納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(0001~0500年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 8 年:前漢が終わり、新が成立。
☆ 王莽は 新をはじめて 前漢 終わる
前漢の末期、民衆の増税への反発によって社会は不安定になり、宮廷内でも宦官・外戚の権力闘争が起こって帝国の威信は衰えた。外戚の王莽(おうもう)が、8年に自ら帝位につき、国号と「新」と改めたので、前漢はここで終わったことになる。(「王」氏は前漢の実質的な最後の第12代皇帝・成帝の母后〔つまり第13代・元帝の皇后〕の一族であって、元帝の頃から外戚の王氏が帝室の劉氏に対抗する力を持ち始め、やがて劉氏を圧倒するに至ったわけである。)王莽は、周の制度を理想として政治をとり行ったが、実情に合わずに失敗して、反乱を招くことになる。
● 18 年:赤眉の乱が起こる。
☆ 新に不満 農民一派が 赤眉の乱
前漢から新に代わると、王莽が政治を始めたが、国内は収まらず、農民や地方豪族の反乱を招いた。赤眉の乱は、18年に山東地方に始まり全国に波及した農民反乱であるが、反徒が眉を赤く染めて目印にしたことから、この名が付いている。華北各地で9年間猛威をふるったが、無教育な農民たちによる、何の政治思想もない無秩序な叛乱という以上のものにはならなかった。結局のところ、貴族である劉秀(後には後漢の光武帝となる)に平定された。
● 25 年:後漢の成立(光武帝の即位)
☆ 内乱の 不幸をなくす 光武帝
中国、新の末期に起こった赤眉の乱を平定したのは、漢の一族の劉秀である。(「劉」氏とは言っても第6代・景帝から6代目の、かなりの傍系ではあったが。出身は河南省南西部の南陽。劉秀はかなり学者肌の人物であったらしい。)25年に劉秀は光武帝(位25-57)として帝位に就き、漢を復興させた。新の後に復興した漢を、後漢と呼ぶ。光武帝は都を陝西の長安から、河南の洛陽(長安から東に320キロほど)に移し、儒学重視、内政重視の政策を行った。
また、後漢の時代に紙が発明され、105年前後から使われ始めた。このことが学問の普及を促すことになった。
【日】『後漢書』東夷伝には、光武帝が、朝貢してきた倭の奴の国王の使者に、印綬を授けたことが記されている。これは57年のことである。
● 96 年:五賢帝時代の始まり。
☆ 100 年間 賢帝 続き 苦労なし
帝政ローマにおいて、ネロ帝(位54-68)以降、帝位に関してはいささか混沌とした期間もしばらくあったが、96年に即位したネルヴァ帝から"五賢帝"と呼ばる皇帝が出た。このおよそ百年間(正確には180年までの84年だが、まあ大雑把に約百年ということでよいだろう)の時代が、ローマ帝国の最盛期である。ネルヴァ(位96-98)の次のトラヤヌス帝(位98-117)のときに帝国の領土は最大になった。3番目のハドリアヌス帝(位117-138)のとき、第2次ユダヤ戦争が起こっている(132-136年。帝がかつての神殿所在地にジュピター神殿を建てようとしたところユダヤ人が反乱を起こしたが、ローマ軍はこれを完全に鎮定し、この地にローマ植民市を築いた。ユダヤ人は完全に"祖国を失った民"になり、その後、多くのユダヤ人がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散するようになった)。4番目はアントニヌス=ピウス(位138-161)、五賢帝の最後が、ストア派の哲学者としても知られるマルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161-180)である。
当時の帝国が獲得していた属州として、よく引き合いに出されるのがドナウ川の北側のダキア地方、現在のルーマニアにあたる。(金や鉄を産出し、帝国経済を潤したようだ。3世紀にゴート人に侵入されて帝国領土ではなくなるけれども。)そもそも「ルーマニア」は「ローマ人の国」の意味。当時ローマ人の入植が進み、現在もルーマニアは東欧の中で特異的にラテン人が多い国である。また、ローマ帝国の版図に関してもうひとつ注意しておいてもらいたい点は、現在の西ヨーロッパの重要国であるイタリア・フランス・イギリスは帝国に含まれていたが、現在のドイツの大部分は「ライン川-ドナウ川の向こう側」であって、ローマ帝国には服属したことのない地域だということである。たとえて言うなら、当時のローマ帝国にとっての「ドイツ人」(ゲルマニア人)は、東アジアの漢にとっての北方異民族勢力(匈奴など)と、ある程度似たような存在であったかもしれない。
● 130 年:カニシカ王の即位。
☆ ガンダーラ 遺産を残す カニシカ王
大月氏国の中の一族が独立して建てたイラン系のクシャナ朝(正確な年数は分からないが、BC1世紀末-5世紀。月氏とイラン系との関係性は今ひとつはっきりしない)は、首都をプルシャプル(現在ではペシャワール。パキスタン西北部のアフガニスタンとの国境に近い位置)とし、北方は東西交易の要地である中央アジアの一部まで、南方はインド北部までを支配下に置いて、130年(頃)に第3代のカニシカ王が即位すると最盛期を迎えた。カニシカ王もマウルヤ朝のアショカ王と同様に仏教を保護し、仏典結集を行った。(イラン人と仏教という組合せは少々意外な気もするが、後のササン朝時代のマニ教の例もある。アショカ王時代のインド西北方への伝道活動が源泉となっている。)プルシャプルのあるガンダーラ地方には、ヘレニズム文化の影響を受けたインド仏教美術(ガンダーラ美術)が発展していて、後世に美術遺産を残すことになるが、これもカニシカ王の時代が盛期とされる。(仏陀の"像"というのはゴータマ=シッタルダの時代以降、アショカ王時代にも作られていないようで、おそらくクシャナ朝発祥のものだろう。これ以前は、蓮華の"紋"など、人間の形を持たない"象徴表現"が礼拝対象に用いられた。)クシャナ朝は5世紀にエフタルに滅ぼされる。
(少し古いNHKスペシャルを眺めると、クシャナ朝を建てたクシャン人は元々ゾロアスター教を信仰するイラン人で、カニシカ王時代のガンダーラで、ゾロアスター教が仏教に影響を与えたことによって大乗仏教が成立した、といった話もある。どこまでそのまま信用していいのか私にはよく分からないけれども、そう考えてみると、古層の仏典〔主として覚者としての"人間"ゴータマ=シッタルダ、およびその関係者の言行録的な記述〕に比べて、大乗仏典に少なからず見られる"空想的・宇宙的な発想"は"ゾロアスター的"なのかなぁ?という気もしないでもない。)
(カニシカ王の在位期間は、実際のところ諸説あって確定的な年数は決まらない。ここでは即位130年としたが、10年程度の誤差があるかもしれない数字として見ておいてもらいたい。)
● 184 年:黄巾(こうきん)の乱が起こる。
☆ 張角の 一派 死ぬ気で 黄巾だ
後漢は1世紀後半に勢力を拡大させたが、2後半後半になると宮廷内で外戚(皇后の生家)や宦官が力を持つようになって政治が混乱し、帝国の威信も衰えた。そうすると、豪族や農民が不穏な勢力を形成するようになる。(多数の農民が、理不尽な搾取や財産没収を被り、農奴化を余儀なくされたようである。)後漢の末期に起こった最も象徴的な農民反乱が184年に華北で張角(ちょうかく)が起こした黄巾の乱である。張角は自らを「大賢良師」と称して"新天子の出現"を説いてまわり、10年ほどで数十万の農民信者を集めたそうである。(張角の教えは「太平道」と呼ばれ、5世紀に、北魏の寇謙之〔こうけんし〕によって成立する道教の源流となった。)信者たちは中国全土で蜂起し「漢の蒼(あお)い天は死んだ。新しい黄色の天下がくる」と唱えながら役人たちを襲い、団結して命知らずの戦いを行った。これらの信者は黄色い布をつけて目印にしたという。(民衆の反乱というものは、宗教と結びつくと、横の繋がり・広がりが出来て大規模になる傾向があるようだ。)乱は鎮定されたが、8年ほど残党の蜂起が絶えず、その後も各地で農民一揆は起こり続けた。都市や農村は荒廃し、黄巾の討伐にはたらいた地方の豪族たちも混乱の中で軍閥化してゆき、後漢の政権は著しく弱まった。
● 211 年:カラカラ帝の即位。
☆ 帝国で 全土に いい策 カラカラ帝
ローマ市民権の取得資格は、共和政時代後期の紀元前1世紀には、原則的にイタリア半島全土にまで拡大されていたが、半島以外の属州の自由民にその資格は無かった。ローマの政体が帝政に代わって、五賢帝時代(96-180年)の後、しばらく変則的に帝位継承が行われた期間を経て211年に即位したカラカラ帝は、一般には暴君として知られる。しかし彼は即位の翌年にアントニヌス勅令を出し、帝国全土の自由民にまでローマ市民権を拡大した。その動機は、人気のためとか、税収を増やすためとか言われるが、結果的に帝国内での民族的な出自の差別が無くなったことになる。
カラカラは、東方パルティアへの遠征途上、士官たちによって暗殺された(217年)。
● 220 年:後漢の滅亡。三国時代の始まり。
☆ 群雄割拠 後漢の滅亡 腑に落ちる
後漢も末期になると、宮廷では宦官・外戚が争い、農民や地方豪族が騒乱を起こして群雄割拠し、帝国支配の衰退が激しかった。そうであれば、後漢が220年に滅亡したのも、腑に落ちることだったと言えるかもしれない。この後、中国では華北の「魏」、江南の「呉」、四川の「蜀」が争う、いわゆる「三国志」の時代が訪れる。単純に三国並立が続いたわけではないが、魏の将軍・司馬炎が建てた晋(西晋)が中国を統一する280年までを、三国時代と称する。
(いわゆる"三国志"であるが、はじめ蜀に、のちに晋に官僚として仕えた陳寿が紀伝体の史書として『三国志』全65巻を編纂・執筆した。その完成は285年頃(?)。「魏志」30巻、「蜀志」15巻、「呉志」20巻からなる。〔ついでに言うと「魏志」巻30の中の"東夷伝"の中の"倭人伝"[倭人の条]と呼ばれる部分に邪馬台国に関する記述がある。つまり中華思想的に見れば、魏にとって倭は"外国"ではなく[朝鮮半島の帯方郡を通じて?]治めているところという意識だったのだろう。〕その後、時代を経て、この『三国志』を題材として語られた逸話群が徐々に集約され、14世紀末~15世紀初ごろ〔明の初めの頃)に通俗歴史小説としての『三国志演義』24巻が成立する。陳寿の『三国志』は魏を正統としているが(220年に漢の献帝から曹丕が禅譲を受けたという体裁になっている)、『三国志演義』は蜀を正統としている(劉備は漢室の「劉」氏の一門である)。現在、大衆文化において蜀を建てた劉備や、これを補佐した軍師・諸葛孔明が、"善玉"として扱われやすいのは『三国志演義』のほうの影響なのだろう。)
● 226 年:ササン朝ペルシャの成立。
☆ ササン朝 普通 無理だよ 諸王の王
"遊牧帝国"パルティアを滅ぼし、226年にササン朝ペルシャを打ち立てたのは、農耕イラン人のアルデシル1世だった。アルデシルは東方・西方に遠征して勢力を拡げ、またアケメネス朝古来のペルシャ文化の復興をはかった。第2代皇帝シャプール1世(位241-272)は、自らを「イラン人、および非イラン人の諸王の王」と称して世界帝国を目指し、西ではローマ軍と戦って勝ち(260年。ヴァレリアヌス帝を捕虜として捕えた)、東ではクシャナ朝を制圧して大帝国を築いた。ササン朝は7世紀まで(~651年)続き、イスラム勢力に滅ぼされることになる。
ササン朝はゾロアスター教を国教にした。ゾロアスター教の経典「アヴェスタ」は、ササン朝時代の初期(3世紀)に、現在の体裁に編集された。
ゾロアスター教を変形し、キリスト教や仏教などの要素も取り入れた混合宗教「マニ教」の教祖マニ(216-277年)は、ササン朝ペルシャ時代の預言者である。マニはシャープール1世からは寵愛を受けたが、その後の王とは折り合いが悪く、最後は(よく分からないのだが)処刑されたという話も伝わる。
(ササン朝の存続期間〔226-651〕は、中国史で言えば魏晋南北朝~隋~唐の初めにあたる。)
【日】ササン朝が存続した時期は、日本で言えば、だいたい邪馬台国の時代から、大化の改新の頃まで、ということになる。
● 235 年:帝政ローマにおいて、軍人皇帝時代が始まる。
☆ 杜撰・混迷 軍人皇帝 乱立し
3世紀のローマ帝国では、235年から「軍人皇帝時代」と呼ばれる時代になる。各地の軍隊が力を持つようになって、それぞれが皇帝候補を擁立して争った。(大抵は、先帝の指命や元老院の自発的な推挙などなく地方軍隊が「実力で、勝手に」皇帝をかつぎあげた。)この50年間に26人もの皇帝が輩出、そのうち24人は暗殺されるという混迷の時代であり、帝国としての体制は極めて杜撰(ずさん)なものであった。また、正規の皇帝のほかに、各地で勝手に皇帝を名乗る僭称皇帝も数多く現れた。
この時代、内乱が続いて辺境防備が手薄になり、外敵が国境線を突破して侵入してくるようになった。
(「ず(づ)」を「2」と読ませるのは、かなり強引だけれども、「two(ツー)」を濁らせた音と見なして連想してください。)
【日】おそらく235年には既に邪馬台国が成立している。4年後の239年に卑弥呼は魏に遣使。
● 284 年:ローマ帝国において、専制君主政が始まる。
☆ 皇帝を 増やして専制 ディオクレティアヌス
軍人皇帝時代の混乱を収めて284年に即位したディオクレティアヌス帝(~305年)は、東方(ササン朝)の安定した専制政治に倣って皇帝崇拝を強化し、専制君主政を始めた。彼は帝国領土を4分して、自分以外にもうひとりの正帝と、2人の副帝を設け、それぞれの領域を分担統治する形を導入した。(但し初めは2人の正帝だけの体制で、BC293年に更に2人の副帝を任じて4分体制にした。)4都はニコメディア(小アジア北西部。後のコンスタンティノープルに近い)、シルビウム(セルビアのあたり)、メディオラヌム(現ミラノ)、アウグスタ=トレウェロルム(現ドイツ西部・ライン川流域)に置き、ディオクレティアヌス自身は東方正帝として、ニコメディアに都して東方統治を行った。(当時、帝国の主要課題はむしろ東方に重心があり、それに対してローマは西方にすぎたので「分割再編」を試みたわけである。特に各地域の辺境対策においては、ある程度の成果をあげたようである。)彼は、初めはキリスト教に対して寛容であったが、その治世の晩年にキリスト教徒を徹底的に弾圧するようになった(正式な迫害令は303年)。皇帝自らをローマ神話の最高神ジュピター(ユピテル)と同一視させて皇帝崇拝を強化する方針(偶像に犠牲を捧げる儀式を強要するようなことがあったらしい)は、キリスト教信者の信仰と相いれないものであったであろう。,
ディオクレティアヌスの時代以降、社会全体において身分・職業を固定化してゆく施策が行われたため、「自由な市民」のような通念は廃れ、ギリシャ=ローマ的な都市文化も衰えてていった。
● 313 年:ローマ帝国において、キリスト教を公認。(ミラノ勅令)
☆ キリスト教 再三迫害 以後 公認
ローマ帝国では、キリスト教徒への迫害が再三にわたって行われてきた。(最初のものがネロ帝による迫害〔64年〕)。しかしキリスト教の勢力は1~3世紀の間に帝国内に広まり続け、もはやディオクレティアヌス帝による大迫害(303年)などによっても抑えることができない強固なものになっていた。そこで、コンスタンティヌス帝(副帝時代)は方針を転換して、帝国内でキリスト教を公認することとし、313年にミラノ勅令を発した。(彼自身は最初、太陽神を礼拝する異教的一神教を信仰していたらしい。彼がいつキリスト教に改宗したかは、はっきりしない。)コンスタンティヌスには、キリスト教の勢力を、帝国支配に利用しようという意図もあったものと考えられる。
この後、コンスタンティヌスがいろいろキリスト教優遇策を進める一方で、キリスト教会側に既存の社会制度と妥協する傾向も現れ、軍役も教会によって肯定されるようになる。
【日】この時代、日本がどうだったのか明確なことは分からないのだが、崇神天皇(第10代とされるが、実在の「天皇」としては最初かもしれない)は、この頃の人であった可能性がある。大和政権の起源はこの頃かもしれない。
● 316 年:西晋が滅ぶ。
☆ 西晋は 債務のがれて 東晋へ
三国時代の後、魏の将軍・司馬炎がおこした晋(西晋)が洛陽を都として、呉を滅ぼして中国を統一したが(280年)、帝位争いなどで動揺し(八王の乱。290-306年)、異民族の侵入を招いてしまい、316年に匈奴に攻め滅ぼされた。しかし、このとき江南に在していた司馬睿(しばえい)は、翌年、豪族たちに擁立されて建康(南京)に東晋を建てた。(北晋/南晋と呼んだ方が分かりやすいような気がするが、華北〔中原の地〕にいた漢民族にとっては、未開の南の地に移ったように言いたくない心理が働いたのだろうか?まぁ洛陽→南京はだいたい東南東だから、東に移ったと言っても通らないことはないけれども。)この後、華北はしばらく多くの異民族が興亡する五胡十六国の乱世になる。(五胡とは匈奴・羯・鮮卑・氐・羌。前3者は北方系、後2者は西方チベット系。)西晋に債務などというものがあったかどうかは分からないが、難を克服できずにのがれたとは言える。匈奴による猛攻は、尋常なものではなかったらしい。この時代、華北にいた多くの漢民族が江南へと押しやられ、かなりの人口の移動があったようである。この人口の移動によって、それまで未開の地であった江南地域が発展することになる。また、南北朝時代にかけて、江南に、漢民族的でありながら儒学的な思想を退け、世俗を離れる風を尊ぶ貴族文化が醸成された(詩の陶淵明、絵画の顧愷之〔こがいし〕、書の王羲之〔おうぎし〕など)。再び中国全土の統一国家が形成されるのは約270年後の隋の時代のことになる。
東晋の、政権としての歴史を見ると、有力者間のうんざりするばかりの"お家騒動"の連続である。420年に、形式的には禅譲という形で実質的には滅亡させられ、南朝の「宋」がこれに代わった。
仏教は漢代に既に中国に伝わっていたが、中国社会の中で広まり始めるのは4世紀ごろからである。インド人(カシミール人)を父とする西域亀茲国(クチャ)の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう。350?-409年?)は、亀茲国を攻略した五胡十六国の前秦(氐族。351-394年)の将校に捕われて、17年ほど甘粛省のあたりで不本意ながら軍師的な仕事をしたが、その後、後秦(羌族。384-417年)の王の意向で長安に移されて(401年)布教と仏典の訳出を行った。(鳩摩羅什は元々小乗仏教を学んだが、たまたま若い頃に南道地域から北道地域の亀茲国に来た大乗僧に大きな影響を受け、大乗仏教の研究と布教に専心するようになったらしい。彼による般若経・法華経・弥勒経・阿弥陀経などの重要な大乗仏典の漢訳は、多大な影響を与え続けた。)また、東晋の僧・法顕(ほっけん。337?-422年)は陸路(シルクロード)でインド(チャンドラグプタ2世治下のグプタ朝。首都はパータリプトラ〔ガンジス川沿いの都市。かつてはマガダ国、マウルヤ朝の首都であった〕)へ行って仏典を収集・書写し、さらにセイロン島にも渡って仏典を入手し、海路で帰国した後に『仏国記』を著した。(旅の期間は399-413年の14年間。法顕の仏典収拾は原始仏典・小乗仏典の収拾に力点が置かれていたようである)。仏教文化は4世紀後半から三国時代(高句麗・百済・新羅)の朝鮮半島に入ってゆき、6世紀には朝鮮半島から日本に伝わることになる。
【日】東晋(317-420):日本では第10代・崇神天皇(???)~第15代・応神天皇(?)の頃か? 東晋末期の413年、"応神王朝"の"讃"(倭の五王の最初)から中国へ最初の遣使が行われている。東晋滅亡後は南朝・宋への遣使が続く。5世紀中に計9回。
● 320 年:グプタ朝の成立。
☆ ヒンドゥーで 賛辞を受ける グプタ朝
北インドでは、クシャナ朝が3世紀に衰えてから分裂状態が続いたが、320年にチャンドラグプタ1世がグプタ朝を開いた。(初めはマガダ地方〔ガンジス川南部〕の小国だったが、北部インド全体に勢力を広めた。)グプタ朝時代には、仏教に代わってヒンドゥー教が発展した。これはバラモン教と民間信仰が融合してできた宗教で、現代までインドにおける主要な宗教として続いている。("インド人"にしてみると、クシャナ朝というのは"外国人"が支配する王朝だったわけで、それを脱したことにより民族意識が高まるのはうなずける。ヒンドゥー教が重要となったのは、そういう意味合いなのだろう。)ただし、宗教としての仏教の勢いはグプタ朝の時代に衰えたが、仏教研究や仏教美術はむしろ最盛期を迎えている。
グプタ朝は4世紀後半のチャンドラグプタ2世のときに最盛期を迎えるが、5世紀半ばごろから西北方からのエフタルの侵入に悩まされて衰え、6世紀半ば(550年頃)に滅亡する。
(ヒンドゥー教では、仏陀はヴィシュヌ神の化身のひとつとして扱われるようになる。)
なお、グプタ朝の時代には、アショカ王時代の「ブラーフミー文字」を源とする「グプタ文字」が普及した。現在まで発見されている仏典のサンスクリット語原典の多くは、グプタ文字で書かれているのだそうである。日本の仏教文化の中で伝承されている「悉曇(しったん)文字」(梵字)は、北インドでグプタ文字からさらに派生した文字が、中国経由で7世紀に日本に伝わったものであるらしい。
【日】グプタ朝(320-550?):日本では第10代・崇神天皇(???)~第29代・欽明天皇のころ。つまり大和政権の始まりのころ(???)から、聖徳太子の祖父の頃まで。
● 325 年:ニケーア公会議。アタナシウス派がキリスト教の正統と決まる。
☆ ニケーアで 三つ子(三位)は一体 認められ
ローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、325年に全教会の司教などを集めた教会会議(ニケーア公会議)を開き、正統な教義を決めさせた。(ニケーアはニコメディア南方の都市。小アジア北西部。)その結果、イエスは(神そのものではなく)人であるという立場を取るアリウス派は退けられ、イエスの神聖を強調して神とイエスと聖霊(三位)が一体であるとする三位一体説を唱えるアタナシウス派が、ローマ帝国におけるキリスト教の正統派と決められた(ニケーア信条)。(「アタナシウス派」は後世の呼称で、ニケーア会議で論陣をはった論客の名「アタナシウス」に因んでいる。)しかし、この時点で情勢に完全に決着がついたわけではなく、その後もアリウス派の巻き返しもあって両者の攻防があり、歴代皇帝の立場も一定ではなかったようである。ようやく381年にコンスタンティノープルで行われた教会会議で、再びニケーア信条に基づく信条が定められて、この教理論争はローマ帝国内では終わった。アリウス派はローマ帝国から追放され、帝国外のゲルマン人に広まることになる。
また、この会議では、帝国内のキリスト教徒が用いる暦法に関して、それまでユダヤ教由来で残し続けてきた太陰太陽暦ではなく、既にローマ人が馴染んでいる太陽暦(ユリウス暦)を採用することも決まったのだそうだ。
(三位を「三つ子」と形容するのは、かなり無理があるけれども。)
● 330 年:ローマ帝国、首都をコンスタンティノープルへ移す。
☆ 新首都は 燦燦 麗麗 再統合
ローマがローマ帝国の首都であったのは286年までで、ディオクレティアヌス帝の四分統治策以降、東方正都はニコメディア(小アジア北西部)、西方正都はメディオラヌム(ミラノ)に置かれていた。しかし四分統治制自体はディオクレティアヌス帝が没した305年以降、安定を欠くようになり、帝位の争いが生じていた。コンスタンティヌス帝(位324-337)は、この"四分統治"状態を実力で廃して唯一の皇帝となり、330年に帝国全土の首都を、新たにニコメディアにほど近いコンスタンティノープルに置いた。(帝国の東方の外敵対策を重視したわけである。ビザンティウムの地をコンスタンティノープルと改称。この地は元々はBC7世紀にギリシャ人が建設した植民市があったところである。)これ以後、東ローマ帝国が滅びる15世紀まで、この地は都として栄え続けた。キリスト教に傾倒したコンスタンティヌス帝がこの地に建てた聖ソフィア聖堂は、ビザンツ建築の代表とされる。(後に一旦焼失するが、6世紀にユスティニアヌス帝によって再建された。)
● 375 年:ゲルマン民族の大移動が始まる。
☆ 大移動 ローマ人たち 皆 困まる
東方から移動してきたフン人(匈奴の一派とする説がある)は、南ロシア(黒海の北のあたり。ドニエプル流域)にいたゲルマン族の一派である東ゴート族の大部分を征し、圧迫された黒海西北岸(かつては帝国領土であったダキア地方)の西ゴート族は375年に南下を始めて、東ローマの許可を得てドナウ川を渡り、約4万人がローマ帝国に移ってきた。これを皮切りとして、多くのゲルマン人が、ライン川-ドナウ川を越えて帝国内に侵入を始めた。(帝国側は、更なる侵入を拒絶しようとしたが、もはやそれだけの防衛力は無かった。)これが「ゲルマン民族の大移動」の始まりである。(ゲルマン人は、これ以前にも帝国内にいろいろな形で〔捕虜なども多々あっただろう〕入ってきていたはずだが、部族集団でまとまって侵入してきたという点において、この「大移動」は画期的事件であった。)帝国当局から土地を与えられないゲルマン人にとって、生きるためには常に戦い、略奪をする必要があったので、帝国内は著しく混乱し、衰退が著しくなった。この「大移動」は、初期(5世紀初めまで)が特に動きの激しい時期であったが、だいたい5世紀末、テオドリクがイタリアに東ゴート王国を建てる頃まで続く。
(しかしながら、圧倒的な数のゲルマン人が帝国内に入ってきたと考えるのも誤解である。ゲルマン諸族によって建てられた各王国において、既存のローマ人に対するゲルマン人の割合は高々2パーセント程度のものであった。)
西ゴート族は西進してイタリアに侵入、さらに西進してイベリア半島に移動して、415年にそこに西ゴート王国を建国、これは711にウマイヤ朝に滅ぼされるまで続いた。
【日】西ゴート王国(415-711年):日本で言えば第15代・応神天皇の頃(??)から奈良遷都翌年まで。
● 376 年:グプタ朝第3代、チャンドラグプタ2世即位。
☆ [チャンドラ]グプタ2世 みんな迎える 文化の世
インド北部を支配したグプタ朝では、376年にチャンドラグプタ2世が即位し、最盛期を迎える。彼の時代は"インド人"にとっての民族文化の黄金期で、宮廷詩人カーリダーサの「シャクンタラー」(シャクンタラー姫の恋物語)はサンスクリット文学の最高峰と言われる。おそらくBC4世紀頃から徐々に作られ始めた二大叙事詩「マハーバーラタ」(バーラタ族の闘争物語)と「ラーマーヤナ」(コーサラ国ラーマ王子〔ヴィシュヌ神の化身〕の流離譚)も、この頃に完成したと推定される。(この二大叙事詩は詠吟遊行されることによって民衆にバラモンの教えを広める役割を果たし、"ヒンドゥー教の聖典"とも言えるものになった。)数学もこの時代に独自の発達を始める。中国・東晋の僧、法顕は、仏典を求めて、チャンドラグプタ2世治下のグプタ朝を訪れた。
(「シャクンタラー」は18世紀にヨーロッパの各国語に訳されて知られるようになった。ゲーテの「ファウスト」の序曲は「シャクンタラー」序幕に影響を受けているのだそうだ。)
「チャンドラグプタ2世」は長すぎるので、暗唱用の文句としては「チャンドラ」を省略したほうがよいかも知れない。(「2世」のほうを省くと支障がある。)
● 395 年:ローマ帝国が東西に分裂する。
☆ テオドシウス 錯誤ではなく ローマ割る
4世紀終わりごろ、共同皇帝の一方として即位したテオドシウス帝は、ゴート族を退け、キリスト教を国教化するなど、混乱していたローマ帝国の体制の再統合につとめた。晩年には形式的に単独皇帝になったが、帝国解体の傾向に対して本質的に有効な歯止めをかけることはできなかった。彼は395年、その死に際して帝国を東西に分割し、二人の息子をそれぞれの帝位につけたが、それは最晩年における錯誤ということでもないだろう。あるいはテオドシウスの意向としては、帝国を完全に分裂させるということではなく、"ひとつの帝国"を再び分割統治体制に移行させるという意図にすぎなかったのかもしれないが、結局これ以降に東西両方を統括する立場に立つ統治者が現れることはなかったので、この時点からローマ帝国は、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂したものと見なされている。
教科書ではあまり強調されないけれども、西ローマ帝国における中心的言語はラテン語、東ローマ帝国における中心的言語はギリシャ語ということになる。文化的に見て、この違いはかなり重要な意味を持つ。
【日】広開土王の碑文によれば、この4年前の391年に倭軍が朝鮮に侵攻し百済・新羅を破っている。
● 410 年:エフタルが建国(?)。
☆ エフタルに いたよ良い王 悪い王
エフタル(白匈奴)は、410年頃に中央アジアに出現する。アム川上流(現在のアフガニスタン東北部)が中心拠点だったようだ。民族系統ははっきりしないが、漢に討たれた匈奴が西へ逃れたのが起源で、その一部はエフタルとなり、残りはヨーロッパへ移動してフン人と呼ばれるようになったという説もある。エフタルは、既に衰えていたインド北西方のクシャナ朝を滅ぼし(5世紀後半)、グプタ朝にも衰退をもたらした。また、ササン朝ペルシャと西側の国境を接し、しばしば争った。6世紀には仏教弾圧を行う王が出たりした。(ガンダーラの仏教教団を迫害し、仏教美術品も破壊の対象となったようである。)6世紀半ば(559年ごろ?)に西のササン朝(ホスロー1世)と東の突厥に挟み撃ちにされ、滅ぼされた。
【日】3年後の413年、倭の五王の讃(第15代・応神?第16代・仁徳?)が中国南朝の東晋に遣使。おそらくこれが、倭の五王による最初の遣使であろう。「応神王朝」期の初めの頃である。
● 439 年:北魏が華北を統一。南北朝時代の始まり。
☆ 北魏 統一 与作も分かる 南北朝
五胡のひとつ鮮卑族の拓跋氏(たくばつし)は、4世紀後半に北魏を建てた(386年、都は内モンゴルの盛楽。398年に平城〔現在の「大同」。山西省北東端部・北京の西250キロほど〕へ遷都)。そして、424年に即位した第3代皇帝の太武帝(~452年)は、439年までに華北統一を成し遂げて乱世を収めた。(江南では東晋が420年に滅びて、このときは宋の時代〔~479年〕。)これ以降、隋による中国全土の統一(589年)までの期間は、南北朝時代と呼ばれる。多くの小国が入り乱れる状況ではなくなったので、それまでに比べ、勢力区分は誰にでも分かりやすくなっただろう。(与作という中国人はいないだろうけれども。)
太武帝は即位後、儒士の崔浩(さいこう)、道士の寇謙之(こうけんし)を重用したため、その治世において仏教は異教として排斥されたが、これに対して国内での反発の気運は伏在していた。(崔浩は、道教に関しては中華思想の範囲内のものと見て好意的であったが、仏教に対しては漢民族以外の"西戎の"思想としてかなり嫌っていて、当時の中国における仏教の流行を苦々しく感じていたらしい。一方の寇謙之の思想は純粋な道教だけでなく神仙的なものも混じっていたらしく、「天神のお告げを受けて」太武帝に仕えることにしたのだそうだ。両者は相互に敬意を持つ協力関係にあって、"智謀と霊力"によって帝を華北統一に導いたというわけだ。)
太武帝の死後、すぐに次の文成帝の下で仏教復興許可の詔勅が出され、ここから雲崗の石仏群の建造が始まる。(雲崗は、都・平城の郊外である。)北魏の五帝に擬した巨仏像が彫られた。
【日】前年の438年、倭王「珍」(倭の五王の2人め)が中国南朝の宋に遣使。
● 451 年:カタラウヌムの戦い。(フン人が敗北)
☆「拙劣な 侵攻 遺憾」と 語らうフン人
ゴート族を追ったフン人は、5世紀に入るとアッティラ大王に率いられて更に西進し、ライン川を越えてガリアに入り侵攻を続けた。西ローマ帝国の軍とゲルマン諸族の軍がこれを迎え討ち、451年のカタラウヌム(現在のフランス北部)の戦いでフン側が敗退した。フン人たちは、ガリア侵攻の戦略が拙劣であったと後から後悔したかもしれない。(「語らう」を「カタラウヌム」にかけてある。)しかしその後もフン人はイタリア方面を略奪したりしたが、453年にアッティラ大王が急死すると、フン人の勢力は崩壊した。しかしながら帝国内に混乱した状況を残した。
(現在の「ハンガリー」が、「フン人の国」という意味だという俗説がしばしば言われるようだが、これは単に面白いだけで、学術的には全くの誤りであるらしい。確かに実態としてハンガリーはマジャール人〔ウラル語族。民族系統は複雑に入り交じっている〕の国だろう。アッティラが現在のハンガリーのあたりを拠点としたことは事実だけれども。)
● 476 年:西ローマ帝国の滅亡。
☆ 傭兵に 攻められ死なむ 西ローマ
フン人やゲルマン人の侵入によって引き起こされた混乱した状況は、特に西ローマ帝国内においてその後もなかなか収まらなかった。(東帝国側では、侵入してきたフン人や西ゴート族が領内北部を荒らしたのち西に向かったので、さほど大きな災難とはならなかった。首都コンスタンティノープルや小アジア・シリア・エジプトは無傷で残った。)そのような状況の中で、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが、476年に西側の最後の皇帝ロムルス=アウグストゥルスを追放して、西ローマ帝国を滅ぼすに至った。(オドアケルがゲルマン人の何族だったのか不明であるが、とにかく西ローマ帝国は自国で雇い入れていた異民族の将軍に簒奪されたわけである。帝政後期のローマ帝国では、異民族の傭兵を正規軍に雇うことも普通に行われ、最末期には異民族の隊長というのも全然、珍しくなかったようだ。)オドアケルは、ゲルマンの王と称してイタリア地域を支配したが、493年に東ゴートのテオドリクに討たれることになる。
西ローマ帝国の滅亡は、ヨーロッパにおける「古典古代」の終焉の目安と見なされ、これ以降、千年ほどの長きにわたる「中世ヨーロッパ」が始まることになる。
【日】2年後の478年、倭の五王の最後の王「武」(第21代・雄略?)が、中国南朝の宋に遣使。
● 481 年:フランク王国の成立。
☆「フランクの 世は いつまでも」と クローヴィス
西ローマ帝国の滅亡から5年後の481年、北ガリア地域(現在のフランス北部)から出たフランク族のクローヴィスによって、フランク王国(メロヴィング朝)が建てられた。他のゲルマン諸族と異なり、クローヴィスはローマで正統とされたアタナシウス派に改宗したが、このことが、その後(特に8世紀に)フランク王国が発展していくためのひとつの要因となる。(何がこの改宗を決断させたのか、よく分からない。クローヴィスの時代において、何かアタナシウス派に"利用価値"を予見させるものがあったのだろうか?伝えられるクローヴィスの人物像は粗野で奸計を好み残忍というもので、キリスト教の教義にこだわることはなかっただろう。)フランク王国は勢力を拡大し、やがて(~8世紀末)現在のドイツやイタリア北部までを支配するようになった。(8世紀半ば〔751年〕には、メロヴィング朝が宮宰に簒奪されてカロリング朝が始まる。)9世紀にはフランク王国が3分するが、それが現在のフランス、ドイツ、イタリアにつながる。
(念の為、再度注意を促しておくけれども、このサイトのゴロ合わせでは、「い」は1に対応させ、5には対応させない方針にしてある。)
● 485 年:北魏の孝文帝が、均田制を始める。
☆ 孝文帝 「世は これから」と 均田制
晋が東遷(南下)した後、五胡十六国の混乱を収拾して華北を統一(439年)したのは、鮮卑族による北魏であった。第6代の孝文帝(位471-499)は、土地制度として、485年に中国で初めて均田制を制定した。(ただしこの時、孝文帝は18歳。摂政の馮太后〔ふうたいごう〕の死去は、5年後の490年で、この時点ではまだ馮太后が北魏の政治を主導していたかもしれない。)これは、基本的な理念としては「公地公民」ということで、土地の私有を制限し、土地と人民を国家が直接統治するという仕組みである。(豪族の力が強く、大土地所有の制限は現実的には困難であったが。)この制度は、後の隋・唐でも採用された。まさに「世は、これから」とも言うべき施策だったわけである。(このとき、南朝は斉〔479-502年〕の時代。)
孝文帝は、儒教主義帝王学を身につけ、漢化政策(漢民族文化の受け入れ)を推進した。彼は都を北方の平城から洛陽に移し(494年)、部下にも中国服を着させ、中国語を話させたのだそうである。4世紀はじめに西晋が滅んでから華北に入り込んだ北方遊牧民族は、徐々に元々の生活形態から離れて農耕民族化する傾向があったと推測されるが、孝文帝の施策は更にその傾向を推し進めるものとなったのであろう。均田制のような「農耕土地政策」を打ち出すこと自体が、そもそも北方遊牧民族の発想とは異質である。
孝文帝は仏教の普及をあまり望んでいなかったようであるが、仏教興隆の気運は強く、これを政治的に抑えることは到底できなかった。出家者は激増し、仏寺建立も相次いだ。洛陽の整備・発展に伴い、西方からの外国僧の流入も盛んになり、洛陽は次の宣武帝の時代にかけて"国際仏教都市"のようになってゆく。
なお、孝文帝の没後、北魏では内部抗争が起こるようになり、534年には東西に分裂して東魏(山西以東)と西魏に分かれ、西魏(長安を都とする)のほうが優勢を保った。東魏は550年に北斉に代わり、西魏は556年に北周に代わった。そして577年に北周は北斉を打ち破り、これを統合した。
● 493 年:東ゴート王国の建国。
☆ ローマでの 仕組みを尊重 テオドリク
フン族の支配を脱した東ゴート族のテオドリク(テオドリック)は、東ローマ帝国から、当時オドアケルによって支配されていたイタリアへの遠征を依頼された。(ゴート族は"東ローマ地域"とは早くから接触があって文化水準も比較的高く、東ゴート族はアッティラ帝国崩壊後に東ローマ帝国から"同盟国"扱いを受けていたのである。テオドリクは東ゴートから送り出した"同盟国間の人質"の立場で8~18歳の期間をコンスタンティノープルで過ごし、"親ローマ主義"が身についた人物。)テオドリクは493年にオドアケルを討って、東ゴート王国を建てた(首都はラヴェンナに置かれた。ラヴェンナはイタリア半島中北部のアドリア海沿いの都市である)。東ローマ皇帝から王位を認められたテオドリクは、ローマ文化とローマ法を尊重し、ローマ人との融合をはかったとされる。テオドリクの死(526年)の後、王国は混乱するようになり、やがて東ローマ帝国のユスティニアヌス帝に滅ぼされることになる。
この東ゴート王国建国の頃までに、一連の「ゲルマン民族の大移動」がほぼ収まった。上述の東ゴートの他に、主だった配置を大雑把に(順不同で)挙げると、スペインに西ゴート、フランス北西部にフランク、ライン川中流域にブルグンド、イギリスにアングロ=サクソン、アフリカ北岸部にヴァンダル、ドナウ川中流域・ハンガリーあたりにロンバルド、など。
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