納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(1501~1600年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1501 年:サファヴィー朝の成立。
☆ イランとして 以後 邁進だ サファヴィー朝
イランの地は、7世紀にササン朝(226-651年)が滅んで以降、長らく異民族の支配下にあったが、1501年に神秘主義教団の長であるシャー=イスマイル1世によってサファヴィー朝が建てられた。(「シャー」はペルシャ語で「帝王」の意味。「スルタン」でないところが、イラン人としてのこだわりなのだろう。)アゼルバイジャン出身のイスマイルは、弱体化して既に滅びかけていたティムール朝(1370-1500年)の領土を併合したのである。(当初の首都はアゼルバイジャン地方のダブリーズ。但し1555年、1598年に遷都が行なわれる。)サファヴィー朝ではイラン国民国家として、民族意識の高揚が図られた。また、西側に接するオスマントルコ(スンナ派)に対抗して、シーア派が国教として定められた。イランは現在に至るまで、シーア派国家である。(日本人は、ともするとイスラム教がアラブ人だけの宗教だと錯覚しがちであるが、中世中期以降、イラン人〔ペルシャ人〕もトルコ人もエジプト人も主にムスリムである。)サファヴィー朝は18世紀まで(~1736年)続くことになるが、アッバース1世(位1588-1629)の治世において最盛期を迎える。
(「マ」→「マル」→「〇」という連想で、「邁進〔まいしん〕」の「ま」をゼロと読み取る。)
【日】サファヴィー朝(1501-1736):日本では室町~安土桃山~江戸時代。
● 1510 年:ポルトガルがゴアを占領、総督府を設ける。
☆ ゴア抑え 以後 充実の ポルトガル
15世紀末にインド航路を見出したポルトガルは、1510年にゴア(インド亜大陸西岸中部。カリカットより北)を占領して総督府を置いた。ここを東アジア貿易の拠点とすることで、ポルトガルは最も充実した時期を迎えることになる。この後ポルトガルは、東南アジアのマラッカやモルッカ諸島も占領し、さらに中国のマカオにも進出する。モルッカ諸島(ニューギニアの西)は、クローブなどの香辛料の産地で、そもそもの大航海の目的地という意味合いがある。アジアの特産物の中継貿易で栄えたポルトガルのリスボンは、16世紀前半、世界商業の中心であった。
(別の話だが、この1510年、オランダ出身の人文学者エラスムスの『痴愚神礼讃』が、パリで出版され大変な評判となっている。エラスムスはこの前年に、親交のあったイギリスの政治家・思想家トマス=モアの別荘で、この作品を書き上げた。エラスムスは神学者でもあったわけだが、この小著で貴族や聖職者・法学などの権威者を徹底的に皮肉っているのだそうだ。"人文学者"エラスムスの基調には、硬直した偏狭なスコラ学への批判があるようである。)
● 1517 年:ルターの宗教改革が始まる。
☆ ルター以後 一難かかえる カトリック
教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂建設の資金調達のために、1515年に免罪符を売り出した。ウィッテンベルク大学教授(ウィッテンベルクはライプチヒの北60キロほど)のルターが、これを批判して1517年に九十五ヶ条の論題を発表すると(ルターには広範な政治運動を始める意図はなく、単に神学的な学術公開論争を当時の常套的な論争形式でやろうとしただけのようなのだが)、これはドイツ国内で広範に読まれて強い影響を及ぼすことになり、多くの修道僧・諸侯・市民・農民がルターの教皇批判を徐々に支持し始めた。神聖ローマ皇帝カール5世(位1519-56)は、ウォルムス国会(1521年)にルターを召喚し、ルターに自説の取り消しを求めて事態の収拾をはかった。(1414年のコンスタンツ公会議の召喚に応じたボヘミアのフスが火刑に処せられた例を考えると、召喚に応じること自体、かなり危険なことであったはずだが)召喚に応じたルターはこれを毅然として拒否した。皇帝はルターの公民権剥奪・著作頒布の禁止といった勅令を出したが、人民の圧倒的なルター支持の下で勅令は有名無実、ルターは彼を支持するザクセン選帝侯に保護されて活動を続けた。ルターが手がけた新約聖書のドイツ語訳は、民衆をも含むドイツ全体に大きな影響を与えることになった。(つまり15世紀に開発され普及した印刷技術が、宗教改革の背景要因として極めて重要だったわけである。)ルターの改革運動は、ミュンツァーやカルヴィンにも影響を及ぼし、カトリックの権威はゆらいでゆくことになる。
(レオ10世〔位1513-21〕はメディチ家の出身で、贅沢のために湯水のように金を使う人物であったらしい。免罪符によって「問題を起こした教皇」ではあるが、一方ではローマにおける文化・芸術の最大の庇護者だったという面もある。1521年に急死したが、死因ははっきりしていない。「毒殺説」もあるのだそうだ。)
(エラスムスはルターの具体的な主張を明確に支持することはなく、1524年にはどちらかというと広い意味でのカトリック容認のようにも取れる見解を著して、ルターと対立するような形にもなった。もしかすると鋭い対立関係を誘発すべきでない、したくないというのがエラスムスの本音であったかもしれない。それでも、当時全ヨーロッパの人文主義者を代表するような立場にあったエラスムスは、何らかの見解を表明しないわけにもいかなかったということではなかったかと思う。教皇自身や皇帝や、教会との関係を保持したい勢力は、協調関係を回復させるために是が非でもエラスムスを味方につけたかったわけである。)
【日】この年、武田信虎と今川氏親が和睦をむすび、今川氏は甲斐からから撤退した。
● 1517 年:オスマントルコ、マムルーク朝を征服、メッカを得る。
☆ メッカ得て 以後 柔軟に 権威 継ぐ
オスマントルコ(1299-1922年)は15世紀半ばにビザンツ帝国を併せて以降、東方(サファヴィー朝ペルシャ〔1501-1736年〕)や、南方(シリア・エジプト・アラビア――つまりマムルーク朝〔1250-1517年〕方面)へも大きく勢力を拡大してゆき、1517年にマムルーク朝を征服した。これによって、オスマンは紅海沿岸を獲得することになり、聖地メッカやメディナの保護権も得た。このときアッバース朝の子孫からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制(スルタンが同時にカリフであり、政治権力と宗教的権威を併せ持つ。ビザンツ帝国の皇帝教皇主義と似ていなくもない)が始まったと見なされる。しかしオスマントルコのスルタンがカリフを公称するようになるのは18世紀であって、柔軟というか曖昧というか、そういう面もある。
【日】この年、武田信虎と今川氏親が和睦をむすび、今川氏は甲斐からから撤退した。
● 1520 年:スレイマン1世の即位。
☆ 一向に 終わらぬ栄華 スレイマン
オスマントルコ(1299-1922年)で、1520年にスレイマン1世が即位した。以後、1566年に没するまで彼が在位した46年間が、オスマントルコ帝国の黄金時代である。彼の治下で、イラク、北アフリカ、ハンガリーに支配を拡げ、オスマンは3大陸にまたがる大帝国となった。オスマン帝国は世界の東西交通・交易を完全に支配できる地位に立ったわけである。また、スレイマンはプレヴェザの海戦(1538年)でスペイン艦隊を破り、地中海の制海権をも得た。(ウィーン攻略に失敗したこと〔1529年〕がただひとつ惜しまれる点だろうか。)20以上の民族を含む広大な領土を治めるために、大法典を整備し、帝国内の行政組織も整えた。文化の面でも、スレイマン1世の時代がオスマン帝国の最盛期である。オスマントルコが衰え始めるのは、17世紀末ごろからである。
(「スレイマン」は、「ソロモン」のトルコ語読みである。マホメット以前のキリスト教・ユダヤ教の預言者も、イスラム教徒にとって預言者であって、ソロモンが出てきても不思議ではない。「スレイマン」は現在も、わりあいポピュラーな男子の名前であるらしい。)
● 1521 年 :(狭義の)イタリア戦争が始まる。
☆ 一向に 引導わたせぬ イタリア戦[争]
15世紀末からのフランス(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)の間のイタリアをめぐる反目は、16世紀に入っても続いた。イタリア北部の都市ミラノは、1515年にフランスのフランソワ1世(位1515-47)が侵攻して支配していたが、神聖ローマ皇帝カール5世(位1519-56)は、教皇レオ10世と結んでミラノ奪還を企てた。カールは1521年にミラノ攻略を開始、1525年にパヴィアの戦いで奪還に成功した。フランソワ1世は、一旦、捕虜となり、条約を結んで釈放されるが(1526年)、釈放後ただちに条約を撤回し、再び反撃を始める。(この1521-26年の期間を「第三次イタリア戦争」と呼ぶ場合がある。)その後もイタリアをめぐるフランスと神聖ローマ帝国の抗争は、カールが退位する頃まで繰り返された。
(フランソワ1世は、芸術に造詣の深い王としても知られ、晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチをイタリアからフランスに招いた〔1516年〕。また、彼がルーブル城を美術品を収容する宮殿に改築する作業を始めたことが、ルーブル美術館の起源となった。)
● 1522 年:マゼラン船隊の一隻が、世界一周を成し遂げる。
☆ マゼラン以後 普通になった 世界の旅
マゼランはポルトガル人の航海士であるが、ポルトガル宮廷を離れて(処遇に不満であったらしい)スペインに行き、西回り航海のための艦隊を任されることになる。彼に艦隊を預けることを決めたのは、スペイン王としてのカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)であった。1519年に5隻で出帆。マゼラン自身は途中フィリピンで現地人に殺されているが、船隊の一隻は西航を続け、1522年にスペインに帰港、初の世界一周をなし遂げた。「フィリピン」の地名は後から付けれたものだが、カルロスの息子フェリペ(2世)に因んだ命名である。フィリピンは19世紀末までスペインが領有することになる。スペインにとってやがてマニラはアジア貿易の拠点となった。
【日】翌1523年に寧波の乱が起こった。これは堺商人とむすんだ細川氏と博多商人とむすんだ大内氏が貿易の主導権をめぐり中国の寧波(ニンポー)で衝突した事件。大内氏が勝って、貿易を独占することになる。
● 1524 年:ドイツ農民戦争が始まる。
☆ ミュンツァーは 以後 不用として 処刑され
ミュンツァーは、最初はルターを信奉する神学者(宣教師)のようであったが、農民などの下層労働者を重視して社会主義的・急進的な性向を持つようになり、既存権力に妥協する部分もある穏健派のルターに対しても批判的になっていった。(ルターの問題意識は元々、宗教的な"神と人の内面的関係性"に限定されていたわけで、ルターの思想と活動は階級闘争とか社会革命にまで繋がる性質のものではなかった。ルターにとって、教皇派は"論敵"であっても、政治家であるところの諸侯は"敵"ではなかったし、この時代には諸侯の方にも、教皇の権威を疎ましく思うという意味合いでの親ルター派が存在した。ミュンツァーなどの大農民戦争を主導した人々の思想と行動は、ルターのそれと相通じるものではなかったわけである。)1524年に農奴制の廃止などを訴える農民反乱が起こって拡がりを見せ始めると、ミュンツァーはチューリンゲン地方(中部ドイツ)の反乱を指導、激しい抗争を展開した。しかしルター(反乱農民を「殺人強盗団」と呼んだ)に徹底した制圧を勧告された諸侯の軍によって、翌1525年に反乱は鎮圧され、ミュンツァーは処刑された。体制側の諸侯にしてみれば、過激思想を持つ扇動者など不要だということだったのだろう。
【日】前年の1523年、寧波の乱。
● 1526 年:ムガル帝国の成立。
☆ ムガルにて 遺言に 昔の ことを書き
ティムール朝崩壊(1500年)の後、ティムールの直系の子孫であったバーブルは、ティムール帝国の復興を志した。しかしウズベクによって中央アジアを追われ、アフガニスタンからインドへ移って、デリー=スルタン朝末期の混乱の制圧に成功し、1526年にデリーでムガル帝国を開いた。(火砲の威力によってインドの大軍を退けることができたようである。)しかし彼は即位してわずか4年で世を去っている。バーブルは文人としても優れており、回想録『バーブル・ナーマ』を書いているが、この回想録は自分の遺言だという意図も少しはあったかもしれない。第2代フマーユーンは、一時デリーを追われるなど混乱をもたらしており、国内体制の確立は、バーブルの孫にあたる第3代アクバルに委ねられることになる。
(「ムガル」は「モンゴル」が訛ったものらしい。チムールはチンギス=ハンの継承者を自認していたわけだし、その直系の子孫だとなれば、「モンゴル帝国」ということになるのであろう。)
【日】ムガル帝国(1526-1858):日本では室町~安土桃山~江戸時代。帝国成立時は、室町後半で、この年、武田信虎が富士北麓の梨の木平で北条氏綱勢を破っている。ムガル帝国は1858年にイギリスに併合されて消滅するが、このとき日本は幕末の時期。日米修好条約が結ばれ、安政の大獄があった。
● 1529 年:オスマントルコによるウィーン包囲(第1次)
☆ オスマンの 一行 肉薄 ウィーンに
スレイマン1世は(位1520-66)は、オスマントルコの版図を大きく拡げたが、フランスのフランソワ1世(位1515-47)と結んで、カール5世(位1519-56)治下の神聖ローマ帝国にも圧力をかけた。オスマントルコは1526年に既にハンガリーに侵攻していたが、敗れたはずのハプスブルク家のフェルディナント(カール5世の弟)もハンガリー王を名乗ったことに対して制裁を加えるため、という意図でウィーン攻撃を始めたものらしい。1529年にはスレイマンの軍がウィーンを取り囲み、2箇月にわたる包囲戦を行った。オーストリア軍の果敢な抗戦(フェルディナントが防衛に当たった)によって、ウィーンの陥落には至らなかったが、オスマントルコはヨーロッパ諸国にとって、大きな脅威として認識されるようになった。
● 1533 年:イワン4世の即位。
☆ イワン4世 以後 燦々の 大公国
モスクワ大公国では、1533年に、イワン3世の孫にあたるイワン4世が即位した。(ただし即位の時点ではわずか3歳。つまり幼少時に父を亡くしているわけで、不幸な少年時代を送ったらしい。このことが彼の性格異常の一因になったかもしれない。)1547年に16歳で公式に「ツァーリ(皇帝)」として戴冠し(後々ロシアが「帝政」なのは、ここに起因する)、その2年後くらいから本格的な親政を始めた。ギリシャ正教の首長も兼ね、専制体制の強化に努めた。ロシア初の身分制議会を召集するなど(1549年)開明的な部分もあったのだが、残虐・苛烈な性格で知られ、皇帝に反対する大貴族を"撲滅"する専制的恐怖政治を行った。(イワン3世の「大帝」に対して「雷帝」とも呼ばれる。テロ部隊をつくって数多くのテロも仕掛けている。ソ連のスターリンは政敵から「20世紀のイワン雷帝」と呼ばれたことがあるらしい。)1584年に雷帝が没した後、しばらく内紛の時期があるけれども、イワン4世によって、モスクワ大公国からロマノフ朝ロシア(1613-1917)に至るまでの、燦然と輝く専制絶対帝政の礎が築かれたと見ることもできる。
【日】織田信長(1534-82)はイワン4世(1530-84)とほぼ同時代人である。聡明でありながら激烈な性格や、専制的な改革への志向など、両者に共通する面も少なくないかもしれない。
● 1533 年:インカ帝国がピサロによって滅ぼされる。
☆ インカ帝国 ピサロに潰され 以後 散々!
スペインのピサロは、1533年に南米(ペルー)のインカ帝国を滅ぼした。これに先立ち、1519~21年にはスペインのコルテスが中米(メキシコ)のアステカ帝国を征服している。この後、スペインは中南米を支配下に置くことで(銀の産出などにより)繁栄の時代に入ってゆくが、スペイン人の現地人に対する過酷な支配は、露骨な白人至上主義による大々的な悲劇の最初の実例と言えるかもしれない。(歴史学者の故・会田雄次は、この頃ヨーロッパ諸国に先駆けて世界進出に乗り出したスペイン・ポルトガル両国の人々を「悪魔の使徒」と表現している。)
ペルーやメキシコは、およそ300年間、スペインの"副王領"という扱いになった。前者は「ペルー副王領」(1542-1824年)、後者は「ニュー・スペイン副王領」(1519-1821年)。(ブラジルを除く南米大陸の他地域もスペインが抑え、副王領はあと2つ設けられた。)18世紀に北米にもやや類似した白人による開拓・植民の進展や産業の発展があり、また、アメリカ合衆国の独立(1783年)などに刺激を受けて、19世紀前半に(ナポレオンがスペイン・ポルトガルに干渉したためこれらの中南米植民地への統制が緩んだという事情もあり)中南米のクリオーリョ(現地生まれの白人)によるヨーロッパ本国からの独立運動が起こり、白人支配国としての独立を果たすことになる。
● 1534 年:首長令の発布。イギリス国教会の成立。
☆ 首長令で 以後 さようなら カトリック
イギリスのヘンリ8世(位1509-47)は、元々は(兄が死去したため)兄の嫁としてスペイン王室から来たキャサリンと結婚していたが、王妃の侍女ブーリンと関係を持ち、キャサリンとの離婚を望んだ(キャサリンに男児出産を期待できなくなってきていたという事情もある。ヘンリは後継の男児を得ることにこだわり続けた)。しかし教皇はキリスト教の教義を根拠に、これを認めなかった。本当は離婚(婚姻の無効化)は不可能ではなかったはずであるが、教皇としては、スペイン王室に気をつかったということであろうか?(当時イタリア戦争で教皇は皇帝カール5世と結んでおり、ハプスブルク家に気を遣わねばならなかったということかもしれない。)離婚を望むヘンリはローマ・カトリックからの離脱を図り、1534年に首長令を発してイギリス国教会を発足させ、自らその首長になることを宣言した。当時のイギリス国民、特に中産市民層には反ローマ・反教会権力の気運があって(教会・修道院の蓄財は反感を持たれていた)、議会はこれを支持したようである。(宰相であったトマス=モアは、元々はヘンリ8世から厚い信頼を受けていた人物なのだが、首長令に反対したために反逆罪で刑死している。)国教会は、儀式などは旧教的な部分を多く残しているが、ヘンリの次のエドワード6世のときに(王自身は若年〔即位時9歳、15歳で病没〕だったので、おそらくプロテスタントであった摂政の意向で)国教会の教義にルター派やカルヴィン派の要素も取り入れられることになる。
(マーク・トゥエインの『王子と乞食』の主人公は、王子時代のエドワード6世という設定になっている。エドワードが容姿のそっくりな乞食トム・キャンティと入れ替わって・・・という話。もちろんフィクションですが。)
【日】この年、織田信長が生まれている。
● 1534 年:イエズス会の発足。
☆ 旧弊を 以後 刷新する イエズス会
16世紀はローマ・カトリックを批判する宗教改革運動が盛んになった時代であるが、カトリック内部でもカトリックを刷新しようとする動きが起こった。スペイン("異教排斥"の伝統の地であり新教の影響は少なかった)出身のイグナティウス=ロヨラは1534年、パリ滞在中に熱烈な同志たちを集めてイエズス会を創設し(教皇による承認は1540年)、カトリックの振興につとめた。発足時は10名ほどにすぎなかったが、最盛期(1624年)には1万6千人を上回ったという。イエズス会は、上長への絶対服従という厳格な軍隊的統制の下に組織され、南欧でのカトリックの残存・維持と、新大陸やアジアへの布教推進に大きな役割を果たした。戦国時代の日本に来たザビエルも、ロヨラの同志である。(ザビエルは1549年に鹿児島に来訪、2年ほど日本国内に滞在して布教を行った。)
【日】2年後の1536年に天文法華の乱。京都の日蓮宗信者による法華一揆が延暦寺と確執を生じ、延暦寺側が日蓮宗徒に総攻撃を仕掛けた。日蓮宗徒は一時京都を追われた。室町時代、日蓮宗は強力な布教活動で、東国から西日本へ、武士から公家や都市商工業者へと勢力を広めていた。
● 1538 年:プレヴェザの海戦。
☆ プレヴェザで 一行 見晴らす 地中海
16世紀の初め、地中海の制海権は、西側はスペインが握り、東側はオスマントルコが勢力範囲を拡大しつつある状態にあったようである。これに対してスペイン(カルロス1世=神聖ローマ皇帝カール5世)・ベネチア・教皇を中心とするキリスト教勢力は、連合艦隊を結成してオスマン帝国艦隊に打撃を加えようとした。しかし1538年にプレヴェザ(ギリシャ西岸の都市)に近づいた連合艦隊は、オスマントルコ(スレイマン1世)の艦隊から攻撃を受けて撤退した(プレヴェザの海戦)。大帝国オスマントルコは、全地中海の制海権をも手に入れた。
【日】前年の1537年、豊臣秀吉が生まれている。
● 1541 年:カルヴィンが宗教改革運動を始める。
☆ カルヴィンが 以後 良い教え ジュネーヴで
スイスは15世紀末ごろにハプスブルク家による支配からの独立を事実上達成していた地域であり、他のドイツ諸邦に比べて諸侯や教会に対する市民の主体性が比較的高く、自由・自立の気風が強かった。ドイツのルターにわずかに遅れて、スイスではチューリッヒ中央協会のツヴィングリが宗教改革の先駆的な活動を始めた。(ツヴィングリはルターの著述に強い影響を受けていた。しかし後には聖餐の礼典に関する〔門外漢には本質的とも思えない〕論争でルターと対立し、大同団結は成らなかった。内実、ツヴィングリの"政治的急進性"を、政治面では保守的で既存権力との協調傾向もあるルター派は受け入れ難かったようだ。)ツヴィングリの政治的活動によりスイス内では新教派・旧教派それぞれの諸州同盟間で戦争が起こるに至り、ツヴィングリは1531年に戦死する。
一方、この頃、フランスでは狭義のルター主義だけでなく広範に穏和な福音主義者までに激しい弾圧が及んでおり、1534年に24歳のカルヴィンはスイスへ国外亡命、1536年にはバーゼルで『キリスト教綱要』を出版し、大反響を呼んだ。その後、いろいろな経緯を経て、カルヴィンは1541年にジュネーブで旧教派や土地の旧家勢力に抗しながら本格的な宗教改革運動を始めることになる。彼は新教の立場からの教会規律の確立と、国家に対する教会優位の達成を目指し、司教制を廃して信徒代表による"長老"制度を設け、信徒に厳しい規律生活を求めて過剰なまでの風紀取締りも推し進めた。(ルターは教皇の権威・権力を退けようとはしても既存の政治的権威を否定する意図はなかったが、カルヴィンの志向はこれと違って既存の政治的権威に対して多分に"政治改革的"だったわけである。)
"カルヴィン派"では、福音重視・予定説の副産物として「神に救われるように予め定められた人間は禁欲的に天命(である職業)を務めて成功する人間のはずである」と考えられるようになり(禁欲的な信仰生活を前提としつつ)勤勉な職業労働による営利活動も是認された。したがって彼の思想は(既得権を持つ諸侯よりも)市民階級に受け入れられやすいものであり、その後、スイスからフランス・イングランド・スコットランドやオランダにも拡がっていった。フランスのユグノー戦争(1562年~)、オランダの独立戦争(1568年~)などには、彼の宗教改革運動が影響を及ぼしている。
【日】2年後の1543年、種子島に鉄砲伝来。
● 1545 年:トリエント公会議の開催。
☆ トリエント 以後 汚れ無し カトリック
ルターに始まる宗教改革運動の対応に追われた神聖ローマ皇帝カール5世(位1519-56)は、反宗教改革運動を意図して、1545年からトリエント(北イタリアの都市)で教皇とともに公会議を始めた(~1563年)。ここでは、カトリック内部の粛正、教皇の権威、宗教裁判の励行の方針などが確認され、新教に対抗していく方針が打ち出された。カトリックの権威を、以後、汚れのないものにしようとしたわけだが、カトリックと新教との対立は続いてゆくことになる。
(ちなみに、この2年後の1547年、カール5世といろいろ利害関係のあったフランスのフランソワ1世と、イギリスのヘンリ8世が死去している。オスマントルコのスレイマン1世は1566年まで生きた。)
【日】2年後の1547年、織田信秀(信長の父)が稲葉山城攻めを仕掛けたが、斎藤道三は籠城戦で徹底反撃を行って(加納口の戦い)結局、両者は和睦。1548年には道三が娘(濃姫)を信長に嫁がせた。
● 1555 年:アウグスブルクの和議。
☆ アウグスブルクで 一顧 後考 各諸侯
神聖ローマ帝国において、ルターを支持する側についた諸侯は、カトリックを支持する皇帝側の諸侯の圧力に対抗して、シュマルカルデン同盟を結び(1531年結成)、武力でも対立(シュマルカルデン戦争:1546-47年)した。(シュマルカルデンは中部ドイツの町。)このような状況を収拾するために、皇帝カール5世は1555年に、アウグスブルク(ドイツ南部の都市)で開催した帝国議会において、カトリック派諸侯とプロテスタント諸侯の間の和議を成立させた。この和議で、各諸侯は、自分の領内で採用する宗派をカトリックかルター派のどちらかに選べることになった。ただしこれは、おそらく純粋な宗教上の教義の問題というより、政治的確執もからむ問題だったので、諸侯が改めて一顧したり、後考したりという場面もあったかもしれない。
(「一顧(いっこ)」は、ちょっと考えること、「後考(こうこう)」は、あとからよく考えること。)
【日】このころ、武田信玄と上杉謙信の間で、川中島の戦いが行われている。第1次合戦が1553年、第2次合戦が1555年、第3次合戦が1557年、第4次合戦が1561年。
● 1556 年:カール5世の退位。ハプスブルクがスペインとオーストリアに分割。
☆ 引退し 以後 固陋になる カール5世
神聖ローマ皇帝カール5世(即位1519年)は、ルターの宗教改革運動による混乱に対応し(トリエント公会議、アウグスブルクの和議)、オスマントルコからの脅威(ウィーン包囲)に対峙し、フランスとイタリア戦争を戦うなど激務をこなし続けたが、1556年に引退した(56歳)。そのとき、ハプスブルク家を2つに割り、オーストリア側および皇位を、弟フェルディナンドに、スペイン側(オランダを含む)を息子フェリペに譲った。カール5世は、最後の実質的な神聖ローマ皇帝と言ってよいかも知れない。引退後は政治に関心を持たず、悠々とも固陋とも言える隠居生活を送ったようである(1558年没)。
(「固陋(ころう)」は、古い考えにこだわり、新しい物事を受け入れない様子のこと。)
【日】長良川の戦いで、斎藤道三が息子の義龍に敗れて戦士している。死の直前、道三は信長に、美濃を譲るという書状を送っていたらしい。
● 1556 年:フェリペ2世の即位。
☆ フェリペ2世 一期 航路を つきすすむ
カール5世は退位するときに、ハプスブルク家をスペイン系とオーストリア系に割ったが、スペイン・ハプスブルクを継承して1556年に28歳でスペイン王位に就いたのが、カールの息子フェリペ2世である。フェリペの下、スペインは海洋進出と世界商業・植民地経営で最盛期を迎えた。(フェリペ2世自身が「航路をつきすす」んだわけではないが、比喩表現としてこのようにした。)1580年にポルトガルを併合した後は、「太陽の沈まぬ国」とも言われた。スペインの擁する艦隊は「無敵艦隊」と呼ばれたが、しかしフェリペ在位中の1588年にイギリスに無敵艦隊が破られてから、スペインは、次第に世界的覇権を失ってゆくことになる。
【日】フェリペ2世の在位期間1556-1598年は、日本の織豊時代〔桶狭間の戦い1560年~秀吉死去1598年〕にだいたい重なる。フェリペは直接に日本への干渉は行わなかったが、秀吉との間で贈り物をやり取りしており、秀吉と同じ年に没している。
● 1556 年:アクバル帝の即位。
☆ ムガル国 以後 功労の アクバル帝
スペインのフェリペ2世即位と同年の1556年に、インドのムガル帝国では、第3代アクバルが帝位に就いている(~1605年。但し即位時は13歳)。ムガル帝国国内の中央集権体制の構築を行ったのはアクバルなので、彼を実質的な建国者と見ることもできる。帝国の版図は、ガンジス・インダス川を含む北インドと、中部インドの大部分を含む広範な地域に及んだ。ムガル帝国はイスラム王朝国家であるが、アクバルはヒンドゥー教徒(ラージプート族)との融和政策を進めた。アクバル自身、ヒンドゥー教徒の王妃をめとっているし、ヒンドゥー教徒に対する差別待遇(巡礼税・人頭税など)を廃止した。また、デリーより南のアグラに新首都を築いた。
【日】アクバル帝在位1556-1605年は、日本の織豊時代〔桶狭間の戦い1560年~秀吉死去1598年・江戸幕府成立1603年〕に、だいたい重なる。1556年、美濃の斎藤道三と、その嫡男・義龍の間で「長良川の戦い」が起こっている。道三が敗れて死去。
● 1559 年:統一令の発令。
☆ エリザベス 以後 国民に 統一令
イギリスではヘンリ8世が国教会を設け(1534年)、次の息子エドワード6世(位1547-53。母親は第3王妃ジェーン=シーモア)の治下では国教会が継承されたが、その次のメアリ1世(位1553-58。エドワードの腹違いの姉。母親はスペイン王室出身の第1王妃キャサリン。この母后から戦闘的カトリック精神を受け継いだ)は旧教を復活させた。メアリは国教徒や新教徒を過酷に迫害したので"ブラッディ―・メアリ"(血なまぐさいメアリ)と呼ばれる。メアリの病没をうけて1558年に即位したエリザベス1世(メアリの腹違いの妹。母親は第2王妃アン=ブーリン)は、翌1559年に統一令を発して国教会を再興させた。(国教会内では狂信的な宗派対立を極力抑制する調整的施策が採られた。国教から反教皇的な部分を除くと同時に、新教同士の部分でも〔カルヴィン的vsルター的思想などの〕宗派対立が起こりにくい穏健な体制作りが行われたようである。)イギリスではこれ以降、旧教やカルヴィン派も重要な体制外勢力として存在するにしても、国教会が主要なキリスト教組織として続いてゆく。また、エリザベス1世の治世(位1558-1603)においてイギリスは広範な制海権を獲得し、毛織物産業と世界貿易を発展させ、イギリス絶対主義の全盛期がここに訪れることになる。
【日】エリザベス1世の在位期間1558-1603年は、日本の織豊時代〔桶狭間の戦い1560年~秀吉死去1598年・江戸幕府成立1603年〕にだいたい重なる。
● 1562 年:ユグノー戦争が始まる。
☆ いつ頃に 収拾できるか ユグノー戦[争]
フランスで、新教徒(ユグノー)と旧教徒の対立によって1562年に始まったユグノー戦争は、30年以上にわたって続く内乱となった(1598年のナントの勅令にて終結)。単純な宗教対立ではなく、シャルル9世の母后カトリーヌ=ド=メディシスが、政治的に謀って招いた対立だという見方もあるようである。この騒乱の最後の時期に、シャルル9世の次のアンリ3世が暗殺され(1589年)、ヴァロワ朝は断絶した。そして、この長い騒乱の間、新教側の首領として実力を示し続け、血筋の関係から次の王位に就くことになったのが、ブルボン家のアンリ4世である。ヴァロワ朝は百年戦争に始まり、イタリア戦争を経て、ユグノー戦争で終わるのである。
(モンテーニュが『随想録』を執筆していたのは、ユグノー戦争の期間である。この期間に、彼はシャルル9世の非常勤侍従になったり、即位前のアンリ4世の侍従になったりもしている。)
(ここでは例外的に「いつ」を1に対応させている。「い」+「つ」は、本サイトでは原則的に12に対応させるべきところあるが、御容赦いただきたい。)
【日】ユグノー戦争の期間である1562-1598年は、日本の織豊時代〔桶狭間の戦い1560年~秀吉死去1598年〕にだいたい重なる。フランスはブルボン家の絶対王政が成立する前の混乱期、日本は徳川家の長期政権が成立する前の混乱期であった。1562年に織田信長と徳川家康は清洲同盟をむすんでいる。
● 1571 年:レパントの海戦。
☆ 敗れても 以後ない不都合 レパント戦
オスマントルコは、1538年のプレヴェザの海戦の勝利以降、地中海の覇権を得ていたが、1571年にスペインに、レパントの海戦で敗れている。スペインの強盛の象徴とされる海戦ではあるが、敗れたオスマントルコのほうが一挙に地中海を失ったというわけでもなかった。17世紀末まで、オスマントルコの船は地中海を自由に航行した。
(レパントの海戦には、当時24歳でスペイン海軍に所属していたセルバンテスが従軍して戦っている〔被弾して左手の自由を失ったらしい〕。彼は軍人としては、かなり不本意で悲惨な経験を重ねたようで、そういうことが、後に『ドン・キホーテ』のような皮肉に満ちた風刺小説を書く動機につながったのかもしれない。『ドン・キホーテ』初版は1605年、彼が58歳のときに出版された。続編は1616年。)
【日】織田信長が活躍している時代。桶狭間の戦い1560年~本能寺の変1582年。1571年はそのちょうど半ばで、比叡山の焼き討ちを行っている。
● 1572 年:張居正の改革が始まる。
☆ 張居正 行こう 難事の 立て直し
明では、第3代・永楽帝の治世(位1402-24)の後、第5代・宣徳帝(位1425-35)のころまでは安定した政治が行われたが、その後から徐々に国内政治が乱れ、また北虜南倭からの攻勢も強まり、次の世紀にかけて長く衰退が続いた。(第10代・弘治帝〔位1487-1505〕のような名君もあったが暗愚な皇帝も輩出した。)しかし1572年の第14代・万暦帝即位(即位時は10歳の幼帝である。~1620年)の際に宰相となった張居正は、そこから10年間にわたり政治の立て直しに手腕を振るった。大規模な土地の丈量と戸口調査を行って地主勢力を抑えて財政を立て直し(耕地の登録面積は3割増加した)モンゴルとの和平を結ぶなどして軍費を削減した。一条鞭法(銀による一括納税の制度。田賦なり用役なりの複雑の項目の組合わせをひとまとめの銀納にして、徴税を簡素化したわけである)が全土に広まったのも彼が宰相の時代である。彼の改革は成果を上げたが、彼が病没(1582年)すると反対派が勢力を得て、国情は旧に復した。(気が弱く優柔不断な万暦帝は張居正の方針を継ぐことができず、死後の張居正は諡号も官位も剥奪され家産も没収となった。万暦帝自身の奢侈やあいつぐ内乱外患は再び財政危機を招いた。)明の世は、この後ますます混乱を深めてゆき、17世紀半ばに反乱軍に滅ぼされることになる。
【日】翌1573年、織田信長が足利義昭を追放し室町幕府が終わる。改革が終わる張居正の没年(1582年)は本能寺の変の年。豊臣秀吉による2回の朝鮮出兵(文禄の役:1592-93年、慶長の役1597-98年)は、万暦20-21年および25-26年にあたる。明は朝鮮に援軍を送ったため、莫大な戦費を消耗し、明の財政は大きく傾くことになる。
● 1580 年:ポルトガルがスペインに併合される。
☆ 併合で 以後は まるまる スペイン国
ポルトガルでは、1580年に王統が絶えたため、スペインのフェリペ2世は継承権にもとづいてポルトガルを併合した。両者の併合は1640年まで続く。それ以前、スペインは主として新大陸に、ポルトガルはアジアに植民地を拡げていたが、両者がすべてスペイン一国のものという形になったわけである。この時代のスペインを指す「太陽の沈まぬ国」という呼称は、いつでも地球の昼間側に植民地がある、という意味合いである。
【日】1970年に浄土真宗本願寺勢力と織田信長の争いとして始まった石山合戦が1580年に終結している。本願寺側が屈服する形で和睦がなされ、畿内が平定された。本能寺の変の2年前である。
● 1581 年:ネーデルラントがスペインに対して独立を宣言。
☆ ネーデルラント 以後は 一国 独立宣言
カール5世が退位の際にハプスブルク家を割ったとき、ネーデルラントはスペイン側に分けられた。ネーデルラント北部はカルヴィン派の新教徒が多かったが、スペイン王フェリペ2世は筋金入りの旧教徒であり、ネーデルラントの新教徒を迫害、自治権を奪おうとした。ネーデルラント諸州はオレンジ公ウィリアムを立てて反乱を起こした(1568年)。旧教徒が比較的多い南部10州(ベルギー地方)は降伏したが、北部7州は、ユトレヒト同盟を組んで抗戦を続け、1581年に「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言した。(前年、ポルトガルを併合したスペインが、リスボンへのオランダ船舶の出入りを禁止したという事情もあった。それまでリスボンはオランダ海上交易の中心拠点であった。)1609年の休戦を持って、事実上の独立となる。
(オランダ〔ネーデルラント〕とベルギーは、第二次大戦後には"ベネルクス"といった結びつきもあり、何となく近隣の似たような地域なのかと錯覚しがちであるが、宗教・言語・文化・経済すべてにおいて性格が異なるらしい。宗教は上述のようにオランダは新教、ベルギーは旧教が主体だし、言語・文化的にはオランダはドイツ〔ゲルマン〕寄り、ベルギーはフランス〔ラテン〕寄りのようだ〔ベルギーの中でも北部・南部で違いがあるらしいが〕。経済的歴史としては、オランダにはあまり大きな国内産業がなくて仲介商業で栄えたわけだし、ベルギーは中世末期からの毛織物など工業がある。後のウィーン体制下では大国の思惑で両者が無理に統合されために強い確執が生じ、七月革命の影響を受けたベルギーはオランダから"独立"した〔1830年〕。)
(独立戦争の間、周辺諸国からの干渉・援助も絶えずあったが、特に独立を助ける力になったのはイギリス〔エリザベス女王〕の援助であった。当時のイギリスは「太陽の沈まぬ国」スペインに対抗して優位に立つことが国益に適ったわけである。1588年、イギリスがスペイン無敵艦隊を破っていることも、このような観点から間接的にオランダ独立戦争にも影響があったであろう。)
【日】1581年は織田信長の統一事業終盤の時期。翌1582年に本能寺の変。
● 1588 年:スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れる。
☆ イギリスに負け 以後 やばくなる 無敵艦隊
スペイン王室から嫁いできた母キャサリンの影響下で育ったイギリス女王メアリ1世(位1553-58)は旧教徒であったので、彼女はイギリスで一旦、国教会を廃し、旧教を復活させていた。そしてメアリはスペインの即位前のフェリペ2世(従兄弟にあたる)と、1554年に結婚している。(これはイギリスを旧教勢力・ハプスブルク勢力に組み入れたい皇帝カール5世の意向だったろう。)しかしメアリの後に即位したメアリの腹違いの妹エリザベス1世(位1558-1603)は、統一令を出してイギリス国教会を復活させた(1559年)。筋金入りの旧教徒であるフェリペは、このようなイギリスの非旧教化の動向に対して干渉を試み続けたが、1588年に武力による解決を考え、スペインの無敵艦隊を派遣した。しかしこの艦隊はイギリスに敗れてしまい、これ以降スペインは衰えてゆくことになる。この海戦のことを「アルマダの海戦」と称する場合があるようだが、これはスペインの無敵艦隊が、 the Invincible Armada と呼ばれることによっている。「アルマダの海戦」は「艦隊の海戦」ということであって、ちょっと不自然な呼称だとも思われる。
【日】豊臣秀吉の時代。1585年に関白、1586年に太政大臣になった。この年1588年には刀狩令を出している。
● 1588 年:アッバース1世の即位。
☆ シャー=アッバース 行こう やっぱり イスファハン
イランのサファヴィー朝(1501-1736年)では、1588年にアッバース1世(シャー=アッバース)が即位し、最盛期を迎えることになった(~1629)。アッバース1世は、国内の軍制を改革し、西に接するオスマントルコと戦って領土を回復した。外交的には、オランダ・イギリス・フランスなどとも友好関係を結び、イギリス東インド会社の協力を得て、ホルムズ島(ペルシャ湾の"出口"のあたりにある小島)からポルトガル勢力を排除したりもしている。また、イスファハン(現在のテヘランの南340キロほど)に壮麗な新都を造営し(1598年)、その威光を示した。サファヴィー朝は18世紀にアフガン人に滅ぼされる。
【日】シャー=アッバース(位1588-1629):即位のころ、日本は豊臣秀吉の時代。1585年に関白、1586年に太政大臣になった。この年1588年には刀狩令を出している。死去したころは、江戸時代で、第3代・徳川家光(任1623-51)の治世。
● 1589 年:アンリ4世の即位。ブルボン朝の始まり。
☆ ヴァロワ絶え 以後 躍進の ブルボン家
フランスのヴァロワ朝最後の王、アンリ3世は、ユグノー戦争(1562-98年)の後半の時期に暗殺された(1589年8月2日)。アンリ3世は当然ながら旧教徒であったわけだが、新教徒との妥協を望んでいたため、熱狂的な旧教派の修道僧に殺されたのである。(ヴァロア朝の存続期間は、1328-1589年。大雑把に言えば14・15・16世紀の王朝であった。日本で言えばだいたい室町~安土桃山時代。)アンリ3世には嗣子がなく、ユグノー戦争で新教側の首領として力を示したブルボン家のアンリが、直ちにアンリ4世として王位を継ぐことになりここにブルボン朝が始まる。(血統上はそれが正当な措置であったし、ヴァロアのアンリ3世とブルボンのアンリは幼少期からの友人だった。)しかしこの時点で、国民の多数は"新教の"アンリ4世を認めようとはしなかったし、まだユグノー戦争は続いているという複雑な状況である。(やがてフランスは、ブルボン王朝の下で絶対王政が打ち立てられて躍進してゆくことになるのだが。)
【日】ブルボン朝(1589-1830〔仏〕):日本では安土桃山~江戸時代。アンリ即位の翌年の1590年に、豊臣秀吉は小田原征伐と奥州平定をなし、国内の統一を完成させている。フランスにおけるブルボン王朝が(中断ではなく最終的に)絶えるのは1830年。日本は江戸時代後期、第11代将軍・徳川家斉による「大御所時代」である。
● 1598 年:ナントの勅令。(ユグノー戦争終結)
☆ ブルボン家 以後 悔やまずや ナントの令
フランスで王位についたアンリ4世(位1589-1610)は、ユグノー戦争では新教側の首領であったが、騒乱の収拾を図るために、自らは旧教に改宗して(1593年)旧教徒勢力に対する懐柔を図り、これは成功した。しかし新教徒勢力は、改宗したアンリ4世に反感を持ち、依然として旧教を敵視した。このことへの対策として、アンリ4世は1598年にナントの勅令を出し、新教徒にも旧教徒と同様に信仰の自由を認め、同等の市民権を与えることとした。この"休戦条件"としてのナントの勅令をもって、ユグノー戦争は終結したものと見なされる。以後、フランス王家としてのブルボン家は、一貫してカトリック派ということになるが、それを悔やむことはなったようである。むしろ新教嫌いが高じたのだろうか、ルイ14世のときには、ナントの令を廃止することになる(1685年)。
アンリ4世は1610年、狂信的な"旧教徒"によって暗殺されたが、これはユグノー戦争中から繰り返されたこの種の暗殺の最後のものだったかもしれない。
【日】1598年に豊臣秀吉が死去。数えで62歳。(同年死去したスペインのフェリペ2世は満71。)
● 1600 年:エリザベス1世、東インド会社を創設。
☆ エリザベス 異論を 抑えて インド進出
イギリスは、スペインの無敵艦隊を破って、広範な制海権を獲得し、盛んに貿易に乗り出すことになる。エリザベス1世(位1558-1603)は、アジア貿易の拠点として、1600年に東インド会社を設立した。異論があったかどうかは分からないが、エリザベスはアジア貿易を、この会社に独占させた。最初はジャワ島のバンタムを根拠地としたが、当時の東南アジアはオランダの力が強かったので、会社は次第にボンベイ(インド中部西岸)やマドラス(インド南部東岸)に拠点をつくり、インド経営とインド支配を強化するようになってゆく。なお、オランダの東インド会社(ジャワ島のバタヴィアを拠点とする)も1602年に設立されている。フランスの東インド会社は(1604年にアンリ4世の勅許状が出ているという話もあるが、これははっきりしたものではないようで)これらに遅れて1664年に財務長官コルベールが設立している。
(どうして単なる「インド会社」ではなくて「"東"インド会社」なのか?これはヨーロッパ人たちが、アメリカ大陸発見後の一定の時期、アメリカのほうを「西インド」と呼び、元々のインドを「東インド」と呼んでいたことの名残りであるらしい。こう考えると、中米の東方にある諸島がどうして「西インド諸島」なのかも解りやすいわけで、これはおそらく「"西インド"付近にある諸島」という意味ですね。そして上述のようにジャワ島などにも「東インド会社」の拠点が置かれていることを見ると、当時のヨーロッパ人の意識においては、東南アジアのいわゆる「東インド諸島」までもが、東インド"付近"の島々と見なされていたようですね。)
(オーストラリア大陸〔の一部〕は1606年に、オランダ人とスペイン人によって、それぞれ独立に発見されたらしい。一時期、オーストラリア(西部と南部)は「新オランダ」と呼ばれていたが、オランダ東インド会社は貿易上の利益がないと判断して放棄したのだそうだ。その後、18世紀後半に大陸の東側からイギリスによる入植が始まる。)
【日】1600年に関ケ原の戦い、1603年に江戸幕府成立。日本で江戸時代が始まろうというころに、英・蘭の東洋貿易の拠点が相次いで設立されたわけである。
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