納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ (紀元前)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働く文言を選ぶようにしました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● BC2600 年?:ウルク第1王朝、第5代ギルガメシュ王の治世。
☆ 船頭に 不老を尋ねる ギルガメシュ
シュメール人は、おおよそBC4000年ごろに史上に現れたメソポタミア地方南部の最古の住民である。(民族系統は不明。つまりセム系でもアーリア系〔印欧系〕でもない。アーリア人の侵入以前のインド原住民〔ドラヴィダ系?〕との関係性を推測する研究者が一部にあるらしい。シュメール語の文法構造の大枠としては、日本語や韓国語、そしてインド亜大陸中南部のドラヴィダ系語族とも同類の"膠着語"のようである。人類最古の文明は印欧語のような"屈折語"ではなく"膠着語"を用いていたわけだ。)BC3500年ごろから都市文明の開始期に入り、BC2900年ごろに初期王朝時代を迎える。ギルガメシュはウルク第1王朝の第5代の王と伝えられ、その治世はBC2600年ごろであったと推測される。ウルクを城壁で囲み護国に貢献したようだ。(シュメール人は、メソポタミア南部に分布していたけれども、全体でひとつの国家ということではなく、小都市国家群〔「ウルク」のほか「ウル」、「ウンマ」、「ラガシュ」等々〕が併存していた。現在の「イラク」は「ウルク」から来ているという説もあるらしい。どの程度の信憑性があるのか分からないけれども。都市国家間では、争いがあったり、同盟関係を結んだりと、いろいろあったようである。)ギルガメシュは後世、英雄伝説に彩られた存在になっており、「ギルガメシュ叙事詩」は有名である。この叙事詩の中に、ギルガメシュが不死を求めて遍歴し、「大洪水」(ノアの箱船の話の原型と推測される)を経て神から不死を与えられた船頭ウルシャナビに不死の教えを請う場面があるのだそうだ。結局、不死を得ることも若返ることもかなわなかったということになっている。シュメール人は、BC24世紀ごろにセム語族のアッカド人に征服されたようである。
楔形文字はシュメール人が発明したものであるが、その後この文字は、他の言語を話す民族にも利用されることになる。BC1世紀ごろまでオリエント諸国で広く用いられた。(「ビール」の製法を発見して最初にたしなんだのも、シュメール人が最初でであるらしい。)
ちょっと苦しいけれども「不老を」→「フロ-オ」→「2600」と捉えてもらいたい。)
● BC2589 年?:エジプト古王国第4王朝、クフ王即位。
☆ クフ王の 巨大遺産に 怖くなる
エジプト古王国はBC2686年ごろ始まる。"古王国"は第3王朝から第6王朝までを一括した呼称であるが(これに先行した第1・第2王朝〔BC3100頃~〕は初期王朝と呼ばれる。初期王朝時代には煉瓦によるごく小規模の箱型墳墓が造られている)大ピラミッドで知られるクフ王は第4王朝の第2代ファラオである。即位したのはBC2589年ごろだったらしい。(第3王朝初代ゼゼル王は石造の階段ピラミッドを造らせた。これがピラミッドの最初である。第4王朝初代スフネル王が初めて方錐型ピラミッドを造らせた。)クフ王の政治的な事績に関する情報はほとんど伝えられていないが、ピラミッドが絶大な権力の象徴であったことは間違いないだろう。ヘロドトスは(クフ王の時代より遙かに後代のギリシャの歴史家であるが)「(クフ王の)大ピラミッドの建設には20年の年月を要した」と書いている。人々は、大ピラミッドを望見し、王に対する畏怖の念を抱いたかもしれない。古王国時代はBC2185年ごろまで続く。しかし第4王朝の3王(クフ、カフレー、メンカウレー)の巨大ピラミッド建設はかなりの財政危機をもたらしたようで、第5王朝以降のピラミッドは比較的小規模のものになっている。
● BC2334 年?:アッカド王、サルゴン1世即位。
☆ アッカドの 楔(くさび)の文(ふみ)見よ! サルゴン伝説
アッカド人はメソポタミア中部に国を興したセム系民族で、南はシュメール、北西部はアッシリアに接していた。アッカド人のサルゴン1世は、巨大な直属軍をもってメソポタミアを初めて統一し、アッカド帝国を建てた。その即位はBC2334年ごろだったらしい。(但し諸説あり、数十年の誤差があるものと見なければならないが。)シュメール人は、アッカド人によって征服されたわけである。アッカド人はシュメール文化を吸収し、シュメール人が発明した楔形文字を、自らのアッカド語の表記にも応用した。サルゴンの業績は、楔形文字文書によって伝えられているが、いろいろ伝説的な話もある。生後すぐに出生を隠され篭に入れられてユーフラテス川に流され、庭師に拾われて育てられた、などという誕生伝説もあるのだそうだ。アッカド帝国は180年程度しか続かず、BC22世紀に滅亡したらしい。この後、しばらくしてシュメール人がウルを中心に独立を回復したが(ウル第3王朝。BC21-BC20世紀。この王朝はかつてのシュメールの"小都市国家"という感じではなく、広域を統一支配する集権国家であったようだ)100年ほどしか存続せず、メソポタミアの地は西方からセム系遊牧民のアムル人による侵略を受けて、ここでシュメール人は歴史から姿を消す。アムル人はいくつか都市国家を作り、やがてバビロニア王国が形成された。バビロニア王国はBC18世紀のハムラビ王の時代に全メソポタミアを再び統一することになる。
● BC1728 年?:バビロニア王国、ハムラビ王即位。
☆ バビロンの 人 何やろうか 考える
バビロニア王国の第1王朝(バビロン第1王朝)は、セム語族のアムル人が開いた統一王朝で、BC20世紀ごろ(?)に始まる。「アムル」(旧約聖書では「アモリ」と記される)というのはメソポタミアの西の地域を意味しており、おそらく彼らはバビロニア地方の西方からこの地域に移動・侵入してきた。しかし彼らは、シュメール人のウル第3王朝の後継者という意識で王国を建てたようである。その第6代の王がハムラビ王で、その即位はBC1728年ごろか?(BC1792年とする文献もあるようで、まぁBC18世紀なのだろう。年代を一意的に確定できるような当時の天文学的記録がないために、学者によってまちまちという状況のようである。)ハムラビ王のときに全メソポタミアを支配した。また世界最古の成文法である「ハムラビ法典」の制定(アッカド語で書かれた。法文282ヶ条)は有名である。これは、それまでの慣習法を成文化したもので、民・商・刑・税その他の私法を含む。刑法は「目には目を、歯には歯を」の復讐法が原則とされた。(但し、身分による刑罰の差もあった。ほかにも、夫婦間の問題に関する裁定ルールや奴隷制度に関する規定など、いろいろ興味深い内容を含む。)成文法による支配を受けるようになったバビロニア人たちは、何をやるにも罰則のことを意識するようになったかもしれない。法典以外にも、ハムラビ王から地方官に宛てた指令所(粘土板)なども発見されていて、法に基づく統治の方針を読み取ることができ、これもなかなか興味深い。ハムラビ王の死後、統治は安定せず王朝は弱体化していったようである。やがてBC16世紀にヒッタイトからの攻撃を受けて第1王朝は滅亡することになる。
● BC1531 年?:ヒッタイトのムルシリ1世、バビロン第1王朝を攻略。
☆ ヒッタイト バビロン侵攻 以後 災難
全印欧語族のルーツにあたるアーリア人は(確定的なことは言えないわけだが、「クルガン仮説」を基調とするひとつの考え方によれば)おそらく黒海北岸~カスピ海北岸あたり、もしくはその北方の"草原"地帯("草原"〔ステップ〕という術語は、かなり誤解を与えやすいものであるが、これを植生豊かな土地というイメージで捉えるのは間違いで、むしろ樹木が自生できないような植物環境に乏しい地、というニュアンスである。ステップ地域では農耕文化は成立せず、遊牧民だけの土地であり続けた)を故地とする遊牧民族であったが、BC2000頃から西方・南方・東方への移動を始めたようである。ヒッタイト人は印欧語族の民族だが、故地からコーカサス地方を南下してから西に向かって小アジアへ入り、BC18世紀半ばごろ王国を建てたものと思われる。ヒッタイト人は史上初めて鉄を実用化した民族とされる。ムルシリ1世在位の時代(?-BC1530年頃)にバビロンまで侵攻し、バビロン第1王朝を崩壊させた。これがBC1531年ごろのことである。バビロンにいたアムル人たちには災難だったわけだが、ヒッタイトは略奪だけが目的だったのか、バビロニアを版図に組み入れて支配下に置こうとはしなかったようである。その後BC1500年ごろからヒッタイトは一旦、弱小期に入り、BC1400-BC1200年ごろに再び盛期を迎えたが、おそらくBC12世紀に急速に衰退し滅亡に至った。その滅亡には地中海(エーゲ海が拠点?)から入ってきた「海の民」と呼ばれる民族からの影響が関与したらしい。帝国崩壊後、ヒッタイト人の一部はシリア方面に逃れて多数の小国家をつくったが、旧約聖書の「ヘテ人」というのは、この頃のヒッタイト人を指すのだそうだ。
なお「海の民」自体にはいろいろ不明な点が多いのだが、BC12世紀頃「海の民」はエーゲ海から小アジア西岸~地中海東岸~エジプト北部あたりまでに進出したようであり、その見方において旧約聖書に現れる「ペリシテ人」は「海の民」の一派ではないかという仮説もある。ペリシテ人はパレスチナ南部に定着して、一時期ヘブライ人を脅かす存在であった。(たとえば旧約聖書「士師記」における士師サムソンのエピソード〔BC12世紀くらい?〕は伝説的な"お話"であるが、ヘブライ人が40年もペリシテ人に服していることになっており、士師サムソンもペリシテ人にずいぶん苦しめられることになる。また「サムエル前書」における「ダヴィデとゴリアテ」の対決の話〔実話ならばおそらくBC11世紀末頃〕は有名だが、王になる前のダヴィデが倒した相手の巨人ゴリアテはペリシテ人の兵であった。)そもそも「パレスチナ」という地名は「ペリシテの地」という意味なのだそうだ。
(このサイトのゴロ合わせでは、「い」という読みは1に対応させ、5には対応させない方針とする。)
● BC1475 年?:カッシート王ウラム=ブリアシュ、バビロニアを統一。
☆ 重要な 国家を建てた カッシート
カッシート人はBC18世紀ごろ、バビロン第1王朝時代から記録が現れるが、初期の歴史は不明な点が多い。カッシートの言語系統は不明。非セム系で、(かつては印欧語族と考えられたこともあるが)印欧語族でもないらしい。故地が何処かということも、はっきりしない。BC1531年にバビロン第1王朝がヒッタイトの攻撃を受けて崩壊した頃から、バビロンに向けて徐々に勢力を拡大したらしい。BC1475年ごろ、カッシート王ウラム=ブリアシュは、バビロン第2王朝を滅ぼしてバビロニアを統一、バビロン第3王朝を成立させた。その後、勢力を強めてきたアッシリアに圧迫されるようになり、BC1155年にバビロン第3王朝は滅亡した。
(このバビロン第3王朝のことを「カッシート朝」と呼ぶ場合もある。)
● BC1440 年?:ミタンニ、サウシュタタル王即位。
☆ 人よ知れ! ミタンニ王の サウシュタタル
ミタンニ人は印欧語族の一派であるらしく、(ある仮説によれば)おそらくヒッタイト人と同様に、BC2000年頃に北方の故地からコーカサス山脈を越えて南下を始め、メソポタミア北方山岳地域~シリア地域のあたりに入った。そのミタンニ人がBC16世紀ごろに建てたのがミタンニ王国である。(但し、純粋にミタンニ人だけの国家ではなく、系統不明のフルリ人も加わっていたようである。)BC15世紀にはシリア・イラク方面へ進出してきたエジプト新王国や小アジアのヒッタイトとも抗争関係にあった(エジプト第18王朝とは同盟関係を結んだりもしている。アッシリアから朝貢を受けていたという話もある)。サウシュタタル王(シャウシュタタール王)の頃がミタンニの最盛期で、その即位はBC1440年ごろである。サウシュタタルは、アッシリアに攻め入り戦果をあげている。BC14世紀に入るとアッシリアやヒッタイトに対して劣勢となり、BC13世紀ごろにアッシリアに滅ぼされる。
この時代(BC15,14世紀)、オリエントにおける強国ミタンニ、ヒッタイト、カッシート(バビロニア)、エジプトなどの間で"外交"が行われたが、外交文書にはアッカド語の楔形文字が用いられたのだそうだ。ミタンニの王女がエジプトのファラオの後宮に召されるといったようなこともあったようだ。BC13世紀にはミタンニが滅びカッシートも弱体化したので、ヒッタイトとエジプトの2強国時代になり、BC12世紀には「海の民」侵入によってオリエントは混沌の時代を迎える。
● BC1353 年?:エジプト、アメンホテプ4世(イクナアトン)即位。
☆ 一神教 いざこざ起こす イクナアトン
エジプトでは中王国(BC22-BC18世紀頃?)の末期に、アジアから伝わって来た馬と、それを利用する戦車を持つ民族ヒクソス(セム系説・印欧系説両方あるようだ。それまで小アジアもしくはシリア・パレスチナのあたりにいたらしい。ヒッタイトやミタンニに追われた形か?)の侵入を受け、ナイル川のデルタ地帯はBC17世紀頃(BC1700?-BC1570?)支配を受けたが、BC16世紀には新王国が起こってヒクソスを追い出した。"新王国"は、第18王朝から第20王朝の時代(BC1570?-BC1070?)を指す。新王国時代には一時、盛んに西アジア進出も試みられるようになり、エジプトの"帝国時代"とも呼ばれる。アメンホテプ4世(イクナアトン)は第18王朝後期のファラオで、その即位はBC1353年ごろである。彼はおそらく神官勢力が強まっている傾向を嫌い「アマルナ改革」を行った。それまでエジプトにおいて伝統であった多神教を廃して、唯一神アトンだけへの信仰を強要し、また自らイクナアトン(アトン神に愛される者)と名を変えて一般の民には彼自身を崇拝するように説いた。伝統と真っ向から対立するような信仰の強要には、何らかの形でのいざこざは、避けがたいものだったのではなかろうか。アメンホテプが北方政策に関心を持たず宗教改革に熱中したため、シリア・パレスチナはエジプトから離れ、ヒッタイトの進出を許すことになる。この改革の方針はアメンホテプ4世の死とともに廃され、旧に復した。黄金のマスクで有名なツタンカーメンはアメンホテプ4世の子であるが、幼少のときにファラオを継ぎ、若いうちに亡くなっている。
上述のように、アメンホテプ4世は、新王国最初の、古代エジプト第18王朝(BC1570頃-BC1293頃)後期の王である。旧約聖書には「出エジプト」という、エジプトにいたヘブライ人が指導者モーセに率いられてエジプトから逃れた話が記されているが、これをどの程度まで「史実」と考えてよいかは、いろいろな見解があるようだ。これが史実を反映していると考える研究者の中では、「出エジプト」は次の第19王朝(BC1293頃-BC1185頃)時代の出来事だとする見方が多いようである。(ヘブライ人も、元々は多神教的であっただろうが〔そうでなければモーセの「十戒」の最初に「我のほか何ものをも神とすべからず」などという戒めが出てくるはずがない〕、彼らが一神教を信奉するようになった一因として、あるいはエジプトにおけるイクナアトン一神教からの何らかの影響もあったのだろうか?)
● BC922 年?:ヘブライ王国の分裂。
☆ ヘブライが 2つの国に 分裂し
元々遊牧民であったヘブライ人(セム語族)は、メソポタミアを放浪し、BC1500年ごろ(?)にパレスチナに入ったとされる。そして一部は飢饉をのがれてエジプトに移住したが、エジプト新王国による圧政から逃れるために、BC13世紀ごろモーセに率いられたヘブライ人たちはエジプトを脱してパレスチナへ戻った。その後、民族全体の統一の機運が高まり、ダヴィデ王(BC1000-BC960年ごろ)と、その子ソロモン王(BC960-BC922年ごろ)の時代に民族の王国として栄えた。ソロモンはフェニキア人のティルス国王と同盟関係を成立させ、イスラエルはフェニキア人が紅海方面との交易を行うための要衝の地として発展したようだ。旧約聖書における「シバの女王」とソロモンの伝説〔シバ族は当時アラビア半島西南部に栄えたセム系民族〕も、このような交易関係を背景としたエピソードであろう。しかしソロモン王の死後すぐに(BC922年)北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した。北部部族は比較的豊かな農業民で、ソロモンは南部の貧しいユダ族より北部に重点的に徴税をしていたため、北部が叛乱を起こしたということらしい。南ユダ王国はソロモンの子を擁した。(その後、北イスラエル王国はBC722年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はBC586年、新バビロニアに征服されることになる(バビロン捕囚)。
● BC770 年:周王朝の東遷。春秋時代の始まり。
☆ 七難を 逃れて東遷 周王朝
中国の「文明」がどこまで遡れるのか明確ではないが、BC3000年より前から文明が起こっていたようである。(BC5000年ごろから始まったという話もあるようだ。)実在がはっきりしている最古の王朝は殷(いん)であり、これはおそらくBC17-BC16世紀あたりに始まった。殷では祭政一致の神権政治が行われたようである。新たに興った周(しゅう)王朝は、BC11世紀ごろに拠点の鎬京(こうけい。西安付近)を都として、殷を滅ぼし華北を統一した。(周の人々は、元々は新疆の山岳地帯にいた種族で、遊牧民だった可能性もあるようである。東に移ってきて、一時期は殷に服属していたが、最終的に殷を滅ぼした。)周では、血縁主義的な封建制度が行われた。しかし周は次第に異民族による侵入を受けるようになった。そして首都を攻撃・攻略されたため、BC770年に、難を逃れて都を洛邑(洛陽)に移した。(洛邑はそれ以前から東方の"副都"のような位置づけの都市であったが、このとき鎬京を棄てて、そちらに移ったわけである。)それ以降、周の威光は弱まり、諸侯が互いに争う春秋時代(BC770-BC403)がは訪れた。有力な諸侯たちは、"覇者"と呼ばれた。(斉〔せい。本拠は山東〕の桓公〔かんこう〕、晋〔山西〕の文公〔ぶんこう〕、楚〔湖北・河南〕の荘王〔そうおう〕など。「五覇」という言い方があるけれども、あと2人として誰を挙げるかは一定していない。春秋の争いをおおまかに見れば、〔斉および〕晋を中心とする北方連盟と、楚を中心とする南方連盟の争いであった。)「春秋時代」という呼称は、孔子が編集したと言われる、孔子が生まれた魯(ろ。今の山東省南西部にあった小国)の編年体歴史書のタイトル『春秋』に因んだものである。この年代記が扱う時期(BC722-BC481)が、春秋時代の多くの部分に重なる。(ちなみに孔子の生没年はBC551-BC479)
(「七難」は語呂合わせのために無理に作った造語ではなく、国語辞典に載っている普通名詞。いろいろな災難というほどの意味。念のため。)
● BC722 年:アッシリアでサルゴン2世が即位。北イスラエル王国滅亡。
☆ アッシリア 何にも負けぬ サルゴン2世
セム系のアッシリアは、おそらくBC3000年期の後半にメソポタミア北部で活動を始めている。(BC2000年ごろまでの文字資料は残されていない。)長らく弱小勢力であり続けたが、おそらくヒッタイト帝国の崩壊後に、それまで秘匿されていた製鉄技術・鉄器製造技術をいち早く習得したのはアッシリア人であろう。BC8世紀のティグラト=ピルセル3世(位BC745?-BC727)の時に国としての転機を迎え、勢力の拡張を始める。(このためBC745年頃以降を、それ以前と区別して「アッシリア帝国」と呼ぶ場合がある。)そのアッシリア帝国の顕著な拡大の時期を治めた王がサルゴン2世であり、その即位はBC722年とされる。サルゴン2世は軍隊を鉄で武装し、鉄血主義をもってアッシリアを強国にした。即位と同年、彼は北イスラエル王国を征服した。彼はまたパレスチナからエジプトの勢力を退け、バビロニアにも干渉を続けて、彼の在位中にアッシリアはオリエントにおける大帝国になった。サルゴン2世の曾孫アッシュルバニパル(位BC669-BC626)の時まで、この大帝国が維持される。アッシュルバニパルはエジプト北部を手に入れ、都ニネヴェに壮麗な王宮を営み、世界最古の図書館を建てた。(「図書館」と言っても、もちろん紙の文書ではなく、楔形文字を刻んだ粘土板の文書が大量に保管されていた。)
(旧約聖書に出てくる「ホセア書」のホセアは、滅亡直前のころの北イスラエル王国に現れた預言者であって、自ら文書を残すことを初めて行なった最初の「文書預言者」である。同じ頃から北王国滅亡後の時期にかけて、南ユダ王国で活動していた預言者が「イザヤ書」のイザヤである。彼は道徳的・宗教的な戒めを説くだけでなく、国に対して外交上の提言〔対アッシリア中立策〕なども行なった。つまりイザヤにとって、エホバの神というのは単なるヘブライ民族の神ではなく、他の民族にも影響を及ぼし得る神という位置づけであったようだ。ただし彼の提言が聞き入れられることは、ほとんどなかったようであるが。)
● BC612 年:アッシリア滅亡。
☆ アッシュル滅び 鉄血統治は 無意になる
おそらくBC3000年期の後半にメソポタミア北部に建国されたアッシリア(セム系)は、BC8世紀ごろから急速に勢力を拡張して(たとえばBC722年にサルゴン2世が北イスラエル王国を征服)、初めて全オリエントを統一する巨大帝国になった。鉄器(武器)と馬(騎兵・戦車・駅伝制)の有効活用が、その巨大帝国への発展を可能にする重要な要因であったろう。帝国内に整備された軍用路・通商路も帝国を繁栄させた。しかしアッシリアはアッシュルバニパル(位BC669-BC626)の治世の後半から急速に衰退を始めて、その死後には反乱と内紛に悩まされてBC612年に完全に崩壊(メディア・新バビロニア連合軍の攻撃を受けた)し、その後のオリエントは「四王国時代」となった。アッシリア人が信奉したアッシュル神は、戦の神である。被征服民に対して苛烈な統治を行ったため、反乱が相次ぎ大帝国としては長続きしなかった。四王国は以下の通り。
・エジプト 第26王朝(サイス朝)〔ハム系〕
・新バビロニア〔主にメソポタミアから地中海東岸の「三日月地帯」。セム系〕
・メディア〔主にメソポタミアの北方からイラン・アフガニスタンあたりまで。印欧系〕
・リディア〔小アジア西部。印欧系〕(但し、このリディアは元々アッシリア帝国の版図外)
これら四王国は、BC6世紀にアケメネス朝によって征服・統合されることになる。
(素人の素朴な発想からすると、アッシュル神を、インド神話の軍神「阿修羅」に関係づけて考えたくなるけれども、これは学術的には、かなり無理のある話のようだ。)
● BC594 年:ソロンの改革が始まる。(ソロンのアルコン就任)
☆ ソロンの改革 平民たちを 酷使せず
元々は貴族が政治を支配していた古代アテネであるが、貨幣経済(リディアから影響)が発達し、手工業も進み、広く地中海各所に開拓された植民市との交易なども盛んになってくると、貴族に匹敵して裕福になる平民や、逆に没落していく貧民(借財を返済できずに奴隷に転落する農民なども急増したようだ)や、相対的に没落する貴族も現れるようになった。そうなると参政権の有無と経済格差に起因する争いが絶えなくなる。(裕福になった平民は流通が容易になった武具を購入して、それまでは貴族の"特権的義務・名誉"であった国防に参加できるわけで、そうなると平民に参政権がないのはおかしいという議論になる。)そこでソロンはBC594年から政治改革を始めた。具体的には、貴族支配を廃して、全市民を各人の財産によって4段階に分け、それぞれに応分の権利と義務をあてがう制度をつくるとともに(第4級の貧しい市民も民会に参加できた)、貧しい平民の奴隷化の防止策も施行した。つまり理念としては貧民が酷使されない制度を試みたと言えるが、結局、ソロンは貴族・民衆双方から不審を持たれて引退した。民衆の支持を受けられなかった理由は"土地の再分配"のようなところまで踏み込まなかった点にあるのかもしれない。
(ヘロドトスの『歴史』の中心的主題はペルシャ戦争であるが、ペルシャ戦争の記述は後半部分で、前半ではギリシャ・オリエント世界各地の地理・歴史・風俗・伝承が語られている。ソロンに関する話もここに記されていて、ソロンがリディアのクロイソス王と問答を交わしたエピソードなども書かれている。しかしながらヘロドトスはソロンの時代から100年以上後の時代の人であり〔更にプルタルコスになると600年以上後〕、ソロンに関する知見は、それほど"史実"として明確なものではない。)
● BC586 年:バビロン捕囚が始まる。
☆ バビロンで 改宗こばむ ユダヤ人
新バビロニア王国のネブカドネザル2世は、属国であった南ユダ王国がBC589年からのエジプトのパレスチナ侵入の動向に乗じて反乱を起こしたのでこれを征服し、BC586年にユダヤ人たちをバビロンの地へ強制移住させた。(正確に言うとBC597年から20年ほどの間に数回にわたって捕囚が行われたようだが。)BC538年に新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシャのキュロス2世に滅ぼされ、ユダヤ人のパレスチナの地への帰郷が始まるまで、捕囚は48年間続いた。(もちろんBC538年に全ユダヤ人が一斉に帰郷したというわけではなく、旧約聖書に名前が出る「エズラ書」のエズラ〔学者〕や「ネヘミヤ記」のネヘミヤ〔政治家〕は、BC5世紀の後半になってようやくバビロニアからエルサレムに戻ったようである。実際のところ捕囚の期間にバビロニアの文化に同化してしまい、捕囚の解放後も帰郷しなかったユダヤ人も一定程度いたようである。)この出来事は、ユダヤ人の意識とユダヤ教に、少なからぬ影響を及ぼしたとされる。むしろ、この捕囚の経験こそが、ユダヤ人の民族的自覚を開化させ、ユダヤ教の成立のために不可欠であったと見る方が的を射ているかも知れない。彼らの"神"が他のセム系民族の神と比べてユニークであった点は、偶像で具象される神ではなく、民族意識の中で(聖書という文書によって)その"存在"が裏付けられていて、決して敵によって"破壊"されて貶められるようなものではない、ということである。捕囚の期間中に、いわゆる「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)が編まれたらしい。
(南ユダ王国の末期に、災厄が訪れることを説いた預言者が旧約聖書の「ヱレミヤ記」のヱレミヤである。これに少し遅れて「エゼキエル書」のエゼキエルは、南ユダ王国の滅亡期から捕囚時代初期にかけて活動した。また、バビロン捕囚の末期に活動したと見られるのが、聖書学者たちによって「第2イザヤ」と呼ばれる名前の知れない預言者である。「イザヤ書」の第40-55章は元々のイザヤ書に対して後から付け加えられたものであり、ここには後のイエス=キリストの思想の原型を見て取ることができる。〔さらにイザヤ書の第56章以降の著者は「第3イザヤ」と呼ばれている。これはBC5世紀の預言者であるらしい。〕)
ここで少しだけ時代を遡って雑学。アッシリア帝国滅亡の前後の時期、エジプトは一旦、シリア・パレスチナ地方へ支配を拡げたわけだが、BC605年、新バビロニアの侵攻に敗れて、この地方への覇権を失った。このとき新バビロニア軍を率いたのは王子時代のネブカドネザル2世であり、これに敗れたエジプトのファラオは「ネコ2世」である。「ネコ」は、英語表記では「Necho」と綴るらしいのだが、とにかく「ネコ」という名前の王様がかつて存在したわけである。(「イヌ」という名前の王様が、かつていたかどうか、私は知らない。)このBC605年は、たまたまネブカドネザルの父である新バビロニア初代の王ナボポラッサル死去の年でもあり、この年にネブカドネザル2世が王位に就いている。「ネコ」は別称「パロネコ」とも言うようで(もしかすると"パロ"は"ファラオ"のことかもしれない)、旧約聖書の「ヱレミヤ記」第45章に、「エジプト王パロネコ」は「バビロンの王ネブカドネザルが撃ちやぶりし者なり」という記述がある。
● BC525 年:アケメネス朝ペルシャ、全オリエントを統一。
☆ 拝火教 帝国支配に 好都合
印欧語族であるペルシャ人(イラン人)が建てたアケメネス朝ペルシャ(BC550-BC330年)の第2代の王、カンビセス2世(位BC530-BC522)は、BC525年にエジプトを征服し、オリエントの統一を達成した。この時のペルシャ人の宗教は拝火教(ゾロアスター教)であったが、これは偶像で具象される種族神への即物的呪術宗教のようなものとはかなり異なり、善悪二元論を基調とした、哲学的な側面を持つ教えである。(善の神〔=光明の神〕アフラ・マズダのために善行を行えば、世の終末にアフラ・マズダが悪〔暗黒〕の神アーリマンに勝利する際に救済されると説く。出自による差別がない教えである点が著しい特徴である。光明のシンボルとしての火を拝むので「拝火教」とも呼ばれる。「ゾロアスター」は教祖の名前で、生没年ははっきりしないが、概ねBC7世紀後半の人と考えられている。19世紀ドイツの哲学者ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、ゾロアスターのことである。)ペルシャ人のこのような差別を排した宗教哲学は、多様な被征服民それぞれに対して寛容な支配を敷いて大帝国を維持する上で、メリットとなる面があったのではなかろうか。(因みにBC538年にバビロン捕囚を終わらせ、ユダヤ人に帰国を許したのは、アケメネス朝初代キュロス2世〔位BC550?-BC529〕である。初代の理念は、代々受け継がれた。私の個人的な感想を言えば、アケメネス朝ペルシャの政体は、「多民族国家」というものの在り方に関して、現代の我々の世界に対しても、示唆を与える部分が多分にあるような気がする。)現在のゾロアスター教は、細々と残存している宗教にすぎない観があるが、たとえばユダヤ教・キリスト教・イスラム教などのセム語族系宗教に見られる「最後の審判」の概念(終末論・救済論)は意外なことに、印欧語族の生んだゾロアスター教からの影響によるところが多分にあるらしい。
エジプトを征服したカンビセス2世は、このときエジプトのファラオにもなったわけで(位BC525-BC522)、この第1次ペルシャ支配(第27王朝:BC525-BC405)の間に5人のペルシャ人ファラオが出ている。エジプト末期王朝時代には、こういうことも起こるようになって、後のアレクサンダー大王などもファラオであった(BC332-BC323)。
● BC509 年:共和政ローマの始まり。
☆ 共和政 号令 訓示 ローマにて
印欧語族のラテン人は、BC1200年ごろ(?)に北方からイタリア半島へ南下してきて、ティベル河畔に定着した(これは大雑把に言えばドーリア人がギリシャに南下してきたのと同じ頃である)。ラテン人はBC7世紀頃(?)から先住のエトルリア人の"王"の支配を受けていた時期があるらしいのだが、BC509年頃にはエトルリア人の王を追放して、ローマ人として共和政を始めた。(奇しくもアテネにおける陶片追放制度の創設とほぼ同じ頃である。アテネがポリスとしていつ始まったのかは不明だが、ローマのほうが随分遅いスタートであったと言えるだろう。)この時すでに、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)が分かれており、最初の段階では、平民には参政権のない貴族共和政が行われた。2名の統領(コンスル)を含むあらゆる官職は貴族に独占され、貴族議員で構成される「元老院」が実権を把握していた。
(「共和主義」は「民主主義」とは別の概念である。民主主義的な共和政もあり得るし、民主主義的でない共和政もあり得る。"君主"がいないのが「共和政」である。)
共和政ローマは482年間続き、そのあとは帝政ローマの時代になる。
(エトルリア人は印欧語族ではなく、便宜的区分としては「先印欧語族」ということになるようだ。〔小アジアから海路移ってきて?〕イタリア半島にはBC9世紀頃からいて、ローマ人の圧迫を受けつつBC3~BC1世紀くらいまでは存続していたらしい。)
● BC508 年:クレイステネス、陶片追放の制を設ける。
☆ 困るは僭主 クレイステネスの 陶片追放
BC6世紀のギリシャでは、多くのポリスにおいて、貴族政から平民が参政権を持つ民主政に向かう過渡期の現象として、非合法的な手段で独裁的な権利を握る「僭主」(せんしゅ。「僭」は「僭越」などの熟語からも分かるように、身分不相応に上位者をまねるという意味)が現れるようになった。(アテネの僭主ペイシストラトスは元々ソロンの友人であったが、政敵になった人物。BC561年に僭主となり、その僭主政は彼の子の代まで半世紀続いた。しかしペイシストラトスによる「独裁」には、産業を振興したり、農民・貧民を保護・救済するという面もあって、悪質ではなかったようだけれども。)
アテネのクレイステネスは貴族であったが民衆と手を結んで"貴族派"を退け、僭主の出現を防ぐためにBC508年に陶片追放(オストラシズム)の制を定めた。これは、僭主になる恐れのある人物の名を陶片に書いて投票し、多数票を受けた者が10年間の国外追放を受けるという制度である。(奇しくもローマ人がエトルリア人の王を追放して、ようやく共和政ローマを始めたのとほぼ同じ頃にあたる。)但し実際に実施されたのはBC480年代(マラトンの野戦の後の時代)~BC5世紀末のようである。
(何故、「陶片」なのか。当時、量産可能な紙など無かったわけで〔羊皮紙はあっただろうけれども、おそらく貴重品である〕普通の平民が字を書きつけることのできる手頃な対象は、陶片くらいのものだった、ということだろうか。ただし、これは正確な話かどうか分からないけれども、最初のうちは貝殻が使われて、「貝殻追放」であったという話もある。)
● BC500 年:ペルシャ戦争が始まる。
☆ 号令を かけてギリシャへ ペルシャ戦[争]
アケメネス朝ペルシャ3代目の王、ダレイオス1世(位BC522-BC486)は、東方でインダス川まで版図を拡げたのち、BC500年に小アジア西岸のギリシャ植民市(ミレトスを中心とするイオニア植民地)に起こった反乱を契機として西方へも遠征を企て、ギリシャとの戦争を始めた。(反乱の「始まり」をBC499年と見る場合もある。)この戦争に対するギリシャ側の呼称が「ペルシャ戦争」である。ペルシャ軍によるギリシャへの大規模の遠征がBC492年、BC490年(マラトンの野戦を含む。ギリシャ側の重装歩兵による密集隊戦術が功を奏したようである)、BC480年(サラミスの海戦を含む。海軍力を重視していたアテネの政治家・将軍テミストクレスの功績が大きい)の3回にわたって行われたが、ペルシャ側が敗退し、ギリシャ世界は独立を守った。
(ダレイオスが戦争を"始めた"年を、ここではBC500年としたが、最初の大遠征を行ったBC492年を、戦争が始まった年と見なす場合もある。ダレイオス1世はBC486年に急死しており、クセルクセス1世がその後の遠征計画を引き継いだ。)
● BC480 年:サラミスの海戦。
☆ サラミス海 ギリシアの世は 終わらない
サラミスの海戦は、ペルシャ戦争の中で、ペルシャ側の3度目の遠征の際、BC480年に行われた戦いである。ダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世(位BC486-BC465)が、遠征を指揮した。ペルシャ軍はアテネなどに相当のダメージを与えたが、サラミス水道(アテネの近く)で、海軍がアテネのテミストクレス率いるギリシャ連合艦隊の攻撃を受けて全滅した。サラミスの海戦の翌年までで、実質的なペルシャ戦争は、ほとんど終わったと見ることができる。正式な講和締結は、かなり後のBC449年になるが、この和議はこの頃から重要な国策を担うようになったペリクレスが、東方との際限のない抗争を終結させる決意をして実現したものである。
(余談だが、サラミスの海戦の最大の功労者である軍人兼政治家のテミストクレスは、BC470頃?に陶片追放を受けることになる。人気に奢りすぎたということだろうか?)
ペルシャ戦争まで、ギリシャ世界においてスパルタが第1のポリスと見做されていたが、ペルシャ戦争の戦役(特にマラトンの野戦とサラミスの海戦)によって、アテネがスパルタに劣らぬ強国であることが認識されるようになった。また、基本的に一国主義(鎖国主義)を採るスパルタがギリシャ世界の指揮権を持ち続けることには反目が出始め、BC477年にはアテネを中心とする周囲のポリスとの「デロス同盟」が成立する。(「デロス」はエーゲ海中央の「デロス島」に由来する。この島にあるアポロン神殿に同盟都市の資金が保管され、同盟都市会議もこの島で開催された。)このことが後のアテネ・スパルタ間のペロポネソス戦争へとつながってゆく。
● BC450 年:十二表法の制定。
☆ 民主化の 予行練習 十二表法
共和政ローマにおいて、初めは貴族(パトリキ)だけが政治を行ったが、次第にこれに不満を持つ平民(プレブス)が貴族と争うようになった。BC494年には、平民たちの貴族への反抗事件が起こり、その結果として平民から2名の「護民官」が選出されることが決まった。(護民官の身体は不可侵で、護民官は統領〔コンスル〕や元老院の決定を拒否できるものとされた。)そして、BC450年(頃)に制定された十二表法は、それまで貴族が従ってきた慣習法を成文化したもので、ローマ最古の成文法である。十二表法の制定と公開によって、平民も法知識を知ることができるようになり、平民会を通じた平民の政治参加へのプロセスが一段階進んだといえる。内容的にも、貴族と平民の両身分が法律上、平等な扱いを受けている。(当初は両身分間の通婚が禁じられたが、数年後にはそれも解消された。)
「十二表法」の呼称は、12枚の銅板に記されたとする伝承に基づく。BC451年に、まず10枚が作成され、翌BC450年に2枚が追加されて成立したものらしい。
● BC443 年:ペリクレス時代(アテネ民主主義の完成期)の到来。
☆ ペリクレス 民主政治が 支持される
ペルシャ戦争後の時代、BC450年ごろからペリクレスはアテネ政治をほとんど主導する立場になっていたが、BC443年にペリクレスは「将軍職」と呼ばれるアテネ政治の要職(これはクレイステネスによって制定された最高職。市民の中から10名が民会で選出された)に就任して、BC429年まで民主政治を徹底する施策を実行、「ペリクレス時代」と呼ばれるアテネの最盛期を築いた。成人男性市民全員による直接民主政が行われ、官職も市民に開放され抽選で選ばれた。彼の政治理念は、トゥキディデスの『歴史(戦史)』に書かれた演説の内容などから伺い知ることができる。しかしながら「民主主義の完成」といってもそれはペリクレスの力量で維持された面があり、彼が失脚して病死(BC429)した後、アテネ民主政治は衆愚政治へと堕してゆくことになる。(ドーリア式の代表的建築・パルテノン神殿は、BC447年に起工、BC432年に完成。ペリクレス時代〔但し将軍職就任前〕の産物である。)
但し、ペリクレスの政治を美化しすぎるのも問題が無いでもない。たとえば(将軍職になる前だが)BC449年にペルシャとの正式和議を成立させた後も、彼はデロス同盟を解消せず、同盟先からの不満を押し切って貢賦金を集め続け、同盟市への内政干渉も行った。このため同盟市における不満は大きかったようである
(将軍職初選出の年をBC444年とする文献もあるようだ。民会における初選出がBC444年で、それを受けての初就任がBC443年ということかもしれない。高校世界史のレベルでは、どちらで覚えておいても困ることはないだろう。)
(現在残っているパルテノン神殿は、残念ながら"残骸"のようなものである。本来、祀ってあったはずの女神・アテナ神〔アテネの守護神〕の像は失われている。ギリシャの地は15世紀のビザンツ帝国滅亡後はオスマントルコ領になるわけだが、17世紀にはオスマントルコが神殿の建物を火薬庫として使っていたところにベネチア軍の攻撃を受けて爆発炎上、建物はかなりの損傷を受けた。更に近現代になると、強国〔英国〕の"調査隊"が、庇〔ひさし〕の下の部分などに施されていた浮き彫り彫刻を、ほとんど剥がして持ち去ったようである。その浮き彫り彫刻のかなりの部分は現在、大英博物館に保管されているのだそうだ。)
(ちょっと苦しいけれども、ここでは例外的に「支持」→「しじ」→「しし」→44と読み取っておいてもらいたい。他では大抵「じ」→「二」→2とするのだけれども。漢字の「二」は、呉音では「に」、漢音では「じ」である。)
● BC431 年:ペロポネソス戦争。
☆ 戦況の 子細つかめぬ アテネ人
ペルシャ戦争後、アテネは周囲のポリスと「デロス同盟」を結成し(BC477年)、ギリシャ世界の盟主となったが、これを敵視したスパルタは、「ペロポネソス同盟」の都市を率いてアテネを相手にBC431年にペロポネソス戦争を始めた。「ペロポネソス」はスパルタがある半島の名である。アテネ側では当初、ペリクレスが戦争の指揮をとった。ペリクレスは籠城策を行ったが(中心市の防壁を守り、その外部の田園にはある程度のスパルタの侵入を許す代わりに、アテネ海軍が、スパルタ側のペロポネソス半島の要所を攻撃・占領してしまうという目論みであったようだが)、城内で伝染病が発生して多数の市民が犠牲になったために、市民からの支持を失って失脚し、まもなく自らも伝染病で死んでしまう(BC429年)。その後も25年の長きにわたって(途中、膠着・停戦の時期もあったが)戦いは続き、最終的にアテネはスパルタに屈することになった(戦争後半の時期、スパルタがペルシャの援助を受けるようになったことが、スパルタの勝因のひとつである。BC404年終結)。ペリクレス亡き後、デマゴーグ(扇動政治家)たちが出現し、衆愚政治に堕していったアテネ人は、細かい戦況を正しく把握することさえままならなかった(かもしれない)。当時、アテネの貧しい市民もデマゴーグたちも戦勝による土地・奴隷・戦利品の獲得を安易に期待して好戦的に呼応し合い、"衆愚スパイラル"を起こしていたようである。
● BC403 年:古代中国で、戦国時代が始まる。
☆ 戦国の 世を 導いた 下剋上
春秋時代に中国で覇権を争った「五覇」のひとつである晋(山西を拠点とした)は、春秋時代末期に、内紛によって3家臣(北から、趙・魏・韓)に分割されていたが、この3家がBC403年に(名目上)周によって諸侯に列せられた。この事件は、まさに3家臣の下剋上による覇権の獲得といえるものであり、戦国時代の始まりと見なされる。春秋時代には、形式的に周王朝を尊ぶ風潮が残っていたが、戦国時代になるとその気風も薄れ、「戦国の七雄」(斉〔せい。本拠は山東〕・楚〔湖北・河南〕・秦〔陝西〕・燕〔河北省東北~中国東北南部〕・趙・魏・韓)が実力で争う乱世となった。春秋時代にはまだ、血族的な部族を基調とした宗族制が、都市国家運営の基本原理としてかなり残っていたが、戦国時代に入ると君主と臣下の結びつきはもはや宗族的関係ではなく、個人的主従関係に移行した。また、この時代は鉄器(特に鉄製農具)が普及して農業生産力が上がり、商工業も盛んになり、貨幣経済(貝貨に加えて青銅貨幣の使用も始まる)が進展を見せた。戦国時代は、秦の始皇帝による中国統一(BC221)まで2世紀近く続く。
戦国時代は、社会の激動に応じて「諸子百家」と呼ばれる多様な思想が生み出された時代である。儒教の祖・孔子("仁"――社会的人間としての自覚を説いた)は春秋時代後期の人だが、墨子(ぼくし。身分制度の廃止を唱え、"兼愛"すなわち博愛を説いた)は春秋末~戦国初頭の頃の人である。孔子の後継者である孟子(性善説)・荀子(性悪説)などの儒家、老子・荘子などの道家("無為自然"を説く)、商鞅・韓非などの法家(法治主義を主張)も、だいたい戦国時代の間に出ている。
● BC367 年:リキニウス・セクスティウス法の制定。
☆ リキニウス 見ろ 仲間からも 統領(コンスル)が!
古代ローマの貴族共和政では、元老院(貴族による議会)と、2人のコンスル(統領、あるいは執政官)によって政治が行われていたが、コンスルは2人とも当然、貴族であった。平民側には、平民会と2人の護民官がつくられていたが、貴族側に比して執行権は持たなかった。BC367年のリキニウス・セクスティウス法は、行政執行権を持つ2人のコンスルのうちのひとりを、平民から選ぶことを定めた法律であり、平民の政治参加を前進させるものであった。リキニウスとセクスティウスは、この法律をつくった2人の護民官の名である。
この法律が制定された後、他のいろいろな官職にも平民が就けるようになっていった。
● BC338 年:カイロネイアの戦い。
☆ カイロネイアで フィリポスに負け 散々や!
古代ギリシャ諸ポリスの北方に、新興国として現れたマケドニアは、フィリポス2世(位BC359-BC336)の下で勢力を強めた。フィリポスは精鋭な軍隊を整え、戦術にも工夫を施し、自らも前線に立って奮戦した。(このころのギリシャ諸都市では市民の貧富の差が著しくなり、市民みずから兵士としてポリスを守るという原則は崩れて戦力を傭兵に頼るようになっていたので、優秀な王自身が先頭に立つマケドニアの精鋭軍に対抗できる力はなかった。)BC338年、南に侵攻してきたマケドニア軍を、アテネ・テーベ連合軍が迎えたが敗れた。このときマケドニアの王子アレクサンダー(18歳)も騎兵部隊を指揮してテーベ軍を撃破したそうである。「カイロネイア」はテーベの北方にあった都市名で、ここで決戦が行われたわけである。この翌年、ギリシャ諸都市間に成立した「コリント同盟」によって、マケドニアがギリシャ世界をほぼ統一したと言ってよかろう(スパルタのような例外もあったけれども)。
(ギリシャ人が関西弁を話すわけではないけれども、語呂合わせの都合で関西弁になっている。)
因みに、フィリポスは、息子のアレクサンダーに対する教育にも熱心で、彼がアレクサンダーのために、BC342年に招いた家庭教師がアリストテレスであった。3年間その任にあったようである〔アレクサンダーは13-16歳〕。アリストテレスはアレクサンダー即位の翌年(大遠征開始の前年、BC335年)にアテネに戻り、自身の学園「リュケイオン」を設立した。
● BC334 年:アレクサンダー大王が東方遠征を始める。
☆ アレクサンダー 淋(さみ)しからずや 大遠征
マケドニアを強国に成長させたフィリポス2世はBC336年に暗殺され、20歳の息子のアレクサンダーが後を継いだ。その2年後のBC334年、彼はアケメネス朝ペルシャがある東方への大遠征を開始し、11年後に病死(BC323年、享年32歳)するまでに、オリエント(エジプトを含む)から、インド西部(インダス川)までの広大な範囲を征服した。アレクサンダーは読書も好んだが、特にホメロスの『イリアス』を愛読していたらしい。(当時、ギリシャより"西方"の西ヨーロッパなど〔ローマとか〕は、まぁ、どうでもよい地域だったのだろう。もっとも、アレクサンダーがもっと長生きしたら、西方世界〔海上交易でギリシャ世界と衝突するカルタゴなど〕 へも進出を企てたかも知れないけれども。)当初は、ギリシャ文明の覇権を志向したアレクサンダーであったが、戦中に「大国」ペルシャの多文化容認的な側面の価値を知ったようである。アレクサンダーは東西融合をめざし、自身はペルシャ帝国の後継として、ペルシャ王衣をまとった。しかしこれにはマケドニア人(ギリシャ人)からの反発もあったようで、あるいは淋しい思いをすることもあったかもしれない。
彼の死後「後継者(ディアドコイ)戦争」が始まり、BC4世紀末ごろまでに、彼の大帝国は、ほぼ3つの専制君主国(アンティゴノス朝マケドニア・セレウコス朝シリア〔イラン・メソポタミアから小アジアまでを領する〕・プトレマイオス朝エジプト)に分裂する。(「戦争」の終結は、BC3世紀初めごろにまでずれ込む。)
● BC330 年:アケメネス朝ペルシャの滅亡。
☆「アケメネス 滅亡」と聞き 耳を疑う
マケドニアのアレクサンダー大王は、父フィリポス2世の遺志を継いで東方遠征を始め、BC330年にはペルシャ帝国の宮都ペルセポリスに侵攻してその大宮殿を焼き、アケメネス朝ペルシャを滅ぼして支配下に置いた。200年以上も巨大帝国を維持し続けたアケメネス朝の滅亡の知らせを聞いた当時の人は、わが耳を疑ったかもしれない。アレクサンダーは7年後に亡くなり、彼の大帝国はほどなく分裂するが、ギリシャの文化の影響は、この地域にも広く残り続けた。アケメネス朝滅亡の頃から(あるいはアレクサンダーの死去から、とする文献もあるが)、ローマの版図が地中海一帯に及ぶようになるまでの約300年間を、ヘレニズム時代と称する。"ヘレニズム"(ギリシャ的な、人間中心の思潮)は、"ヘブライズム"(ユダヤ・キリスト教的な、唯一絶対神中心の思潮)"と対置される概念である。しかしその一方で、この時代に限定した狭義の"ヘレニズム"においては、個人の帰属先がポリス(都市国家)レベルに限定されずに、理念的な"世界"が意識され(コスモポリタニズム)、肩肘張ってポリス政治を語るよりも個人の心の平安が重視されるというような、アリストテレスまでのギリシャの思想と区別される側面もある。この時代にアテネでは、エピクロスによって彼の学派が、ゼノンによってストア派が開かれている。
● BC317 年:マウルヤ朝の成立。
☆ 東征後 災難こえて マウルヤ朝
インドにおける古代文明は、まずBC2300-BC1800年ごろまでインダス文明が栄えたが、BC1500年ごろに西北方より印欧語族のアーリア人がインダス川上流部へと侵入してきた。BC1000年ごろにはガンジス川流域にまで進出し、自らの種族と被征服者を身分・階級で区分する社会をつくりあげた。(最上位にアーリア流の祭式を司るバラモン〔司祭者〕が君臨し、その下にクシャトリヤ〔貴族〕、ヴァイシャ〔庶民〕、シュードラ〔奴隷〕という4つの基本身分構成。被征服民は主にシュードラとして組み入れられた。)長く閉鎖的な農耕・牧畜村落の並立分布状態が続いていたものと思われるが、徐々に農業生産性が向上し、BC6-BC5世紀頃になると商工業も発達していくつか有力な小国も現れ(東方のマガダ国、北方のコーサラ国など)、バラモンに対して相対的に力を持つクシャトリヤやヴァイシャも一部に現れるようになった。そうなると、バラモンによる祭式中心の因習的社会支配に疑問を投げかける自由な思想・行動の気風も少し見られるようになる。(仏教を興したゴータマ=シッダルタも、ジャイナ教を興したヴァルダマーナも、そのような社会背景の中に生きたわけである。ゴータマ=シッダルタの生前、竹林精舎〔ちくりんしょうじゃ〕・祇園精舎〔ぎおんしょうじゃ〕という仏教修行僧のための大規模な施設が設立されたが、前者は当時のマガダ国の首都・ラージャグリハ〔王舎城〕、後者はコーサラ国の首都・シュラーヴァスティー〔舎衛城〕の近郊にあった。)
BC4世紀、マケドニアからのアレクサンダー大王の東征はインド西部にまで及んだが(西北インド侵入はBC327-BC325年)、その撤退後の混乱期に、マガダ(ガンジス川南部)出身のチャンドラグプタがマガダ国を倒し、その征服範囲を拡げてBC317年(頃)にマウルヤ朝を成立させた。アレクサンダー東征による災難をうまく乗り越えて、現在のインド・アフガニスタン・パキスタンにまたがる版図を持つ統一国家をつくりあげたわけである。チャンドラグプタの出自ははっきりしていない。仏教系の文献ではクシャトリア、バラモン系の文献ではシュードラとされているのだそうだ。
「チャンドラグプタ」は、グプタ朝でも別に「チャンドラグプタ1世」、「チャンドラグプタ2世」が出てくるので、錯誤のないように要注意。
● BC287 年:ホルテンシウス法の制定。
☆ 貴族との 不和 無くなるぞ ホルテンシウス
共和政ローマにおいて、BC287年にホルテンシウス法が制定された。これは、平民会の決議が、元老院(貴族議会)の承認を経ずにそのまま、貴族にも平民にも適用される国法と認められるようにした法律である。共和政ローマにおける平民の、貴族に対する参政権闘争は、ホルテンシウス法の制定をもって、形の上では終結した。「ホルテンシウス」は、この法律を制定した独裁官(任期半年で臨時に置かれる国政官)の名である。
平民vs貴族の問題が終わったところで、社会はどのようになるか? もはや平民も財力があれば官職に就くことができるし(官職は持ち出しの多い名誉職であるから、財力がなければなれない)、平民でも高官を経て元老院議員にもなれるようになった。そうすると貴族vs平民ではなく、財力のある家系か否かということが眼目になってくる。そして、だいたいこの頃までに、ローマはイタリア半島全体を支配するようになり、ローマにおける政治問題は、それまでの小都市ローマ内部だけの問題とは違った様相を呈してゆくことになる。
● BC268 年:アショカ王の即位。
☆ 罪を悔い 不老は望まぬ アショカ王
インドのマウルヤ朝で、BC268年ごろ(?)に第3代アショカ王が即位した。アショカ王はカリンガ国(インド亜大陸中東部の沿岸地域)を征服することになるが(BC255年頃?)、そのときに行った大虐殺を悔いて仏教に深く帰依するようになったことは有名である。仏教に対する深い帰依があるならば、四苦(生・老・病・死)を真理と受け止め、自らの不老を望むようなことはなっかたであろう(たぶん)。彼は仏典を結集し、インド各地に磨崖碑(岸壁や巨石の表面を整形したもの)・石柱碑を作り、国内外に伝道師を派遣するなど、仏教の普及につとめた。磨崖碑や石柱碑に刻まれている詔勅が、王の事績を直接に伝えている。また広範に伝道活動を及ぼしたことは(特にインド西北方、ガンダーラ地方などが重要なわけだが)後に仏教自体やその思想的影響が世界的に広まるための素地となった。アショカ王がBC232年ごろに死去した後、マウルヤ朝は衰微し、BC180年頃に滅亡を迎える。
なお、アショカ王の頃に、後々のインド諸国の文字の源流となる「ブラーフミー文字」が盛んに使われ始めたようである。7世紀に仏教文化の一部として中国から日本に伝えられた「悉曇(しったん)文字」(梵字)も、その源流をたどるとブラーフミー文字に行き着くものらしい。
● BC264 年:ポエニ戦争が始まる。
☆ フェニキアに 無用の情け ポエニ戦[争]
ローマの地から次第に勢力を拡大して、イタリア半島全土を支配下に置いた共和政ローマは、当時、地中海西部沿岸を広く支配していたセム系フェニキア人の植民市カルタゴ(アフリカ北岸の都市。シチリア島の西端と対向するような位置にある)に対して、BC264年にポエニ戦争を始めた。「ポエニ」はフェニキア人という意味である。シチリア島東北端(つまりイタリア半島の"つま先"部分から目と鼻の先)の都市メッシナが島南部のシラクサから攻められ、カルタゴとどちらがメッシナに"進出"するのか、のっぴきならない問題になったというのが最初の発端である。元々ローマもカルタゴも互いに大規模戦役の勃発を予測していたわけではなさそうなのだが、戦争が始まってしまえばローマ軍はおそらく相手に対して情けは無用と考え、領土拡大に専心したことであろう。120年ほどの間に3回の大きな戦いがあったが(①BC264-BC241、②BC218-BC201、③BC149-BC146)、ローマはシチリア島を皮切りにしてカルタゴの攻略を進めるとともに、第2次ポエニ戦争後には東地中海方面にも出兵を重ねて勢力を拡げて、結局は地中海のほぼ全域を掌握するに至った。ローマがイタリア半島以外にまで支配を拡げたことにより、大所領(ラティフンディア)を利用した奴隷制農業が始まり、ローマの経済構造は完全に変わることになる。
(アルキメデスは第二次ポエニ戦争中のBC212年、ローマ軍がシラクサを占領した時に死んだ。兵士に殺されたという話も伝わる。シラクサ生まれのアルキメデスは、投石機などいろいろな兵器を考案して、侵攻してくるローマ軍を悩ましたと言われているが、結局シラクサはローマ軍を防げなかった。)
(フェニキア人の元々の拠点は地中海東岸、教科書ではシドンとかティルスとかの都市名が出てくるが、これらの地域は現在ではレバノンという国に含まれる。「海の民」の進出によってエジプトやヒッタイトの勢力が弱まったBC13世紀ごろからフェニキア人は地中海進出に乗り出したようである。フェニキア人は地中海世界における「国際貿易」の商才に優れていた民族だったようで、そういう商業的資質は現代のレバノン人にも継承されているらしい。内陸貿易に優れていたアラム人のシリアと併せて、現代では両国人の国際的な商才を意味する「レバ・シリ」という呼称があるのだそうだ。1999年から20年ほど日本の日産自動車のトップとして君臨したカルロス・ゴーンという人物は、ブラジル生まれではあるが両親がレバノン人で、中等教育はレバノンで受け、フランスで国際的な商才を磨いたようである。)
● BC248 年:パルティアの建国。
☆ バクトリアの 西はパルティア 安息国
アレクサンダー帝国が崩壊してから、しばらくイランの地はセレウコス朝シリアの支配下にあったが、カスピ海東南岸地域にイラン系遊牧民(スキタイ族と近縁か?)のアルサケスによるパルティアが建国され(BC248年頃。BC247年とする文献もある)、その勢力範囲はやがてイラン地域にまで拡張し、「遊牧帝国」となった。("国家らしい"遊牧民国家の成立というのは、これが初めてと言ってもいいのかもしれない。)パルティアは中国で「安息国」と記されているが、「安息」は建国者アルサケスの名の音訳と考えられている。パルティアは西方ではローマとしばしば争っているが、パルティア軍の特徴は騎馬戦術を有効に活用した点にあり、歩兵が主力のローマ軍をかなり悩ましたらしい。(騎馬・騎兵の技術を最初に開発したのはスキタイ人であるが〔BC7世紀ごろ?〕、人間も馬も装甲する重装騎兵を始めたのはおそらくパルティアである。)パルティアの東には、やはりセレウコス朝から7年ほど先行して独立・建国された、アム川流域(現在のアフガニスタン北東部近辺)を中心とするギリシャ人国家バクトリアがあった。バクトリアとパルティアの2国の成立によって、セレウコス朝シリアの領土はかなり縮小した。バクトリアはBC139年ごろ滅亡するが、バクトリアのギリシャ文化は、紀元後1~3世紀ごろに現れるクシャナ朝のガンダーラ仏教美術にまで影響を残すことになる。
セレウコス朝がローマのポンペイウスによって滅ぼされると(BC63年)、パルティアは西方をローマ領土と直接に接することになり、これと激しく争った。ローマはこの頃、クシャナ朝の南、インド中央部のサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝。BC1世紀?-AD3世紀)とも交易を行っていたが、これはパルティアを通るような陸路を避け、主として海上交易(紅海-アラビア海経由)に依ったようである。近代の大航海時代の遙か以前から、紅海を通れさえすれば、ヨーロッパ-インド間の海上交易は可能だったわけである。もちろんスエズ運河はないので、地中海と紅海の間だけは陸路になるけれども。
(パルティアの存続期間〔BC248-226〕は、中国の秦・漢の時代〔BC221-220〕にだいたい重なる。)
(「パルティア」は、一見「ペルシャ」と似ているけれども、語源的には別物だそうだ。「パルティア」は東北イランの王国故地の地名「パルサワ」に由来し、「ペルシャ」は元々は南イランの「パルーサ」地方のことである。)
● BC221 年:秦が中国を統一。
☆「皇帝」は 普通 言わない 称号だ
中国における戦国の七雄のひとつである秦は、咸陽(かんよう。西安に近い)を都とし、陝西の地が本拠であったが、BC4世紀に南方の四川を獲得して強国となった。(BC4世紀に法家の商鞅を用いて富国強兵改革を進めた。商鞅は領主制を廃し、国を中央集権的官僚国家に移行させようとしたが、最後は貴族の反発を受けて逃亡も叶わず殺されてしまった。しかし国内改革の機運も醸成された。)さらに、BC3世紀後半に王になった政(せい)はBC236年から統一戦争を初めて東方へ領地を拡げてゆき、BC221年に中国全土を統一した。政は、王という称号をやめて「皇帝」という称号をつくり、自らを皇帝という称号を始める「始皇帝」と称した。しかし、統一後の彼の急激な改革や国内統制(完全な中央集権体制である"郡県制"の導入や、焚書・坑儒による言論統制など。貨幣や度量衡の統一など、評価されるべき施策もあったのだが)や、匈奴への外征などによる負担は、人々の反感を招くことになった。
始皇帝の事業の中でも万里の長城の修築は有名である。これは戦国時代に燕・趙・秦が匈奴の侵入を防ぐために築いたものが起源であり、始皇帝がこれらを統合する形で「長城」として整備した(甘粛から遼東まで)。しかし始皇帝の長城は、現在の万里の長城よりも北方にあった。南北朝時代に北魏や北斉によって南に移され、隋の時代にほぼ現在の位置に落ち着いたようである。明の時代(15~16世紀)、オイラートやタタールなど北方民族の侵入を防ぐために大規模な修築が進められて現在に至る。
ちょっと雑談的な補足。「郡県制」の「郡」は、元々の字義として「人々が集まる集落・集合体」ということで疑問はないのだが、「県」を漢和辞典で調べると、解字として「首を木にさかさまにかけた(つるした)形」などという恐ろしいことが書かれていて、何故これが行政区画の呼称になるのかよく分からない。"木"が中央権力の象徴であって、そこに"つるされている"というニュアンスだろうか?
● BC209 年:陳勝・呉広の乱が起こる。
☆ 農民に 贈る声援 陳勝・呉広
秦の始皇帝がBC210年に急病で死去すると、宮廷内外で帝国の崩壊につながる兆候が現れてくる。BC209年に、陳勝と呉広が指導する大規模な農民反乱が河南で起こった。陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)は賦役のために、他の数百人の百姓とともに淮河付近で徴集され、北辺(北京・天津のあたり)に向かっていたのだが、途中、今の安徽省北端のあたりで大雨に遭って道が水没し、決められた期限までの目的地到着が不可能になった。期限に遅れた労働者は斬罪と決まっていたので、どうせ殺されるならと、秦の引率者の軍人を殺して反乱を起こす決意をしたのである。反乱を始めてみると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民が陳勝に呼応して、かなり大規模の軍勢が首都・咸陽に迫る形勢になった。しかし秦は名将・章邯(しょうかん)に防衛を命じ、ここから戦局が逆転してしまう。呉広は戦略能力を味方から疑われて殺され、陳勝は敗走中に殺された。乱は6ヶ月で鎮圧されたが、陳勝が残した当時の実力主義の風潮を伝える言葉として「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王にしても諸侯にしても同じ人間ではないか)」が残されている。この乱は、中国において最初にして最大の農民叛乱であった。やがて前漢を統一する劉邦も、そのライバルである項羽も、陳勝・呉広の乱に呼応するように兵を挙げることになる。
● BC202 年:前漢の建国。
☆ 劉邦は 二重に統治 漢帝国
中国で、秦の末期、陳勝・呉広の乱以降の混乱の余波を継承しつつ、秦を倒して新しい王朝を興す際に、貴族出身の項羽と農民の劉邦が覇権を争う局面があった。(項羽も劉邦も、かつての「楚」の江蘇から出た人で、項羽の家は代々、楚の武将であった。楚の地の人々は、"征服者"である秦に深い恨みを持っていたようである。)その結果、BC202年に劉邦が勝って長安で即位し、前漢を建てた。(長安は現在の西安、陝西省の省都である。両者の最終決戦「垓下(がいか)の戦い」〔垓下は安徽省北端付近〕において、楚の軍を率いていたはずの項羽は、劉邦の"漢"軍に囲まれて、夜、周囲から楚国の歌が流れてくるのを聴き、楚の民がすべて漢軍に下ったかと嘆いたという故事から「四面楚歌」という慣用句が生まれた。)農民出身の劉邦は、秦の始皇帝のように華々しい新施策や新事業の計画を矢継ぎ早に打ち出すようなことは無かったが、始皇帝が試みた郡県制という完全中央集権の統治システムが反発を生んだことを見ていたので、漢においては「郡国制」を採用した。これは地域によって、皇帝集権的な郡県制と、諸侯分権的な封建制を使い分けるもので、二重の考え方の折衷とも言える。しかし歴代皇帝によって諸侯の勢力を徐々に抑える政策が取られ、やがて武帝のころには、実質的には郡県制といってよい体制になる。
劉邦はBC195年に、矢傷の悪化が原因で死去した。享年53歳(生年に異説もあって、必ずしも確実な数字ではないが)。
● BC154 年:呉楚七国の乱が起こる。
☆ 前漢で 呉楚の乱以後 諸侯が衰退
前漢の初代皇帝、(高祖)劉邦は、統治システムとして郡国制を採用した。これは治世開始時の実情に鑑みて、中央集権的な郡県制(直接統治)と、諸侯に地域を与えて統治を任せる封建制(間接統治)を併用したものであったが、やがて徐々に諸侯の勢力を減じて郡県制に近づけてゆく意図があった。徐々に権力を奪われた諸侯には反感がつのり、BC154年に呉王が主導して呉楚七国の乱を起こしたが、時の第6代景帝はこれを鎮圧。諸侯の力は衰微し、前漢において中央集権体制の強化が進んだ。
● BC141 年:武帝が即位。
☆ 7代目 いい世 開くと 武帝が即位
前漢は、第7代の武帝がBC141年に即位すると、帝国の全盛期を迎えた。武帝は、それまでの漢の政治の消極政策を積極政策に転じ、西域・南域にも勢力を拡げ、また、かつて劉邦が攻めあぐねて大敗した匈奴をも攻撃した。しかし治世期間の後の方になると、遠征の出費などによって財政に余裕がなくなり、次第に「いい世」とも言えなくなって、平準・禁輸、塩や鉄の専売などの経済財政政策にも注力した。武帝の治世の後、皇帝の権威は急速に衰えた。儒学が官学になったのは武帝の時代のことで、これも"積極政策"の姿勢の一環と言える。(儒者・董仲舒〔とうちゅうじょ〕を重用し、五経博士を置いた。五経とは儒家が聖典と見なしている「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」のこと。)武帝の死去はBC87年、その治世は54年に及んだ。享年73歳。
「五経」の内容について補足しておくと、
「易経」:陰陽二元の原理に基づく宇宙観・倫理観を説く。
「書経」:中国古代の歴史書。堯・舜~周までの天子や諸侯の訓戒などを含む。
「詩経」:中国最古の詩集。(正しい情操を養う。)
「礼記」:中国古代の"礼"の規定とその精神を記す。
「春秋」:孔子の生まれた魯の国の年代記。(孔子の著作と考えられた。)
(司馬遷は、武帝に仕えた官僚であったが、匈奴攻略に失敗・降投した軍人・李陵を弁護したため武帝の怒りを買い、宮刑〔去勢刑すなわち陰茎、睾丸、陰嚢のすべてを切除する刑。つまりオチンチンやキンタマを全部切り取られるわけです〕に処せられた。その後、彼は歴史書執筆に心血を注ぎ『史記』を書き上げる。これは古代の伝説的な"五帝"の時代〔五帝の最期の二人が堯・舜である〕から武帝の時代までを扱った紀伝体の大作。全130巻。)
補足的に武帝の事績として言及しておきたいものとして、西域への張騫(ちょうけん)の派遣がある。武帝は当初、匈奴を挟み撃ちで攻略することを考えて、BC139年に大月氏国(当時、現在のアフガニスタンのあたりにあったイラン系遊牧民の国)へ張騫を遣わした。張騫は、大月氏国から匈奴挟撃策を断られてしまったが、出発から13年後のBC126年に帰朝して、それまで全く未知であった東トルキスタン(タリム盆地の砂漠国家群。現在の新疆ウイグル自治区)や中央アジアの事情を報告した。この新たな情報によって西域政策が進むことになり、またシルク・ロードが開かれる端緒ともなった。
(ここでは「いい」をまとめて1に対応させている。このサイトのゴロ合わせでは、単独の「い」を1に対応させる場合のほうが多いので、多少まぎらわしくはあるが、御容赦いただきたい。)
● BC133 年:グラックス(兄)により、改革が試みられる。
☆ グラックス 勇み足にて 殺される
ポエニ戦争後、ローマはイタリア半島以外の地域に多くの土地を獲得して属州とした。そうすると、広大な土地と、属州で供給される奴隷の使用を前提とした、ラティフンディウムと呼ばれる農業形態が発展することになったが、このことが新たな富裕層と貧民を生み、それまでの共和政ローマの政治的安定は崩壊した。(元々の貴族である元老院階層の「閥族」と、一般大衆としての「平民」の他に、「騎士(エクイテス)」と呼ばれる公共事業や金融や徴税請負を行う新興の富裕階層も出現した。「騎士」は元々は騎兵として従軍できる富裕市民を指した。元老院階層は公共事業や商業に接触できないという規制があったために、この時代にはそのような分野に進出して巨利を得る商業資本家としての市民層が現れ、それが「騎士」と呼ばれたのである。普通の農民は自力でラティフンディウムに競合できずに没落してゆき、もはや元々の公平な"市民権"の精神も、一般市民による"国防"の概念も失われつつあった。)BC133年に護民官に選出されたティベリウス=グラックスは、大土地所有を制限して土地を再分配することを試みたけれども、性急かつ極端な(勇み足の)改革案は既得権を持つ貴族層・富裕層に反感を持たれ、ティベリウスはほどなく暗殺された。その弟のガイウス=グラックスも、兄の遺志を継いで護民官に選出され(BC123)、土地法の励行だけでなく、元老院を打倒し民主化を推進するための一層急進的な改革を試みた。しかし元老院による、ローマ市民の民心をガイウスから引き離す策略が成功したために、護民官選挙に落選したガイウスは自死に追い込まれた(BC121)。これ以降、ローマは「混乱の一世紀」と呼ばれる暴力的な時代に突入し、平民派と閥族派(元老院派)の有力者(マリウスとスラ)がそれぞれ有給で私兵を雇い、自前の軍隊を用いて互いに争ったり、同盟市の戦争(半島内諸都市のローマ市民権獲得闘争)、スパルタクスの乱などが相次いだ。
● BC108 年:前漢の武帝、楽浪郡など4郡を設置。
☆ 朝鮮を 踏破し 置いた 楽浪郡
前漢の武帝は、国内の中央集権体制の充実を背景として、積極的な対外政策を展開した。東北方面では衛氏朝鮮(これは前漢のはじめごろ燕から亡命してきた者が建てた国)をほろぼしてBC108年に朝鮮北部に楽浪などの4郡を置いた。楽浪の中心は、現在の平壌付近。楽浪郡は、前漢が終わり新が興った時期に混乱があったが、後漢の光武帝が再び接収(30年)、後漢の末期以降も漢民族からの支配(公孫氏、魏、晋)を受けた。しかし4世紀に入ると、異民族の華北侵入の動きが激しくなって漢民族による東北方へ影響が弱まり、313年に北満州から南下してきた高句麗(ツングース系の夫余〔ふよ〕族の一支族である)が楽浪郡を滅ぼしてこの地を支配するようになった。(同時に、公孫氏が204年に楽浪郡の南側〔今のソウル付近〕に設置していた帯方郡も支配下に置いた。)続いて4世紀の半ばには、朝鮮半島南部の馬韓・辰韓と呼ばれていたところに百済・新羅が(これらも北方から既にこの地域に侵入してきていた夫余種族によって)成立し、朝鮮半島における「三国時代」が始まる。
● BC73 年:剣奴の乱が起こる。
☆「奴隷にも 情けをかけよ」と 剣奴の乱
共和政ローマは、グラックス兄弟による改革の頓挫以降、混乱の1世紀と呼ばれる時代を迎え、闘争や反乱が相次いだ。BC73年に、南伊で剣奴のスパルタクスが率いて起こした「剣奴の乱」は、数万もの奴隷が参加したとされる最大の反乱であった。(剣奴とは、市民への見世物として戦い合うことを強制される剣闘士の奴隷である。スパルタクスはトラキア〔ギリシャ北方〕生まれで、初めローマの傭兵であったが、何かの事情で剣闘士になったらしい。剣闘士として売られたのか、ある程度自発的に剣闘士になったのか、よく分からない。)仲間の剣闘士とともにヴェスヴィオ山に立て籠もるところから始まり、ローマ軍団を数度にわたって打ち破ってイタリア半島を席巻した。しかしクラッススの率いる大軍によって半島南端部に追い込まれて反乱軍は全滅し、スパルタクス自身も戦死した(BC71年)。
● BC60 年:第1回三頭政治が始まる。
☆ 三頭が 群れて 閥族 抑え込む
共和政ローマの混乱の1世紀のあいだに、元老院の権威は著しく損なわれ、代わってカエサル、ポンペイウス、クラッススなど、自前の軍隊を持つ有力者が台頭した。これらの3人は、BC60年に野合関係を結んで閥族派(元老院派)を抑え、第1回三頭政治を始めた。(ポンペイウスは地中海の海賊征伐や東方征討などで戦果があり、クラッススはスパルタクスの乱の平定などの実績があった。カエサルはむしろ三頭政治開始後にガリア征討で戦果を挙げることになる。当初カエサルはキケロも仲間に入れようとしたが、キケロは応じなかったのだそうだ)。これは明らかに、一般市民による共和政の理念とはかけ離れた政治形態であった。クラッススはパルティア遠征で戦死し(BC53年)、ポンペイウスはカエサルと対立するようになって敗れたが(BC48年)、そうして事実上の独裁者となったカエサルも、BC44年に元老院派によって暗殺されることになる。ちなみにカエサルの意向で、ローマではBC46年に、それまで用いられていた太陰太陽暦から、エジプトで行なわれていた暦法を基調とする太陽暦への切り替えが行なわれている。これが「ユリウス暦」である。ポンペイウスは最後にエジプトへ逃亡して暗殺されたわけだが、ポンペイウスを追ってきたカエサルはポンペイウスの死後エジプトに上陸し、内紛中であったエジプトでクレオパトラに味方して親密にもなった。おそらくそのときに仕入れた知識だろう。
(「サイは投げられた」という決まり文句があるが、これはカエサルがポンペイウスを討つために、元老院の禁を犯してルビコン川を渡ったときのセリフなのだそうだ〔カエサルが総督を務めていた「ガリア」の南端境界線がルビコン川だということらしい〕。また、カエサルが刺殺されたとき、今際のきわにカエサルの腹心のひとりであったブルータスが自分の暗殺に加担していたことを知って「ブルータス、お前もか」と言ったという伝承がある。このセリフは親しい者の裏切りを表す格言のように使われ、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』にも、このエピソードが取り入れられている。)
● BC31 年:アクティウムの海戦。
☆ アクティウム 最終盤の 決戦だ
ローマではカエサルの死後、オクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる第2回三頭政治が始まった(BC43年)。(オクタヴィアヌスはカエサルの妹の孫に当たる人物で、カエサルの養子であった。アントニウスとレピドゥスはカエサルの武将だった人物。)ほどなくレピドゥスは失脚し(BC36年)、オクタヴィアヌスとアントニウスが対立した。アントニウスは、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと結んでオクタヴィアヌスと戦ったが、BC31年のアクティウムの海戦で敗退した。翌年にアレクサンドリアは陥落し、アントニウスもクレオパトラも自殺。これにより、オクタヴィアヌスが権力を握るという形で、内乱の1世紀が終結することになった。また、これをもってプトレマイオス朝エジプトは終焉し、ローマはエジプトを支配下に置くことになって、地中海全域を完全に掌握した。
(クレオパトラが「絶世の美女」だったという伝説があるが、"真相"は分からない。知的な魅力があったことは確かのようであるが。歴史家のプルタルコスは、その容姿は比類がないというほどでもなかったという話があったことを伝えている。)
● BC27 年:元首政(帝政)ローマの始まり。
☆ 元首政 重責 担う オクタヴィアヌス
ローマ混乱の1世紀を終息させ、実権を掌握したオクタヴィアヌスは、しかし露骨に独裁政治を敷くことによる反発を懸念し、元老院から「第一の市民」(プリンケプス)として任じられて政務を行うという形を採用した。これは「元首政」(プリンキパトゥス)と呼ばれるが、実質的には独裁体制であり、この時点(BC27年)において帝政ローマが始まったと見なされる。
オクタヴィアヌスを含めて5代、94年間にわたり、「ユリウス=クラウディウス家」から皇帝が出た。5代目の皇帝は、暴君として知られたネロである(位AD54-68年)。64年にローマ市街の大半が消失する火事があり、ネロはこれをキリスト教徒のせいにして迫害を行った。これがローマ帝国による最初のキリスト教迫害事件である。(これは信憑性に乏しい話だが、イエスの一番弟子であった使徒ペテロと、実質的なキリスト教の開祖であるパウロは、この64年のネロによるキリスト教徒迫害の下で殉教したという伝承が伝わる。)
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