納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(1851~1900年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1851 年:太平天国の“建国”。
☆ 太平の 世づくりをする 人は 来い!
清では、アヘン戦争以降、戦費と巨額賠償金の拠出が銀貨の高騰を招き、民衆の不満が高まっていた。洪秀全(こうしゅうぜん)は、上帝会というキリスト教を取り入れた宗教結社をつくって、不満を持つ多くの農民を信者として集め、1850年に広西省で"滅満興漢"のスローガンを掲げて蜂起した。翌1851年、洪秀全は、自らの"国"を「太平天国」と号し、1853年には南京を占領して首都"天京"とした。洪秀全は更に北征・西征を続け、国内で土地の均分や文化改革を試みたりしたが、各地の清側の義勇軍(郷勇)や、これに協力する外国人から攻撃を受けて、太平天国は13年で滅んだ。乱は収まったが、この乱によって清朝の無力弱体ぶりが露呈することになり、漢人官僚の進出につながった。彼らは西欧文化を取り入れた富国強兵を進める「洋務運動」を推進し、清朝を一時的な安定に導いた(同治の中興)。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。老中・阿部正弘。
● 1852 年:フランスで第二帝政が始まる。ルイ=ナポレオンが帝位に就く。
☆ 投票で 人は 公認 第二帝政
1848年、フランスの二月革命で成立した臨時政府(共和主義〔ブルジョア派〕と社会主義〔労働者・プロレタリア派〕が内部対立)では、同年4月に行われた選挙の結果、社会主義者が勢力を失った。これは社会主義が農民の支持を得られなかったためであるが(農民は土地を失うことを恐れた)、政府は保守派に傾き、民衆の支持を失っていった。12月に大統領選挙が行われると、ナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが当選した。ルイは政府・議会が人気を失う状況を見極めると、1851年にクーデターを決行して独裁権を握った。翌1852年に、彼は皇帝信任の国民投票を実施して、その結果を受けてナポレオン3世として帝位に就いた。この経緯はいささか不可解にも見えるが、結局この時点では、ブルジョア派もプロレタリアート派も強力な旗印となり得ていなかったということであろうし、素朴な国民感情としてフランス革命-ナポレオン戦争期のような「国威発揚」を望む気分が意外に強かったのかもしれない。わずか4年でのフランス第二共和政の終焉、そして第二帝政の始まりである(~1870年)。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。老中・阿部正弘。
● 1853 年:クリミア戦争が始まる。
☆ 一番の 誤算は英仏 クリミア戦[争]
南下政策を推進したいロシアは、エジプト=トルコ戦争(1831-40年)でトルコを支援したが、加担したトルコ側が勝ったにもかかわらず、イギリスの外交政策のためにロシアとして有利な成果を上げられなかった。今度は聖地管理権問題(フランスが管理権を得ていた)で、トルコ領内のキリスト教徒保護を口実として、トルコと開戦した(1853年)。すると今度はイギリスとフランス(ナポレオン3世)がトルコと結び(エジプト=トルコ戦争のときと入れ替わっている)、クリミア半島での攻防でロシアは敗れてしまう。1856年のパリ条約をもって、クリミア戦争は終結した。英仏の本格的な参戦は、ロシアとして誤算であったかも知れない。
(この戦争のとき、イギリスから来て負傷兵看護にあたったのが、後に英国で看護婦学校を設け、赤十字運動を提唱することになるナイチンゲールである。)
(ここでは「一番」→18と読み取る。)
【日】1853年はペリー来航の年である。時の将軍は12代徳川家慶(いえよし)だったが、ペリー来航時には病床にあり、同年没した。主力の老中・阿部正弘。翌1854年、日米和親条約、および日英・日露和親条約。(将軍は13代・家定。)
● 1856 年:アロー号事件。(アロー戦争)
☆ アロー号 一派 ごろつき 捕えられ
アヘン戦争後、清の対英交易体制はある程度まで変わったが、外交窓口が北京でなく広州にあって中央政府と方針の矛盾が生じたり、また更なる開港や徴税制度の改善などを促したいとのイギリス側の思惑もあり、イギリスは再度、武力による干渉の機会をうかがうようになる。1856年に広州でイギリス船籍を称するアロー号の中国人船員数名が、清の官憲に海賊容疑で(ごろつき?として)逮捕されるという事件が起こると、イギリスはこれを口実にアロー戦争を起こした。同年、広西省でフランス人宣教師が殺害されていたフランス(ナポレオン3世)も、イギリスからの呼びかけに応じて共同出兵した。清の官憲による船員逮捕は実は全く正当であって、イギリスの言いがかりであったようだが、清は開戦を防ぐことができなかった。
【日】第13代将軍・徳川家定(任1853-58)。主力の老中・阿部正弘。
● 1857 年:セポイの乱(シパーヒーの乱)が起こる。
☆ セポイの乱 インドの人は 御難です
18世紀後半、七年戦争の際にイギリスはインドにおいてフランスを退け、インド支配を進めていった。イギリス本国で産業革命が進むと、インドの手織り綿織物産業は立ち行かなくなり、インドはイギリス支配下の原料・作物供給地兼製品市場への転落を余儀なくされて、伝統的村落社会は崩壊した。このことから、インド人の各階層にイギリスへの反感が蔓延するようになる。1857年、東インド会社の傭兵(セポイ)が反乱を始めると、反乱はインド全域に波及した。しかし東インド会社は翌年にこの反乱を鎮圧し、ムガル皇帝を廃止した。これでムガル帝国は終焉を迎え、イギリス政府によるインド全土の直接統治が始まる。(東インド会社は解散。)
【日】この年、老中・阿部正弘が死去。第13代将軍・徳川家定(任1853-58)。
● 1858 年:アイグン条約。
☆ 清の人は 拒めぬアイグン ムラヴィヨフ
ロシアは東欧地域でも南下を画策していたが、極東方面にも食指を伸ばした。1847年、ムラヴィヨフがシベリア総督になり、黒竜江下流に進出して、1850年には河口に都市を築いた。清は、太平天国の乱やアロー戦争によって、1950年代には自国の体制を維持するのも難しい状況になっており、ムラヴィヨフはそれに乗じて1858年に、黒竜江までをロシア領と認めさせる「アイグン条約」を清と結んだ。17世紀末のネルチンスク条約のときに比べて、領土境界をかなり南へ押し下げたことになる。
【日】1858年に井伊直弼が大老となり、(南紀派が、慶喜を推す一橋派を抑えて)徳川家茂が第14代将軍に就いた。井伊直弼は日米修好通商条約に調印したが、これが勅許を得ずに行ったものだったので、強い批判を受けた。しかし井伊は強硬姿勢を貫き、反対派の公家・大名・志士たちを多数処罰した(安政の大獄)。
● 1859 年:イタリア統一戦争が始まる。
☆ サルディニアの 人は 御苦労 統一戦[争]
青年イタリアのローマ共和国が即座にフランスに潰された後も、イタリア統一への動きは続いた。サルディニア王ヴィットリオ=エマヌエレ2世に首相を任じられたカヴールは、ウィーン体制から続くオーストリアによる北イタリア支配地を奪還するために、フランスのナポレオン3世と秘密同盟を結んで、1859年にオーストリアと開戦した。しかし、本心ではイタリア統一を望まないフランスが裏切ってすぐに手を引いたため、このときはロンバルディアを得ただけであった。しかし翌年も統一への動きは進んでゆき、2年後にはイタリア王国が成立することになる。
【日】1859年、横浜・長崎・箱館3港で貿易が始まる。大老・井伊直弼。第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1860 年:北京条約の締結。
☆ 列国の 人は 陋劣(ろうれつ) 北京条約
アロー戦争は、1858年の天津条約で終わったかに見えたが、条約批准交換のために北京に来たイギリスとフランスの公使を清の兵が砲撃し、英仏はこれを口実に北京を占領した。これに対して、ロシアが調停に乗り出す形で、1860年に北京条約が結ばれた。清の賠償支払い、天津など11港の新たな開港、公使の北京駐在のほか、イギリスに九竜市街の割譲、ロシアに沿海州を割譲など、まさに英仏露の列国の利益のための条約であった。(「陋劣」は、利益のために手段を選ばず、ひんしゅくを買うような様子のこと。)
ちなみに、この前年の1859年、イギリスでダーウィンの『種の起源』が出版されている。人間が(神が作りたもうたものではなく)下等生物からの進化の産物だとする進化論はなかなか受入れられず、激しい論争を巻き起こした。当時のヨーロッパの白人たちの意識においてはまだ、もしかすると白人以外の動物は「人間」とは別に作られた下等動物であって、自分たちが有色人種と同根であるということも、自分たちが猿と同根であるということと同じくらい受入れがたい概念であったのかもしれない。
【日】1860年に桜田門外の変。大老・井伊直弼の強硬な開国策の推進と反対派の弾圧に憤った水戸脱藩の志士たちが、井伊直弼を暗殺した。第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1861 年:イタリア王国の成立。
☆ いばろう イタリア王国成立 エマヌエレ
1859年にサルディニア王ヴィットリオ=エマヌエレ2世とその宰相カヴールが始めたイタリア統一戦争は、最初フランスの裏切りによって出ばなをくじかれた形になったが、統一への動きは進められた。その翌年、中部イタリアを併合、また青年イタリア党のガリヴァルディが、両シチリア王国を抑えてヴィットリオへ献上したので、1861年にはベネチア(オーストリア領)と教皇領を除くイタリア王国が成立した。その後、1866年(普墺戦争の際)にベネチアも併合、1870年に教皇領も占領したが、教皇庁とは対立が続いた。またトリエステ・南チロルなどはオーストリア領として残り、この「未回収のイタリア」の問題は第一次世界大戦のときまで続いた。
【日】第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1861 年:ロシアで農奴解放令が出される。
☆ 解放後 農奴の人は 無一文
クリミア戦争の敗戦(1856年)によって、国勢のたち遅れを認識したロシアでは、アレクサンドル2世(位1855-81)が1861年に農奴解放令を出すことになる。農奴に人格的自由と、土地の所有を認める改革であったが、あくまで上からの政策であって、農奴たちが望んで実現した改革ではなかった。解放された農奴の中に、自分の土地を手に入れるだけの資金を持ったものは少なかったのである。負債をかかえ込み、土地を離れる農民も多かった。よい成果は上がらず、ポーランドに反乱(1863年)が起こったこともあって、アレクサンドル2世は再び反動的な専制政治の路線に戻ることになった。彼は1881年に、過激化したナロードニキ(人民主義者の知識人)に暗殺された。解放された農奴の一部は、やがて徐々に外国資本の下での労働力に転化して搾取の対象となり、それが後のマルクス主義運動(社会民主労働党→ボルシェヴィキ・メンシェヴィキ)につながってゆくという見方もできる。
【日】第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1861 年:メキシコ干渉(メキシコ遠征)。
☆ ルイ皇帝 一番 無意味な メキシコ干渉
ナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)は、外征によって威信を示し、国民からの人気を維持しようとする人物であったようだ。クリミア戦争、アロー戦争、イタリア統一戦争、インドシナ出兵などは、その点で成果を上げたとも言えるが、1861年から始めたメキシコ干渉は完全な失敗に終わり、ナポレオン3世は信望を失った。口実はメキシコの外債利息支払い停止であったが、中南米地域への野心もあり、アメリカが南北戦争で国外問題に注力できない状況になったことを好機と見たようである。出兵して内政に干渉し、強引に共和制を廃してオーストリア皇帝の弟マクシミリアンを帝位につけたけれども、人民の抵抗とアメリカの反対に合って1867 年に撤退。マクシミリアンは処刑された。
(ここでは「一番」→18と読み取る。)
【日】第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1863 年:奴隷解放宣言。(同年、ゲティスバーグ演説)
☆ アメリカの 人は 無残な 差別やめ
19世紀に入って、アメリカ合衆国では西部開拓が進むとともに、南北の対立が顕在化してきた。北部は商工業地域として保護貿易・奴隷制反対・連邦主義を主張し、黒人奴隷を用いた大農園経営が行われる南部は奴隷存続・自由貿易・州権主義を主張した。北部の利害を代表する共和党のリンカーンが1861年に大統領に当選すると、南部11州はアメリカ連合を樹立して北部に対して開戦した。1863年9月、リンカーンは、奴隷解放宣言を発して内外世論の支持を集めた。同年7月、北軍はゲティスバーグに攻め込んだ南軍を退けた。同年11月ゲティスバーグに国立墓地を創設する式典で、「人民の、人民による、人民のための政治」のフレーズで知られる有名な演説を行った。1865年に南軍が降伏、合衆国は再統一された。(リンカーンは戦争最末期の1865年4月、観劇中に「連合」支持者の俳優に至近距離から撃たれ、暗殺された。)
【日】アメリカの南北戦争の時期は、日本では幕末の騒然とした時期にあたる。坂下門外の変・生麦事件〔´62年〕、薩英戦争〔´63年〕、第1次長州征討〔´64年〕、第2次長州征討宣言〔´65年〕。第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1864 年:第1インターナショナルの結成。
☆ 第1インター[ナショナル] 人は 労使を 批判する
各国で産業革命が進んでくると、国際的な社会主義運動の機運も高まってきた。1864年、マルクスらの主導により各国の社会主義者がロンドンに集まり、「第1インターナショナル」(国際労働者協会)を結成した。(社会主義だから、資本家に都合のよい労使関係というものを批判したであろう。)この協会は普仏戦争に反対し、パリ=コミューンを支持するも、弾圧を受けて1876年に解散。1889年には、パリで「第2インターナショナル」が発足し、第一次世界大戦まで社会主義運動を続けた。
【日】1864年、第1次長州征討。第14代将軍・徳川家茂(任1858-66)。
● 1866 年:普墺戦争。
☆ 普墺戦[争]の 一番 ろくろく 眠れない
1861年、プロイセン王となったヴィルヘルム1世は、首相にビスマルクを任命した。ビスマルクは自由主義の台頭を抑え、武力によるドイツ統一を目指すことになる(鉄血政策)。1866年の普墺戦は、そのビスマルクによるドイツ統一の過程における戦争であるが、これによってシュレスヴィヒ・ホルシュタインの獲得を決めた重要な戦争であった。オーストリアを除いた形でのドイツ統一を目指すビスマルクとしては決して譲ることのできない一番勝負であっただろう。翌1867年にはプロイセン主導の北ドイツ連邦が発足、そして1871年に全ドイツを統一したドイツ帝国が成立する。他方、敗れたオーストリアのほうは、17世紀末から支配していたハンガリーの独立運動を抑えられなくなって、1867年に(オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる形ではあるが)ハンガリーに自治権を与え、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。
(当時ウィーンに住んでいた作曲家ブラームスが、ハンガリー舞曲の楽譜を最初に出版社に持ち込んだのが1867年であるらしい。一旦は断られ、その2年後に出版されることになる。)
【日】1866年、薩長同盟が結ばれ(旧暦2月)、紀州藩出身の14代将軍家茂が死去し(7月)、水戸藩出身の徳川慶喜(任1866-67)が第15代将軍に就任する(12月)。攘夷・公武合体派であった孝明天皇(121代)が崩御したのも、旧暦で言えば、この年の年末である。
● 1869 年:スエズ運河の開通。
☆ スエズ運河 エジプト人(びと)は 報われず
フランス人外交官レセップスは、エジプト総督から承認を得て、1858年にスエズ運河建設会社を起こした。1869年に運河が開通する。最初はフランスが支配的であったが、後にはイギリスが株を買収し、駐兵権も得るようになる。世界貿易に与えた影響は大きかったが、エジプトのための運河とは言い難かった。エジプトが英仏の干渉を退けて運河を獲得するのは20世紀後半のことになる。
【日】この前年1868年が明治元年。1869年(明治2年)には版籍奉還が行われ、箱館五稜郭の戦いがあった。
● 1869 年:アメリカ大陸横断鉄道の開通。
☆ 横断鉄道 アメリカ人(びと)は 報われる
1869年、アメリカで大陸横断鉄道が開通した。西部の資源と東部の工業が結びつくなど、アメリカの経済に与えた影響は大きい。鉄道の発達は、河蒸気船とともに、新しいタイプの大国アメリカが成立・発展してゆく上で、不可欠の要因だったのである。また、同年開通したスエズ運河と併せて、世界の運輸の様相も変わったと言える。日本の岩倉使節団(1871-73年)は、大陸横断鉄道にも乗り、スエズ運河も通っている。
【日】この前年1868年が明治元年。1869年(明治2年)には版籍奉還が行われ、箱館五稜郭の戦いがあった。
● 1870 年:普仏戦争が始まる。
☆ ルイ皇帝から 人が 離れる 普仏戦[争]
プロイセンの宰相ビスマルクは、南部諸邦までを統一して結束したドイツ国を作るために、フランスを敵としてナショナリズムを高揚させ、南部諸邦を味方に引き込む必要があると考えていたらしい。彼は、フランスが、スペイン王にホーエンツォレルン家のレオポルド(プロイセン王室の親戚)が就くことを阻んだという事件を逆手に利用して、フランス世論がプロイセンへの非難に向かうように報道操作を行い、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)の側からプロイセンに開戦させることに成功した(1870年7月)。南ドイツ諸邦はプロイセンの側についた。ルイはセダン要塞で降伏して捕虜になってしまい、戦争は翌1871年2月にフランス(国防政府)が降伏して終結した。釈放されたルイは、3月にイギリスへ亡命してしまったので、もはやフランスにおいて、ルイを支持する者はいなくなったであろう。ここで、フランス第二帝政は終わり、第三共和政が始まる(~1940年)。(ルイはその後も復帰への野心を残していたようだが。)
(アルフレッド=ノーベルは、この4年前の1866年〔普墺戦争の年〕にダイナマイトを発明している。これは取り扱いが難しい爆発物であるニトログリセリンを珪藻土に吸収させたもので、雷管で点火するまで〔つまり使用者が爆発させたい時まで〕極めて安全かつ容易に保管することができる画期的に実用性に優れた爆発物であった。ノーベルは元々、土木工事などへの使用のためにこれを発明したようにも見えなくはないわけだが、普仏戦争ではプロイセンがこれを兵器として使用して勝利を収めた。戦争の悲惨さはダイナマイトのために、それ以前とは次元の異なるものになって、ノーベルは戦争の凶器の発明者・営業者と見られるようになってしまった。こういう事情のほうを重視したいのであれば、ゴロ合わせの代案として「☆爆薬で 火花を散らす 普仏戦[争]」というのも良いかもしれない。)
【日】1870年は明治3年。
● 1871 年:ドイツ帝国の成立。(ドイツ統一の完成)
☆ ドイツ帝国 王とは言わない 皇帝だ
普仏戦争が終わる少し前の1871年1月半ば、ヴェルサイユにおいて、プロイセン王ヴィルヘルム1世の戴冠式が行われた。プロイセン国王をドイツ皇帝とする連邦国家「ドイツ帝国」の成立である。ビスマルクはドイツ統一を果たしたわけであるが、引き続き新帝国の宰相として、20年ほど独裁的に強権をふるい続けた。国内ではプロイセン支配に抵抗するカトリックや、社会主義者を抑圧する一方、国力の充実を図り、対外的にはフランスを孤立化させる外交政策を進めた(ビスマルク体制)。ビスマルクの、上からの主導で近代国家を構築する政治手法は、明治の日本にも大きな影響を与えたと見てよいであろう。
【日】ドイツ帝国成立の年は、日本では明治4年。廃藩置県が行われ、岩倉使節団が米欧に派遣された年である。伊藤博文のドイツ視察は1882年(明治15年)。
● 1873 年:大不況が始まる。
☆ 大不況 いやな見通し 20年
1873年から1896年ごろまでの世界的な経済不況は「大不況」と呼ばれる。大不況は史上初の国際恐慌として始まった。ウィーンにおける株の暴落に始まり、アメリカ、ヨーロッパ各国へ経済危機が波及していった。第二次産業革命がだいたい終わった時期であり、デフレと低成長の時代が20年あまり続いた。大不況の影響は、特にイギリスで深刻であったと考えられており、この時期にイギリスはいくつかの巨大産業の分野で、ヨーロッパ大陸の諸国に対して保持していた優位性を失ったとされる。また、この大不況の影響により、ヨーロッパ諸国にとって植民地の重要性が高まり、帝国主義が促されたという側面もある。
【日】この年、明治六年政変が起こっている。征韓論を唱えた西郷隆盛・板垣退助らが、岩倉使節団に参加して戻った大久保利通・木戸孝允らに妨げられ、政府を離れた。
● 1875 年:フランスで共和国憲法(第三共和政)の制定。
☆ コミューン後 人は和むか? 第三共和
フランスでは普仏戦争の末期、1870年9月に国防政府(臨時政府)が成立した。これに対抗する社会主義者は翌1871年3月、パリに自治政府(パリ=コミューン)を成立させたが、ドイツ軍の支援を受けた政府軍に5月に鎮圧された。その後、王党派と共和派の間の闘争を経て、共和派が力を伸ばし、1875年に共和国憲法が制定された。第三共和政の始まりは、形式的に言えば1870年ということになるが、憲法制定時あたりが実質的な始まりと言える。これ以降も、政局は小党分立の不安定な状態で、和むという感じにはならなかった。第三共和政は第二次大戦のときまで続く。
【日】1875年は明治8年。樺太・千島交換条約。江華島事件。
● 1875 年:イギリスがスエズ運河会社を買収。
☆ ディズレーリ 嫌な工作 スエズにて
1875年、エジプトは財政難のために、保有していたスエズ運河会社の株を売却することにした。それまでこの会社はフランス主導で動いており、イギリスは積極的な関与をしていなかったが、この株売却の情報を捉えたイギリスのディズレーリは方針を転換して株を購入した。その結果、イギリスは44%の株式を保有する筆頭株主になった。この後、イギリスはスエズ運河への支配を強めてゆく。
(保守党のディズレーリは、元々はあまり対外支配を言わない「小英国主義者」であったのらしいのだが、このエジプトへの干渉のあたりから帝国主義政策へと舵を切ったようである。このことは、おそらく時代背景による必然性があると見るべきなのだろう。つまり19世紀に産業革命を進展させ、資本主義が進み、資本の集中が起こっていた国々においては、このころから「植民地」政策の意味が大きく変貌し始め、「帝国主義」という考え方自体も、このころに始まったわけである。)
【日】1875年は明治8年。樺太・千島交換条約。江華島事件。
● 1876 年:日朝修好条規の締結。
☆ 修好条規で 朝鮮 いやな 胸の内
1868年に明治維新がおこった日本は、欧米にならって富国強兵につとめ、対外的にも動きを見せるようになる。1875年、日本の軍艦が朝鮮沿岸で演習を行った際に、江華島付近で砲撃された。これを機に日本は鎖国を続けてきた李氏朝鮮に迫り、翌1876年(明治9年)に日朝修好条規(江華条約)を締結、釜山などの開港し、公使・領事の駐在・領事裁判権などを認めさせた。朝鮮としては内心、不本意であったであろう。日本は李氏朝鮮の宗主国を自任する清と、対立する関係になった。
● 1876 年:ミドハト憲法の制定。
☆ 一番の はなむけ ミドハト 憲法発布
19世紀、オスマントルコでは、ロシアなどの南下政策による脅威や、バルカンの諸反乱などから、国内の近代化を進める必要が認識されていた。タンジマート(恩恵改革)、クリミア戦争の時代を経て立憲制への要求が高まり、(立憲制への「はなむけ」として)1876年に宰相ミドハトが起草した「ミドハト憲法」が発布された。しかしアブデュルハミト2世は、ミドハトが政治的地位を固めることを嫌って、翌1877年にミドハトを(憲法の君主大権条項によって)国外に追放し、その翌年の1878年には露土戦争開戦を理由に憲法を停止した。彼は、タンジマートを進めたアブデュルメジド1世とは違い、古い専制体制の温存を志向していたようである。憲政の復活は、1908年の青年トルコ革命まで待たねばならない。最初の施行期間が短かったとはいえ、ミドハト憲法は、アジアで最初の(「一番の」)憲法といわれる。
(ここでは「一番の」→1と読み取る。)
【日】1876年は明治9年。日朝修好条規(江華条約)締結。(朝鮮開国)
● 1877 年:インド帝国の成立。
☆ イギリスの 人は 難なく インド帝国
イギリス政府はセポイの乱の鎮圧後、事実上インドを直接統治していたが、1877年にはヴィクトリア女王がインド帝国皇帝を兼ねる形で「インド帝国」の成立を宣言した。(時の首相は保守党のディズレーリである。)イギリスは、藩王などインドの過去の封建的有力者を味方につける策を取り、すでに統治体制をある程度まで成立させていた。飢饉など厳しい背景状況もあったとはいえ、この時点ではイギリスによる帝国支配の確立に、さほど困難はなかったように見える。
【日】明治10年。西南戦争があり、西郷軍が敗れる。西郷隆盛自刃。
● 1878 年:ベルリン会議。(露土戦争の和約)
☆ ロシアにも[トルコにも] いやな奴だよ ビスマルク
ウィーン体制崩壊後の、19世紀後半のバルカン半島には、スラヴ民族が団結してトルコの支配を脱しようとするパン=スラヴ主義が現れた。1876年にはブルガリア人が反オスマンの蜂起を行ったが、オスマントルコはこれに大弾圧を加えて鎮圧した。南下政策を画策するロシア(アレクサンドル2世)は、スラヴ民族の救済を名目として、1877年にトルコに戦争を仕掛けて勝利を収めた。その結果としてロシアはルーマニアなどを独立させ、領土を拡大したブルガリアを保護下に置くなどして目的を達したかに見えた(1878年、サン=ステファノ条約)。しかしながらオーストリア・イギリス(ディズレーリ)が反対する立場を示したため、これを調停するためにビスマルクが同年(1878年)にベルリン会議を開いた。ビスマルクは、トルコの領地は減らしたままで巧妙に条約内容を変更し、ロシアのバルカン進出を大幅に妨げることに成功した。
【日】1878年は明治11年。三新法の制定。大久保利通が暗殺される。
● 1878 年:社会主義者鎮圧法の制定。
☆ 社会主義 人は 悩むな! 鎮圧だ
1871年、新生ドイツ帝国の宰相に就任したビスマルクは、なかば独裁的に国内を統制する政治を進めていった。(帝国議会が設けられて選挙もあったが、実質的に議会は無力であった。)ドイツでも1840年代の産業革命以降、労働者階級が発生し、社会主義運動も起こるようになっていた。1878年に皇帝ヴィルヘルム1世の狙撃事件(暗殺未遂)が起こると、ビスマルクはこれを社会主義者が起こしたもののように宣伝して(実際は違ったらしい)「社会主義者鎮圧法」を制定し、(迷うことなく鎮圧するという方針で)社会主義勢力の台頭を抑え込む政策を採った。その一方で、ビスマルクは、災害保険・疾病保険・養老保険の整備など、社会制度政策も進めている。上からの施策ではあるものの、その内容は評価されるべき部分も多分にある。「アメとムチ」の政策と評される。
【日】1878年は明治11年。三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)の制定。
● 1881 年:アラビ=パシャの乱が始まる。
☆ イギリスの 人は 入るな! アラビの乱
1870年代のエジプトは、財政的に破綻し、イギリスとフランスに支配されている状態であった。(イギリスによるスエズ運河株の買収は1875年。)英仏の傀儡のような形で据えられた副王と、それを支えて優遇されるトルコ人に対して、エジプト人の不満は大きくなっていった。悪化した財政の対策に行われたエジプト人のリストラも不満を更に煽った。1881 年、エジプト人の陸軍大臣アラビ=パシャは副王に迫って、トルコ系が主流の内閣の解散と、選挙による新政権の樹立を認めさせた。アラビの新政権が樹立したかに見えたが、アラビの政権を英仏は認めず、アラビ政府の政策はエジプト内の対立を煽った。このような中で、1882年に両勢力の衝突が起こると、イギリスは本格的な軍事介入を行って乱を鎮圧し、アラビはスリランカへ流された。以後、エジプトは事実上、イギリスの"保護下"に置かれることになる。("保護"というのは、"支配"と同義である場合が少なくない。)
【日】1881年、「明治14年の政変」が起こった。政府は、自由民権運動を受けて国会の即時開催を主張する参議大隈重信を(理由をつけて)罷免し、欽定憲法制定の方針と9年後の国会開設の公約を出した。これによって薩長派の政権が固まり、立憲君主制への道筋が敷かれた。
● 1882 年:三国同盟。(独・墺・伊)
☆ フランスの 人は ヤジるよ 三国同盟
普仏戦争に敗れたフランスでは、ドイツに復讐したいという国民感情が強かったが、ドイツの宰相ビスマルクは、フランスを国際的に孤立させる外交政策を展開し、フランスの野心の顕在化を抑えた。1882年に結ばれた三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)はその具体策であった。(フランスとしては面白くないわけで、ヤジってやりたいと思うフランス人もいたかもしれない。)また、ビスマルクは三帝同盟(ドイツ・オーストリア・ロシア、1873年)、独露二重保障条約(1887年)などにより、ロシアとの親善関係も保持し続けた。
【日】1882年は明治15年。政府は伊藤博文らを憲法調査のために派遣。(翌年帰国。)
● 1884 年:清仏戦争。
☆ 阮朝を 譲るの嫌やし 清仏戦[争]
ナポレオン3世は、外征の一環としてインドシナへの侵攻を進めたが、その後もフランスのこの地域への干
渉は続いていた。フランスと、清と、中国南部の軍閥との間で複雑な衝突の経緯があるが、1883年、ベトナム(阮)はフランスに降伏した。これに対して清のベトナムへの宗主権の主張は変わらず、交渉も行われたが決裂し、1884年に清仏戦争が始まった。翌1885年の天津条約で、ベトナムは名実ともにフランスの保護下に置かれることになった。
(「嫌やし」と関西弁になっているのはご愛嬌と思ってもらいたい。)
【日】1884年は明治17年。秩父事件(負債減免を求める数万人の農民の蜂起)。朝鮮で甲申事変(親日改革派のクーデター失敗)。
● 1885 年:インド国民会議の開催(第1回)。
☆ インドの人は 野合に絡むか? 国民会議
インド帝国成立後、インドの民衆はイギリス(と藩王など残存権力)の支配を受け続けたが、次第に西洋式教育を受けた者などから民族的自覚も芽生えつつあった。1885年にインド国民会議がボンベイで開かれたが、ここにはイギリスに協調的なインド知識人・地主・商人などが主に集められていた。(国民"議会"でなく国民"会議"であることに注意してもらいたい。選挙で選ばれた人の集まりではない。)反英知識人層の不満を吸収して、親英穏健勢力(の野合関係)を醸成しようという、イギリスの意図が働いていたと考えられる。それでも会議では民族的な団結などが強調され、その後の大衆世論の形成にも、一定の役割を果たした。
【日】明治18年。太政官制を廃して内閣制度を創設。伊藤博文が初代総理大臣になった。
● 1886 年:アメリカ労働総同盟の結成。
☆ 組合の 人は やろうよ 総同盟
南北戦争後、アメリカの経済は著しく発展したが、資本主義の弊害の部分も現れ始め、労働者が処遇改善を求める機運も起こった。1881年に発足したアメリカ・カナダ職能労働組合連盟が改変され、1886年にアメリカ労働総同盟(AFL)が結成される。これは主として熟練労働者によって組織された職業別連合組織であり、革命を目指すことなく資本主義体制の枠内で労働条件の向上を目指す穏健な団体である。
AFLの結成は1886年12月のことであるが、それに先立つ1886年5月1日、その前身のアメリカ・カナダ職能労働組合連盟は8時間労働制要求の統一ストライキを行った。(当時、十数時間労働があたりまえであった。)これが現在、世界各国で5月1日に労働者の祭典「メーデー」(May Day)が行われることの起源となっている。
【日】1886年は明治19年。森有礼文部相の下で学校令(帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令など)を公布。
● 1886 年:インド帝国にビルマ併合。(ビルマ戦争終結)
☆ ミャンマーの 人は やむなく インド人
イギリスは18世紀、ビルマのアラウンパヤー朝と通商を行っていたが、ビルマが西方(インド方面)へ進出したので、イギリスと紛争が起こった。ビルマ戦争(1824年~1886年にわたり3回)で、イギリスはビルマを征服し、1886年にビルマ全土をインド帝国に併合した。ビルマ人(ミャンマー人)としては、いやも応もなかったであろう。(ビルマは1989年に軍事政権が国名を改名して以降ミャンマーと呼ばれる。ここでは語調の都合で"ミャンマー"のほうを使用。)
【日】1886年は明治19年。森有礼文部相の下で学校令(帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令など)を公布。
● 1887 年:インドシナ連邦(仏領インドシナ)の成立。
☆ インドシナ 一番 離れた 連邦支配
清仏戦争でベトナム地域を支配下に置いたフランスは、ベトナム・カンボジア地域を合わせて1887年にインドシナ連邦(仏領インドシナ)を成立させ、支配下に置いた。1899年にはラオスも加えられることになる。東南アジアにはイギリスの「マライ連邦」などもつくられるが、インドシナはヨーロッパからは最も遠い「連邦」支配の地域である。
(ここでは「一番」→18と読み取る。)
【日】1887年は明治20年。民権派の大同団結運動。(国会開設前の民権運動)
● 1888 年:ヴィルヘルム2世の即位。
☆ ヴィル[ヘルム]2世 今度の人は やばい人
ドイツで1888年にヴィルヘルム2世が帝位に就くと、意見の合わないビスマルクは2年後に宰相を辞任し、ヴィルヘルム2世の親政が始まる。彼は帝国主義政策を掲げ、ビスマルク外交の体制を解消して対外強硬路線に切り替え、軍備を拡張し、戦争の火種を作っていった。(ビスマルク時代にドイツの産業がイギリスを脅かすまでに発展したからこそ積極強硬路線が可能だったとも言えよう。)ヴィルヘルム2世ひとりが第一次世界大戦を起こしたという見方は、いささか図式化された極端な見方であろうが、そういう捉え方もできるという面はある。
(「ヴィルヘルム」を「ヴィル」と略してもよいのかどうか分からないが、暗唱用の文句としては「ヴィル2世」で許してもらうことにする。)
【日】1888年は明治21年。枢密院(天皇の諮問に答える機関)設置。
● 1889 年:パン=アメリカ会議の開催。
☆ いち早く 大陸まとめる パン=アメリカ
アメリカ合衆国は、19世紀前半からモンロー宣言によって南北アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を退ける態度を示していたが、19世紀末に近くなると、徐々に積極的に自身が主導権を取ろうとする動きが始まる。1889年、アメリカ合衆国の主催でパン=アメリカ会議が開かれた。20世紀に入ると、一段と干渉の度合いが高まり、カリブ海政策(棍棒政策)などが始まることになる。
【日】明治22年。大日本帝国憲法発布。
● 1890 年:アメリカ合衆国で、フロンティアの消滅。
☆ アメリカの 飛躍を象徴 辺境消滅
アメリカ合衆国の西部開拓は、アメリカ人の精神的な支柱を形成したとする見方もあるが、1890年ごろに開拓はほぼ完了し、そのフロンティア(辺境)は消滅したとされる。この頃から、アメリカは対外的な進出の動向を示し始めて、徐々に世界に影響を及ぼす国になってゆく。
【日】明治23年。第1回帝国議会開会。教育勅語発布。
● 1891 年:露仏同盟の成立。
☆ 三国に 一番 食い込む 露仏同盟
ドイツでヴィルヘルム2世の親政が始まると、彼はすぐに、ビスマルク時代にロシアとの間に結ばれていた二重保障条約の更新を拒否してしまった。これを受けて、ロシアはドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟に対抗するために、フランスと1891年に露仏同盟を結んだ。これでフランスの国際的な孤立状態が終わり、独・墺・伊の三国同盟に対立する勢力(後の協商側:英・仏・露)が形成される最初の端緒になった。ここから第一次世界大戦の背景構造が構築されてゆく。
【日】1891年は明治24年。大津事件(訪日中のロシア皇太子が大津で警備の巡査に切りつけられた事件)。足尾鉱毒事件。
● 1894 年:日清戦争が始まる。
☆ 日本の 飛躍 示そう 日清戦[争]
日朝修好条規の締結以降、李氏朝鮮に対して宗主権を持つという立場の清と日本の間に、潜在的な対立関係が続いていたが、李氏朝鮮内部でも考え方が分かれて内争が続いた。1894年(明治27年)、朝鮮において日本と西洋の駆逐を主張する東学等の乱が起こり、朝鮮の閔妃は清に助けを求めた。清の出兵に対抗して日本も出兵、これをきっかけに日清戦争が始まった。翌年、日本が勝利して下関条約が結ばれ、朝鮮の独立の承認と併せて、日本は遼東半島や台湾などを獲得した(ただし遼東半島は同年の三国干渉で返還させられることになるが)。明治維新から、わずか27年で対外戦争に勝ち、日本の国力の飛躍を初めて海外に示した戦争であった。日清戦争の結果、中国(清)との冊封関係が解消された李氏朝鮮は、国号を「大韓帝国」に改めた(1897年)。
日清戦争後、欧米各国は競って清へ進出し"租借"を始めることになる。清では海外からの露骨な干渉に対する反感が高まり、これが1900年の「義和団事件」へとつながってゆく。
● 1898 年:米西戦争。
☆ スペインの 人は 悔しい 米西戦[争]
国内フロンティアの消滅後のアメリカ合衆国は、海外への食指を動かし始める。共和党のマッキンレー大統領(位1897-1901)は、アメリカ合衆国で対外的な帝国主義政策を始めた大統領と言ってよいであろう。1898年にはキューバ反乱を機に米西戦争を起こしてキューバを独立させ(但し1901に保護国化することになる)、フィリピン・プエルトリコ・グアムを獲得した。次のセオドア・ルーズベルト大統領(位1901-09)が行った、カリブ海地域への高圧的な外交(砲艦外交をちらつかせて有利な干渉を行う)は「棍棒外交」と呼ばれる。
【日】1898年は明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。ただし自由党系と進歩党系の抗争のために、わずか4ヶ月で瓦解。藩閥政治に戻ってしまう。
● 1898 年:変法自強運動。戊戌の変。
☆ 変法の 人は 悔しい 戊戌(ぼじゅつ)の変
日清戦争の敗戦によって、中国の知識人は危機感を強めた。康有為らは北京条約以降の洋務運動を批判し、1898年に変法自強運動(日本の明治維新に倣った立憲運動)を起こし、光緒帝を動かして、改革を試みた。しかし保守派は母后である西太后と結び、康有為らを失脚させて光緒帝を幽閉、3か月ほどで改革運動は失敗に終わった(戊戌の変)。
【日】明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。4ヶ月の短命で終了。
● 1898 年:ファショダ事件。
☆ フランスの 人は 悔しい ファショダ事件
アフリカ大陸の内部は、長らくヨーロッパ人にとって未知の領域であったが、19世紀半ばに探検が行われるようになって注目を集め、ヨーロッパ列強の進出が始まった。イギリスはカイロとケープタウンを結ぶように縦断的に、フランスはアルジェ・サハラ砂漠とジプチ結ぶように横断的に植民地の拡大を進めた結果、1898年にスーダン地方のファショダで両者が遭遇、フランスが現地に国旗を立てて、両国間に緊張状態が生じた。翌年フランスが譲歩して事は収まった。1904年には、ドイツに対抗するという観点から、この両国は方針を転じて対立関係を緩和し、英仏協商を結んだ。
【日】1898年は明治31年。最初の政党内閣である隈板内閣が成立。4ヶ月の短命で終了。
● 1899 年:ボーア戦争(ブール戦争)が始まる。
☆ 南アでの 違約 苦にせず ボーア戦[争]
オランダ人は17世紀ごろからケープ植民地に入植していたが(ボーア人と呼ばれる)、19世紀にイギリスに占領されて北へ逃れ、1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ共和国を建国、イギリスもこれらの両国を承認した。しかしその後、これらの地域で金鉱やダイヤモンド鉱が発見されると、イギリスがそれらを独占しようとして、1899年に両国に対して侵略戦争を始めた。独立を承認していた国を侵略するのだから違約だろうが、イギリスがそのことに思い煩うことはおそらくなかった。1902年にボーア人は屈服し、両国はイギリス植民地に併合される。
【日】1899年は明治32年。法権を回復した日英通商航海条約等が施行された。
● 1899 年:門戸開放宣言が出される。
☆ ジョン=ヘイ曰く 旧弊やめて 均等に
1899年、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、列強各国に対して門戸開放通牒を発した。その内容は、中国の主権の尊重と港湾の自由使用、商工業活動の機会均等を主張したものである。各国は返答を保留したが、翌1900年、ジョン=ヘイは通牒の内容が有効になったと主張した。つまりこれは他国よりも遅れて海外(アジア)進出に乗り出したアメリカの、帝国主義競争への割り込みのための策(方便)である。条約ではないので明確な拘束力はなかったとはいえ、満州事変までの期間、ある程度、各国に意識される指針となった。
【日】1899年は明治32年。法権を回復した日英通商航海条約等が施行された。
● 1900 年:義和団事件。
☆ 清朝の 日暮れを招く 義和団事件
戊戌の変のころ、清の国内では民衆による排外運動が盛んになっていた。山東では、義和団(白蓮教系の秘密結社)を中心として「扶清滅洋」をスローガンとする排外運動が起こり(1899年)、彼らは1900年に北京に入って公使館区域を占領、清朝もこれを暗に援助した。日本・ロシアを主とする8国は在留外国人の保護を名目に連合軍を組織して、北京の公使館を救った。1901年に北京議定書が調印され、清は巨額の賠償支払いを課せられただけでなく、列国による華北駐兵権も認めさせられた。この事件で、いよいよ清朝の末期が近づいた。
(山東での蜂起を義和団事件の始まりと見なせば年数は1899年であるが、ここでは北京入りと列国の介入の部分を「事件」と見なして1900年とした。)
【日】1900年は明治33年。上述の北清事変のほか、治安警察法制定。(労働者運動への規制強化)
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