納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(1801~1850年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1802 年:阮朝の成立。
☆ ピニョー来て 阮朝成立 祝おう! 福映
ベトナムでは、15世紀前半に成立した後黎朝の王室に力がなくなり、18世紀末に西山朝に代わったが、まもなくフランス人宣教師ピニョーの援助を得た阮氏(阮福英)が1802年にこれを滅ぼし、阮朝を成立させた。その後、19世紀半ばにフランス(ナポレオン3世)から、フランス人宣教師を阮朝が迫害したとの口実で干渉され、戦争を経てフランスの支配を受けるようになる。
(別の話だが、この年〔1802年〕の3月、フランスとイギリスの間でアミアンの平和条約が結ばれ、両国は一時的に停戦状態に入る〔結果的に早くも翌年5月に条約は破られるけれども〕。フランスは前年2月にはオーストリアともリュネヴィルの平和条約を結んでおり、第一統領ナポレオンとしては、フランス国内整備の時期。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。伊能忠敬は1800-16年の期間に全国測量を行っている。
● 1804 年:ナポレオン、皇帝に即位。(第一帝政)
☆ 皇帝と 言われ よろこぶ ナポレオン
1799年に統領政府をたてて、「第一統領」として事実上の独裁権を握ったナポレオンは、内外の施策を矢継ぎ早にこなしてフランス国民の支持を得るとともに、独裁体制を固めていった。1802年3月にイギリスとアミアンの平和条約の締結に成功して、圧倒的な国民の支持を獲得したナポレオンは、その勢いを利用する形で終身統領の是非の国民投票を行わせ、終身身分を獲得した。そして、元老院に憲法を改正させて実質的な帝政を確立する。1804年3月にナポレオンは「民法典」(ナポレオン法典)36章の公布を完了しているが(「所有権」〔特に土地の所有権〕が重視されており、ブルジョワだけでなく、革命で土地を獲得した農民の権利も擁護されている)、同月、参議院でナポレオンに世襲制を付与することが提案され、1804年5月18日の元老院令で「世襲の皇帝制」が宣言された。そして国民投票を経て、ナポレオンはついに皇帝の地位を得た(第一帝政)。戴冠式は12月2日、ノートルダム寺院で行われた。
(政治思想的に自由主義者であった作曲家ベートーベンは、ナポレオンを封建的圧政からの解放者として讃えるために交響曲第3番『英雄』を作曲したが、作曲が完了したときに、ナポレオンの皇帝即位を知って怒り、ナポレオンへの献辞が書いてあった楽譜の表紙を自ら破り捨てたというエピソードがある。ナポレオン戦争後、メッテルニヒによるウィーン体制下で、ベートーベンは反体制分子と見られていたらしい。)【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。1804年、ロシアのロシア=アメリカ会社支配人レザノフが、ロシア使節として長崎に来航し通商を求めた。幕府は12年前のラクスマン来航のときと同様に、鎖国政策をたてに要求を拒み退去させた。
● 1805 年:メフメト=アリーによるエジプト支配。
☆ メフメトは 引っ張れ これから エジプトを
エジプトは、16世紀前半からオスマントルコの支配下にあったが、ナポレオンによる一時支配の後の混乱に乗じて、1805年にメフメト=アリー(ムハンマド=アリー)が実力でエジプトを征し、その翌年オスマン帝国に、エジプト総督の地位を認めさせた。メフメトは、フランスの支援を受けて、エジプトの近代化を図った。1830年代にはエジプト=トルコ戦争も行ったが、ロシア・オーストリア・プロイセン・イギリス・フランスの複雑な干渉を招き、結局、彼の地位は、オスマン帝国の宗主権下でのエジプト総督にとどまった。やがてエジプトは、イギリスの保護下に置かれることになる。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1805 年:トラファルガーの戦い。
☆ トラファルガー いばれ 功績 ネルソン氏
イギリスは1802年に一旦、ナポレオンと平和条約を結んでいたが、それは1803年5月にイギリスによって破棄された。(フランスが貿易保護政策を継続したことがイギリスには不満だったようだ。)ナポレオンは対外支配を強める施策を続けながら1804年に帝位に就き、これを脅威と見たイギリスはオーストリア・ロシア・スウェーデンに呼びかけてと第3回対仏大同盟を結成した(1805年8月)。これに対抗してナポレオンはイギリス本土上陸にむけた作戦を本格的に開始した。しかし、そのために派遣したフランス・スペイン連合艦隊は、ネルソンが率いるイギリスの艦隊に「トラファルガー(スペイン南端部、ジブラルタル海峡近く)の戦い」で敗れた(1805年10月21日)。ロンドンのトラファルガー広場は、後にこのイギリス側の戦勝を記念してつくられたものである。もっともネルソン提督自身はフランス艦の狙撃兵に撃たれて戦死したので、自身の最大の功績を威張る機会はなかったわけだが、ネルソン氏の家族親族たちは、イギリスを守った提督の功績を誇りに思ったことであろう。
ナポレオンはイギリス侵攻には失敗したわけだが、同年12月、アウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアを破り(これはナポレオンの全戦歴の中でも、最も決定的な勝利と言ってよいようである。アウステルリッツは現在のチェコ共和国モラヴィア地方)陸上戦においては面目を保った。海上では負け、陸上で勝ったという形である。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1806 年:ライン同盟の結成。
☆ 解放を 祝おう! 結ぶぞ ライン同盟
ナポレオンはトラファルガーの海戦(1805年10月)に敗れたすぐ後、アウステルリッツの三帝海戦でオーストリア・ロシアを破り(12月)、状況を打開した。そして翌1806年7月12日、南西ドイツ地方の諸邦を合わせて「ライン同盟」を結成させ、自分の保護下に置いた。(最初の同盟参加国は、バイエルン、ヴュルテンベルクなど16の領邦。)これをもって神聖ローマ帝国は完全に消滅したことになる。ナポレオンは、建前としては「封建的圧政からの自由」を掲げていたかもしれないが、この同盟はオーストリアとプロイセンに対抗するというナポレオンの都合のための同盟なので、「解放を祝おう」というのも、建前の話である。
フランス革命戦争には当初からおおむね中立を守り、一時的にはハノーヴァー領獲得のためにフランスと同盟関係にあったプロイセンは、この頃、フランスに対する態度を転換させていた。プロイセンは同年、対仏大同盟に加わったが(第4回。イギリス・ロシア・プロイセン)、10月にはフランス軍のベルリン入城を招いてしまった。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1806 年:大陸封鎖令の発令。
☆ 通商は 封鎖を言われ 難しい
トラファルガーの海戦の敗退で、イギリス本土に侵攻できなかったナポレオンは、イギリスに経済的な封鎖による打撃を与えることを考えた。1806年10月にイエナの戦い(イエナは現ドイツ・チューリンゲン州)でプロイセン軍に勝利して、結果的にバルト海岸をおさえることになったナポレオンは、1806年11月に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発した。これは「ブリテン諸島を封鎖状態におく」ために、ヨーロッパ大陸諸国にイギリスとの通商を禁じたものである。(同時にフランスの産業がヨーロッパ市場を独占できる体制をつくろうという意図もあった。)確かにイギリスは経済的打撃を被った。しかし大陸側の諸国にもデメリットが大きくて離反しようという動きが絶えず、またロシアはこれに見切りをつけて密貿易を行ったりした。しかもこの施策によってフランス自体の国内産業も回らない状態となって国庫収入も減り始め、国内のブルジョワからも「大陸体制」の緩和要求が出てきたので、ナポレオン自身、1810年に妥協策を出さざるを得なくなった。ナポレオンが意図したような、イギリスを孤立させた「大陸体制」というものは実現しなかった。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1807 年:ティルジット条約の締結。
☆ 普・露連合 いやおうなしの ティルジット
ナポレオン軍は1806年10月のイエナの戦い(イエナは現ドイツ・チューリンゲン州)でプロイセン軍を破り、1807年6月にフリートラントの戦いでロシア軍を破った。ナポレオンは1807年7月にこの両国とティルジット条約を締結する。(仏-普と仏-露の2つの別個の条約なのだが、一括して「ティルジット条約」と呼ぶことが多い。ティルジットはバルト海南岸、現在はポーランドとリトアニアの隙間にあるロシアの飛び地の所。フリートラントもこのあたり。)この条約は、特にプロイセンにとって屈辱的な内容のものであったが、否応なしに条件を飲まされたわけである。プロイセンは領土の大半を失った。このころがナポレオンの全盛期である。他方、この屈辱的な条約の締結によって、プロイセンにおいて民族意識の自覚が促されることにもなった。カントの思想を継いだドイツの哲学者フィヒテが、この年の12月から翌年3月にかけて占領下のベルリンで行った連続講演「ドイツ国民に告ぐ」は、プロイセン復興のための民族精神をとりわけ高めた講演として有名である。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。翌1808年、間宮林蔵が樺太探検に赴いた。フェートン号事件発生。
● 1812 年:ナポレオンのロシア遠征。
☆ 人は 人に 敗れもするか? ロシアでは
1806年のナポレオンによる大陸封鎖令は、大陸側の各国にもデメリットがあって離反の動きが相次ぎ、そのような状況を見たロシアは1810年、封鎖令を破ってイギリスとの通商を再開した。ナポレオンはロシアを罰するために1812年に大軍を率いてロシア遠征を行った。まず6月12日に軍がロシア領内に侵入し、戦争が始まる。ナポレオン軍と正面衝突しても勝機のないロシア軍は撤退に撤退を続けざるを得ず、ナポレオン軍は9月にモスクワにほとんど何の抵抗も受けずに入城することになる。しかしロシアによる焦土作戦(自らモスクワの市街に火を放って退却)のために為す術がない。ロシア側との交渉を打診するも、ロシア側は故意に回答を遅らせ続けた。ナポレオン軍は食糧の現地調達がままならず、飢えと苛酷な寒さのために退却を余儀なくされた。10月19日に撤退を開始すると、退却するナポレオン軍の背後から、直ちにロシア軍の追撃が開始される。退却中も兵士や馬が餓死し、大砲・荷馬車など、軍用品の多くを置き去りにして失った。ナポレオンは12月18日にパリに帰還したが、遠征は完全な失敗に終わった。ナポレオン軍は、相手の軍に敗れたというより、飢えと寒さを利用したロシア人の作戦に敗れたのである。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1813 年:諸国民戦争。
☆ 諸国民 人は 勇むぞ ライプチヒ
1812年後半の、ナポレオンのロシア遠征失敗が、ナポレオン戦争におけるターニング・ポイントとなった。1813年10月16-18日に、ロシア・プロイセン・オーストリア連合軍はライプチヒの戦い(諸国民戦争とも呼ばれる)において大いに勇み、ナポレオン軍を退却せしめた。翌年には、連合軍が1月にライン川を越え、3月末にパリを占領した。ナポレオンは、まだ戦おうとしたが、連合軍からの要求を受け入れることを配下の元帥たちに勧められて皇帝を退位し、5月にエルバ島に流された。("退位"といっても"皇帝"の称号は保持され、"流された"といっても近衛兵を伴っていて、島の統治者のような感じだったようだが。)
(リズミカルな曲調が印象的な、ベートーベンの交響曲第7番は、1813年12月に、ナポレオン戦争の戦費への寄付を募るために行われたチャリティー・コンサートで初演されたらしい。そう思って聴くと、特に第4楽章などは「戦意高揚」という気分に相応しいような気もする。少々、先入観の過ぎる穿った聴き方かもしれないけれども。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1813 年:メキシコ独立宣言。
☆ メキシコの 人は 勇んで 独立宣言
アメリカ合衆国の独立やフランス革命の影響で、19世紀の前半には、スペイン・ポルトガルが領有する中南米植民地において、現地生まれの白人(クリオーリョ)による、本国からの独立運動が起こるようになった。(全般的には「現地白人」によるヨーロッパ本国からの独立運動であって中南米原住民による運動ではない。ただしメキシコの場合、最初に運動の端緒をつくった牧師イダルゴが現地人や混血のある白人の立場を重視していたので少々複雑なのだが。イダルゴは1811年に銃殺されている。)メキシコでは1811年ごろから独立運動が起こり、 1813年に独立宣言を発した。スペインからの独立達成は1821年になる。ただし運動を主導して独立達成に導いたクリオーリョのイトゥルビデは、単に自分の野心のために運動を利用したということのようで、翌1822年には自ら皇帝に即位してしまった。1年も保たずに失脚するけれども。(第一メキシコ帝国。1822-23年)
1810年代~1830年代に中南米の多くの国がスペイン・ポルトガルからの独立を果たしている。ボリビアも、その中の一例にあたる。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1814 年:ウィーン会議の開催。
☆ 戦勝を 祝いし人々 ウィーン会議
ナポレオンの退位後、フランスではタレーランの働きでブルボンの復権が決まり、諸国に亡命していたルイ16世の弟が4月にルイ18世(位1814-24)として即位した。(ルイの17世は?――王党派はルイ16世の処刑後、その息子が名目上、国王に即位したものと見なしていた。これがルイ17世〔位1793-95〕である。タレーランは三部会のときからフランス革命に関わり、ナポレオンの下では外相をつとめていた人物であるが、政治的信念などはなく、時々の情勢を察して動き方を決めるタイプの政治家だったようだ。腹の中では比較的早くからナポレオンの前途に見切りをつけていたらしい。)その後、1815年2月にナポレオンは、イギリス人監視人の不在中にエルバ島を脱してパリに戻り、再び帝位に就くことに成功する(3月20日)。しかし6月18日、ワーテルローの戦い(ワーテルローはベルギー、ブリュッセルのすぐ南)でウェリントン率いるイギリス・プロイセン連合軍に大敗して再び退位を余儀なくされ(100日天下)、7月末に大西洋の孤島セントヘレナ島へ流刑となった。そこで死を迎えることになる(1821年)。
一方、ナポレオンのエルバ島への追放の後、戦後処理を話し合うために、1814年9月からウィーン会議が開催された。オーストリア外相メッテルニヒが議長を務め、オスマントルコを除くヨーロッパ各国の君主や要人が参加した。開始から当分の間、各国の利害調整がまったく進まず「会議は踊る、されど進まず」状態であったが、翌1815年3月初めにナポレオンのエルバ島脱出の報がもたらされると合意形成を急ぐ気運が高まり、1815年6月にウィーン議定書を締結。この会議では「正統主義」(ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻す)が基本原則として採用された。この原則はフランス外相タレーランが提唱したもので、フランスは戦争の火元であったにもかかわらず、うまい具合にほとんど犠牲を払わずに済ませることに成功したのである。ただし、もちろん戦勝国同士の領土獲得の対立はあったし、正統主義といっても神聖ローマ帝国の復活はなく、代わりに「ドイツ連邦」が組織された(一応はフランクフルトに連邦議会が設置され、オーストリアが議長となったが、実態としては30を越える小国家の寄せ集めにすぎなかった。連邦会議はメッテルニヒによって、各地の自由主義の取締りのために利用された。しかし国名のような形で「ドイツ」が用いられるのはこれが初めてではなかろうか?)。この会議に基づいて現出した(反動的な)ヨーロッパの体制は「ウィーン体制」と呼ばれ、19世紀半ばまで影響を残した。また、第二次世界大戦後の米ソ対立に比して大局的に言うと、ナポレオン戦争後の19世紀において国際的に力を持って対立したのはイギリスとロシアであって、インドを植民地として持つイギリスと、勢力を南へ拡げたいロシアは、特に中央アジアにおいてせめぎ合いを続けるようになった(第1次アフガン戦争1838-42年、第2次アフガン戦争1878-80年)。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1814 年:スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良。
☆ 機関車の 改良 祝いし スティーヴンソン
世界初の実動する蒸気機関車は、1802年にトレヴィシックによって製作された。その後も蒸気機関車をつくる試みはあったが、1814年にスティーヴンソンが設計した蒸気機関車は、実用化につながる最初のものだった。(1825年にストックトン・ダーリントン間で初の蒸気機関車の公共使用が始まり、1830年にリヴァプール・マンチェスター鉄道で初の本格実用化。この蒸気機関車は「ロケット号」と名づけられた。最高速度は時速46キロ。)蒸気機関車は、1807年にフルトンが試作した蒸気船(ニューヨークのハドソン川で試運転に成功)とともに、それまでの交通・運輸の概念を根底から変えることになる。
(少し別の話であるが、この頃のイギリスは、前世紀から進められてきた産業革命のために、工場作業者の失業問題が噴出した時期で、ラッダイト運動〔機械打ち壊し運動〕がノッティンガムの靴下編み作業者の運動から始まり、全国に波及している〔1811-17年ごろ〕。「ラッダイト」の呼称は、先駆的に打ち壊しをやったラッドという名の織工に由来するとされるが、これは伝説的な存在のようである。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1815 年:神聖同盟。
☆ 人は 以後 自由を失う 神聖同盟
ウィーン会議が終わるとロシアのアレクサンドル1世(位1801-25)は、神聖同盟を発足させた(1815年)。これは「キリスト教の友愛精神に基づき、君主同士が平和維持のために連帯する」という趣旨の君主間盟約で、最初はロシア皇帝とオーストリア皇帝(外相メッテルニヒ)、プロイセン王との盟約であったが、その後、イギリスとオスマントルコを除く全ヨーロッパの君主が加わった。(イギリスとオスマントルコはアレクサンドル1世の"敵"だったわけである。)平たく言えば、ウィーン体制を維持できるように(革命騒ぎが起こらないように)連帯しましょうということで、実情としては自由主義運動を抑制するために利用された。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1819 年:イギリスがシンガポールを占領。
☆ イギリスの 人は 行くんだ! シンガポール
イギリスは、17世紀前半のアンボイナ事件(アンボイナはインドネシア東部の小島。オランダ人がイギリス勢力を駆逐するためにイギリス商人を虐殺した)以降、東南アジアからは遠のいていたが、18世紀末ごろから再び東南アジア方面へ進出するようになる。(ナポレオン戦争において、オランダが一時フランスに支配されたことも、ひとつの背景事情として、その傾向を助長したかもしれない。)1819年にはシンガポールを占領した。この地は1826年に、マラッカ・ペナンを合わせた「海峡植民地」の首都になる。19世紀末には「マライ連邦」が結成されて、ゴム栽培が行われることになる。
(オセアニア方面に関しては、1803年に「ニュー・サウス・ウェールズ」海岸〔現在のオーストラリア東岸地域にあたる〕を一周する海上探索が行われて、これがかつての「新オランダ」〔現在のオーストラリア西岸・南岸地域〕と一体の巨大な島大陸であることが初めて確認され、このとき「オーストラリア」と名づけられた。イギリスは1829年、オーストラリア全体をイギリスの領土であると宣言した。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1821 年:ギリシャ独立戦争が始まる。
☆ ギリシャ蜂起 人は 任意に 参加する
オスマントルコに対するギリシャ独立戦争は1821年に始まったが、ギリシャ人全体が一斉に蜂起したわけではない。ギリシャ人全体が一枚岩という状態でもなかったのである。3月からいくつかの地で蜂起と反乱が始まり、数か月で蜂起の動きが拡がった。戦争は8年に及び、中盤以降はギリシャに不利であったが、1827年に列強3国(英・仏・露)の介入が始まったことで戦局がギリシャ側に向き、1829年に(いろいろ問題は残ったにせよ)独立が承認される形で終わった。オスマントルコはウィーン会議に出ていないけれども、このギリシャの独立は、広い意味での「ウィーン体制」の最初の大きなほころびと見ることもできる。
イギリス人のロマン主義詩人、バイロンは、ギリシャ独立戦争に参加し、ミソロンギ(西ギリシャ地方の都市)の陣中で病死した(1824年)。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。1821年に『大日本沿海輿地全図』完成。(伊能忠敬は1818年に既に死去。幕府天文方の高橋景保らによって完成。)
● 1823 年:モンロー宣言。
☆ 不干渉 いやに 短い モンロー宣言
1810年代以降に中南米諸国に相次いで独立運動が起こったが、オーストリアのメッテルニヒは、これらの運動に干渉しようとした(メッテルニヒはウィーン体制の元締めのような人だし、オーストリア自体、ゲルマンのほかチェック人やマジャール人、そしてこの当時は北イタリアのラテン人なども擁しているので、自立運動の風潮など抑制したいわけである。)これに対し、第5代アメリカ大統領モンロー(任1817-25)は、1823年にモンロー宣言を出し、新大陸とヨーロッパの相互不干渉を唱えて、欧州(オーストリア)の動きに釘を刺した。アメリカ合衆国は、19世紀末にはパン=アメリカ会議を開くなど、南北米大陸の主導権を強めるようになる。モンロー宣言全体は、実際は長いものだけれども、その本質の部分は短く簡潔に表されている。(英語版ウィキペディアで、そのエッセンスは2つのパッセージに集約されているとの紹介がある。)
(モンローは、ジェファソン大統領の時代の1802年、対仏特使としてナポレオンと交渉し、ルイジアナの買収に成功している。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1825 年:ボリビアの独立。
☆ ボリビアの 人は 不幸を 脱します
中米のメキシコと同様に、南米のボリビアでも1809年頃からクリオーリョ(現地生まれの白人)による本国スペインからの独立運動が始まり、1825年に独立を果たした。これはヨーロッパ本国の白人からの「現地白人」の独立であって、南米原住民の独立ではないという点では、アメリカ独立(元々現地にいたアメリカ・インディアンが独立国を建てたわけではなく、移民してきた白人たちがイギリス本国から独立)と似たような構図の話である。「ボリビア」という国名は、ベネズエラやコロンビアなど南米諸国の独立運動を支援し、ボリビアの独立にも協力したシモン=ボリバルに因んでいる。ボリバルは、ボリビアの初代大統領にもなった(名誉職的な形ではあったが)。翌1826年にはボリバルの提唱で、旧宗主国スペインに対抗するラテンアメリカ諸国の会議が開催されて団結が図られたが、19世紀末になると、中南米に対してもアメリカ合衆国の主導性が強まることになる。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。1825年、異国船打払令。
● 1825 年:デカブリストの乱。
☆ 自由主義の 人は 不幸だ デカブリスト
ロシアは再版農奴制(近代以降、農奴が解放されていった西ヨーロッパとは対照的に、東ヨーロッパでは農奴制が強化された現象)と専制体制の下で、18世紀にも市民意識の醸成は見られなかった。しかしナポレオン戦争後、出征時に西側の自由と革命の空気に触れた貴族の青年将校たちによって、専制政治に反対する結社がつくられ始めた。1825年、アレクサンドル1世が死去し、ニコライ1世(位1825-55)が即位することになったが、その即位の日に青年将校たちは蜂起した。しかし反乱は1日で鎮圧される。反乱が起こったのが12月であったことから、この反乱者たちは「12月党」=「デカブリスト」と呼ばれた。ロシアではこの後も専制体制の下において、限られた知識人階級が改革の動きを主導しようという試みはあっても、成功はおぼつかないという状況が続く。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。この年、日本では幕府が異国船打払令を出している。この頃、日本に近づく外国船が、かなり多くなっていたわけである。
● 1829 年:ギリシャ独立戦争の終結。ギリシャの独立が認められる。
☆ オスマンの 人は 憎くて ギリシャ独立
オスマントルコからのギリシャ独立戦争(1821年~)は、1829年のアドリアノープル条約によってギリシャの独立(自治国化)が承認されて終結し、翌1830年にはロンドン会議において列国により完全独立が承認された。しかしその領土は狭く限定的に設定され、まだオスマントルコ領に多くのギリシャ人が残されている状態であった。この後も、ギリシャ人とオスマントルコの確執は続くことになる。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。前年の1828年にシーボルト事件が発生している。
● 1829 年:カトリック教徒解放法の成立。
☆ 公職に 旧教の人は 含まれる
19世紀前半のイギリスでは、政治・政策の諸改革が行われたが、信仰の自由という面では、1828年の審査律廃止(審査律は公職就任者を国教徒に限定する法律。1673年~)に続き、1829年にはカトリック教徒解放法が制定された。これらにより、国教徒以外のカトリック信者や新教の信者(ピューリタン)も、公職に就くことができるようになった。(カトリック教徒はアイルランドに多く、アイルランドの政治家オコンネルが、解放法制定のために尽力した。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1830 年:七月革命。
☆ 七月に 反動的な 人は去れ
ナポレオン戦争の後、フランスではルイ18世(ルイ16世の弟。位1814-24)が王位について、立憲君主政が行われた。ルイ18世も保守的であったが、次の(その弟の)シャルル10世(位1824-30)は議会を解散したり、亡命貴族に多額の補償金を出させるなど反動政治を強行した。(シャルルはフランス革命中、アルトワ伯として亡命貴族たちによる反革命運動の中心的存在だった人物である。)1830年7月、新聞社と議会の活動を理不尽に停止する勅令が出されたことがきっかけとなって、パリで革命が起こってシャルルは追放され(8月2日)、自由主義者として知られるオルレアン家(ブルボン家の分家)のルイ=フィリップが王位に迎えられた(8月9日)。これが「七月革命」である。新憲法も制定された。この革命の背後では大資産家が動いたと言われ、彼の行った七月王政も、実態として一般人民ではなくブルジョワの利害に基づく政治であった。(選挙資格は高額納税者に限られていた。)フランスでは1830年代から産業革命が始まり、それと並行して労働者層も発生して、社会構造が変わってゆく。
ロマン主義絵画として有名なドラクロワの「民衆を導く自由の女神」は、七月革命を題材にしたものである。また、この1830年にスタンダールの小説『赤と黒』が刊行されている。貧しい生まれの野心的な青年ジュリアン=ソレルが主人公で、タイトルはジュリアンが出世の手段にしようとした軍人(赤)と聖職者(黒)の服の色を表しているのだそうだ。(当時フランスの貧困層が浮かび上がろうとするには、軍人か聖職者になるしかなかったということのようだ。)そして5年後の1835年にはバルザックの『ゴリオ爺さん』が発表されたが、この小説においてバルザックは"人物再登場"(以前の作品で用いた人物を、新たな作品にも登場させて、その"同一人物"に別の形で言及する)という手法を用い始めている(社会のあらゆる部分を写実的に描く彼の小説群は、彼自身によって「人間喜劇」と名づけられた。バルザックは1850年に51歳で死去し、彼自身の「人間喜劇」構想は完結しなかったが、それでも再登場人物2千人あまりを含む長短編91編から成る"小説世界"を残している。)スタンダールとバルザックは近代小説の祖と見なされている。つまり、この頃から(奔放な想像力や感情を重んじるロマン主義文学に対して)、現実社会における色々な階層の人間の実情が写実的に小説に描かれるようになってきたわけである。
(ウィーン会議の際につくられて、ロシアの下に置かれた「ポーランド立憲王国」において1830-31年に反乱が起こっている。一旦は革命政府を立て、独立を宣言するところまでいったが、ロシア軍に総攻撃をかけられて鎮圧され、1832年には自治権を奪われて属領にされてしまった。7月革命後のフランス政府は軍事的には何も動かず、「ポーランド立憲王国」の消滅はウィーン体制を壊すという理由でロシアのポーランド政策の緩和を促すように各国に訴えはしてみたものの、応じる国はなかった。)
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1831 年:エジプト=トルコ戦争が始まる。
☆ エジプトの 人は 災難 トルコ戦[争]
オスマントルコに属しながらも、19世紀初めにメフメト=アリーによる自治を認められたエジプトは、領土の拡張(シリアの獲得)を目的として、1831年にエジプト=トルコ戦争(第1次)を始めた。経緯は複雑であるが、トルコ支援の名目で南下政策を進めたいロシア(ニコライ1世)は、オーストリア・プロイセンと結んでトルコに肩入れし、初めフランス・イギリスはこれに対抗する形で干渉した。しかし、後には(第2次。1839年~)イギリスはトルコ側についた。列国各国による干渉は、エジプトにとって災難という面が多分にあったであろう。結果的にエジプトは敗れた(ロンドン4国条約。1840年)。しかしエジプトはシリア進出を逃したものの、メフメト=アリーはエジプト・スーダンの総督の世襲権を認められ、実質的には国際的に独立した君主国同様に扱われることにはなった。勝敗という意味ではロシアが肩入れしたトルコ側が勝ったわけであるが、ロシアの南下の目論見は、イギリスの巧みな外交政策に阻まれた。翌1841年、上さらに5国海峡協定が結ばれてダーダネルス=ボスフォラス海峡は封鎖され、ロシアは黒海に閉じ込められてしまった。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1832 年:イギリスで第1回選挙法改正。
☆ イギリスの 人は 見つめる 選挙の改正
イギリスでは18世紀後半以降、産業革命の影響で人口分布が大きく変動した。しかし選挙区は以前のままで選挙が行われていたために、実情に照らして大きな不合理が生じていた。単に一票の相対格差ということではなく、有権者がほとんどいない選挙区があったり、新興都市の市民には選挙権がないという問題もあった。選挙法改正の運動が起こり(主として労働者階級による運動であったが、資本家階級も旧貴族の地主勢力に対抗するためにこれに乗った)、ホィッグ党が改正案を提出した。トーリー党が多数を占める上院は強い反対姿勢を見せていたが、2年前に起こったフランスの7月革命からの市民への心理的影響なども勘案して結局は譲歩する形となり、法案は成立した(1832年)。しかしこれは、ブルジョワの議会進出を容易にしたけれども、まだそもそもの改正運動の主体であった労働者にまで選挙権を拡大するものではなく、労働者の苛酷な労働状況も変わらなかった。したがってこの後、普通選挙を要求する「チャーチスト運動」と呼ばれる政治運動が展開されることになる。(労働者協会が人民憲章〔People's Charter〕を発表して運動を行ったので、Chartist と呼ばれた。Charter の語源はラテン語で「パピルス紙」の意味。「憲章」は紙に書かれているわけである。乗り物の貸切りの意味のチャーターも同じ単語で、紙に書かれた「貸切り契約書」から意味が転じた。)ヴィクトリア時代には、第2回選挙法改正(1867年、保守党・第3次ダービー内閣〔内務相ディズレーリ〕)で都市労働者や中産農民に選挙権が与えられ、第3回選挙法改正(1884年、自由党・第2次グラッドストン内閣)では農業労働者・鉱山労働者も選挙権を得た。
(ホイッグ党は1830年ごろから「自由党」、トーリー党は1840年ごろから「保守党」と呼ばれ始めている。この頃、政党の再編成も進み、おおまかには地主貴族は保守党、産業家や中産階級は自由党という構図になってゆく。〔自由党に属する"進歩的な"貴族もいたけれども。〕)
なお、第1回選挙法改正の翌年(1833年)、児童労働の労働時間制限を設けた「工場法」が制定された。同じ1833年、福音主義者の人道的な立場による主張から「奴隷制廃止法」も成立している。直接的な因果関係を言うのは難しいだろうが、同根の社会的潮流に関わる出来事と見えなくもない。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。
● 1834 年:ドイツ関税同盟の施行。
☆ 人は 見よ! ドイツ諸邦の 関税同盟
ウィーン体制下で始まったドイツ連邦(1815-66年)も、神聖ローマ帝国時代と同様に、政治的なまとまりはなかった。(諸邦の対立ということもあったが、ドイツ社会には"ブルジョワ"のような階層が形成されておらず、社会変革を目指すエネルギーがなかなか醸成されなかった。諸大学の学生間に多少「ドイツ統一」を目指す自由な気運が生じたこともあり、フランスの七月革命の後、その影響でいくつか革命の動きもあったが、メッテルニヒは連邦議会などを利用して、すべての自由主義運動を抑えつけた。)しかし経済的には、この時期に徐々に各地域間でまとまろうという気運も出てきた。(同盟内部でまとまった市場をを形成するということと、同盟外〔たとえばイギリス〕からの安い商品の流入を保護関税で防ぎ、同盟内で工業を育成するということがある。後者に関しては、農産物の自由貿易を望む地主貴族〔ユンカー〕は反対の立場であったわけだが。)プロイセンが中心になって、段階的に諸邦間で関税を廃するブロック化が進められ、1833年に全ドイツ的な「関税同盟」が結成され、1834年から実施された。これに加盟する諸邦は増えてゆき、1840年代にはオーストリアを除くほとんどのドイツ諸邦が参加するようになった。この後(19世紀半ばから)ドイツ地域においても産業革命が本格化することになる。また、この関税同盟は19世紀後半において、プロイセンを中心にドイツ統一が達成される下地をつくることになった。
【日】第11代将軍・徳川家斉(任1787-1837)の治世。前年から天保の大飢饉(1833-39年)が始まっている。
● 1837 年:ヴィクトリア女王の即位。
☆ 人は皆 即位を祝福 ヴィクトリア
イギリスのヴィクトリア女王は1837年に(18歳で)即位し、1901年に亡くなっている。この間、イギリスの発展は著しく、「ヴィクトリア時代」は「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」の時代と重なる。在位期間の後半には、自由党からグラッドストン(最初の首相就任は1868年12月)、保守党からディズレーリ(最初の首相就任は1868年2月)と有能な二大政治家も出て、イギリスにおいて二大政党による模範的な議会政治が実現した。大まかに言えば、自由党は内政の民主化に、保守党は国際的なイギリスの地位の保持に注力した。(ちなみに、第2回選挙法改正〔1867年〕は、保守党ダービー内閣〔内務相ディズレーリ〕で実現、第3回選挙法改正〔1884年〕は、自由党グラッドストン内閣で実現している。)ヴィクトリア女王は、保守党ディズレーリらの帝国主義政策を支持する一方、帝国主義政策に対して批判的なグラッドストンを毛嫌いしていたようだ。
(ヴィクトリア時代における英国の代表的作家というと、ディケンズあたりになるだろうか? 私はほとんど知らないのだが、資料を見ながら紹介すると、最初の長編小説『ピックウィック・ペーパーズ』が1837年に完成。そして『クリスマス・キャロル』〔1843年〕、『デイヴィッド・コパフィールド』〔1850年〕、『荒涼館』〔1853年〕、『二都物語』〔1859年〕など。)
【日】天保の大飢饉(1833-39年)を背景に、1837年に大塩平八郎の乱が発生。同年、日本に来港したアメリカの商船を撃退するという「モリソン号事件」も起こっている。この年、徳川家斉は将軍職を息子の家慶に譲ったが、まだ大御所として1841年の死去まで実権を持ち続ける。
ディズレーリ、グラッドストンの初の首相就任の年1867年は、慶応4年/明治元年(9月改元)。
● 1839 年:タンジマート(恩恵改革)が始まる。
☆ オスマンの 人 やみくもに 西欧化
かつてヨーロッパに脅威を与える大帝国であったオスマントルコも、18世紀以降は国力が衰え、19世紀に入ると領内エジプトの独自な動きやギリシャの独立もあり、国内改革の必要性が認識されるようになっていった。1839年に、時のオスマン皇帝アブデュル=メジドによって近代化改革のための詔勅が出されたが、この前後の改革運動はタンジマート(恩恵改革)と呼ばれる。上からの改革の形で、政治や軍事をイスラム的な旧体制から西欧的な近代体制に転じることが目標であった。しかしヨーロッパ資本への従属が進むという側面もあり、旧勢力からの抵抗も根強く、顕著な成果はあがらなかった。19世紀後半になると「青年トルコ」などによる違った動きがトルコ国内に出てくることになる。
【日】前々年にモリソン号事件があり、前年、渡辺崋山や高野長英は幕府の鎖国政策を批判、幕府は1839年に崋山・長英らを処罰した(蛮社の獄)。第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。大御所・家斉。
● 1840 年: アヘン戦争が始まる。
☆ 清の人は 知れ! イギリスの えげつなさ
イギリス人は元々、日常的にどういう飲み物を飲んでいたのかよく分からないが、東インド会社による東洋貿易で入ってきた茶(といってもイギリスでは緑茶ではなく紅茶であろうが)は、イギリス人の嗜好に合ったようで、18世紀には日常必需品として中国から大量に輸入されていたようである。最初のうちは銀を支払って茶葉を仕入れていたわけだが、大量の銀が中国へと流出を続けるのはイギリスとしてはたまらない。そこで銀の代わりにインド産のアヘンを売ればよいとイギリス人は考えた。(そのほか、清の制限貿易政策によっていろいろ不都合だったという事情もあるようだけれども。しかし私には詳しい知識はないので、インドで茶葉を生産させてそれを輸入すればよいという発想にはならなかったのか?と不思議に思ったりもする。ダージリンとかアッサムとか、現代ではインドの紅茶産地、有名ですよね?)そこでイギリスは18世紀末から、中国の茶を買う代わりに、中国にインド産のアヘンを売る(密輸)という形で利益を上げた。清では国内においてアヘン吸飲者の拡がって社会問題となり、また銀の国内外の出入りもこれに伴って1830年代には逆転したため中国(清)国内で銀価が高騰し、経済に混乱を来たした。これを問題視した清の政府は、林則徐を広東に派遣してアヘンの取り締まりを強化した(密輸業者の処刑など)。イギリス政府は、貿易商人や資本家の世論に押される形で、これを自由貿易を清に強いる機会と捉えて1840年に戦端を開いた。これがアヘン戦争である。(イギリス下院の自由党グラッドストンは、この「恥さらしな戦争」を始めることを批判したが、聞き入れられなかった。)清は敗戦を重ねて屈服し、1842年に南京条約が結ばれた。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。大御所・家斉。
● 1842 年:南京条約の締結。
☆ 清として 癒しにならない 南京条約
アヘン戦争は、開戦後イギリスの圧倒的優位で進んだ。そして(開戦翌年の1841年に一旦、交渉があったが決裂して)1842年の南京条約で戦争は終結した。南京条約においては、香港の割譲、上海など5港の開港、賠償金の支払いなどが決められ、その翌年、清は領事裁判権などを強いられる不平等条約も結ばされた。さらに1844年には、清はアメリカ・フランスとも同様の条約を結ばされることになる。ここで清の朝貢貿易体制が崩れ、半植民地化が始まってゆく。
【日】老中水野忠邦による天保の改革(1841-43年)の2年目。将軍は第12代・徳川家慶(任1837-53)。「大御所」家斉は前年の1841年に死去。
● 1846 年:イギリスで、穀物法の廃止。
☆ 保護 嫌う 人は よろこぶ 悪法廃止
ナポレオン戦争終結後の1815年に、イギリスでは、海外穀物の輸入再開による価格下落で、地主や貴族が不利益を被ることを避けるために、輸入穀物に高率の関税をかける「穀物法」が制定されていた。これは国力の盛んなイギリスの産業にとって実質的に利点のない制度だったので、自由貿易論者のコブデン、ブライトらが1830年代末に反対運動を起こし、1846年に廃止に至った。3年後の航海条令廃止と併せてイギリスの自由貿易政策が確立した。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。3年前1843年の水野忠邦の失脚後、老中・阿部正弘が実権を握った。
● 1846 年:アメリカ=メキシコ戦争。
☆ アメリカの 欲を賤しむ メキシコ人
アメリカ合衆国は、独立戦争後ミシシッピ川以東の領土を得た状態で始まったが、その後、西へ領土を拡げていった。「マニフェスト=デスティニー」すなわち「(西部への膨張は)明白な天命だ」という標語もつくられた(合衆国の白人にとって実に都合のよい天命だ)。フランスからルイジアナを買収、テキサス・オレゴンなどを併合した後、テキサスの領有範囲をめぐるメキシコとの主張の相違をきっかけに、1846年にアメリカ=メキシコ戦争を始めた。(アメリカ人とメキシコ人は相互に賤しむ関係だったと言ってよいだろう。)1年半の戦闘の後、メキシコ市は陥落し、1848年にアメリカのカリフォルニアまでの領有が決まった。つまり19世紀前半までで、アメリカ合衆国は北米大陸西岸までを領有する形になったのである。国土の3分の1を失うことになったメキシコは不服だったであろう。その翌年、カリフォルニアでゴールドラッシュが始まってみれば、なおさらのことである。
【日】1846年、アメリカの東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航して通商を求めたが、幕府は要求を拒絶した。第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。老中・阿部正弘。
● 1848 年:二月革命・三月革命。フランクフルト国民議会。
☆ 二月・三月革命で 旧勢力の 威は 弱る
フランスでは七月革命以降、産業革命が進んで産業資本家が力を持つ一方、労働者勢力も出現した。中小資本家や労働者は、当時の制限選挙を不服として、選挙法改正を要求する改革運動を起こした。しかし保守反動的なギゾー内閣(1840年~)は、この運動を禁じた。(改革派は取締法を逃れるために"宴会"の名目で集会を行ったりしたが、1848年1-2月、ギゾーはパリの"宴会"を禁止させた。)これに対して1848年2月にパリで暴動が起こり、国王ルイ=フィリップは亡命、臨時政府が成立した(二月革命)。共和政が宣言され、普通選挙制が宣言されたが、ここで始まったフランスの第二共和政は、その後わずか4年で終わって帝政に代わることになる。
二月革命の影響はドイツ・オーストリア各地にもおよび、自由主義・民族主義的革命が起こった(三月革命)。ウィーンで起きた暴動によりメッテルニヒはロンドンに亡命し、ウィーン体制は終焉を迎えた。(オーストリア支配下のハンガリー・ボヘミア・北イタリアにも民族運動が起こったが、これらは結局のところ制圧された。)ベルリンでは革命の結果、自由主義内閣が成立した。そして5月に、フランクフルト国民議会が招集されて、ドイツの統一が話し合われた。大ドイツ主義(オーストリアを含めた統一)と小ドイツ主義(オーストリアを除いたプロイセン主体の統一)が対立し、議会としては後者が勝利したものの(1849年3月)プロイセン王が皇帝就任を拒み(4月)、この統一の試みは失敗した。国民議会は政府軍によって解散させられ、革命は潰えた。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。老中・阿部正弘。
● 1849 年:ローマ共和国の成立と崩壊。
☆ 卑しくなるな! 青年イタリア 共和国
イタリアではルネサンス期以降も、教会や貴族の封建的な力が比較的大きく残って、ドイツと同様に新しい文化の担い手となるべきブルジョワ階層が発達せず、政治的にも分裂状態が続いていた。(地理的に外国からの干渉を受けやすかったという事情もある。)ナポレオンによる一時的な"解放"後も、すぐにウィーン体制で元の状態に戻された。(むしろ反動的な締め付けは厳しかった。フランスの七月革命の後に起こったいくつかの革命の動きは、オーストリア軍によって鎮圧された。)しかしフランスの二月革命は、イタリアで自由な統一国家の形成を主張していたマッツィーニ率いる「青年イタリア党」(1831年結成)にさらなる影響を及ぼした。マッツィーニは、かなり理想主義的な民族主義を信条としていたようで、民衆蜂起によるイタリア全土の統合と自由共和国の建国を望んでいた。彼らは1849年2月に「ローマ共和国」と称して政府を樹立した。しかし3月革命直後の混乱から勢力を回復してきたオーストリアの軍に北イタリアを圧迫され、最終的にはフランス軍に攻められて、共和国は同年9月に降伏する。このとき教皇(革命反対・現状維持の立場である)からの要請を受けてローマを攻めたのは、後にナポレオン3世となるルイ=ナポレオンである。理想をくじかれた青年イタリア党であるが(卑屈になることなく)、1861年のイタリア王国成立に向けて貢献してゆくことになる。
なお、前年(1848年)立憲内閣を組織させ、イタリア統一を目指してオーストリアに宣戦して戦っていたサルディニア王カルロ=アルベルトは、この年の7月にオーストリア軍に手痛い敗戦を喫し、権威を失墜したため息子に譲位した。この新王がヴィットリオ=エマヌエレ2世(サルディニア王としては位1848-61)である。カルロ=アルベルトは(君主だから仕方がないというところがあるが)共和派であるマッツィーニやガリバルディを信用できなかったようだ。
【日】第12代将軍・徳川家慶(任1837-53)。老中・阿部正弘。
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