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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(1301~1500年)

 

                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

三部会

1302 年:三部会の招集。

☆ ローマ[教皇]の意味を  深く疑う  三部会

 

フランスのカペー朝フィリップ4世(端麗王​。位1285-1314)は、教会への課税を試み、これを妨げようとするローマ教皇ボニファティウス8世(位1294-1303)と対立した。フィリップは1303年にアナーニ事件(フィリップの顧問官らがボニファティウスを襲撃して3日間にわたり捕縛・監禁)を起こすことになるが、それに先立って国内の支持を得ておくために、1302年にノートルダム寺院に聖職者・貴族・平民からなる三部会(議会)を招集した。そして三部会は、王がローマ教皇と戦うことに賛成したのである。もはやこのとき、教皇の権威が人々に通用する時代ではなくなっていた。十字軍の時代の終りとともに、教皇庁の権威は衰え、教皇には頼るべき実質的な"皇帝権"ももはや存在せず、集権化を進めてきたフランス王権との力関係に逆転現象が起こったわけである。

​ アナーニ事件においては、教皇が監禁された後、アナーニ市(ローマの東約60キロ)において反フランスの暴動が起こり、ボニファティウスはローマからの救援を得てローマに戻ったが、ひと月後に急逝した。ボニファティウスを失った教皇庁は、もはやフランスに逆らう力を持たなかった。

教皇バビロン捕囚

1309 年:教皇のバビロン捕囚。

☆ 教皇が  瞳を曇らす  バビロン捕囚

 

アナーニ事件(1303年)以来、教皇庁はフランスのフィリップ4世(位1285-1314)に逆らうことができなくなった。フィリップは、自ら選んだ教皇クレメンス5世(位1305-1314)を、教皇庁をアヴィニョン(フランス南部のローヌ川沿いの都市)に移さざるをえない状況に追い込んでゆき、教皇庁は1309年にアヴィニョンに移った。(クレメンス5世はフランス人で、ボルドー大司教だった人物。ローマには一度も入らなかった。)教皇庁がフランス王の勢力下に置かれたわけである。これを、古代ユダヤ人の受難(バビロン捕囚)になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」と呼ぶ。(端麗王フィリップ4世は、ネブカドネザル2世というわけだ。)この「捕囚」は68年間後(1377年)に一旦終わったが、その後またすぐに、教皇庁がローマ(イタリア派・反フランス派)とアヴィニョン(フランス派)の2箇所に分立するという異常な状態が始まって(大分裂。1378年~)、分裂状態が解消するのは15世紀のことになる(1417年。コンスタンツ会議後)。

百年戦争

1339 年:(英仏)百年戦争が始まる。

100 年間  勇み 苦しむ  英仏の民

 

14世紀はじめ、フランスではカペー家の王統が絶え、ヴァロワ家フィリップ6世(位1328-50)が即位した。しかし、カペー家から来た母親を持つイギリスのエドワード3世(位1327-77)は、自分にフランスの王位継承権があると主張して、1339年にイギリスとフランスの間で百年戦争が始まった。(ウィリアム1世のノルマン征服〔1066年〕以来、イングランドは"フランス人"の王侯が支配する国だったので、このような成り行きは、見かけほど不自然なものではない。本質的に"イギリス人"がフランス王になろうということではないわけである。)その背景としては、羊毛を原料とする毛織物工業が発達していたフランドル地方の支配権争いもあった。イギリスは羊毛の輸出先としてフランドル(親仏的なフランドル伯の領地)を重視していたが、フランスがこの地を直接支配下に置こうという動きを見せていたのである。(しかし「英仏」戦争と言っても、まだ封建制度の空気が残る時代なので、両国とも「国軍」を組織できたわけではなく、封建貴族的な"戦争屋"たちが国王から軍役を"受託"する形で行われたらしい。戦争屋たちは下級貴族の庶子や平騎士や上層の農民などを私兵として率いて戦闘を行ったようだ。)

 初めは長弓隊(従来の弓よりも格段の威力を持つ"長弓"を用いた)を擁するイギリスが優勢であり、フランス内部が2派に分裂して一方がイギリスと手を結んだりしたために、一時フランスは危機的状況であった。しかしフランスに愛国の乙女ジャンヌ=ダルクが出、またフランス軍が砲兵隊を導入(ルネサンス期の3大発明のひとつが火砲であったことを思い出そう)したことで形成は逆転して、1453年にフランス側の勝利で終結した。(だから細かく言えば、100年戦争ではなく「114年戦争」である。)この時のフランス王シャルル7世(位1422-61)は、勝利王とも呼ばれる。(​ただし彼はジャンヌダルクを見捨てたといわれて、評判は悪いようだが。)この長期の戦争は、英仏の諸侯・騎士の衰退をもたらした。またこの戦争中、英仏の民は相当苦しめられたようで、大規模な農民反乱が、この戦争期間に起こっている(フランスのジャクリーの乱、イギリスのワット=タイラーの乱)。

(宗教改革の先駆者ウィクリフは、エドワード3世の時代の人である。彼はオクスフォード大学神学教授であったが、イングランド宮廷司祭でもあった。ウィクリフは、単なる宗教上の観点だけでなく、ローマ教皇の権威が"政治的に"イングランドに及ぶことにも反対する立場を取ったようである。)

(チョーサーは、エドワード3世に仕えた外交官のような人である。137172年にイタリアに派遣されてダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの影響を受け、帰国後『カンタベリ物語』を書いた。)

【日】百年戦争(1339-1453):日本は室町時代。開戦3年前の1336年に足利尊氏は京都に光明帝を立て、南北朝時代が始まった。前年1338年に尊氏は征夷大将軍になっている。百年戦争終結のころ(室町時代の中頃)、室町幕府はほとんど機能しない状態になっており、将軍は応仁の乱(1467~)の火元となった第8代将軍・足利義政。

​【日】ヴァロワ朝(1328-1589):その王朝存続期間は、日本の室町~安土桃山時代に、ほぼ重なる(1336もしくは1338-1603年)。だいたい14・15・16世紀。

ペスト

1348 年:西欧でペストが大流行。

☆ 西欧は  ペストで悲惨  死はすぐそこに

 

1348年頃に、西ヨーロッパでペストの大流行が起こった。農村人口の激減は、荘園制度の基礎をゆるがす一因になったと見られている。(細かく言えば1347年に始まり、1348年に大流行を始め、1351年まで続いたということだろうが、ここでは1348年としておく。)流行の発端の地は、ジェノヴァの植民都市であったクリミア半島のカッファであった可能性があり、モンゴル軍がペストで死んだ兵士の遺体をカッファの城壁内に投げ込んだためにカッファで流行が始まったという言い伝えがあるそうだ。とすると感染経路はカッファ→イタリア→全ヨーロッパという形であったのかもしれない。​百年戦争に苦しめられていた英仏の人々は、同時にペストにも苦しめられることになった。(このときヨーロッパ全体の人口は2割~3割減ったらしい。もちろん地域差があり、人口が半減したとか、8割減ったというような地域もあったようである。)その後も約半世紀にわたり、ペストは断続的に発生したようである。

(ボッカチオの『デカメロン(十日物語)』は、この大流行開始の翌年〔1349年〕に執筆が始まっている〔2年後に完成〕。本編の主要部分は、フィレンツェの若い貴族たち〔女性7人、男性3人〕がペスト禍を逃れて集った郊外の別荘で、交代で面白い話を披露するという形式の枠物語であるが、まず初めに前置きとして、ペストの大流行で荒んだ世相の下で、人々を慰める娯楽作品を読者に提供したいという著者の意図が語られ、話の冒頭はペスト大流行の惨状の記述から始まっている。その部分は、ペスト禍そのものの様相を記述した歴史的資料としての価値も高いようである。)

​【日】室町幕府第1代将軍・足利尊氏(任1338-58)。

紅巾の乱

1351 年:紅巾の乱が始まる

いざ 来いと  紅巾つけて  元(げん)攻める

 

フビライの死(1294年)の後、宮廷内の贅沢や大規模なチベット仏教(ラマ教)保護のために元朝の財政は窮乏した。紙幣を乱発して物価が上がったため民衆は苦しみ、暴動を起こすようになった。1351年に始まった紅巾の乱(~1366年)は、農民主体の反乱として最大のものであった。このときの反徒の中心となった組織は、白蓮教徒と呼ばれる宗教結社であり、紅い布を頭にまとって各地を荒らしたという。(白蓮教は東晋の時代〔317-420年〕、仏教の弥勒菩薩信仰から出たものらしいが、時代が下ると妖俗の宗教となった。)後に明を建てることになる朱元璋も、この紅巾軍の一武将であった。「いざ、来い」と仲間を率いて乱を主導したのではなかろうか。朱元璋は当初は白蓮教を奉じる立場であったが、後には儒学者をブレーンに置いて思想を変え、白蓮教・紅巾軍との関係を絶つことになる。

(白蓮教徒は、清の時代にも大規模反乱を起こす〔白蓮教徒の乱。1796-1804年〕。また、清朝末期の義和団事件〔1900年〕の義和団も、白蓮教徒系の結社である。)

(「紅巾」は「こうきん」であるが、後漢末の「黄巾」の乱と紛らわしいので、暗唱用には「べにきん」つけて、と読んでおくのがよいかもしれない。)

【日】前年の1350に観応の擾乱が始まっており(1349年からという見方もある)、足利尊氏と弟、直義(ただよし)が対立。翌1352年に尊氏は直義を追い詰め、直義は亡くなっている(自然死説、毒殺説がある)。

金印勅書

1356 年:金印勅書。(7選帝侯を決定)

☆ カール4世  皇帝選べる人  見込む

 

神聖ローマ皇帝カール4世(位1347-78)は、1356年に金印勅書を出して、選帝侯を、カールが指定した(見込んだ)聖俗の7諸侯だけに限定することを決めた(3大司教+4俗諸侯)。大空位のような事態を防止するためということである。(実情は大空位時代の頃から既に選帝侯は7侯という慣行になっていたようだが、金印勅書発布によってこれが制度として確立した。)おそらくはカール4世が出ているシュタウフェン家から代々の皇帝を出す体制をつくろうという意図があったものと思われる。しかしその目論見はうまくゆかず、むしろ後にハプスブルグ家が、この制度の恩恵に浴することになる。​7選帝侯の権力を肯定するこの勅書は、直接には、元々弱体化していた帝権をさらに弱めた。(具体的な7侯はマインツ・トリエル・ケルンの3大司教と、ファインツ侯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯・ボヘミア王である。)

​【日】足利尊氏(任1338-58)

ジャクリーの乱

1358 年:ジャクリーの乱。

☆ ジャクリーの  一味 こわいぞ  一揆なら

 

14世紀後半になると、西欧において荘園制の崩壊が進んだ。農民も自分の地位を意識するようになり、領主が支配を再び強めようとすると、激しく反抗するようになった。ジャクリーの乱は、英仏の百年戦争(1338-1453年)による荒廃の影響もあって、1358年にフランスで起こった農民一揆である。フランスの農民たちが一般にジャックとあだ名(蔑称)されたので、この呼称がついている。​(百年戦争にかり出された傭兵たちが、敵味方かまわず現地での略奪を常とする、という状況があったのだが、領主である貴族は農民を守ることをせず、むしろ重税を課すなどした。そこで農民が貴族に対して反乱を起こしたのだった。)反乱軍の農民たちは皆殺しにされた。

​【日】1358年、足利尊氏が亡くなり、息子の足利義詮(よしあきら。任1358-67)が第2代将軍に就任している。

1368 年:明の成立。

☆ 元(げん)倒し  勇むは 明の  朱元璋

 

紅巾の乱(1351-66年)の際に一武将として乱を指導した朱元璋(しゅげんしょう)は大いに勇み、江南を平定してから兵を結集して北上、1368年に彼の軍は大都(北京)を奪い、「元」王朝の打倒に成功した。元の残存勢力は北方に退いた。(退いた先が"北元"もしくは"タタール"と呼ばれる。追い払ったわけだから「元、倒し」というのは正確ではないかもしれないが、大まかな言い回しとして許容してもらいたい)。順序は前後するけれども、江南平定時に朱元璋は、金陵(南京)で帝位につき、国号を「明」と定めている。同時に年号が「洪武」と定められたが、明以来、一世一元の慣例が定着したので、太祖・朱元璋は洪武帝とも呼ばれる。朱元璋は北方異民族由来の風俗や習慣を排除し、漢民族本来の文化を重視した。彼は貧農から皇帝に登りつめた人物で重農政策が注目される一方、自分の出自のため臣下の忠誠には常に猜疑心を持っていたと言われる。強権をふるって重臣を粛清し、行政機関(六部)をすべて皇帝直属にして君主独裁制を徹底した。唐の時代から継承されてきた律令(唐律)に根本的な改変を加えて法典を整備し(明律)、法治主義を貫いた。

 1368年はモンゴル5帝国のひとつ「元」の滅亡の年であるわけだが、他の4帝国についても見ておこう。領内に物資も人的資源も乏しかった​西北モンゴルのオゴタイ=ハン国は、最も早く1310年に元に敗れて滅亡している(これはハイドゥの乱の最終帰結)。元の滅亡の2年後(1370年)に中央アジアではティムール朝が開かれてチャガタイ=ハン国の西側主要部分は​事実上終焉(東チャガタイ側の残存はあるが衰退)。イラン地域のイル=ハン国は、すでに1353年から分裂状態であったが、1411年にティムール朝に吸収されて消滅。ロシアのキプチャク=ハン国は1502年に分家​(クリミア=ハン国)に滅ぼされる。

【日】明(1368-1644):日本では室町~安土桃山~江戸時代。明が建ったときは室町前期で、第3代将軍・足利義満(任1368-94)が就任している。ただしこの時はまだ10歳ほどなので、初めのうちは管領細川頼之など守護大名の下で帝王学を学んだようである。明が滅ぶのは江戸時代前期、第3代将軍、徳川家光(任1623-51)の時代である。

ティムール

1370 年:ティムール帝国の成立。

☆ ティムールの  人 皆(みな)同じ  イスラム教

 

モンゴル大帝国が分かれて1227年に中央アジアに建ったチャガタイ=ハン国は、ハイドゥの乱(1260-1301年)の時期にオゴタイvs元の抗争に関わって疲弊し、また元々領域内でのまとまりに乏しく内紛も絶えず、14世紀には崩壊した。そして、その中から出たティムールが、1370年にサマルカンドを都として西トルキスタンの地にティムール朝を建てた。(サマルカンドは現ウズベク共和国内。大元はアレクサンダーが遠征して建設したギリシャ人都市。その後、イラン系ソグド人の拠点となり、古くからアジア交易の中心的要衝。)ティムール自身はチンギス=ハンの後裔と称したが、本当のところはトルコ系らしい。ティムール朝は東トルキスタンを手中に収めてから西への侵攻を段階的に進め、14世紀中にイラン=イスラム文化を発展させていたイル=ハン国をほぼ征服した。(中国〔明〕に匹敵する版図を持つ大帝国になった。)ティムール自身がトルコ=イスラム化したモンゴル人(?)であり、ティムール朝はトルコ=イスラムとイラン=イスラムの文化を併せた国であったと言えるだろう。(ティムール王朝はある程度、開明的な性質を持つ王も、ティムール自身も含め何人か出していて、学芸や文化の保護なども行った。こういう点はモンゴル諸国と少し違っている。サマルカンドは当時、世界的な文化都市となった。)ティムールはさらに小アジアへも進出し、アンカラの戦いでオスマントルコ軍を破った。ティムールの死(1405年)の後、国は分裂し15世紀末にウズベク(トルコ系)に滅ぼされた。

【日】ティムール帝国(1370-1500):日本は室町時代。帝国成立時は室町前期で第3代将軍・足利義満の時代(であるがまだ年少であったため管領・細川頼之が政務を行っていた頃)。帝国滅亡時は室町後半。

教会大分裂

1378 年:教会大分裂の始まり。

☆ 分裂で  悲惨な役割  教皇も

 

1309年に始まった教皇のバビロン捕囚は1377年に終わり、教皇庁はアヴィニョン(フランス南部の都市)からローマに戻されたが、翌1378年に、ローマで新たにナポリ出身の教皇ウルバヌス6世が選出されると、フランス人の枢機卿たちはこれに対抗してフランス出身の教皇クレメンス7世を立てた。クレメンスはアヴィニョンを本拠としたため、西欧全体の教会がローマとアヴィニョンの両派に分裂する「教会大分裂」の時代に入る。「悲惨」というほどでもなかったかもしれないが、教皇の権威はすっかり地に落ちてしまっていた。その後、3教皇が並立する状況も生じたが、15世紀前半のコンスタンツ公会議(1414​-18年)で、ようやく分裂は解消された。

【日】この年、室町幕府の第3代将軍・足利義満が、室町に花の御所を造営している。この頃から義満は自ら政治を動かし始め、1408年に急死するまで自らの権力を強め続けた。

ワットタイラー

1381 年:ワット=タイラーの乱。

☆「ロンドンに  いざ 入らん」と  タイラー軍

 

荘園制の崩壊を象徴する農民一揆として、フランスのジャクリーの乱(1358年)と並んで挙げられるのが、1381年にイギリスで起こったワット=タイラーの乱である。「タイラー」(Tyler)は、姓ではなく、彼が瓦を焼く職人(tiler)であったことから、これをもじって付けられたあだ名ということらしい。人頭税を徴収しに来た徴税官に対する反発をきっかけに、反乱が始まった。ケントやウェセックスの農民を率いてロンドンに進軍、リチャード2世​(プランタジネット朝最後の王。位1377-99)と会見して、農奴制の廃止や税金の削減などを訴えたけれども、タイラーは暗殺され、反乱は鎮圧された。

 反乱は失敗に帰したにせよ、このころ(百年戦争〔1339-1453年〕・ペスト流行)から、イギリスの領主たちは労働力の確保のために、農奴の処遇改善を図るようになり、独立自営農民(ヨーマン)という中堅階級が現れ始めている。こういう事情は、比較的遅く(17世紀後半)まで大貴族(大領主)の力が強く残り、自営農がなかなか発達しなかったフランスとは違っている。

【日】室町幕府第3代将軍・足利義満(任1368-94)の時代。

ヤゲロー朝

1386 年:ヤゲロー朝の成立。

いざ やろう  一緒になって  ヤゲロー朝

 

ポーランドのヤゲロー朝は1386年に始まったが、始祖ヤゲローは、元々ポーランドの東にあったバルト系のリトアニア大公であった。彼は、バルト海沿岸地方(プロイセン)への入植が進んだドイツ騎士団領の勢力に対抗するために、自ら西に隣接するポーランドの女王と結婚することでポーランド王国とリトアニア大公国をまとめた。ポーランド人とリトアニア人(両方とも西スラヴ民族)が一緒になって成立したヤゲロー朝は、15世紀にかけて栄えた。

(「ドイツ騎士団領」は大雑把に言うと、現在のポーランドのバルト海沿岸~バルト三国〔リトアニア・ラトビア・エストニア〕のあたり。その起源は、第3回十字軍の時代〔1190年〕に傷病者救護のためにパレスチナ北部の都市アッコンできた宗教騎士団で、13世紀にドイツ東方の地に移った。元々の「プロイセン」はこの地域のことで、ベルリンを中心とした「プロイセン王国」が成立するのは後のことである〔領地が併合されるのが1618年、「王国」になるのが1701年〕。ヤゲロー朝成立時のポーランド王国・リトアニア大公国は、ドイツ騎士団に阻まれてバルト海沿岸の領地を持っていなかった。また、当時のリトアニア大公国は、おおよそ現在のベラルーシと、東部を除くウクライナを合わせたくらいの範囲に拡がる大きな国であった。)

【日】ヤゲロー朝(1386-1572):日本では室町~安土桃山時代。王朝成立時は、室町前期で第3代将軍・足利義満(任1368-94)の時代。1572年に共和国となって、ヤゲロー朝は終わるが、このときは室町終盤、織田信長が活躍している時代である。

李氏朝鮮

1392 年:李氏朝鮮の成立。

いざ 国を  改めんとする  李成桂

 

14世紀、高麗(918-1392年)では親元派・親明派の対立が起こったが、親元派を決めた高麗政府に対して、親明派で武名のあった李成桂は1388年から政府に反対する行動を開始し1392年に禅譲の体裁を採って新国家・李氏朝鮮を建てた。都は開城(板門店に近い都市)からソウルへ移した。朝鮮王朝はそれまで仏教を保護したが、李氏朝鮮では中国の明王朝に倣って朱子学を国教として科挙制度に基づく官制を整えたり、田制を改めるなどの内政改革を進めた。日本の足利義満とも国交・通商をひらいた。15世紀のなかごろには、下層庶民向けの文字として「訓民正音」(ハングル)が作られた。16世紀末に起こった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役。1592-93,97-98年)は秀吉の死をもって終結したが、日本と、朝鮮+明の援軍が激突して全土が戦場と化した後、李朝は衰微に向かった。1637年には清からの圧迫を受けて、その属国になる。19世紀には欧米からの干渉を受けるようになり、20世紀初めの日韓併合まで王朝は続く。

【日】同じ1392年に、日本では足利義満の政治手腕により、南北朝が合一されている。足利3代将軍義満(任1368-94)は1394年に将軍を辞して出家したが、1408年の唐突な死去にいたるまで実権を強め続けた。

アンカラの戦い

1402 年:アンカラの戦い。

人知れず  アンカラ攻める  ティムール軍

 

14世紀後半(1370年)に、中央アジア​(サマルカンド)に起こって東西に勢力を拡げたティムール朝は、西方では小アジアにまで侵入し、1402年にアンカラでオスマントルコ軍を破った。ティムールの小アジア進軍の報を聞いたオスマン王バヤジット1世は、そのとき行っていたコンスタンティノープル包囲作戦を中断して急いで戻り、両軍がアンカラで激突したということなので、ティムール軍が人知れずアンカラに侵入したわけではない。しかしオスマントルコ軍の中で、ティムール側への寝返り勢力が出たことによってティムール側が有利になったとも言われているので、もしかすると知略の部分で「人知れず」攻めるところもあったかもしれない。オスマン軍は壊滅し、バヤジット1世は捕虜となって死んだ。

 その後、ティムール朝の方では、晩年のティムールが東方遠征を試みたが​(ティムールの意識としては単なる征服戦争ではなく、イスラム教徒として異教徒を制圧する"聖戦"であったようだ)、その途上にティムールは急病で死去(1405年)し、結局、永楽帝の中国(明)と衝突することはなかった。ティムールの死後、国は分裂し、1500年にトルコ系ウズベクに滅ぼされる。一方、オスマントルコの方はこの後、短期間で国力を回復し、15世紀なかばにビザンツ帝国を滅ぼして、強国になってゆく。

(「ず(づ)」を「2」と読ませるのは、かなり強引だけれども、「two(ツー)」を濁らせた音と見なして連想してください。)

【日】前年の1401年、足利義満は明に使者をおくり、日明貿易を始めている。

永楽帝

1402 年:永楽帝の即位。

☆ 靖難後  威信を ふたたび  永楽帝

 

明で洪武帝(朱元璋:位1368-98年)の死後、帝位を継いだ孫の建文帝は、親族諸王の力を警戒して削藩政策を強行した。建文帝の叔父にあたり、当時は燕王(北平〔北京〕に在って北辺を守っていた)であった朱棣(しゅてい。後の永楽帝。朱元璋の四男であった)も王位を剥奪されそうになったが、1399年に反旗をひるがえして政府軍と戦い、1402年に首都金陵(南京)を落とすと、永楽帝として帝位に就いた(~1424年)。この内乱は「靖難の変」と呼ばれるが、「靖難」は難をやすんじる(しずめる)という意味である(「靖」は「靖国神社」の「靖」)。即位の後、帝は都を北平(北京)に移した(北京・南京の呼称は、永楽19年〔1421年〕からのものである)。これはおそらく北方のタタール(東方)、オイラート(西北方)に対する防衛を考えてのことで、永楽帝自身が5回も北方遠征に出かけている。永楽帝は明の皇帝の威信を再び確固たるものにしようと、皇帝独裁体制を徹底し、積極的な外征を行った。宦官、鄭和(ていわ)に行わせた南海大遠征などはヨーロッパの大航海に半世紀ほど先んじている(1405年から28年間に7回の大遠征。東南アジア・インド・アラビア・アフリカ東岸にまで達した。鄭和は雲南省〔現在で言えば東南アジア北部付近〕に住んでいたイスラム教徒だったらしい)。また、永楽帝は「四書大全」「五経大全」などの大編纂事業も行わせている。

(「四書」は論語・孟子・大学・中庸。「五経」は易経・書経・詩経・春秋・礼記のこと。)

【日】足利義満は、前年の1401年に遣明使を派遣、彼らは明の国書を持って1402年に帰国した。これが日明貿易の始まりとなる。この年に靖難の変で即位した永楽帝も、重ねて再び日本に国書を送り、国交と通商の合意が確認された。

コンスタンツ公会議

1414 年:コンスタンツの公会議の開催。

☆ 収拾は  いよいよ困難  コンな時

 

コンスタンツの公会議は、1414年(~1418年)に神聖ローマ皇帝によって開催されたが、議題は教会大分裂(1378年~)の問題と、異端の問題であった。3分立していた教皇が廃され、新たなローマ教皇が任じられた。(もはや、教皇が強い指導力を持つような状況が再現する時代ではなかったけれども。)また、イギリスのウィクリフ(1320?-84年)が唱えた教義は異端と決定された。(生前のウィクリフは、教会の富と権威の蓄積につながるようなあらゆる考え方や慣行を批判していたようである。)当時ウィクリフの教義に共鳴してボヘミアで活動していたフス(1370?-1415年)は、会議に呼ばれて主張を撤回するように圧力を受けたが、これを拒み通して火刑に処せられた。一応は事態が収拾された形になったが、カトリックの体制はいよいよ本質的な収拾が困難な時代に入ってゆく。「コンな時」の「コン」はコンスタンツにひっかけてある。コンスタンツは現在のドイツ南端(スイス国境)の都市である。

(なお、フスを処刑したことは、事態の沈静化にはつながらず、むしろボヘミアにおけるフスの信奉者が皇帝に反抗して「フス戦争」〔1419-36〕を起こしている。皇帝と教皇はボヘミアに「十字軍」を差し向けたが、少なくとも初めのうちはフス派のほうが圧倒的に優勢だったようである。1436年に間に合わせのような和議が成立したが、フス派とカトリック派の対立関係はその後も続いた。)

​【日】室町幕府第4代将軍・足利義持(1394-1423)の時代。

後黎朝

1428 年:後黎朝の成立。

☆ 明朝の  意思に反して  後黎朝

 

ベトナム北部で1400年に陳朝が滅ぶと、その後、明の永楽帝(位1402-24)がここに支配の手を拡げたが、ベトナムは1428年に再び明を退けて独立し、後黎朝を建てた。中国の北宋初期のころに、ベトナムでは李朝の前に)30年ほど黎朝の時代があったので、このときの王朝は"後"黎朝なのだが、"後"を省いてこちらも黎朝と呼ぶ場合もある。15世紀後半には、南方のチャンパ-の主要部分を征服したが、16世紀には南北が分裂する形勢になり、勢力争いにより国力は振るわなくなる。それでも後黎朝は18世紀末まで続いた。

【日】後黎朝(1428-1789):日本では室町~安土桃山~江戸時代。建国時は室町中頃で、この年、農民による初めての大規模一揆である正長の土一揆が起こっている。この時、足利幕府は第5代将軍・義量が若くして1425年に病没してから将軍職が空位の状態であった。第6代・足利義教が将軍になるのは翌1429年である。阮氏に追われて後黎朝が終わるのは江戸後半、寛政の改革のころである。

ハプスブルク家世襲

1438 年:ハプスブルク家による神聖ローマ帝位の独占が始まる。

☆ 神聖の  一世(ひとよ)  見果てぬ  ハプスブルク

 

アルブレヒト2世が1438年に帝位に就いて以降、神聖ローマ皇帝は事実上、ハプスブルク家によって世襲化されるようになった。(ただしアルブレヒトは翌1439年に死去しており、ハプスブルク家による世襲体制を確立したのは、次に即位したアルブレヒトの又従弟のフリードリッヒ3世〔位1440-93〕と見るべきであるけれども。)ヨーロッパ世界におけるハプスブルク家の見果てぬ夢は、ここから現実へと向かうことになる。16世紀に入ると積極的な婚姻政策によって、さらに版図を大きく拡げていった。

 しかしその一方で、ハプスブルク治下の帝国内部では、多数の諸侯がそれぞれ封建的な力を持ち続ける状態が続いた。イギリスやフランスと違って、帝国全体の社会経済が発展して国内権力が集約されていくような方向には、なかなか向かわなかった。

【日】この年に「永享(えいきょう)の乱」。関東管領足利持氏が室町幕府に背いたために、第6代将軍・義教は持氏征討の命を出し、翌1439年に襲撃を受けた持氏は自害した。絶対権力を得ようとする義教の見果てぬ野望は、九州勢力も関東勢力も押さえ込むことで、ほぼ達成されかけたかに見えたが、3年後の1441年、有力大名の赤松満祐によって暗殺されてしまう。

土木の変

1449 年:土木の変。

人よ よく見よ! オイラの力(ちから)  土木にて

 

15世紀のなかごろには、モンゴルの一部族オイラートが勢力を拡げて(外モンゴル西部を拠点としたが、この頃は東のタタールを併合し、天山から遼東付近までを支配下に置くようになっていた)、とも関係が強まった。明がオイラートとの貿易を制限しようとすると、これが大きな痛手となったエセン(也先)の率いるオイラートは、明に対して進軍、明軍は敗北を重ねた。明の第6代​・正統帝(位1435-49)が親征の軍を進めて戦ったが敗北し、1449年に正統帝は河北の土木堡(北京の北西約160キロ)で捕虜になってしまった。これを「土木(どぼく)の変」と呼ぶ。ときに、タタール部がエセンに対抗する動勢を見せていたため、エセンは明と和平を急がざるをえず、正統帝は翌年帰還することができたけれども、「土木の変」はこの時期の明の外敵からの侵攻(北虜南倭)による衰えを象徴する事件である。「オイラ」は「俺ら」と「オイラート」をひっかけている。明の皇帝としてはこの年、正統帝の弟・景帝が立てられたが、1457年に景帝が病に倒れると再び正統帝が第8代として復位した。

​ エセンは1451年にタタールを下して全盛を迎えるが、その僅か3年後に部下に殺されている。エセンの死後、モンゴルの統一はなくなり、各勢力​(東のタタール、西のオイラート、その他)が明への侵入を繰り返した。

【日】この年、室町幕府​第8代将軍・足利義政(任1449-73)が就任。義政は政治に関心を持たない「文化人」であった。

ビザンツ滅亡

1453 年:ビザンツ帝国の滅亡。

☆ ビザンツが  瀕死 降参  オスマンに

 

オスマントルコ(1299-1922年)の成立時以降、ビザンツ帝国(395-1453年)はオスマンからの圧迫を受け続けていたが、オスマントルコの第7代メフメト2世は1453年に、そのときもはや孤島のように残っているに過ぎなかったコンスタンティノープルをついに陥落させた。1000年以上続いたビザンツ帝国が、オスマントルコに降参して、終焉を迎えたわけである。メフメト2世はこの地を「イスタンブール」とトルコ風に改称し、新首都として復興のために力を尽した。新宮殿や十余のイスラム大寺院を新営、聖ソフィア聖堂も帝国最大のモスクとして改装した。(メフメト自身、かなりの文化人でもあったようである。)コンスタンティノープルからは、東ローマ帝国にいた学者や芸術家が多数イタリアに避難し、ルネサンス期にあって文化的な影響ももたらしている。このビザンツ滅亡と同じ年に英仏百年戦争も終わっており、1453年という年は、ヨーロッパの「中世」の終わりを考える際のひとつの目安になっている。イスタンブールは以来オスマン帝国の首都として繁栄を極め、1923年までその中心であり続ける。

​(夏目漱石『吾輩は猫である』において、漱石自身をモデルにした苦沙弥先生が奥さんと口喧嘩をするシーンで「それだから貴様はオタンチン、パレオロガスだと云うんだ」という苦沙弥のセリフがある。「オタンチン、パレオロガス」というのはビザンツ帝国最後の皇帝「コンスタンチヌス=パレオロガス」​英語読みすると「コンスタンチン=パレオロガス」に近い発音になるらしい​。位1449-53と江戸言葉の「おたんちん」〔間抜けの意〕を掛けた駄洒落ということらしい。)

(「中世」は、だいたい西ローマ帝国の滅亡から、このビザンツ滅亡までということなのだが、5世紀~15世紀と千年ほどもあって、一括りにするとかえって解りにくい面もある。8-9世紀のカロリング・ルネサンス〔一応の封建制度定着・カール大帝による「ヨーロッパ」発足期〕と、11-12世紀の「12世紀ルネサンス」〔中世都市・交易の充実と文化基盤の発足〕を節目にして3区分で考えるのが解りやすいと思う。)

 オスマントルコは、元々は13世紀末、小アジア(アナトリア)に、東方起源のトルコ民族の国として建国されたわけだが、やがてビザンツを滅ぼして東欧地域に支配を拡げ、16世紀のスレイマン1世の時代には広く地中海の東側全体を支配を及ぼすようになったので、何となくヨーロッパに含まれるような、含まれないような・・・という位置づけになったようである。そのような微妙な感じは、20世紀にケマル=アタテュルクによる革命で(フランスを見習った)共和国になり、現代まで続くトルコにも続いていると言ってよいのかもしれない。ヨーロッパで近代音楽が確立してきた18世紀後半~19世紀初めにも、ウィーン古典派と見なされるモーツアルトやベートーベンが、「トルコ行進曲」と呼ばれる楽曲を作曲していて、当時のヨーロッパ人にとってもトルコは異国ではあるにしてもヨーロッパにとっての「文化圏内」だったのかもしれない。

【日】室町幕府​第8代将軍・足利義政(任1449-73)の時代。

バラ戦争

1455 年:バラ戦争が始まる。

30 年も  年越え 混乱  バラ騒動

 

英仏百年戦争(1339-1453年)の期間の途中で、イギリスのプランタジネット朝が絶え(1399年)、その分家のランカスター家が王家となったが、その後、やはりプランタジネット家の分家であったヨーク家との確執が生じ、英仏百年戦争終結の2年後の1455年に両家の間でバラ戦争が始まった。ランカスター家の徽章が赤バラ、ヨーク家の徽章が白バラであったことから、この名前で呼ばれる。1485年に両家間の婚姻成立により終息、テューダ朝が始まる。この内乱で、イギリスの諸侯・騎士はさらに没落し、イギリス絶対王政の成立へとつながってゆく。​(イギリスではバラ戦争によって特権を持つ旧貴族がほとんど絶滅したため、その後、下級貴族出身の地主・農業経営者である"郷紳"〔ジェントリ〕という階層が社会的に重要なものになってゆく。これはフランスにおいて革命が起こるまで貴族が特権を持つ"第二身分"として残り続ける状況とは対照的である。)

​この1455年、ドイツのマインツでは、グーテンベルクが初の印刷聖書である『グーテンベルク聖書』を完成させている。)

【日】バラ戦争の期間内、日本では応仁の乱が起こっている(1467-1477年)。これはいろいろな要素が混ざった動乱だが、第8代将軍・足利義政の後継問題がひとつの大きな原因であった。イギリスでは諸侯や騎士が没落して絶対王政が始まったわけだが、日本では室町幕府の権威が失われて、幕府に連なる守護大名が没落し、戦国大名による下克上の乱世が訪れることになる。

スペイン王国

1479 年:スペイン王国の成立。

☆ 喜びの  スペイン成立  一夜(ひとよ)泣く

 

イベリア半島におけるキリスト教徒は、8世紀以降、イスラム勢力の侵攻を受けて、半島北部へ追いやられていたが、11世紀から徐々に反撃が始まった。その主力となったのがカスティリャとアラゴンの2国である。イベリア半島中部カスティリャの王女イサベルと半島東部アラゴンの王子フェルナンドは、1469年に結婚していたが、​フェルナンドは1479年に父の死に伴いアラゴン王フェルナンド2世として即位、カスティリャ=アラゴン共同統治体制が確立したことから両国は統合され、ここにスペイン王国が誕生した。喜びの感きわまって、一夜、涙をながす人がいたかどうかは分からないが、国土回復運動(イスラム勢力のイベリア半島からの駆逐)の士気をともにする両国の統合を喜ばしく思った人もいたであろう。13年後、スペイン王国はナスル朝を滅ぼし、イベリア半島からイスラム勢力を完全に追い出すことになる。

【日】2年前の1477年に、それまで10年続いた応仁の乱がほぼ鎮まった。

イワン3

1480 年:モスクワ大公国が、モンゴルから独立。

☆ 独立し  意思は お強い  イワン3世

 

13世紀以降、ロシアはモンゴル(キプチャク=ハン国)の支配下にあったが、15世紀にはモスクワ大公国が台頭した。モスクワ大公国はイワン3世(位1462-1505)の下で1480年にモンゴルから独立し、更に諸公国の統合を進めた。イワン3世は、1453年にオスマントルコに滅ぼされたビザンツ帝国の後継者と自身を位置づけ、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、「ツァーリ」(皇帝)と自称し、(強い意志をもって)専制君主としての権力固めにつとめた。

テューダ朝

1485 年:ヘンリ7世即位。テューダ朝の始まり。

☆ ヘンリ7世  いい世は これから  テューダ朝

 

ランカスター家の系統に属していたヘンリは、ヨーク家の娘と結婚することでバラ戦争を終息させて、1485年にヘンリ7世として即位し、テューダ朝を創設した。(テューダ朝の存続期間は1485-1603年だが、大雑把に言えば16世紀の王朝。)彼は、星室庁裁判などで反対勢力を処罰し、王権を固めていった。テューダ朝は17世紀初めまで続くが、イギリスの絶対王政を象徴する王朝になってゆく。王室にとって「いい世」というニュアンスになろうか。

(戦乱が終わって強い国王が現れた、という単純な捉え方は、どうも適切ではないようである。イギリスでは百年戦争からバラ戦争の時期に、たとえば議会制度が徐々に発達した。二院制の形が明確になり、下院からの立法も可能となり、経済活動に携わる下級貴族〔ジェントリ、すなわち"郷紳"〕が下院で影響力を持ち始める。そうなると、国全体の経済活動と国政が〔大貴族を除いた形で〕いろいろな形で関係を持ち始める。こういう事情を背景として、これと連動する形でイギリスの王権は、いちはやく絶対主義を実現してゆくことになる。これに対してフランスでは、大貴族が強い力を持つ時代がまだ続いたせいで、国全体としての経済発展が遅れ、それと並行して発達すべき絶対主義の出現もやや遅れた。)

(ここでは「いい」→1と読み取ってもらいたい。)

【日】テューダ朝(1485-1603):日本では室町~安土桃山時代である。ヘンリ7世即位のときは室町後半で、この年、山城の国一揆が起こっている。応仁の乱以後、南山城では畠山氏が2派に別れて争っていたが、その山城氏の軍を国人たちが国外に退去させることに成功した。その後の8年間、この地では国人たちによる自治が行われた。この時期、室町幕府による社会体制は崩れてしまっていた。テューダ朝がエリザベス1世の死去をもって終わる1603年は、徳川幕府開設の年である。

ナスル朝滅亡

1492 年:ナスル朝滅亡。(国土回復運動の完結)

意思の国  ナスル攻略  スペイン国

 

スペイン王国1492年にグラナダを落とし、ナスル朝を滅ぼした。スペインはキリスト教徒による国土回復に強い決意で臨んできた国であり、一方のナスル朝も、ヨーロッパにおけるイスラム教徒の最後の拠点として、強固な意志を持ってイベリア半島に残存した国であった。グラナダにあるアルハンブラ宮殿は、ナスル朝が残したものである。スペインのイサベル女王の援助を受けたコロンブスによる新大陸発見(というか、実情はサン=サルバドル島をはじめとする「西"インド"諸島」発見)も同年のことである。(当時は先にイスラム勢力から自由になっていたポルトガルが海洋進出に関して先行しており、イサベル女王も海洋進出〔コロンブス提案〕に元々関心があったのだが、ようやく「グラナダ問題」が済んだタイミングで女王が援助を決断したということらしい。ちなみにコロンブスはこの1回めの探検の際にタバコを持ち帰っており、以後、ヨーロッパに喫煙の風習が広まった。)大局的に見て、このあたりから、キリスト教世界の西欧人が主導する「世界史」が動き始める。

 スペインの国土回復運動(レコンキスタ)は、キリスト教を信奉するヨーロッパ人の視点から何となく肯定的なニュアンスで語られることが多いわけだが、公平に見てどうなのだろう? 中世においてイベリアの地に、ヨーロッパよりも進んだ繁栄をもたらしてきたイスラム教徒たちの文化・文明を、徹底的な略奪によって破壊した行為にも見えなくないわけだけれども。

(2年後の1494年に、スペインとポルトガルの間で海外領土に関する「トルデシリャス条約」が結ばれる。当時は経度のグリニッジ規準などないわけだが、現在の言い方で表現すればこれは西経46度37分の子午線を境に、東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することを定めたもの。実際の決め方はアフリカ最西端のヴェルデ岬から西に370レグアの所を境界とする、ということだったようだ〔レグアは当時スペイン・ポルトガルで使われた距離の単位で1レグア≒5km〕。たぶん条約締結時点では大西洋のちょうど"中央"付近に境界を設けて、ポルトガルはアフリカ・アジア大陸、スペインはコロンブスが発見した"新大陸"という区分の意図だったのだろうが、1500年にポルトガル人のカブラルがブラジルを発見、これが南米大陸の一部であり、境界の子午線よりも西に突き出た部分であることが判明したので、結果的に新大陸でも南米のブラジルだけはポルトガル領となった。カブラルはポルトガル王室からインド探索を命じられていたのだが、元々喜望峰回りのインド航路を目指したところ途中で大西洋を漂流してしまい偶然ブラジルに到達したのか、元々西方航路で新大陸を経由もしくは迂回してインド到達するつもりだったのが途中でブラジルに行き当たったのか、はっきり分からないようである。カブラルは当初、この地を大きな島だと考えていたらしい。)

【日】この前年の1491年、京都から下った牢人、北条早雲が伊豆の堀越公方を滅ぼした。早雲は、いわば「最初の戦国大名」と見なされる存在である。

イタリア戦争広義

1494 年:(広義の)イタリア戦争の始まり。

☆ シャルル8世  意欲 示した  イタリア戦[争]

 

ナポリは13世紀からフランス・アンジュー家の支配を受けたが、15世紀なかばにシチリア(イベリア半島のアラゴン王国が、13世紀後半から支配を及ぼしていた)に併合されていた。フランスのシャルル8世は、ナポリ奪還の意欲を示し、1494年にイタリア遠征を始めた。シャルルは、一旦はナポリを占領するが、神聖ローマ皇帝(マクシミリアン1世)、教皇、ベネチアなどが同盟して対抗したため、1498年に撤退した(この1494-98の期間を「第一次イタリア戦争」と呼ぶ場合がある)。この後16世紀の半ばまで、イタリアを巡ってフランス(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)が頻繁に争った。これらを一括してイタリア戦争と呼ぶ。一連のイタリア戦争を、諸侯の個別分権性が強い封建制度に支えられた中世ヨーロッパが終わり、中央集権化した主権国家の競合の時代へと移り変わる予兆と捉える見方もある。

 ところで、当時のイタリアは小さい都市国家や小君主国の分立状態を背景にしたルネサンスの時代だったが、イタリア人は初めてフランス軍のような大規模に統制された軍を目の当たりにすることになり、これが"自由人"や"市民都市"レベルでは獲得できない大きな力の存在を認識する契機になったようである。こういう事情から人文主義ルネサンスとは異質のマキャヴェリ『君主論』(1532)のような思想も出てくるようになるわけで、1494年を「イタリア近代の始まり」と見なす場合もあるようだ。

(ウィキペディアの記事では「イタリア戦争」の異称として「ハプスブルク・ヴァロワ戦争」や「ルネサンス戦争」という呼称も紹介されており、上述の事情に照らして分かりやすい感じがする。但し、これらの異称が学術的に〝公認〟されていると言えるのかどうか、私には判断できないけれども。)

 なお、この1494年にはスペインとポルトガルの海外領土に関する条約「トルデシリャス条約」が成立している。この時期、ヨーロッパ大陸内部だけを見ている国々と、ヨーロッパ最西部にあって主に海外世界を見ているスペイン・ポルトガルとの対照が興味深い。

【日】イタリア戦争の時代(15世紀末~16世紀半ば)、日本は室町幕府が衰え、各地の新たな地方勢力が争った戦国時代である。後に下克上戦国大名の典型とされることになる美濃の斎藤道三の生年は、通説としてはこの年であったことになっている。(しかし1504年説もあり、はっきりしない。)

バスコダガマ

1498 年:バスコ=ダ=ガマ、インドのカリカットに到達。(インド航路の発見)

☆ ガマさんの  意欲は立派  カリカット

 

ポルトガルではエンリケ航海王子(1394-1460年)が1420年頃から航海・探検を強力に奨励しはじめ、主にアフリカ西岸へ次々に船団を派遣した。探検は次第に西岸南方におよび、1488年にはバーソロミュー=ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達した。そしてその10年後の1498年、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマは、喜望峰を越えてアフリカ東岸に回り、そこでアラブ人の水先案内人を雇ってインド洋を渡り、インドのカリカットまで到達した。「インド航路の発見」である。カリカットはインド半島西岸の比較的南端に近いところにある。(当時、長期航海に従事する船員たちの多くは壊血病に苦しんだ。これはビタミンCの不足が原因なのだが、もちろん当時はそんな栄養学の知識はなかったし、船上で供される食物の種類も限られていた。バスコ=ダ=ガマの下でインド航路探検に従事した船員の3分の2が壊血病で死亡したのだそうだ。)

(「西方」に関してはスペインの支援を受けたコロンブスが1492年にサン=サルバドル島をはじめとする「西"インド"諸島」に到達した後、あと3回航海を重ね、1502年の最後の航海では現在のコスタリカとパナマを探検した〔しかしコロンブス自身は最後まで新大陸とは思わなかった〕。他方、1500年にはポルトガル人のカブラルがブラジルに到達。1513年にはスペイン人バルボア​がパナマ地峡を横断して太平洋に達している。)

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