滅亡の年は平安末期、壇ノ浦における平氏滅亡の翌年。

アズハル大学

972 年:アズハル大学の設立。

☆ 学究の  苦難に報いる  アズハル大学

 

ファーティマ朝は、972年にカイロにアズハル大学を創建した。中世ヨーロッパで大学ができるのは12世紀末以降(いわゆる「12世紀ルネサンス」以降)なので、アズハル大学は、かなり早く設立された世界最古の大学のひとつと言える。イスラム神学やイスラム法学の研究が行われた。

​【日】3年前の969年に安和(あんな)の変。醍醐天皇の子にあたる源高明(みなもとのたかあきら)が藤原氏の策略により太宰府に左遷された。以後、藤原氏北家の勢力が不動になる。

ウラディミル1

980 年:ウラディミル1世が即位。

☆ ウラディミル  ビザンツ文化に  気を配れ

 

9世紀半ば、スラヴ族出身のギリシャ正教会の僧が、聖書や祈祷書を南スラヴの言葉に翻訳し(このときギリシャ文字を改造した"キリル文字"がつくられた)南スラヴ(セルヴィア・ブルガリア)への布教を行ったが、その北東にあったリューリク朝キエフ公国(9世紀にノヴゴロド国に続いて建った)も、この"キリル聖書"を初めとする東ローマの文化的影響を受けた。キエフ公国はウラディミル1世の時代に最盛期を迎えるが、その即位は980年である。版図を拡大し、またビザンツ皇帝の娘と結婚してギリシャ正教に改宗した。ウラディミルによる積極的なビザンツ文化の導入は、ロシアがビザンツ風の専制的国家となってゆく端緒を開いた。

 キエフ公国は、大雑把には黒海の少し北西のほう、現在のウクライナ共和国に重なる部分が多い位置を占めていた。この後、東欧地域は13-15世紀に広範にモンゴル人による支配を受けた後、キエフからは東北方向にあったモスクワ大公国が15世紀後半に力をつけて独立を果たし、モスクワがロシアの中心のようになってゆく。しかしながら(梅棹忠夫によれば)現在もウクライナ人としては、自分たちのほうがロシアの本家本元だという意識があるらしい。それを象徴する人物が、ウラディミル1世だということになる。ウクライナ人からすると、モスクワの連中は純粋な「ルーシ」ではなく、タタール(モンゴル・トルコ・ツングース等の中国北方アジア民族に対する総称)が半分入っているということになるようで、これは司馬遼太郎の発言だけれども「なるほどそう言われてみるとエリツィンもタタールの顔をしてますね」。

カペー朝

987 年:カペー朝の成立。

☆ フランスで  犬も食わない  カペー朝

 

カロリング朝フランク王国が分裂した後、東フランク王国では911年にカロリングの王統が絶えたが、西フランク王国でも987年にカロリング家の王統が絶えた。ノルマン人の侵攻を受けて衰退し、すでに帝位も神聖ローマに奪われ、この王党の途絶はもはや必然であったかもしれない。これでフランク王国を3分したカロリング朝はすべて断絶したことになる。(大雑把に捉えればカロリング朝は、8世紀に台頭・9世紀に分裂・10世紀に消滅、した王朝と言える。)東フランクでは王が選挙されるようになったのに対し、西フランク王国ではユーグ=カペーが王に選出されて、カペー朝の世襲が始まった。しかしながら、初めのうちは王権がさっぱり振るわず、分立する各諸侯の力が強かった。カペー朝は14世紀前半まで続くが、王の権威が強まるのは、尊厳王フィリップ2世が出る12世紀末頃からである。(カペー朝の存続期間は1328年まで。大雑把に言えば11・12・13世紀くらいの王朝。)

​【日】カペー朝(987-1328):日本では平安~鎌倉時代。成立時は平安中期で、第68代・一条天皇(986-1011)のころ。断絶したのは鎌倉末期、第68代・後醍醐天皇(位1318-39)が倒幕を画策しているころ。

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