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納得して覚えるための

世界史年代☆ゴロ合わせ(1851~1900年)

 

                                          by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

太平天国の乱

1851 年:太平天国の“建国”。

☆ 太平の  世づくりをする  人は 来い

 

清では、アヘン戦争以降、戦費と巨額賠償金の拠出が銀価の高騰を招き、民衆の不満が高まっていた。客家の出である洪秀全(こうしゅうぜん)は、上帝会というキリスト教を取り入れた宗教結社をつくって、不満を持つ多くの農民を信者として集め、1850年に広西省(現在の広西チワン族自治区。中国最南部で広東省の西)で"滅満興漢"のスローガンを掲げて蜂起した。(洪秀全は"天啓"によって、自分はエホバの次男でイエスの弟であると信じていたようだ。彼の主張によれば、神〔天父〕を崇めて祈れば生きている間も死後も天国を経験できるはずで、その生きている間の天国を「太平天国」と呼ぶのだそうだ。その主張によれば神の前にすべての人は貧富の差なく平等〔身分差は厳格にあったようだが〕、土地も万物も神のものであって私有財産などありえない。)翌1851年、洪秀全は、自らの"国"を「太平天国」と号し、太平軍を北上させた。そして1853年3月には南京を占領して首都"天京"とした。洪秀全は更に北征・西征を続け、国内で土地の均分や文化改革を試みたりした。太平軍に対して、清側の官軍は腐敗していて役に立たなかったが、清の政治家・曽国藩(母の死により湖南に帰郷中)が組織した農民義勇軍(郷勇。曽国藩の部下、李鴻章も郷勇軍を組織した)や、これに協力するイギリス人(太平軍は上海に迫っていた。アヘン戦争後の南京条約で、上海はイギリスに開港しているわけである)の部隊などから攻撃を受けて、1864年、太平天国は13年で滅んだ(洪秀全は南京城内で自殺)。乱は収まったが、この乱によって清朝の無力弱体ぶりが露呈することになり、漢人官僚の進出につながった。彼らは西欧文化を取り入れた富国強兵を進める「洋務運動」を推進し(1860年代-90年代)、清朝を一時的な安定に導いた(「同治の中興」と呼ばれる。同治年間は1862-74年)。曽国藩や李鴻章が乱の鎮圧過程において、ヨーロッパの軍隊の優秀さを目の当たりにしたことは、おそらく「強兵」の部分の強い動機付けにつながったのだろう。

​【日】第12代将軍・徳川家慶(183753)。老中・阿部正弘。

第二帝政

1852 年:フランスで第二帝政が始まる。ルイ=ナポレオンが帝位に就く。

☆ 投票で  人は 公認  第二帝政

 

1848年、フランスの二月革命で成立した臨時政府(共和主義〔ブルジョア派〕と社会主義〔労働者・プロレタリア派〕が内部対立)では、同年4月に行われた選挙の結果、社会主義者が勢力を失った。これは社会主義が農民の支持を得られなかったためであるが(農民は土地を失うことを恐れた)、政府はむしろ保守派・秩序派に傾き、民衆の支持を失っていった。12月に大統領選挙が行われると、ナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが当選した。ルイは政府・議会が人気を失う状況を見極めると、1851年12月にクーデターを決行して独裁権を握った。​そして1852年に、彼は皇帝信任の国民投票を実施して、その結果を受けてナポレオン3世として帝位に就いた(12月)。この経緯はいささか不可解にも見えるが、結局この時点では、ブルジョア派もプロレタリアート派も強力な旗印となり得ていなかったということであろうし、素朴な国民感情としてフランス革命-ナポレオン戦争期のような「国威発揚」を望む気分が意外に強かったのかもしれないわずか4年でのフランス第二共和政の終焉、そして第二帝政の始まりである(~1870年)。

(ナポレオン"2世"っていたのか?――ナポレオン最後の「100日天下」がワーテルローの戦いで終わって退位を余儀なくされた直後の2週間ほど、ナポレオンの嫡男〔4歳〕が皇帝だという扱いになっていたようで、これがナポレオン2世なのだそうだ。在位期間1815年6月22日~7月7日。)

(作家のヴィクトル=ユーゴー〔1802-85年〕は政治家として活動していた時期もある。1848年の大統領選挙ではルイ=ナポレオンを支持したが、ルイが独裁化すると強力な反対者となり、ルイによる反対派弾圧の対象とされてしまう。そのためユーゴーは1851年から19年間、ベルギー、英領ジャージー島、ガーンジー島と亡命生活を送り、1870年に普仏戦争においてナポレオン3世が失脚した後にフランスに帰国した。『レ・ミゼラブル』は1862年にガーンジー島において完成した作品である。)

【日】第12代将軍・徳川家慶(183753)。老中・阿部正弘。

クリミア戦争

1853 年:クリミア戦争が始まる。

一番の  誤算は英仏  クリミア戦[争]

 

南下政策を推進したいロシアは、エジプト=トルコ戦争(183140年)でトルコを支援したが、加担したトルコ側が勝ったにもかかわらず、イギリスの外交政策のためにロシアとして有利な成果を上げられなかった。今度は聖地管理権問題(フランスが管理権を得ていた)で、トルコ領内のキリスト教徒保護を口実として、トルコと開戦した(ロシアがトルコに圧力をかけたため、トルコがロシアに宣戦。1853年11月)。すると今度はイギリスとフランス​(ナポレオン3世)がトルコと結び(エジプト=トルコ戦争のときと入れ替わっている)、クリミア半島での攻防でロシアは敗れてしまう。1856年3月のパリ条約をもって、クリミア戦争は終結した。英仏の本格的な参戦は、ロシアとして誤算であったかも知れない。ロシアのニコライ1世は戦争中の1855年3月に死去しているが、戦局の見通しに絶望して自殺したのではないかという説もあるのだそうだ。

(この戦争のとき、イギリスから来て負傷兵看護にあたったのが、後に英国で看護婦学校を設け、赤十字運動を提唱することになるナイチンゲールである。)

(ここでは「一番」→18と読み取る。)

【日】1853年は、ペリー来航の年である。(アメリカは、クリミア戦争で露・英・仏に余力がない時期を選んで、日本に接触してきたということかもしれない。)時の将軍は12代徳川家慶(いえよし)だったが、ペリー来航時には病床にあり、同年没した。主力の老中・阿部正弘。翌1854年、日米和親条約、および日英・日露和親条約。(将軍は13代・家定。)

アロー戦争

1856 年:アロー号事件。(アロー戦争)

☆ アロー号  一派 ごろつき  捕えられ

 

アヘン戦争後、清の対英交易体制はある程度まで変わったが、外交窓口が北京でなく広州にあって中央政府と方針の矛盾が生じたり、また更なる開港や徴税制度の改善などを促したいとのイギリス側の思惑もあり、イギリスは再度、武力による干渉の機会をうかがうようになる。1856年に広州でイギリス船籍を称するアロー号の船員数名が、清の官憲に海賊容疑で(ごろつき?として)逮捕されるという事件が起こると、イギリスはこれを口実にアロー戦争を起こした。同年、広西省でフランス人宣教師が殺害されていたフランス(ナポレオン3世)も、イギリスからの呼びかけに応じて共同出兵した。清の官憲による船員逮捕は実は全く正当であって、イギリスの言いがかりであったようだが、清は開戦を防ぐことができなかった。

(最初、イギリスは乗組員の釈放を清に要求したのだが、船長以外の乗組員は中国人であったし、アロー号は実質的にはイギリス船の"ふり"をした中国の海賊船であって、本当はイギリスは取り締まってもらったことを感謝してもいいくらいのものだったかもしれない。)

​【日】第13代将軍・徳川家定(185358)。主力の老中・阿部正弘。

セポイの乱

1857 年:セポイの乱(シパーヒーの乱)が起こる。

☆ セポイの乱  インドの人は  御難です

 

18世紀後半、七年戦争の際にイギリスはインドにおいてフランスを退け、インド支配を進めていった。イギリス本国で産業革命が進むと、インドの手織り綿織物産業は立ち行かなくなり、インドはイギリス支配下の原料・作物供給地兼製品市場への転落を余儀なくされて、伝統的村落社会は崩壊した。(そういう経済的事情だけでなく、イギリス人がインド人〔ヒンドゥー・イスラム〕の文化をまるで理解しようとしていなかったということも大きいと思うけれども)このことから、インド人の各階層にイギリスへの反感が蔓延するようになる。1857年、東インド会社の傭兵(セポイ)が反乱を始めると、反乱はインド全域にまで波及した。しかし反乱は組織だったものではなかったので、東インド会社は翌年にはこの反乱の鎮圧に成功し、ムガル皇帝を廃止した。(イギリスは、インドの旧支配者層を手なずける一方で、かなり残酷な無差別虐殺を行ったようである。)これでムガル帝国は終焉を迎え、同時に東インド会社も解散されて、イギリス政府によるインド全土の統治が始まる。但しインド全体が直ちに一様な方法で統治されたというわけではなく、直接支配の行われる「イギリス領地域」と、イギリスに従属的な各地の土着王侯が残された「藩王国地域」が併存したわけであるが。

​【日】この年、老中・阿部正弘が死去。第13代将軍・徳川家定(185358)。

アイグン

1858 年:アイグン条約。

☆ 清の人は  拒めぬアイグン  ムラヴィヨフ

 

ロシアは東欧地域でも南下を画策していたが、エジプト=トルコ戦争(1831-40年)後ダーダネルス=ボスフォラス海峡​(つまりエーゲ海・黒海間の海上交通)は封鎖され、クリミア戦争(1853-56年)に負けて近東への進出が閉ざされたので、特に極東方面に食指を伸ばすことになった。1847年からムラヴィヨフがシベリア総督になっており、彼は黒竜江下流に進出して、1850年には河口に都市を築いていた。しかし一方、清は、太平天国の乱アロー戦争によって、1950年代には自国の体制を維持するのも難しい状況になっており、ムラヴィヨフはそれに乗じて1858年に、黒竜江までをロシア領と認めさせる「アイグン条約」を清と結んだ。17世紀末のネルチンスク条約のときに比べて、領土境界をかなり南へ押し下げたことになる。さらに1860年にロシアは、北京条約において沿海州(北海道の"対岸"あたり一帯)を得る。1861年にウラジオストクに港湾が築かれた。

【日】1858年に井伊直弼が大老となり、(南紀派が、慶喜を推す一橋派を抑えて)徳川家茂が第14代将軍に就いた。井伊直弼は日米修好通商条約に調印したが、これが勅許を得ずに行ったものだったので、強い批判を受けた。しかし井伊は強硬姿勢を貫き、反対派の公家・大名・志士たちを多数処罰した(安政の大獄)。

イタリア統一戦争

1859 年:イタリア統一戦争が始まる。

☆ サルディニアの  人は 御苦労  統一戦[争]

 

青年イタリアのローマ共和国が即座にフランスに潰された後も、イタリア統一への動きは続いた。サルディニア王ヴィットリオ=エマヌエレ2世​(サルディニア王としては位1849-61。当時のサルディニア王国は、イタリア半島北西ピエモンテ州のあたりとサルディニア島を併せた領土を持ち、トリノが首都)に首相に任じられたカヴール(任1852-61)は、リミア戦争に参加するなどして、サルディニアの国際的な威信を高めるように努めた。そして、ウィーン体制から続くオーストリアによる北イタリア支配地を奪還するために、フランスのナポレオン3世と秘密同盟(1858年7月)を結び、1859年に4月にフランス軍との同盟軍を形成して、ロンバルディアのピエモンテ国境に派遣されていたオーストリア軍に対して侵攻した。これが統一戦争の開戦である。しかし、本心ではイタリア統一を望まないフランスが、裏切ってすぐに手を引いたため、このときはロンバルディアを得ただけであった。(トスカナ・パルマ・モデナの3公国はサルディニア王国へ併合、ロマーニャの地も王国領となった。)しかし翌年も統一への動きは進んでゆき、2年後にはイタリア王国が成立することになる。

​【日】1859年、横浜・長崎・箱館3港で貿易が始まる。大老・井伊直弼。第14代将軍・徳川家茂(185866)。

北京条約

1860 年:北京条約の締結。

☆ 列国の  人は 陋劣(ろうれつ)  北京条約

 

アロー戦争は、1858年の天津条約で終わったかに見えたが、条約批准交換のために北京に来たイギリスとフランスの公使を清の兵が砲撃し、英仏はこれを口実に北京を占領した。これに対して、ロシアが調停に乗り出す形で、1860年に北京条約が結ばれた。清の賠償支払い、天津など11港の新たな開港、公使の北京駐在のほか、イギリスに九竜市街の割譲、ロシアに沿海州を割譲など、まさに英仏露の列国の利益のための条約であった。(「陋劣」は、利益のために手段を選ばず、ひんしゅくを買うような様子のこと。)

 中国は元々、中華思想によって自国との「対等国」などという概念はなく、政府にも「朝貢」に対応する部署はあっても「外交」を行う部署はなかった。しかしここまで来ると、さすがに「対等国」の存在を認めざるを得ないということになり、翌1861年には外務省にあたる「総理衙門(そうりがもん)」が設置された。総理衙門は清朝の進歩派官僚による「洋務運動」(清朝による西洋文化を取り入れた近代化・威信回復の運動。1860年代-90年代)の中心となり、ようやく​中国政府も世界の現実に目を向け始めることになる。

(ちなみに、この前年の1859年、イギリスでダーウィンの『種の起源』が出版されている。人間が〔神が作りたもうたものではなく〕下等生物からの進化の産物だとする進化論はなかなか受入れられず、激しい論争を巻き起こした。当時のヨーロッパの白人たちの意識においてはまだ、もしかすると白人以外の動物は「人間」とは別に作られた下等動物であって、自分たちが有色人種と同根であるということも、自分たちが猿と同根であるということと同じくらい受入れがたい概念であったのかもしれない。)

【日】1860年に桜田門外の変。大老・井伊直弼の強硬な開国策の推進と反対派の弾圧に憤った水戸脱藩の志士たちが、井伊直弼を暗殺した。第14代将軍・徳川家茂(185866)。

イタリア王国

1861 年:イタリア王国の成立。

いばろう  イタリア王国成立  エマヌエレ

 

1859年にサルディニア王ヴィットリオ=エマヌエレ2世とその宰相カヴールが始めたイタリア統一戦争は、最初フランスの裏切りによって出ばなをくじかれた形になったが、統一への動きは進められた。その翌年、中部イタリアを併合、また青年イタリア​党のガリヴァルディが、1860年にナポリ=シチリア王国を抑えてヴィットリオへ献上したので、1861年3月にはベネチア(オーストリア領)と教皇領を除くイタリア王国が成立した。宰相カヴールは、イタリア王国首相就任のわずか3か月後に死去している。ヴィットリオ=エマヌエレ2世はイタリア王となって1878年まで君臨した。(カヴールは、ヴィットリオが直接戦争の指揮をするのを妨げたりしたので、ヴィットリオは感情的にはカヴールを憎んでいたようである。​かといって、内外に信頼の厚いカヴールを退けることはできなかったけれども。カヴールは政争としてはマッツィーニやガリバルディにも勝ち続けたので、この両者からも憎まれていたらしい。)その後、1866年(普墺戦争の際)にベネチアも併合、1870年に教皇領も占領したが、教皇庁とは対立が続いた。またトリエステ・南チロルなどはオーストリア領として残り、この「未回収のイタリア」の問題は第一次世界大戦のときまで続いた。(第一次大戦の際、元々は同盟国側であったはずのイタリアは、オーストリアへの反発からイギリスに接近、領土拡張を条件に協定を結び、連合国〔協商国〕側で参戦した。戦後のヴェルサイユ条約の内容はイタリアにとってはなはだ不満なものではあったけれども、「未回収のイタリア」の回収には成功した。)

【日】第14代将軍・徳川家茂(185866)。

農奴解放令

1861 年:ロシアで農奴解放令が出される。

☆ 解放後  農奴の人は  無一

 

クリミア戦争の敗戦(1856年)によって、国勢のたち遅れを認識したロシアでは、アレクサンドル2世(位185581)が1861​3月に農奴解放令を出すことになる。農奴に人格的自由と、土地の所有を認める改革であったが、あくまで上からの政策であって、農奴たちが望んで実現した改革ではなかった。解放された農奴の中に、自分の土地を手に入れるだけの資金を持ったものは少なかったのである。負債をかかえ込み、土地を離れる農民も多かった。よい成果は上がらず、ポーランドに独立運動の反乱(1863-64年)が起こったこともあって、アレクサンドル2世は再び、反動的な専制政治の路線に戻ることになった。彼は1881年に、過激化したナロードニキ(人民主義者の知識人)に暗殺された。父親の暗殺事件を経験して即位した次のアレクサンドル3世(位1881-94)は最初から人民に不審を持ち、ますます反動的な政策を推し進めた。(ナロードニキの流れから1901年に社会革命党〔SL〕が生まれる。)

 解放された農奴の一部は、やがて徐々に外国資本の下での労働力に転化して搾取の対象となり、それが後のマルクス主義運動(社会民主労働党→ボルシェヴィキ・メンシェヴィキ)につながってゆくという見方もできる。(社会民主労働党は1898年に組織された。当時ロシアに選挙や議会はないわけで、純粋に"革命運動"のための組織である。それが1903年に分裂する。ボルシェヴィキ〔多数派〕は労働者による革命を志向したのに対し、メンシェヴィキ〔少数派〕は、ロシアではまだ産業の発達が不充分という理由で、当面はまずブルジョワが指導する革命が必要と考えた。)

 余談だが、ドストエフスキー(1821-81年)の最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』(1880年)で語られている話は、農奴解放後の頃(おそらく1866年?)に設定されている。もちろんフィクションではあるが、当時のロシアの世相のさまざまな断面をうかがい知ることができる。(読みやすい小説ではないし、文学作品として好きになれるかどうかは、読者の好みによりますが。)

【日】第14代将軍・徳川家茂(185866)。

メキシコ干渉

1861 年:メキシコ干渉(メキシコ遠征)。

☆ ルイ皇帝  一番 無意味な  メキシコ干渉

 

ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン。位1852-70)は、外征によって威信を示し、国民からの人気を維持しようとする人物であったようだ。クリミア戦争(1853-56年)、アロー戦争(1856-60年)、イタリア統一戦争(1859-61年)、インドシナ出兵(1858-62年)などへの関与は、その点で成果を上げたとも言えるが、1861年から始めたメキシコ干渉は完全な失敗に終わり、ナポレオン3世は信望を失った。口実はメキシコの外債利息支払い停止であったが、中南米地域への野心もあり、アメリカが南北戦争(1861-65年)で国外問題に注力できない状況になったことを、好機と見たようである。出兵して内政に干渉し、強引に共和制を廃してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンを帝位につけたけれども、人民の抵抗とアメリカの反対に合って1867 年に撤退。マクシミリアンは反乱軍に捉えられて銃殺された。

(ここでは「一番」→18と読み取る。)

​【日】第14代将軍・徳川家茂(185866)。

奴隷解放宣言

1863 年:奴隷解放宣言。(同年、ゲティスバーグ演説)

☆ アメリカの  人は 無残な  差別やめ

 

19世紀に入って、アメリカ合衆国では西部開拓が進むとともに、南北の対立が顕在化してきた。北部は商工業地域として保護貿易・奴隷制反対・連邦主義を主張し、黒人奴隷を用いた大農園経営​(従来からのタバコなどのほか18世紀末に綿繰り機〔綿の実を、綿と種子に選り分ける機械〕が発明されてから、綿花栽培が著しく発展した)が行われる南部は奴隷存続・自由貿易・州権主義を主張した。北部の利害を代表する共和党のリンカーンが1860年に大統領選挙に勝利し、1861年に就任すると、南部諸州(はじめ6州、最終的には11州となる〔6月〕)は"アメリカ連合国"を樹立して、北部(はじめ23州、後25州になる)に対して開戦した(4月12日)。1863年9月、リンカーンは、奴隷解放宣言を発して内外世論の支持を集めた。同年7月、北軍はゲティスバーグ(ペンシルベニア州の中央のやや南)に攻め込んだ南軍を退けた。同年11月ゲティスバーグに国立墓地を創設する式典で、リンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」のフレーズで知られる有名な演説を行った。1865年3月に"アメリカ連合国"の首都リッチモンド(ヴァージニア州)が陥落、一部の抵抗は6月まで続いたが戦争は終結し、合衆国は再統一された。(リンカーンは戦争最末期の1865年4月、観劇中に"連合国"支持者の俳優に暗殺された。至近距離から銃殺されたのである。)南北戦争後の憲法修正により、黒人男子の参政権が実現することになる。(ただし黒人たちは解放だけされても「金も土地を持たない農民」になってしまうわけで、問題は残り続けたけれども。)なお、1865年に南北戦争自体は北部の勝利で終わったけれども、連合国に属した南部諸州がすべて合衆国側に復帰するのは随分遅れて1877年になる。これには、合衆国の共和党内の強硬派(穏健派のリンカーンに対立した人々)が、南部諸州を穏和な条件で復帰させると、再び民主党(南部の有力な大農園主たちの主張)が相対的に強まることを警戒したという事情があった。

 南北戦争の期間(1861-65年。リンカーンの大統領在任期間もこれに同じ)に、南部の経済は崩壊していったが、北部は戦費調達のための「モリル関税法」(1862年)や戦時公債発行のための「国立銀行法」(1863年)がむしろ産業の発展を促し、北部経済は戦争中に異常な発展と繁栄を見せた。この戦争の前後の時期にアメリカの産業革命がほぼ完成し、商業資本主義から産業資本主義への転換が起こったのである。

【日】アメリカの南北戦争(1861-65年)の時期は、日本では幕末の騒然とした時期にあたる。坂下門外の変・生麦事件(´62年)、薩英戦争(´63年)、第1次長州征討(´64年)、第2次長州征討宣言(´65年)。第14代将軍・徳川家茂(185866)。

第1インターナショナル

1864 年:第1インターナショナルの結成。

☆ 第1インター[ナショナル]  人は 労使を  批判する

 

19世紀に入って、いくつかの国で産業革命が進んでくると、労働者階級の問題が認識されるようになり、国際的な社会主義運動の機運も高まってきた。(マルクスの『共産党宣言』は1848年、フランスの2月革命が始まる直前に、ロンドンを拠点とする共産主義者同盟のために発表され、そのドイツ語版が3月革命の前にドイツに輸入されている。)1864​に、マルクスらの主導により各国の社会主義者がロンドンに集まり、「第1インターナショナル」(国際労働者協会)を結成した。(社会主義だから、資本家に都合のよい労使関係というものを批判したであろう。)この協会は普仏戦争に反対し、パリ=コミューンを支持するも、弾圧を受けて1876年に解散。1889年にはパリで「第2インターナショナル」が発足し、第一次世界大戦まで社会主義運動を続けた。(第2インターナショナルの最初の集会は7月14日、つまりフランス革命勃発からちょうど100年目の日に開催されたわけである。)第2インターナショナルは、合計10回開催され、狭義の労働問題(マルクス主義・修正主義)の議論だけでなく、戦争反対・帝国主義反対といった国際政治的なアピールもなされた。(彼らの主張としては、帝国主義も国家間戦争も、ブルジョワの利害のためにプロレタリアートを犠牲にして行われるものであって、各国のプロレタリアートは連携してこれに反対するべきだということになる。)しかし、それが政治的に大きな力を持つことはなかった。

​【日】1864年、第1次長州征討。第14代将軍・徳川家茂(185866)。

普墺戦争

1866 年:普墺戦争。

☆ 普墺戦[争]の  一番 ろくろく  眠れない

 

1861年、プロイセン王となったヴィルヘルム1世は、首相にビスマルクを任命した。ユンカー(領主貴族)的な保守思想の持ち主であるビスマルク(任1862-90)自由主義の台頭を抑え、武力によるドイツ統一を目指すことになる(鉄血政策)。1866年の普墺戦は、そのビスマルクによるドイツ統一の過程における戦争であるが、これによってシュレスヴィヒ・ホルシュタイン(ユトランド半島の"つけ根"付近の2公国)の獲得を決めた重要な戦争であった。オーストリアを除いた形でのドイツ統一を目指すビスマルクとしては決して譲ることのできない一番勝負であっただろう。ウィーン会議で名目的に決められた「ドイツ連邦」は解体され、プロイセンは上記2公国のほか、ハノーヴァー王国・ヘッセン選帝侯領・フランクフルトなども併合、ドイツおける覇権を確立した。翌1867年にはプロイセン主導の「北ドイツ連邦」が改めて発足し、そして1871年に全ドイツを統一したドイツ帝国が成立する。他方、敗れたオーストリアのほうは、17世紀末から支配していたハンガリーの独立運動を抑えられなくなって、1867年に(オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる形ではあるが)ハンガリーに自治権を与え、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。

(当時ウィーンに住んでいた作曲家ブラームスが、ハンガリー舞曲の楽譜を最初に出版社に持ち込んだのが1867年であるらしい。一旦は断られ、その2年後に出版されることになる。)

【日】1866年、薩長同盟が結ばれ(旧暦2月)、紀州藩出身の14代将軍家茂が死去し(7月)、水戸藩出身の徳川慶喜(186667)が第15代将軍に就任する(12月)。攘夷・公武合体派であった孝明天皇(121代)が崩御したのも、旧暦で言えば、この年の年末である。

スエズ運河

1869 年:スエズ運河の開通。

☆ スエズ運河  エジプト人(びと)は  報われず

 

フランス人外交官レセップスは、エジプト総督から承認を得て、1858年にスエズ運河建設会社を起こした。1869年に運河が開通する。最初はフランスが支配的であったが、後にはイギリス(ディズレーリ)が株を買収し、駐兵権も得るようになる。世界貿易に与えた影響は大きかったが、エジプトのための運河とは言い難かった。(世界的に、貿易だけでなく、軍事や国際外交全般においても、極めて重要な意味を持つことになる。)エジプトが英仏の干渉を退けて運河を獲得するのは20世紀後半のことになる。

【日】この前年1868年が明治元年。1869年(明治2年)には版籍奉還が行われ、箱館五稜郭の戦いがあった。

大陸横断鉄道

1869 年:アメリカ大陸横断鉄道の開通。

☆ 横断鉄道  アメリカ人(びと)は  報われる

 

1869年、アメリカで大陸横断鉄道が開通した。(アメリカ合衆国では先に東海岸~ミシシッピ川の範囲の鉄道網が発達していたので、"大陸横断鉄道"というのは、ミシシッピー川の西側の、中西部西海岸とを結ぶ路線のことを指す。この最初に開通した横断鉄道が結んだのはオマハ〔ネブラスカ州。ミシシッピ川からは400キロほど西だが、まぁ本土の"真ん中"付近〕サクラメント〔カリフォルニア州北部〕である。)西部の資源と東部の工業が結びつくなど、アメリカの経済に与えた影響は大きい。鉄道の発達は、河蒸気船とともに、新しいタイプの大国アメリカが成立・発展してゆく上で、不可欠の要因だったのである。合衆国本土の"西半分"は、雨量が少なく河川の交通が不便であったため、東西を結ぶ鉄道は、西部の開拓〔フロンティアの西進〕のために求められ、大いに役に立った。また、同年エジプトにおいて開通したスエズ運河(地中海と紅海を結ぶ)と併せて、世界の運輸の様相も変わったと言える。日本の岩倉使節団(187173年)は、大陸横断鉄道にも乗り、スエズ運河も通っている。

 南北戦争​(1861-65年)の後のこの時期、アメリカには"巨大産業"が出現し始める。鉄鋼王カーネギーがユニオン製鉄所を創業するのが1865年、石油王ロックフェラーがスタンダード・オイル社を創業するのが1870年である。鉄道業は南北戦争以前から重要産業ではあったが戦後、鉄道網が大陸内で急速に広まった。また、精肉・缶詰業や製粉業なども著しい発展を見せた。さらに1870年代になると、その後、20世紀に向けて一般市民の生活を質的に大きく変えてゆくような技術開発も現れるようになる。1876年にはエジソンがメンロ・パークに研究所を設立し(メンロ・パークはカリフォルニア北部の都市。現在シリコンバレーがある所)、またベルが電話の特許を取得した。

【日】この前年1868年が明治元年。1869年(明治2年)には版籍奉還が行われ、箱館五稜郭の戦いがあった。

普仏戦争

1870 年:普仏戦争が始まる。

☆ ルイ皇帝から  人が 離れる  普仏戦[争]

 

プロイセンの宰相ビスマルクは、南部諸邦までを統一して結束したドイツ国を作るために、フランスを敵としてナショナリズムを高揚させ、南部諸邦を味方に引き込む必要があると考えていたらしい。彼は、フランスが、スペイン王にホーエンツォレルン家のレオポルド(プロイセン王室の親戚)が就くことを阻んだという事件を逆手に利用して、フランス世論がプロイセンへの非難に向かうように報道操作を行い、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)の側からプロイセンに開戦させることに成功した(1870年7月)。南ドイツ諸邦はプロイセンの側についた。ルイはセダン要塞(フランス北東部、現在のベルギー国境付近)で降伏して捕虜になってしまい(9月)、戦争自体は翌1871年2月にフランス(セダンの敗北を受けて組織された「国防政府」)が降伏して終結した。釈放されたルイは、3月にイギリスへ亡命してしまったので、もはやフランスにおいて、ルイを支持する者はいなくなったであろう。​ここでフランス第二帝政は終わり、第三共和政が始まる(~1940年)。ルイはその後も復帰への野心を残していたようだが。

(アルフレッド=ノーベルは、この4年前の1866年〔普墺戦争の年〕にダイナマイトを発明している。これは取り扱いが難しい爆発物であるニトログリセリンを珪藻土に吸収させたもので、雷管で点火するまで〔つまり使用者が爆発させたい時まで〕極めて安全かつ容易に保管することができる画期的に実用性に優れた爆発物であった。ノーベルは元々、土木工事などへの使用のためにこれを発明したようにも見えなくはないわけだが、普仏戦争ではプロイセンがこれを兵器として使用して勝利を収めた。戦争の悲惨さはダイナマイトのために、それ以前とは次元の異なるものになって、ノーベルは戦争の凶器の発明者・営業者と見られるようになってしまった。こういう事情のほうを重視したいのであれば、ゴロ合わせの代案として「☆爆薬で 火花を散らす 普仏戦[争]」というのも良いかもしれない。)

​【日】1870年は明治3年。

ドイツ統一

1871 年:ドイツ帝国の成立。(ドイツ統一の完成)

☆ ドイツ帝国  王とは言わない  皇帝だ

 

普仏戦争が終わる少し前の1871年1月半ば、ヴェルサイユにおいて、プロイセン王ヴィルヘルム1世の戴冠式が行われた。プロイセン国王をドイツ皇帝とする連邦国家「ドイツ帝国」の成立である。ビスマルクはドイツ統一を果たしたわけであるが、引き続き新帝国の宰相として、20年ほど独裁的に強権をふるい続けた。(ドイツ帝国の"宰相"は、形としては帝国の頂点に位置する皇帝を補佐する役どころで、議会に対する責任を負わなかったために、かえって皇帝の君主権を全面的に代行できる存在であった。民意を代表するはずの帝国議会は、単なる諮問機関でしかなかった。)​ビスマルクは国内では、プロイセン支配に抵抗する西部・南部諸邦のカトリックに制約を与え、社会主義者を抑圧する一方、国力の充実を図り、対外的にはフランスを孤立化させる外交政策を進めた(ビスマルク体制​。2年後の1873には独・露・墺の「三帝同盟」が成立する)。ビスマルクの、上からの主導で近代国家を構築する政治手法は、明治の日本にも大きな影響を与えたと見てよいであろう。

【日】ドイツ帝国成立の年は、日本では明治4年。廃藩置県が行われ、岩倉使節団が米欧に派遣された年である(1871年12月-73年9月、12ヶ国)。伊藤博文のドイツ視察は1882年(明治15年)。

大不況

1873 年:大不況が始まる。

☆ 大不況  いやな見通し  20年

 

1873年から1896年ごろまでの世界的な経済不況は「大不況」と呼ばれる。大不況は史上初の国際恐慌として始まった。ウィーンにおける株の暴落に始まり、アメリカ、ヨーロッパ各国へ経済危機が波及していった。第二次産業革命がだいたい終わった時期であり、デフレと低成長の時代が20年あまり続いた。大不況の影響は、特にイギリスで深刻であったと考えられており、この時期にイギリスはいくつかの巨大産業の分野で、ヨーロッパ大陸の諸国に対して保持していた優位性を失ったとされる。また、この大不況の影響により、ヨーロッパ諸国にとって植民地の重要性が高まり、帝国主義が促されたという側面もある。

【日】この年、明治六年政変が起こっている。征韓論を唱えた西郷隆盛・板垣退助らが、岩倉使節団に参加して戻った大久保利通・木戸孝允らに妨げられ、政府を離れた。

第三共和政憲法

1875 年:フランスで共和国憲法(第三共和政)の制定。

☆ コミューン後  人は和むか? 第三共和

 

フランスでは普仏戦争の末期、1870年9月に国防政府(臨時政府)が成立した。当初の国防政府は上層ブルジョワを代表するものであり、3週間の休戦協定を利用した1871年2月の総選挙を経て、地主貴族層も加わった王党派的な傾向の強い政府になったようである。(おそらく労働者や急進的小市民の意向よりも、農地を荒らされ続ける農民たちの厭戦気分が反映された選挙結果なのだろう。)つまり国防政府は人民の味方という色合いが全くなかった。これに反発するパリの社会主義的共和主義者たち(急進的な知識人、労働者、小商工業者、学生など)は1871年3月、パリ市内に自治政府(パリ=コミューン)を成立させた。(元々の政府側は、一旦パリを放棄してヴェルサイユに逃れ、パリ=コミューン弾圧の準備を始めていた。)コミューン議会は雑多な考え方を持つ小市民の寄せ集めであり、残念ながら政治的な手腕を持つ者のいない烏合の衆であった。パリ=コミューンは、ドイツ軍の支援を受けた政府軍によって5月に徹底的に潰され、わずか73日で終わった。その後、王党派と共和派の間の闘争を経て、共和派が力を伸ばし、1875年に共和国憲法が制定された。第三共和政の始まりは、形式的に言えば1870年ということになるが、憲法制定時あたりが実質的な始まりと言える。これ以降も、政局は小党分立の不安定な状態で、和むという感じにはならなかった。第三共和政は第二次大戦のときまで続く。

(この年〔1875年〕の3月にパリでビゼーのオペラ『カルメン』が初演され、ビゼーはその3ヶ月後に心臓発作で亡くなっている。『カルメン』は後々、大変な人気オペラになるわけだが、初演の際は不評で、ビゼー自身は『カルメン』の成功を見ずに世を去ったわけである。)

(第三共和政が始まる時期は、印象派の絵画が脚光を浴びる時期でもあった。"印象派"という術語の起源となったクロード=モネの「印象・日の出」は、1874年に開催された展覧会〔後に第1回印象派展と呼ばれるようになる〕で初展示されたものである。当初は批判的な反応もあったが、人々から好感を持って受け入れられるようになる。)

​​【日】1875年は明治8年。樺太・千島交換条約。江華島事件。

スエズ運河買収

1875 年:イギリスがスエズ運河会社を買収。

☆ ディズレーリ  嫌な工作  スエズにて

 

1875年、エジプトは財政難のために、保有していたスエズ運河会社の株を売却することにした。それまでこの会社はフランス主導で動いており、イギリスは積極的な関与をしていなかったが、この株売却の情報を捉えたイギリスのディズレーリは方針を転換して株を購入した。その結果、イギリスは44%の株式を保有する筆頭株主になった。この後、イギリスはスエズ運河への支配を強めてゆく。

(この"強硬外交"、いかにもイギリスの保守党らしい感じがするけれども、ディズレーリは元々は、あまり対外支配を言わない「小英国主義者」であったらしい。このエジプトへの干渉のあたりから帝国主義政策へと舵を切ったようである。このことは、おそらく時代背景による必然性があると見るべきなのだろう。つまり19世紀に産業革命を進展させ、資本主義が進み、資本の集中が起こっていた国々においては、このころから「植民地」政策の意味が​単なる重商主義時代のものから大きく変貌し始め、「帝国主義」という考え方自体も、このころに始まったわけである。)

​​【日】1875年は明治8年。樺太・千島交換条約。江華島事件。

日朝修好条規

1876 年:日朝修好条規の締結。

☆ 修好条規で  朝鮮 いやな  胸の内

 

1868年に明治維新がおこった日本は、欧米にならって富国強兵につとめ、対外的にも動きを見せるようになる。1875年、日本の軍艦が朝鮮沿岸で演習を行った際に、江華島付近で砲撃された。これを機に日本は鎖国を続けてきた李氏朝鮮に迫り、翌1876年(明治9年)に日朝修好条規(江華条約)を締結、釜山などを開港させ、公使・領事の駐在・領事裁判権などを認めさせた。朝鮮としては内心、不本意であったであろう。日本は李氏朝鮮の宗主国を自任する清と、対立する関係になった。

ミドハト憲法

1876 年:ミドハト憲法の制定。

一番の  はなむけ ミドハト  憲法発布

 

19世紀、オスマントルコでは、ロシアなどの南下政策による脅威や、バルカンの諸反乱などから、国内の近代化を進める必要が認識されていた。タンジマート(恩恵改革:1839年~)、クリミア戦争(1853-56年)の時代を経て立憲制への要求が高まり、(立憲制への「はなむけ」として)1876年に宰相ミドハトが起草した「ミドハト憲法」が発布された。しかしアブデュルハミト2世は、ミドハトが政治的地位を固めることを嫌って、翌1877年にミドハトを(憲法の君主大権条項によって)国外に追放し、その翌年の1878年には露土戦争開戦を理由に憲法を停止した。彼は、タンジマートを進めたアブデュルメジド1世とは違い、古い専制体制の温存を志向していたようである。憲政の復活は、1908年の青年トルコ革命まで待たねばならない。最初の施行期間が短かったとはいえ、ミドハト憲法は、アジアで最初の(「一番の」)憲法といわれる。

(ここでは「一番の」→1と読み取る。)

​【日】1876年は明治9年。日朝修好条規(江華条約)締結。(朝鮮開国)

インド帝国

1877 年:インド帝国の成立。

☆ イギリスの  人は 難なく  インド帝国

 

イギリス政府はセポイの乱(1857-59年)の鎮圧後、事実上インドを統治していたが、1877年にはヴィクトリア女王がインド帝国皇帝を兼ねる形で「インド帝国」の成立を宣言した。​(時の首相は保守党のディズレーリである〔第2次内閣〕。いかにも帝国主義政策らしい政策であってヴィクトリア女王もお喜びであったろう。)イギリスは、藩王などインドの過去の封建的有力者を味方につける策を取り、すでに統治体制をある程度まで成立させていた。飢饉など厳しい背景状況もあったとはいえ、この時点ではイギリスによる帝国支配の確立に、さほど困難はなかったように見える。

(この時代、農村はたびたび深刻な不作や飢餓にみまわれたが、農民から徴集された税が農業振興政策に使われることはほとんどなかったようだ。インド総督は大飢饉のさなかに、莫大な金を使ってヴィクトリアのインド皇帝就任の儀式を執り行った。)

【日】明治10年。西南戦争があり、西郷軍が敗れる。西郷隆盛自刃。

ベルリン会議

1878 年:ベルリン会議。(露土戦争の和約)

☆ ロシアにも[トルコにも]  いやな奴だよ  ビスマルク

 

ウィーン体制崩壊後の、19世紀後半のバルカン半島には、スラヴ民族が団結してトルコの支配を脱しようとするパン=スラヴ主義が現れた。1876年にはブルガリア人が反オスマンの蜂起を行ったが、オスマントルコはこれに大弾圧を加えて鎮圧した。南下政策を画策するロシア(アレクサンドル2世)は、スラヴ民族の救済を名目として、1877-78年にトルコに戦争を仕掛けて勝利を収めた(露土戦争)。その結果としてロシアはルーマニアなどを独立させ、領土を拡大したブルガリアを保護下に置くなどして目的を達したかに見えた(1878年3月、サン=ステファノ条約)。しかしながらオーストリア・イギリス(ディズレーリ)が反対する立場を示したため、これを調停するためにビスマルクが同年(1878年6-8月)にベルリン会議を開いた。ビスマルクは、トルコの領地は減らしたままで巧妙に条約内容を変更し、ロシアのバルカン進出を大幅に妨げることに成功した。

 ベルリン会議は、セルビアなどバルカンにおける3ヶ国の独立を認めたが、セルビア本国として認めた領域の西隣のボスニア地域はオーストリアの支配下に置いた。これはスラヴ系のセルビア人にとっては、ボスニアの地〔における自治〕をオーストリア〔ゲルマン人〕に奪われたという感覚だったようで、これが後の第一次世界大戦の火種となる。

(ビスマルクには、外交にも強い"豪腕政治家"というイメージがあるけれども、実際には対外的な"拡張政策"〔植民地拡大〕をあまりやっていないようだ。つまりビスマルクはドイツ帝国をつくったけれども、"帝国主義"をやらなかったのである。おそらく当時の統一後のドイツには国内の充実が緊急の課題であって、それをよく認識しながら国際的な戦争を回避するように振舞ったという点で、彼は超一流の国際政治家だったと言ってもいいのではないだろうか? 上述のバルカン問題・露土戦争にしても、パン=スラヴ主義を掲げるロシアも、パン=ゲルマン主義で対抗したいオーストリアも、ドイツを味方につけようとしていたが、ビスマルクはあくまでバルカンの利害関係の一方に関わろうとはせず"調停者"の立場を貫いたわけである。〔その結果、三帝同盟の関係は一時的には弱まったけれども〕実際、ドイツ統一後の「ビスマルク外交」の時代は、ヨーロッパの列国間にからむ大規模な戦争が極めて少ない時代である。後の時代にヴィルヘルム2世やヒトラーのような、世界的に大迷惑な三流・四流の指導者を出したにもかかわらず、現代のドイツがいまだに国際的に敬意を持たれる地位を保ち得ているのは、ビスマルクによるところが大きいのかもしれない。持ち上げすぎかもしれませんが。)

 なお、この会議においてフランス外相がイギリス外相と取り引きを行い、キプロス島をイギリスに領有させる代わりに、地中海南岸の要衝チュニジアをフランスが自由に処分できるように約束させ、フランスは1881年にチュニジアを併合する。自国の目と鼻の先のチュニジアをフランスに"取られた"イタリアは、フランスへの反感からドイツ・オーストリアと三国同盟を結ぶことになる(1882年)。

​【日】1878年は明治11年。三新法の制定。大久保利通が暗殺される。

社会主義者鎮圧法

1878 年:社会主義者鎮圧法の制定。

☆ 社会主義  人は 悩むな! 鎮圧だ

 

1871年、新生ドイツ帝国の宰相に就任したビスマルク(任1871-90)は、なかば独裁的に国内を統制する政治を進めていった。(帝国議会が設けられて選挙もあったが、実質的に議会は無力であった。)関税同盟発足(1833-34年)の頃からドイツ帝国成立(1871年)にかけて、"国内市場"と資源の拡大は資本主義発展への刺激となり、ドイツでも1840年代から産業革命が進むとともに、次第に労働者階級が発生し、社会主義運動も起こるようになっていた。1878年に皇帝ヴィルヘルム1世の狙撃事件(暗殺未遂)が続いて2回も起こると、ビスマルクは、これを社会主義者が起こしたもののように宣伝して(実際は違ったらしい)「社会主義者鎮圧法」を制定し、(迷うことなく鎮圧するという方針で)社会主義勢力の台頭を抑え込む政策を採った。その一方で、ビスマルクは1880年代に、災害保険・疾病保険・養老保険の整備など、社会制度政策も(皇帝の勅諭という形で)進めている。上からの施策ではあるものの、その内容は評価されるべき部分も多分にある。「アメとムチ」の政策と評される。

 なお、ドイツ帝国誕生直後に訪れた戦後の爆発的好景気は、1875年ごろには沈滞に転じていた。これを受けてビスマルクは、それまでの比較的自由放任的な産業政策から、保護関税主義へと方針転換を行い、「ビスマルク関税」を制定した。これも1878年のことである。

​【日】1878年は明治11年。三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)の制定。

アラビパシャの乱

1881 年:アラビ=パシャの乱が始まる。

☆ イギリスの  人は 入るな! アラビの乱

 

1870年代のエジプトは、財政的に破綻し、イギリスとフランスに支配されている状態であった。(イギリスによるスエズ運河株の買収は1875年。)英仏の傀儡のような形で据えられた副王と、それを支えて優遇されるトルコ人に対して、エジプト人の不満は大きくなっていった。悪化した財政の対策に行われたエジプト人のリストラも不満を更に煽った。1881 年、エジプト人の陸軍大臣アラビ=パシャは副王に迫って、トルコ系が主流の内閣の解散と、選挙による新政権の樹立を認めさせた。アラビの新政権が樹立したかに見えたが、アラビの政権を英仏は認めず、アラビ政府の政策はエジプト内の対立を煽った。このような中で、1882年に両勢力の衝突が起こると、イギリスは本格的な軍事介入を行って乱を鎮圧し、アラビはスリランカへ流された。以後、エジプトはイギリスの軍事占領下に置かれ、事実上、イギリスの"保護下"に入ることになる。("保護"というのは、"支配"と同義である場合が少なくない。)そして第一次世界大戦中に保護国にされてしまう。こうしてエジプトは、イギリスの3C政策(カイロ・ケープタウン・カルカッタを要地として結びつけようとする海外政策)のひとつの拠点とされたわけである。

【日】1881年、「明治14年の政変」が起こった。政府は、自由民権運動を受けて国会の即時開催を主張する参議大隈重信を(理由をつけて)罷免し、欽定憲法制定の方針と9年後の国会開設の公約を出した。これによって薩長派の政権が固まり、立憲君主制への道筋が敷かれた。

三国同盟

1882 年:三国同盟。(独・墺・伊)

☆ フランスの  人は ヤジるよ  三国同盟

 

普仏戦争(1870-71年)に敗れたフランスでは、ドイツに復讐したいという国民感情が強かったが、ドイツの宰相ビスマルクは、フランスを国際的に孤立させる外交政策を展開し​て、フランスの野心の顕在化を抑えた。1882年に結ばれた三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)はその具体策であった。イタリアはオーストリアと戦って国家統一を果たしたわけだし、まだ「未回収のイタリア」問題もあったわけだから、オーストリアと同盟を結ぶなど極めて難しい話だったはずで、これも「ビスマルク外交」の冴えと言えるかもしれない。このときイタリアは、アフリカ北岸への領土的野心という点でフランスと潜在的敵対関係にあり、それがドイツに近づく理由になったのであろうが、それをビスマルクがうまく利用した。(フランスとしては面白くないわけで、ヤジってやりたいと思うフランス人もいたかもしれない。)

 また、ビスマルクは三帝同盟(独・墺・露、1873年。露土戦争後のベルリン会議〔1878〕から一旦、実効を失うが、1881年に再び「三帝協商」として復活)、独露二重保障条約(1887年)などにより、ロシアとの親善関係も保持し続けた。

【日】1882年は明治15年。政府は伊藤博文らを憲法調査のために派遣。(翌年帰国。)

清仏戦争

1884 年:清仏戦争。

☆ 阮朝を  譲るの嫌やし  清仏戦[争]

 

ナポレオン3世(位1852-70)は、外征の一環としてインドシナへの侵攻を進めたが、その後もフランスのこの地域への干渉は続いていた。フランスと、清と、中国南部の軍閥との間で複雑な衝突の経緯があるが、1883年、ベトナム(阮)はフランスに降伏した。これに対して清のベトナムへの宗主権の主張は変わらず、交渉も行われたが決裂し、1884年に清仏戦争が始まった。(清朝は北京条約〔1860年〕以降、一応は「対等国」の存在を認めるようになったが、それはヨーロッパの強国に限った話で、東洋ではまだ自国が宗主国という意識が抜けなかった。清にとってベトナム〔安南〕は依然、中国に服属する「朝貢国」でなければならなかったし、この地は国防上の要衝でもあった。)フランスが大勝し、翌1885年の天津条約で、ベトナムは名実ともにフランスの保護下に置かれることになった。

(「嫌やし」と関西弁になっているのはご愛嬌と思ってもらいたい。)

​【日】1884年は明治17年。秩父事件(負債減免を求める数万人の農民の蜂起)。朝鮮で甲申事変(親日改革派のクーデター失敗)。

インド国民会議

1885 年:インド国民会議の開催(第1回)。

☆ インドの人は  野合に絡むか? 国民会議

 

インド帝国成立(1877年)の後、インドの民衆はイギリス(と藩王など残存権力)の支配を受け続けたが、次第に西洋式教育を受けた者などから民族的自覚やジャーナリスティックな意識も芽生えつつあった。(イギリスによる統治はセポイの大反乱〔1857-59年〕の後、むしろ旧支配層や旧制度を温存しようとする傾向もあったけれども。)1885年にインド国民会議がボンベイで開かれたが、ここにはイギリスに協調的なインド知識人・地主・商人などが主に集められていた。(国民"議会"でなく国民"会議"であることに注意してもらいたい。〔原語の"Congress"の訳語は"議会"でも"会議"でもよいのだが、これは日本語の訳語上の配慮でこのようになっている。〕この"会議"は選挙で選ばれた人の集まりではないし、その決定事項は、何の法的拘束力も持たなかった。)​このインド国民会議の開催には、反英知識人層の不満を吸収して、親英穏健勢力(の野合関係)を醸成しようという、イギリスの意図が働いていたと考えられる。それでも会議では民族的な団結などが強調され、その後の大衆世論の形成にも、一定の役割を果たした。

【日】明治18年。太政官制を廃して内閣制度を創設。伊藤博文が初代総理大臣になった。

アメリカ労働総同盟

1886 年:アメリカ労働総同盟の結成。

☆ 組合の  人は やろうよ  総同盟

 

南北戦争(1861-65年)の後、アメリカの経済は著しく発展したが、独占資本主義の弊害の部分も現れ始め、労働者が処遇改善を求める機運も起こった。(この時代〔概ね1865-90年〕は富の不均一な分配〔すなわち貧富の差〕が著しく進んだ時代でもあったわけである。)1881年に発足していたアメリカ・カナダ職能労働組合連盟が1886年に改変され、アメリカ労働総同盟(AFL:American Federation of Labor )が結成された。これは、主として熟練労働者によって組織された職業別連合組織であり、革命を目指すことなく資本主義体制の枠内で労働条件の向上を目指す穏健な団体である。(その方針は、労働者全体を資本家から守るというより、熟練労働者の利益を守るという方向性のものであったようだ。)

 AFLの結成は1886年12月のことであるが、それに先立つ1886年5月1日、その前身のアメリカ・カナダ職能労働組合連盟は8時間労働制要求の統一ストライキを行った。(当時、十数時間労働があたりまえであった。)これが現在、世界各国で5月1日に労働者の祭典「メーデー」(May Day)が行われることの起源となっている。(このときのストライキから派生して、集会参加者〔労働者だけでなく急進的な無政府主義者なども含んでいた〕と警官隊との暴力衝突事件なども起こり、死者・逮捕者・刑死者も出た。この事件が労働運動に与えた衝撃が、AFLの結成を促したのである。)

​【日】1886年は明治19年。森有礼文部相の下で学校令(帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令など)を公布。

ビルマ併合

1886 年:インド帝国にビルマ併合。(ビルマ戦争終結)

☆ ミャンマーの  人は やむなく  インド人

 

イギリスは18世紀、ビルマのアラウンパヤー朝と通商を行っていたが、ビルマが西方(インド方面)へ進出したので、イギリスと紛争が起こった。ビルマ戦争(1824年~1886年にわたり3回)で、イギリスはビルマを征服し、1886年にビルマ全土をインド帝国に併合した。​(当然、インドシナに進出してきたフランスをも意識してのことだろう。)ビルマ人(ミャンマー人)としては、いやも応もなかったであろう。(ビルマは1989年に軍事政権が国名を改名して以降ミャンマーと呼ばれる。ここでは語調の都合で"ミャンマー"のほうを使用。)

【日】1886年は明治19年。森有礼文部相の下で学校令(帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令など)を公布。

仏領インドシナ

1887 年:インドシナ連邦(仏領インドシナ)の成立。

☆ インドシナ  一番 離れた  連邦支配

 

清仏戦争(1884-85年)でベトナム地域を支配下に置いたフランスは、ベトナム・カンボジア地域を合わせて1887年にインドシナ連邦(仏領インドシナ)を成立させ、支配下に置いた。1899年にはラオスも加えられることになる。東南アジアにはイギリスの「マライ連邦」(マライ半島の諸小国の連邦。1895年~)などもつくられるが、インドシナはヨーロッパからは最も遠い「連邦」支配の地域である。

(ここでは「一番」→18と読み取る。)

​【日】1887年は明治20年。民権派の大同団結運動。(国会開設前の民権運動)

ヴィルヘルム2

1888 年:ヴィルヘルム2世の即位。

☆ ヴィル[ヘルム]2世  今度の人は  やばい人

 

ドイツで1888年にヴィルヘルム2世(位1888-1918)が29歳で帝位に就くと、意見の合わないビスマルク(任1871-90)は2年後に宰相を辞任し、ヴィルヘルム2世の親政が始まる。(形としては、ヴィルヘルムが勅命によってビスマルクを辞職させた。)彼は帝国主義政策を掲げ、ビスマルク外交の体制を解消して対外強硬路線に切り替え、軍備を拡張し(1897年以降、海軍の増強に異常な執着を見せ、特に海洋帝国イギリスとの関係を悪化させた)、戦争の火種を作っていった。(ビスマルク時代にドイツの産業がイギリスを脅かすまでに発展したからこそ積極強硬路線が可能だったとも言えよう、ヴィルヘルムは、ビスマルク時代とは完全に対立する方向性を突き進んでいった。)ヴィルヘルム2世ひとりが第一次世界大戦を起こしたという見方は、いささか図式化された極端な見方であろうが、そういう捉え方もできるという面はある。

(「ヴィルヘルム」を「ヴィル」と略してもよいのかどうか分からないが、暗唱用の文句としては「ヴィル2世」で許してもらうことにする。)

【日】1888年は明治21年。枢密院(天皇の諮問に答える機関)設置。

パンアメリカ会議

1889 年:パン=アメリカ会議の開催。

いち早く  大陸まとめる  パン=アメリカ

 

アメリカ合衆国は、19世紀前半からモンロー宣言によって南北アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を退ける態度を示していたが、19世紀末に近くなると、徐々に積極的に自身が主導権を取ろうとする動きが始まる。1889年、アメリカ合衆国の主催でパン=アメリカ会議が開かれた。20世紀に入ると、一段と干渉の度合いが高まり、カリブ海政策(棍棒政策)などが始まることになる。

【日】明治22年。大日本帝国憲法発布。

フロンティア消滅

1890 年:アメリカ合衆国で、フロンティアの消滅。

☆ アメリカの  飛躍を象徴  辺境消滅

 

アメリカ合衆国の"西部"は、独立戦争直後(1783年、パリ条約)にはアパラチア山脈からミシシッピ川までであったが、1803年にフランスからルイジアナを買い取ってロッキー山脈あたりまでが加わり、1848年にはメキシコからカリフォルニアなどを獲得して太平洋岸までが加わり、徐々に西へと開拓が進められていった。この開拓は、アメリカ人の精神的な支柱を形成したとする見方もある。開拓は1890年ごろにほぼ完了し、そのフロンティア(辺境)は消滅したとされる。(「フロンティアは太平洋に没した」などという言い方もある。「フロンティア」の定義は、1平方マイルあたりに人口6人以上の土地と人口6人未満の土地との境界線と定義されていたのだが、この境界線がどんどん西進してゆき、1890年の国勢調査では、もはや地図上に大局的にこのような境界線を引くことができなくなったわけである。)この頃から、アメリカは対外的な進出の動向を示し始めて、徐々に世界に影響を及ぼす国になってゆく。

 1860年時点での辺境線は(極めて大雑把な表現だが)今の合衆国本土のだいたい中央を縦線で二分割する線〔西経95度あたり。ミネソタ-テキサス間〕だったと言えば、当たらずとも遠からずで、それからわずか30年間で残りの"西半分"が開拓されたわけである。この"西半分"は雨量が少ない地域だったので、開拓民としては、それまで"東半分の西側"で主導的な開拓者であった農業従事者よりも"鉱山掘り"(実際"西半分"において金鉱・銀鉱が多く発見された)や牧畜業者(牛飼い〔"カウボーイ"は少し別の意味だが〕や羊飼いなど)が先行した。農民フロンティアが本格化するのは1870年代末からである。この西征の期間(1860-90年、特に最初の10年)に、インディアン〔原住民〕は限定的な"指定保留地"に押し込められてゆき、白人と、白人に不満を持つインディアンの武力闘争は絶えなかったが、政府は徐々にインディアンの同化政策へと舵を切ることになる。1887年に、元来は狩猟や漁撈による生活を主体としていたインディアンに土地を与えて"定住農民化"させようという、「対インディアン土地賦与法」が制定され、1891年にはインディアンへの義務教育も実施されるようになった。

【日】明治23年。第1回帝国議会開会。教育勅語発布。

露仏同盟

1891 年:露仏同盟の成立。

☆ 三国に  一番 食い込む  露仏同盟

 

ドイツでヴィルヘルム2世の親政が始まると、彼はすぐに、ビスマルク時代にロシアとの間に結ばれていた二重保障条約の更新を拒否してしまった。これを受けて、ロシアはドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗するために、フランスと1891年に露仏同盟を結んだ。これでフランスの国際的な孤立状態が終わり、独・墺・伊の三国同盟に対立する勢力(後の協商側:英・仏・露)が形成される最初の端緒になった。ここから第一次世界大戦の背景構造が構築されてゆく。

 また、この同盟は、ロシアの経済面では、フランス資本の流入によって、重工業・鉱業・鉄道建設などを発展させるものであった。これはロシア民衆の生活の向上にはつながらないものであったが、外国資本のための"労働者"が生まれ、それがマルクス主義運動を醸成する土壌ともなった。

【日】1891年は明治24年。大津事件(訪日中のロシア皇太子が大津で警備の巡査に切りつけられた事件。ロシアを恐れた政府は犯人の巡査を死刑にしようとしたが、大審院は無期徒刑の判決を断行、司法権の独立を守った)。田中正造が第2回帝国議会で足尾鉱毒事件に関する質問を行う。

日清戦争

1894 年:日清戦争が始まる。

☆ 日本の  飛躍 示そう  日清戦[争]

 

日朝修好条規(1876年)の締結以降、李氏朝鮮に対して宗主権を持つという立場の清と日本の間に、潜在的な対立関係が続いていた。(清朝のアジアにおける「宗主国意識」は依然、続いていた。これは1884-85年の清仏戦争の場合と同様。)そしてまた李氏朝鮮内部でも考え方が分かれて内争が続いた。1894年(明治27年)、朝鮮において日本と西洋の駆逐を主張する東学等の乱が起こり、朝鮮の閔(びん)妃は清に助けを求めた。清の出兵に対抗して日本も出兵、これをきっかけに日清戦争が始まった。翌年、日本が勝利して下関条約が結ばれた。(日本代表は伊藤博文・陸奥宗光、清国代表は李鴻章。李鴻章は元々、曽国藩の部下であり、太平天国の乱の鎮定に曽国藩とともに功を立てて「同治の中興」に尽力した人物。清国の内治外交をほとんど掌握し​ており、世論に突き上げられて開戦したけれども、最初から不利は分かっていたらしい。朝鮮の独立の承認と併せて、日本は遼東半島や台湾などを獲得するとともに(ただし遼東半島は同年の三国干渉で返還させられることになるが)、開港場・開市場での外国企業による工場経営を正式に認めさせた。(最後の話は列強各国も最恵国待遇権により同じ恩恵に浴することになった。折しも帝国主義たけなわの時代である。中国が本格的に列強によって"浸食"されるきっかけを与えたことになる。)明治維新から、わずか27年で対外戦争に勝ち、日本の国力の飛躍を初めて海外に示した戦争であった。日清戦争の結果、中国との冊封関係が解消された李氏朝鮮は国号を「大韓帝国」に改めた(1897年)。(「帝国」とはスゴいと思うけれども、日本も他所のことは笑えない。そういう時代だったのである。)

​ 日清戦争後、欧米各国は競って清へ進出し"租借"を始めることになる。清では海外からの露骨な干渉に対する反感が高まり、これが1900年の「義和団事件」へとつながってゆく。

米西戦争

1898 年:米西戦争。

☆ スペインの  人は 悔しい  米西戦[争]

 

国内フロンティアの消滅後のアメリカ合衆国は、海外への食指を動かし始める。共和党のマッキンレー大統領(任18971901)は、アメリカ合衆国で対外的な帝国主義政策を始めた大統領と言ってよいであろう。キューバでは、スペインの圧政から独立するための反乱が1895年に起こって、スペインからの弾圧が続いていたが、アメリカは(新聞報道がスペインの残虐卑劣を書き立てて世論を煽ったこともあって)1898年にこれに介入することを決め、スペインに宣戦した(4月)。米軍はラテンアメリカ各地、太平洋のフィリピングアムなどスペイン植民地の基地を攻撃、4ヶ月で勝利をおさめた(米西戦争)。結果、アメリカはキューバを独立させ(但し1901に保護国化することになる)、フィリピン・グアム・プエルトリコを獲得した。次のセオドア・ルーズベルト大統領(任190109)が行った、カリブ海地域への高圧的な外交(砲艦外交をちらつかせて有利な干渉を行う)は「棍棒外交」と呼ばれる。帝国主義的と言ってもよいだろうが、既に白人による支配国になっている国を支配するという点で、ヨーロッパのアジア・アフリカに対する植民地帝国主義と少し違う感じもある。

 なお、中部太平洋のハワイ(当時は王国に対する米人在住者のクーデターで1893年につくられた臨時政府による"ハワイ共和国")は、この年(1898年)にアメリカ合衆国に併合され、1900年に準州となる。これは米西戦争で、フィリピンに対する補給基地としてハワイの地政学的重要性が認識されたために、急いで措置がとられたということらしい。

(セオドア=ルーズベルトは、外交面ではキューバに基地を設けるなど棍棒政策・帝国主義的であったが、内政面では独占企業に対する規制をしたり労使争議の調停をするなど、プログレシヴィズム〔自由放任経済による極端な格差を是正して中産階級主体にリベラルな状態の回復を図る〕的な改革政策を進めた。何となく矛盾を感じるような気もするけれども、当時の世界ではこういうことが不自然とは見なされなかったのだろう。世論の支持は高かったようである。)

【日】1898年は明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。ただし自由党系と進歩党系の抗争のために、わずか4ヶ月で瓦解。藩閥政治に戻ってしまう。

戊戌の変

1898 年:変法自強運動。戊戌の変。

☆ 変法の  人は 悔しい  戊戌(ぼじゅつ)の変

 

日清戦争の敗戦によって、中国の知識人は危機感を強めた。康有為(こうゆうい)らは北京条約以降の洋務運動(清朝が主導する近代化運動であったが、西洋文化のうち専ら技術面だけを導入し、政治経済体制の見直しや西洋思想の導入などは行わなかった)を批判し、1898年に変法自強運動(日本の明治維新のようなタイプの立憲運動)を起こし、光緒帝(位1874-1908)を動かして政治体制の改革を試みた。康有為は、一般人民の意識を政治と富強(ナショナリズム)に結びつけることが重要と考えたようで、変法論者は"憂国の士"なのである。実際、光緒帝の意向で新政が動き出したのだが、残念ながら光緒帝も康有為も権力基盤は強くない。保守派は母后である西太后と結んでクーデターを起こし、康有為らを失脚させて光緒帝を幽閉、わずか100日で改革運動は失敗に終わった(戊戌の変)。康有為は日本に亡命した。西太后は再び摂政となり、保守・排外・反漢の政策をとるようになる。

(光緒帝は、権力者である西太后〔同治帝の母親〕に強引に推されて4歳で即位した人物。一応1889年から親政を始めたのだが、常々太后からの干渉を受け、太后を次第に嫌うようになったようだ。これに伴い中央政府内にも西太后派と皇帝派の対立が起こっていたようである。日清戦争に関して西太后派は主和論、皇帝派は主戦論で、このときは後者が力を持ったわけである。康有為は主戦論者であって、すなわち皇帝派であった。​この時代「主戦論者」=「改革派」、「主和論者」=「保守派」という雰囲気があるようだ。

【日】明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。4ヶ月の短命で終了。

ファショダ事件

1898 年:ファショダ事件。

☆ フランスの  人は 悔しい  ファショダ事件

 

アフリカ大陸の内部は、長らくヨーロッパ人にとって未知の領域であったが、19世紀半ばに探検が行われるようになって注目を集め、1870-80年代からヨーロッパ列強、特にイギリスとフランスの猛烈な進出が始まった。(これらの国において産業・金融資本の蓄積に基づいた近現代的な「帝国主義」が始まったわけである。)イギリスはカイロとケープタウンを結ぶように縦断的に、フランスはアルジェ・サハラ砂漠とジプチ結ぶように横断的に植民地の拡大を進めた結果、1898年にスーダン地方のファショダで両者が遭遇、フランスが現地に国旗を立てて、両国間に緊張状態が生じた。翌年、フランスが譲歩して事は収まった。(イギリスの縦断政策が通った形ではあるが、フランスはスーダンからナイル川流域に対する通商の自由権を得た。)1904年には、ドイツに対抗するという観点から、この両国は方針を転じて対立関係を緩和し、英仏協商を結んだ。

【日】1898年は明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。4ヶ月の短命で終了。

ボーア戦争

1899 年:ボーア戦争(ブール戦争)が始まる。

☆ 南アでの  違約 苦にせず  ボーア戦[争]

 

オランダ人は17世紀ごろから南アフリカのケープ植民地に入植していたが(ボーア人と呼ばれる)、19世紀にイギリスに占領されて北へ逃れ、1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ共和国を建国、イギリスもこれらの両国を承認した。しかしその後、これらの地域で金鉱やダイヤモンド鉱が発見されると、イギリスがそれらを独占しようとして、1899年に両国に対して侵略戦争を始めた。​(当時イギリスの植民地相であったジョセフ・チェンバレン〔ネヴィルの父〕が主導的に仕掛けたようである。)独立を承認していた国を侵略するのだから違約だろうが、イギリスがそのことに思い煩うことはおそらくなかったのであろう。(ヨーロッパ諸国民​からの批難を受けたけれども。)1902年に、ボーア人は屈服し、両国はイギリス植民地に併合される。

【日】1899年は明治32年。法権を回復した日英通商航海条約等が施行された。

門戸開放宣言

1899 年:門戸開放宣言が出される。

☆ ジョン=ヘイ曰く  旧弊やめて  均等に

 

アメリカが1898年に米西戦争に勝ってスペインを獲得し、中国(清)に目を向け始めたとき、清の内部には欧米列国や日本が既に権益地帯を築いていた。1899年、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領の下の国務長官ジョン=ヘイは、列強各国に対して門戸開放通牒を発した。その内容は、中国の主権の尊重と港湾の自由使用、商工業活動の機会均等を主張したものである。各国は返答を保留したが、翌年の1900年、ジョン=ヘイは通牒の内容が有効になったと主張した。つまり、これは他国よりも遅れて海外(アジア)進出に乗り出したアメリカの、帝国主義競争への割り込みのための策(方便)である。条約ではないので、明確な拘束力はなかったとはいえ、満州事変までの期間、ある程度、各国に意識される指針となった。

日露戦争後のポーツマス条約​〔1905年〕を結ぶ際に、セオドア=ルーズベルトが日本に有利な仲介をしてくれることになったのは、その時点でアメリカとして、日本よりもロシアのほうが門戸開放を破る懸念があると判断したからであるらしい。)

【日】1899年は明治32年。法権を回復した日英通商航海条約等が施行された。

義和団事件

1900 年:義和団事件。

☆ 清朝の  日暮れを招く  義和団事件

 

戊戌の変(1898年)のころ、清の国内では民衆による排外運動が盛んになっていた。山東では、義和団(白蓮教系の秘密結社)を中心として「扶清滅洋」(清朝を助けて西洋を滅ぼそう、ということ。「扶」は「たすける、ささえる」の意)をスローガンとする排外運動が起こり(1899年)、彼らは1900年に北京に入って公使館区域を占領した。保守排外の西太后政権では、義和団の主張を批判できないどころか、むしろ都合よくこれを利用したいとの考えも働き、義和団の運動を暗に援助し、列国に対して開戦しようともした(漢人の地方長官たち〔袁世凱・李鴻章など〕は西太后の開戦命令には従わず、むしろ義和団を攻撃して外国人を保護したが)。日本・ロシアを主とする8国は在留外国人の保護を名目に連合軍を組織して北京の公使館を救った。西太后と光緒帝は北京から西安へ逃れたが、残された親王と李鴻章は列国と和議を行い、1901年に北京議定書が調印された。清は巨額の賠償支払いを課せられただけでなく、列国による華北駐兵権も認めさせられた。この事件で、​もはや満州人王朝に何も期待できないという漢人たちの民族感情が高まることになり、いよいよ清朝の末期が近づいた。

 1902年、西太后と光緒帝は北京に戻ったが、西太后はそれまでの保守・排外姿勢を完全に翻し、西洋の政治制度を導入する方針に転じる。実際、いろいろな制度改革が行われはしたのだが、それらは結局、根底に"滅漢興満"的な考え方を暗に内包しており、来たるべき1912年の清朝滅亡を回避できるものにはならなかった。

(山東での蜂起を義和団事件の始まりと見なせば年数は1899年であるが、ここでは北京入りと列国の介入の部分を「事件」と見なして1900年とした。)

【日】1900年は明治33年。上述の北清事変のほか、治安警察法制定。(労働者運動への規制強化)

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