納得して覚えるための
世界史年代☆ゴロ合わせ(1941~2000年)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆400字以内を目安に、それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1943 年:テヘラン会談。
☆ 反撃へ いくよ 三人 テヘラン会談
第二次世界大戦は、初めは同盟国側に勢いがあるかにも見えたが、1942年の夏以降には、連合国側の本格的な反撃が始まり、形成が逆転していった。ソ連はスターリングラードでドイツ軍を大破、英米軍はイタリアを解放した。1943年11-12月、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ)はテヘランで会談を行い、連合軍の共同作戦(フランス上陸・第二戦線)やソ連の対日参戦予定、戦後の安全保障組織の設立などを話し合った。どうして会談場所がテヘランだったのか不思議な感じがするけれども、当時、ドイツから攻撃を受けていたソ連にアメリカなどから援助物資を送るにあたり、イランが要地であったらしい。パフレヴィー朝イランは連合国の都合によって、かなりの混乱がもたらされたようである。(これに先行して同年11月にカイロ会談も行われている。ここではルーズベルト、チャーチル、蒋介石が対日基本政策を話し合った。)
1944年6月には、米アイゼンハワー(後に大統領になる人物〔任1953-61〕、共和党)の指揮下で連合軍がノルマンディーに上陸、8月にはパリにド=ゴール臨時政府を置いた。
(1945年2月にルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が行われ、ドイツ降伏後・戦後について話し合われた。このときソ連の対日戦参戦の秘密協定も結ばれている。)
1945年には連合軍がドイツに入り、5月にドイツは無条件降伏をした。同年7-8月に米英ソによるポツダム会談があり、日本は8月に原子爆弾を投下されて無条件降伏を決め、第二次大戦が終わる。
【日】1943年は昭和18年。昭和16年12月に対米開戦したが、昭和17年6月のミッドウエー海戦を境に戦局は一挙に日本に不利になった。昭和18年にはガダルカナル撤退。学徒出陣。
● 1946 年:国際連合の第1回総会が開催される。
☆ 平和へと 行くよ 矛盾を 乗り越えて
第二次世界大戦末期の1945年4月から連合国側50ヶ国によるサンフランシスコ会議が行われ、6月に国際連合憲章が採択された。これに基づいて同年10月に国際連合が発足(発効)し、翌1946年1月にロンドンで第1回総会が開かれた。国際連盟の失敗を教訓に、安全保障理事会の常任理事国には兵力制裁を含む権限が与えられた。また、議決方法は(全会一致ではなく)多数決であり、ただし安全保障理事会において常任理事国5ヶ国(米英仏ソ中)は特別に"拒否権"を持つという形になった。United Nationsが「国際連合」と訳されるわけだが、これはそもそも「連合国」のことであって、第二次大戦の主要戦勝国の都合の良いようにつくられた機関であるという基本的性質は残り続ける。(ただし1950年以降は、安全保障問題を「総会」〔ここでは"拒否権"はない〕でも扱えるようになって、実効策遂行の自由度が増した。)"敗戦国"であった日本が国際連合に加盟を果たしたのは1956年のことである。
因みに「中国」に関しては、当初は中華民国が国連加盟国だったわけである。これは1949年の中華人民共和国成立後も変わらずに、蒋介石の中華民国(台湾政権)が加盟国でありつづけた。1971年に、加盟国が中華民国から中華人民共和国に入れ替わったけれども、中華人民共和国は23年ほど「蚊帳の外」状態にあったわけである。
(この年の3月、アメリカを訪れたイギリス"前首相"チャーチルは、はやくも「鉄のカーテン演説」を行って、東西問題への警告を発している。)
【日】1946年は昭和21年。前年8月敗戦、ポツダム宣言受諾。昭和21年5月に極東軍事裁判開始。(~昭和23年11月まで。)日本国憲法公布(11月。施行は翌年5月から)。
● 1947 年:トルーマン宣言。
☆ 対ソ連 いくよ! 何でも トルーマン
ニューディールから第二次大戦までを指揮した米大統領フランクリン=ルーズベルトは、ドイツ降伏の前月にあたる1945年4月に脳卒中で死去し、副大統領トルーマンが後を継いだ。彼が、戦後に始まる米ソ対立(東西対立)時代の最初の米大統領となる。ソ連は占領・解放した東欧諸国に干渉して共産化を進めたので、彼はこの動きに対抗するために1947年3月にトルーマン宣言を出した。これはモンロー宣言以来の対欧州非干渉主義を翻し「外圧に抵抗する自由な民族を支援する」というもので、アメリカの積極的な他国干渉策による共産主義勢力の封じ込めを意図していた。(共産主義の進出を抑えるためなら何でもやる、ということである。)アメリカはギリシャ・トルコへの援助を始め(余力の無いイギリスがこれら2国への援助を打ち切ったのである)、また6月には、国務長官が欧州経済復興援助計画(マーシャル=プラン)を提示したが、このプランは"西側"だけに受け入れられることになる。
当然ながら、ソ連側はこれに対抗する動きをすることになる。1947年10月に、9ヶ国の共産党代表によるコミンフォルム(共産党情報局)が結成され、その宣言はアメリカが主導する西側陣営を批難するものとなった。
【日】1947年は昭和22年。6・3・3・4教育制度実施。日本国憲法施行。
● 1948 年:ベルリン封鎖。
☆ 対立の 重苦 しわ寄せ ベルリン封鎖
第二次大戦終戦前、ドイツの東側はソ連が占領していたが、各国が首都ベルリンに向けて進駐し、終戦後ベルリンは米英仏ソにより分割占領されることになった。結果的に終戦後、後の西ドイツにあたる部分は米英仏が、後の東ドイツにあたる部分はソ連が統治することになったが、ソ連占領地の中にあるベルリン市内はこれはこれで局所的に米英仏ソの分割統治の形になった(米英仏の区域はソ連占領地の中の飛び地状態)。1948年6月、米英仏は(四ヶ国による通貨改革の議論が物別れ状態になっていたために)西側地区において通貨改革を実施したのであるが、これに反発したソ連は、西ドイツ新通貨の西ベルリンへの流入を阻止するためとして、西ベルリンへの陸路の完全封鎖を始めた。ソ連は米英仏が屈服することを狙ったわけだが(まさに東西対立の「しわ寄せ」である)西側3国は生活物資の大空輸作戦を実施して対抗を続け、翌1949年5月にソ連は断念して封鎖を解いた。しかし東西対立は激化してゆくことになる。この年(1949年)の5月に西側でドイツ連邦共和国、10月に東側でドイツ民主共和国が成立し、東西ドイツの分裂は決定的になった。
(同年〔1948年〕2月、チェコスロバキアで共産党によるクーデターが起こっている。ソ連がクーデターの強行を指令したのである。ソ連と共産主義に対する西側諸国の不信感は、決定的なものになった。)
【日】1948年は昭和23年。極東軍事裁判に判決。
● 1948 年:イスラエル国の成立。第1次中東戦争が始まる。
☆ イスラエル 和平は遠く 世は荒れる
第一次大戦の際にイギリスは、パレスチナ地域に関して、アラブ人に対してはオスマントルコからの独立を約束(フサイン=マクマホン協定。1915年)、ユダヤ人に対してはパレスチナ復帰支援を約束(バルフォア宣言。1917年)して双方の協力を得た。(一次大戦中、アラブ人の対トルコ反乱を指導した「アラビアのロレンス」はイギリスの軍人・考古学者T.E.ロレンスである。)しかしイギリスは本当はどちらも想定しておらず(英仏露の密約、サイクス=ピコ協定。1916年)戦後パレスチナは英統治領になったので、この地でユダヤ・アラブ間の主権を主張する抗争が発生するようになった。(第二次大戦後の)1948年には、イギリスの委任統治が終わることになっていたので、国連はこの地をユダヤ人とアラブ人に分割する案を作成した。ユダヤ人はこれを受け入れて「イスラエル国」の独立を宣言したが、周囲のアラブ諸国(エジプト・サウジ・イラクなど)はこれを認めずに、イスラエルへ進軍し、第1次中東戦争が始まった(5月)。翌1949年6月に双方が国連の調停を受け入れて停戦し、イスラエルは当初以上の領地を手に入れた。しかし、この地域の紛争は先々続いてゆくことになる。
【日】1948年は昭和23年。極東軍事裁判に判決。
● 1949 年:中華人民共和国の成立。
☆ 中共成立 幾世 苦しむ 中華の民
中国の国民党と共産党は、1927年頃から抗争関係にあったが、日中戦争が始まる頃(1937年)から抗日のための第2次国共合作が成立した。しかし大戦末期から再び両者間の対立が深まった。戦後アメリカが、国民党と共産党の抗争を終わらせようと仲介を試み、中国の民衆もこれに期待したようなのだが、国民党の正規機関がこれを拒絶したために、民心は一挙に国民党から離れて共産党に集まった。(従来、国民党とつながっていたアメリカに対して中国民衆の反米感情も生じた。アメリカは"援助"に失敗したわけである。)そうなると国民党軍と共産党軍の勢力が急速に逆転してしまい、共産党軍が圧倒的な優位を得るに至った。(大戦中に混乱した農民たちを主に共産党が味方につけて勢力を伸ばしたという事情もあったけれども。)1949年10月、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言し、12月に蒋介石は台湾へ逃れた。
この年(1949年)の12月、毛沢東はソ連を訪れて2ヶ月滞在、翌1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでいる。(スターリンにしてみれば、これはNATOへの対抗という意味合いも強かったであろう。)
新政権はまず、土地改革に着手して農民に土地を与え(1952年8月完了)、続いて1953年から第1次五カ年計画を始めて、重工業の育成と農業の集団化に取り組むことになる。
(中華人民共和国については、日本では多数のメディアが無条件に礼賛する風潮の強い時期があったようだが、現代の常識に照らして、中華人民が共産党政治に「苦しむ」ことは、多々あったはずであろう。1958に毛沢東が、農業・工業の生産力を飛躍的に高めて国力を一気に増大させようという意図で始めた「大躍進政策」は、国内の実情や経済原理を全く考慮しない無謀なもので、数千万人という規模の餓死者を出したとされる。毛沢東は1959年に一旦、国家主席を退任し、後任の劉少奇は1962年に大躍進政策を〔尻拭い的に〕終わらせた。)
【日】1949年は昭和24年。ドッジ=ライン(赤字のない予算案)、シャウプ勧告(税制大改革)。湯川秀樹、ノーベル物理学賞。
● 1949 年:北大西洋条約機構(NATO)の成立。
☆ 反共の NATO 奇(く)しくも できあがる
戦後の米ソ対立の下、アメリカのマーシャル=プランは成果を上げ、ヨーロッパ西側の経済は回復に向かった。安全保障面でも両側の"陣営"を構築する動きが始まり、1949年には、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダなど反共産の陣営12ヶ国による北太平洋条約機構(NATO:ナトー)が結成された。これは奇しくも、アジアでの中華人民共和国が成立したのと同じ年にあたる。(ただし中華人民共和国は当初、共産主義そのものではなく"新民主主義"を標榜していたけれども。)加盟国の間で、共産主義勢力から締約国が侵略を受けた場合の共同防衛が取り決められた。加盟国は1980年代までに16ヶ国になる。(ソ連崩壊後は、機構の性質が変わり、東欧諸国も加盟するようになる。)
ソ連側は既に1947年に、9ヶ国の共産党代表による「コミンフォルム」〔共産党情報局〕を結成させており、これも政治経済支配だけではなく安全保障面の目的も伴っていた。しかし、さらにNATOに対抗する形で、ソ連を中心とする東側諸国でもいろいろな組合わせでの二国間相互援助条約が結ばれてネットワークが形成され、これが発展して1955年にワルシャワ条約機構が成立することになる。
1949年は、ソ連が(アメリカに対抗して)原爆を開発し、核実験に成功した年でもある。アメリカの軍事的優位は崩れたわけで、いろいろな意味で第二次世界大戦の「戦後」の世界の構図が、その形を現出させた年だったと言えるのかもしれない。
【日】1949年は昭和24年。ドッジ=ライン(赤字のない予算案)、シャウプ勧告(税制大改革)。湯川秀樹、ノーベル物理学賞。
● 1949 年:西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の成立。アデナウアーの首相就任。
☆ アデナウアー いくよ 苦難の 復興へ
第二次大戦後、連合国に分割占領されていたドイツでは、ベルリン封鎖の後、1949年に東西別々に政府が立った。西ドイツでは5月にドイツ連邦共和国が成立し、キリスト教民主同盟のアデナウアー(任1949-63)が9月に首相に就任した。(東ドイツでは10月にドイツ民主共和国が成立。)
戦後のヨーロッパでは当然、ドイツの再軍備を警戒する空気が強かったわけであるが、1950年の朝鮮戦争勃発以降、NATOを中心に西側の軍事体制のためにドイツの参画も必要という風向きになった。アデナウアーは「西欧に協力することでドイツ統合を目指す」という方針で、再軍備と産業の「奇跡の復興」、通商の復活・拡充を進めた。1954年に西ドイツ軍の創設とそのNATO加盟が認められた。
(アデナウアーは西ドイツの復興に貢献するが、同じく敗戦国を復興に導いた吉田茂と対比されることもある。もっともアデナウアーは吉田のような対米追従一辺倒ではないと言われたりもするが、それぞれの国の置かれた状況は同じではないので、単純な優劣の比較はできないだろう。)
【日】1949年は昭和24年。ドッジ=ライン(赤字のない予算案)、シャウプ勧告(税制大改革)。湯川秀樹、ノーベル物理学賞。
● 1950 年:朝鮮戦争の勃発。
☆ 金日成 一句 号令 朝鮮戦争
第二次大戦後、それまで日本に併合されていた朝鮮半島は米ソによって占領された。米ソそれぞれの複雑な干渉の下で、朝鮮として国家統一の機運がまとまりを見せることはなく、1948年、南では李承晩を大統領とする大韓民国が(8月)、北では金日成を首相(主席)とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、成立した(9月)。米ソ両占領軍は引き上げたが、両国の対立は激しくなった。そして1950年6月に北朝鮮が国境線を超えて奇襲を行い、南北間の朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮は、最初に南側から砲撃を受けたために反撃したと主張したけれども、国連は北朝鮮の行為を侵略と断定した(実質的に金日成が号令をかけたと判断したわけである。拒否権を持つソ連は欠席していた)。南には国連軍が(国連軍司令部はマッカーサーを総司令官として東京に設置された)、北にはソ連・中国が加担して(しかしソ連の直接的な介入は少なく中国が主であったが)、戦局は大きく二転してから膠着が続き、1953年7月に休戦となった。
(マッカーサーは戦争の途中でトルーマンから総司令官を解任されている〔1951年4月〕。トルーマンはこの戦争を限定的なものに抑えたかったが、マッカーサーは「勝利」にこだわり深入りしようとしたためである。)
【日】1950年は昭和25年。警察予備隊新設。この朝鮮戦争勃発によって、日本を西側陣営として利用したいアメリカは対日講和を急ぐことになる。1951年9月サンフランシスコ平和条約調印。これが1952年に発効となって、日本は占領を解かれる。
● 1952 年:エジプト革命が起こる。
☆ エジプトで 特急 公認 共和政
エジプトはアラビ=パシャの乱(1881年)以降、イギリスの保護下に置かれていたが、第一次大戦後からワフド党による民族運動が盛んになり、1936年にはスエズ運河にイギリス駐兵が残るという条件でエジプト王国の独立を達成した。第二次大戦後にはイギリスの撤兵を求める運動が高まり、1952年7月にクーデターが起こって王政が終わった(エジプト革命)。翌1953年6月には(特に急いで?)正式なエジプト共和国の発足に至った。初代大統領はナギブであったが、同志であったナセルは穏健なナギブを追放し、1956年に国民投票により大統領となった。(国名は1958年にシリアを併せてアラブ連合共和国と改称。)ナセルは1970年に没するまでその地位に留まり、スエズ運河国有化宣言と第2次中東戦争、第3次中東戦争に関わった。
【日】1952年は昭和27年。前年調印されたサンフランシスコ平和条約が発効し、占領終了。
● 1954 年:ジュネーヴ休戦協定。(インドシナ戦争、一応の終結)
☆ 仏は引く 期して休戦 ジュネーヴ協定
第二次大戦中、日本の占領下の仏領インドシナでは、ホー=チ=ミンが共産主義民族運動を展開していた。彼は戦後、「ベトナム民主共和国」独立を宣言した(1945年9月)。しかし、元々の支配国であったフランスから攻められて、1946年12月に戦争が始まった(インドシナ戦争)。フランスは南部に阮朝の王を立て、「ベトナム国」をつくって対抗したが、1949年に成立した中華人民共和国がホー=チ=ミンを支援するようになると、形勢はホー軍に有利となり、1954年3-5月にホー軍はほぼ決定的な勝利を収める。1954年7月にジュネーヴ会議で休戦協定が結ばれ8年間におよぶインドシナ戦争は終わった。(イギリスのイーデン外相が背後で尽力したようである。)フランスは宗主権を手放したが、ベトナムは南北に分かれた状態で残された。南は協定後、「ベトナム共和国」となったが政情が安定せず、やがて南ベトナムの反共政府を支援するようになったアメリカが、1965年から大々的に軍事介入(北爆)を開始し、南北間で本格的なベトナム戦争が始まることになる。
【日】1954年は昭和29年。自衛隊発足。
● 1955 年:バンドン会議(アジア=アフリカ会議)開催。
☆ 平和説く 午後のバンドン 十原則
1955年4月18~24日、インドネシアのバンドンに有色人種のみ29ヶ国の代表が集まり、会議が開催された。経済・文化協力、人種・民族問題の解決、世界平和のための協力など、平和十原則を決議。東西の対立軸とは別の第3の立場を打ち出そうという新しい動向として注目された。参加国は、インド・インドネシア・イラン・イラク・エジプト・エチオピア・カンボジア・サウジアラビア・中国・トルコ・日本・ベトナム・フィリピン・レバノンほか。(会議は午前・午後関係なく開かれただろうけれども、そこは御容赦いただきたい。)その後、中・印やエジプト・シリアの問題などで全体の足並みが揃わず、第2回は結局開催されなかった(1965年にアルジェリアでという話もあったのだが)。ただし2005年にバンドン会議50周年首脳会議が開催され、2015年には60周年記念式典が行われた。
【日】1955年は昭和30年。自由民主党結成。社会党統一。
● 1955 年:ジュネーヴ四巨頭会談。
☆ 平和説く 午後のジュネーヴ 四巨頭
1955年7月、ジュネーヴで、四首脳会談が持たれた。アイゼンハワー(米・共和党)、イーデン(英・保守党)、フォール(仏)、ブルガーニン(ソ)。(これも"午後"の必然性はないのだけれども。)ドイツ問題や軍縮問題などが議題となったが、具体的な成果はなかった。しかしながら会談の開催自体に、東西対立の「雪解け」(東西対話)の雰囲気を世界に印象づける側面もあった。(このような動きが出てきたことの背景としては、スターリンの死去〔1953年〕に加えて、アメリカも〔1952年〕ソ連も〔1953年〕両方が水爆を持ってしまったということの影響もあったのだろう。軍事力が「勝利」ではなく「共倒れ」をもたらすものになってしまっては、対話の必要性が出てくる。また、前年〔1954年〕にインドシナ戦争の休戦協定が成立し、「世界のどこにも戦争のない状態」になったことも、緊張緩和の気運に結びついていたものと思われるし、特にアメリカとしては、同年に有色人種国29ヶ国によって開催されたバンドン会議に対抗して、世界平和へのイニシアチブを示したいという意図もあっただろう。)
【日】1955年は昭和30年。自由民主党結成。社会党統一。
● 1956 年:フルシチョフによるスターリン批判。
☆「独裁は 引く頃合いか?」と フルシチョフ
ソ連のスターリンは1953年3月に脳卒中で死去し、その後、フルシチョフが第一書記としてソ連の中心的指導者となった。(スターリン独裁の再来を恐れた党幹部たちは、それまで比較的「小物」と思われていたフルシチョフを第一書記に選んだようである。)新政権は、集団指導性を強調し、国民生活の改善を唱えた。(スターリンは第二次世界大戦終戦直後から、必ず第三次世界大戦は起こると考えて、一貫して国民生活を犠牲にした重工業偏重の経済を行っていたわけである。)そしてフルシチョフとその一党は、1956年2月の第20回ソ連共産党大会において、スターリンの思想・政策に対する批判を行って世界(特に東欧の"衛星国")を驚かせ、その後の東側の非スターリン化を促すことになった。これも「雪解け」の一側面として見ることができるかもしれない。スターリンの方針を否定する3つのテーゼは、次のようなものであった。
(1)戦争は、避けられないものではない。
(2)資本主義国と社会主義国は平和に共存できる。
(3)暴力的革命ではなく、議会などを通じて平和に革命を成功させることも可能である。
【日】1956年は昭和31年。日本とソ連の間で「日ソ共同宣言」。1954年の吉田茂〔自由党〕内閣総辞職の後を受けて政権を担った鳩山一郎〔民主党〕は、社会主義国との関係改善に意欲的に取り組み、ソ連との戦後の国交を回復したのである。しかしながら、結果的にソ連が第二次対戦において日ソ中立条約を一方的に破ったことに関しては事実上不問となり、北方四島問題は先送りされ、シベリア抑留問題にも明快な解決はもたらされなかった。ソ連は1991年に崩壊したが、日本とロシアは未だに平和条約を締結していない。
● 1956 年:第2次中東戦争(スエズ動乱)が始まる。
☆ 2次で非難を ひどく被る イスラエル
エジプト革命(1952年)の後、ナギブの後に大統領に就任したナセルは、英米がアスワン=ハイ=ダム建設の資金援助の撤回を表明したのを機に、ダム建設費の捻出のために1956年にスエズ運河の国有化を宣言した。イスラエルは同年、運河の国有化を阻止したい英仏の支持・支援を受ける形で、パレスチナ問題で対立するエジプトに攻撃を加えた。エジプトは、イスラエル・英・仏の3国からの攻撃に曝されたが、国際世論は3国を強く批判して、国連の停戦決議により英仏は撤兵、イスラエルも国際世論からの非難を被った。敗れたエジプトは、かえってアラブ世界の指導的な立場を得ることになった。そしてもはや、イギリスもフランスも、国際的な大勢を動かせるような大国ではなくなったことが印象づけられた。
翌1957年1月、中東における政治的不安定(潜在的な共産主義勢力の台頭)を懸念したアメリカのアイゼンハワー大統領(共和党。任1953-61)は、中東において共産主義に対抗するという趣旨の「アイゼンハワー宣言」を出し、東西の雪解けムードを終わらせてしまった。
(「ひどく」→「ひと・く」→19と読み取ってもらいたい。)
【日】1956年は昭和31。日本とソ連の間で「日ソ共同宣言」。
● 1958 年:ヨーロッパ経済共同体(EEC)の発足。
☆ 自由化を 説く公約の EEC
1951年、西独・仏・伊およびベネルクス3国によって、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)条約が結ばれた。これは石炭・鉄鋼の生産・分配を共同機関によって管理するものであった。この共同体は、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)が成立するための素地となった。EECでは加盟国間の関税引き下げ、通商・農業政策の策定、資本・労働力の域内移動の自由化などが行われた。域内の経済自由化を進めているわけである。(ただしイギリスはこれに対抗して欧州自由貿易連合〔EFTA〕を発足。英・北欧三国・スイス・墺・ポルトガル。1959年~。イギリスには連邦国との関係性もあって、その兼ね合いでEECとの条件調整は難しかったのである。)後にEECは、ECSCと欧州原子力共同体(EURATOM)を合併して、1967年にヨーロッパ共同体(EC)に発展し、その後さらにイギリスなども加わってゆくことになる。
第二次大戦以降、アメリカの地位が他を圧倒し、ソ連が対立する巨大国になり、ヨーロッパ諸国がそれぞれ単独の力では太刀打ちできなくなった状況下では、必然敵に「ヨーロッパ統合」的な動きが出てくるわけである。(余談だが、この前年〔1957年〕、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功。アメリカはこの年〔1958年〕に人工衛星エクスプローラーを打ち上げた。)
【日】1958年は昭和33年。関門トンネル開通。東京タワー完成。
● 1960 年:アフリカの年。
☆ アフリカの 人の苦労を 認めよう
アフリカは、帝国主義の時代に大部分がヨーロッパ列国によって植民地化された。(ある統計によると、19世紀最後の四半世紀の間に、全大陸の8割が植民地化されたのだそうだ。)第二次世界大戦以降の戦後世界では、植民地支配を受けてきた国々の独立の動きが広範に起こるようになった。1950年にアフリカにある独立国は、わずか5ヶ国であったが(エジプト・エチオピア・リビア・リベリア・南ア)、この頃から次々に独立する国が現れた。1960年には一挙に17ヶ国が独立を果たして(そのうち13ヶ国はフランスのド=ゴールが独立承認措置を行ったことによる)、独立国の数は26になった。この年は「アフリカの年」と呼ばれる。脱植民地化の動きはその後も続き、アフリカ自体や、世界におけるアフリカの意味合いも(その直接的な結果の良し悪しはともかく)変わってゆくことになる。
【日】1960年は昭和35年。新安保条約の批准が衆議院で強硬採決されると、激しい安保闘争がまき起こった。批准案自然成立の後、岸信介内閣総辞職。
● 1962 年:キューバ危機。
☆ キューバ危機 ひと苦労にて 回避され
かつてアメリカの棍棒外交政策の下で保護国とされていたキューバは、F.ルーズベルト時代の善隣外交策への切り替えの下で1934年から独立国となっていた。その後、不安定な国情が続いたが(言葉上の建前としては「善隣外交」であっても、実際にはモノカルチャー経済を押しつけられ、米国資本に虐げられるような関係であって、そうとう反米的気分と親米政権への批判的気分が醸成されていたらしい)、1959年に革命が起こって親米政権が倒され、首相になったカストロは1961年に社会主義を宣言した。カストロはアメリカから敵視されることになり、冷戦下でソ連へ接近することになる。ソ連(フルシチョフ)はこれを利用して、キューバにミサイル基地の建設を密かに始めた。(当然、米国の主要部分が射程に入ることになる。)1962年にこの動きを察知したアメリカのケネディ大統領は、10月22日にミサイル基地撤去を要求、キューバ海上封鎖によるミサイル持ち込みの阻止を表明した。ソ連が一旦これを拒否し、一時は核戦争勃発寸前かとも思われる緊張状態が続いたが、28日にフルシチョフが譲歩し、危機が回避された。
J.F.ケネディ(任1961-63)は、翌1963年11月、遊説中に暗殺されることになる(46歳)。その背景事情はいまだに不明。現在も、彼を「清新な政治家」として過度に美化し、神話化しているような言説もある程度あるようだ。彼はテレビというメディアの効果を最大限に活かして当選した最初の大統領のような感じであるし、彼自身の意図ではないにせよ、自分が衝撃的な形で暗殺されるシーンも結果的に映像に残すことになったので「神話化」される要素が多分にあることは頷ける。しかしながら、そういう「虚飾」の部分を除いて考えて、彼の短かった任期における成果をどのように評価できるのか、公平に言えば難しいのではないだろうか? 彼の「ニュー・フロンティア」政策なども、穿った見方をすれば、マスコミ・大衆向けの空疎なかけ声にすぎなかったような感じもするし、キューバ危機・国際平和問題や人種問題への対応も、状況に対する対応として正解だったとしても、結果的にこれ以外のやり方があったのかどうか疑問である。ケネディはベトナム戦争の発端部分での推進役だったという面もあるし、元々ケネディ家はマフィアとの関係が深い(それが選挙運動に利用されたらしい)ことも指摘されている。なかなか「清潔・清新」な政治家というイメージで括るのは難しそうな気がする。
【日】1962年は昭和37年。国産第1号原子炉点火。
● 1963 年:部分的核実験停止条約。
☆ ひと苦労 三国間の 核停止
第二次大戦後、核開発と核配備を東西で競う時代になったが、1958年以降、ジュネーヴで米・英・ソの3国間の核実験停止会議が行われ、難航の末1963年に部分的核実験停止条約が調印された。(本当ならば核兵器自体の製造を禁止したり、保有量を制限・管理したりということが望ましいわけだが、一挙にそこまでやるのは到底無理なので、せめて「実験」だけは止めようというわけである。)3国間で核実験の停止について決めたものであるが、地下核実験に対する制限はなく、違反に対する制裁規定もなかった。また中国・フランスが参加していないなど、課題を多く残した形での条約締結であった。(フランスは1960年に、中国は1964年に核保有国になった。中国〔中華人民共和国〕は1971年まで国連にも加盟しておらず、国際的にまったくの"野放し状態"であった。)
【日】1963年は昭和38年。日本がOECDに加盟。テレビアニメ『鉄腕アトム』放映開始。
● 1964 年:アメリカ、公民権法の制定。
☆ 黒人の 重苦 無視せず 公民権[法]
アメリカでは、奴隷解放宣言の後も、黒人に対する政治的・経済的・社会的な差別が残り続け、特に第二次大戦後に差別撤廃運動が盛んになった。1950~60年代に公民権闘争を展開したキング牧師の活動は、アメリカ社会において大きな意味を持った。公民権法(黒人人種差別撤廃法)が1964年に制定されたけれども、キング牧師は1968年に白人暴徒に暗殺されている。アメリカの黒人問題は、いまだに解決されていない問題である。
【日】1964年は昭和39年。東京オリンピック開催。
● 1965 年:ベトナム戦争(アメリカの北爆)が始まる。
☆ 米[国]介入 酷く むごいぞ ベトナム戦[争]
ベトナムでは、ジュネーヴ休戦協定後も国が南北に分かれており、南ベトナムは政情が安定せず反政府ゲリラの活動が活発になっていった。アメリカは南ベトナム政府を支援していたが、反政府運動の背後に動いている北ベトナムを討つという名目で、1965年に北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始し、南ベトナムに米軍を派遣して政府軍を援助した。しかし戦争は泥沼化し、結局のところアメリカは有効な成果を上げることなく、パリ和平協定を結んで完全撤退した(1973年)。1975年には北ベトナムに攻められて南ベトナムのサイゴンが陥落した。1976年、統一されたベトナムは「ベトナム社会主義共和国」となった。
【日】1965年は昭和40年。日韓基本条約。朝永振一郎、ノーベル物理学賞。
● 1965 年:インドネシア、九・三〇事件。
☆ 九・三〇 酷く露骨な 政変劇
オランダ領東インド諸島では、第二次大戦後、スカルノがインドネシア共和国を宣言して、1949年にはオランダから独立を達成していた。スカルノ大統領は民族主義・イスラム教・共産主義に基づく独裁体制を取っていたが、1965年に九・三〇事件(共産党系によるクーデターかとも言われるが真相はよく分かっていない)が起こって失脚し、結果的にこれを鎮圧した軍部右派のスハルトが1968年に大統領になり、共産党勢力は一掃された。
(現在、日本でタレント業もやっているデヴィ夫人は、スカルノの第3夫人だった人である。元々赤坂の高級クラブで働いていて、1959年に「日東貿易の秘書」の名目でスカルノの下に送り込まれたというが、詳しいことは不明。)
【日】1965年は昭和40年。日韓基本条約。朝永振一郎、ノーベル物理学賞。
● 1966 年:文化大革命が始まる。
☆ 文革 掲げて 一句 朗々 毛沢東
中華人民共和国では、1958年から毛沢東が「大躍進」と称して集団化政策の下で産業を推進しようとしたが、拙劣な産業振興政策によって経済は著しく混乱した。毛沢東に代わって1959年に国家主席になった劉少奇は、集団化を抑制して、個人の利益にも配慮する形で経済復興に成功した。そのような状況下において、毛沢東は1966年頃から、軍の実力者、林彪と結んで「文化大革命」と呼ばれる社会改革運動を始めた。彼らが学生を主体とする紅衛兵を組織して、資本主義的と見なされる「実権派」への激烈な攻撃を展開した結果、多くの文化人・政治家・軍人が粛清され、劉少奇は失脚した。つまりこれは劉少奇を"資本主義的"と見なした毛沢東による劉の勢力の打倒と、毛沢東の復権・毛沢東思想の徹底のための運動だったわけである。毛沢東は再び権力を握って毛沢東思想に基づく政策を進め続けて1976年に死去。1977年にようやく文化大革命の終結宣言が出された。(毛沢東という指導者は、政治的運動を組織して抗争を行い権力を握ることには長けていたかもしれないが、国家の経済や産業をよい方向へ導くための見識は欠落していたと評してもよいのではなかろうか。)
【日】1966年は昭和41年。三里塚闘争(成田闘争)が始まる。TBS系で「ウルトラ」シリーズが始まる。
● 1967 年:ヨーロッパ共同体(EC)の成立。
☆ 一苦労 なんでも統合 ECへ
1958年に成立したヨーロッパ経済共同体(EEC)と、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)およびヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が統合される形で、1967年にヨーロッパ共同体(EC)が成立した。元々の仏・西独・伊・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクに加え、1972にはイギリス・アイルランド・デンマークも加わり、これ以降は拡大ECとも呼ばれる。 1993年にはヨーロッパ連合(EU)へ発展し、2015年現在のEU加盟国は28ヶ国である。
【日】KDDが日米間の通信衛星中継業務を開始。上越線新清水トンネル開通。
● 1967 年:東南アジア諸国連合の成立。
☆ 一苦労 ならんで中立 ASEAN 五ヶ国
1967年に、東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成された。加盟国はタイ・マレーシア・シンガポール・インドネシア・フィリピンの5ヶ国。経済・社会・技術・行政の協力を趣旨としたが、1970年代になると中立地帯構想を打ち出して、政治・外交・安全保障連合の意味合いを強めている。
【日】KDDが日米間の通信衛星中継業務を開始。上越線新清水トンネル開通。
● 1967 年:第3次中東戦争。
☆ 第3次 ひどく虚しい エジプト軍
1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)の後も、イスラエルとエジプトは対立を続けた。1967年に国連軍が撤退すると、エジプトのナセルはアカバ湾(イスラエルの紅海への通路)を封鎖した。これに対してイスラエルは、エジプト・シリア・ヨルダンに電撃的な襲撃を行い、6日間でシナイ半島を占領した。エジプトはシナイ半島を奪われたわけである。国連決議で休戦が成立した。
【日】KDDが日米間の通信衛星中継業務を開始。上越線新清水トンネル開通。
● 1968 年:プラハの春。チェコ事件。
☆ 一苦労 始まるプラハ 春過ぎて
チェコスロバキアでは1948年に共産党政権の「チェコスロバキア社会主義共和国」が成立していたが、1960年代に経済が停滞し、民主化運動・政府批判が行われるようになった。1968年に第一書記に就任したドプチェフは、(社会主義国でありながら)民主化改革の方針を打ち出し、首都プラハは、華やかな西欧諸文化が現れるなど、一気に自由な空気に満ちた。これは「プラハの春」と呼ばれるが、同年8月になると、ソ連のブレジネフがチェコへの軍事弾圧を決行してドプチェクらを連行してしまい(チェコ事件)、民主化は遠のいた。チェコスロバキアで社会主義政権が倒れて民主化が起こるのは、1989年のことになる。
【日】1968年は昭和43年。日本のGNPが資本主義国第2位になった。
● 1969 年:西ドイツ、ブラントが首相に就任。
☆ ブラントは 一苦 労苦の 東方策
西ドイツでは、1969年にブラントが首相に就任した。彼は社会民主党に属していたが、自由民主党と連立を組むことで政権交代を起こしたのである。ブラントは、ソ連と武力不行使の条約を結び、ポーランドとの国交正常化、東ドイツと「両ドイツ基本条約」(平和共存条約)を結ぶなど、東側との積極的な外交を進めた。彼は1971年にノーベル平和賞を受けている。
【日】1969年は昭和44年。NHK-FM、本放送開始。
● 1972 年:米、ニクソン大統領の訪中。
☆ ニクソンが 幾難 踏み越え 訪中し
アメリカは、中国において1949年に中華人民共和国が成立した後も、これを公式に認めず、台湾の中華民国政府を正式の中国代表と見なすスタンスを取り続けた。しかし1971年に国連で、中華人民共和国政府が中華民国(台湾政府)に代わって代表権が認められると、1972年には米ニクソン大統領が中華人民共和国を訪問した。(前年にキッシンジャーが極秘で訪中し、周恩来との間で、お膳立てをしていた。)以降、米中関係の改善が図られるようになる。それまでの経緯からすると、アメリカにとって共産主義国である中華人民共和国と関係改善をはかることは、相当多難な方針転換であったであろう。
【日】1972年は昭和47年。沖縄返還。日中国交正常化。浅間山荘事件(新左翼組織・連合赤軍の5人が軽井沢保養所「浅間山荘」で約9日間、人質をとって立てこもった事件)。
● 1973 年:第4次中東戦争。
☆ ひと苦難 みんなが困る 4次中東
エジプトでは1970年にナセル大統領が死去し、サダトが後を継いだが、彼は1973年に、シリアとともにイスラエルに攻撃をかけ、第4次中東戦争を起こした。エジプトはシナイ半島の一部を奪回したが、この戦争の際、アラブ石油輸出国機構が原油生産を減らし、非友好国への石油輸出の停止・制限を行う石油戦略を行ったことから、その経済的影響が全世界に波及し、オイル・ショックと呼ばれた。 なお、この翌々年の1975年に、オイル・ショックによる不況への経済的課題を話し合うために、フランスで第1回先進国首脳会議(サミット)が開かれ、その後も毎年サミットが開催されることになった。
【日】1973年は昭和48年。円の変動相場制移行。江崎玲於奈、ノーベル物理学賞。
● 1978 年:イラン革命が始まる。
☆ イランにて 人の苦難は 革命を呼ぶ
イランのパフレヴィー朝の下では、1960年代から国王の主導で、白色革命と呼ばれる上からの近代化政策が強引に押し進められた。一定の成果も認められるものの、インフレと貧富の差によって国民生活は圧迫され、抑圧される状況が続いた。そのような中で、宗教指導者ホメイニが(国外追放されながらも、海外から)進めてきた反王政運動が1978年に全国に拡がった。翌1979年には国王が国外に逃れ、ホメイニ政権によるイラン=イスラム共和国の樹立が宣言された。パフレヴィー朝時代のイランは(近代化策に伴う形で)親米的であったが、革命後の新政府はイスラム原理主義を唱え、反米・反ソの政策を取るようになった。
【日】1978年は昭和53年。成田空港開港。
● 1978 年:日中平和友好条約。
☆ 日中間 幾難 晴らす 友好条約
第二次大戦後、中国では中華人民共和国が成立したが、日本は長く正式な国交を持たなかった。1972年にようやく田中角栄総理により日中国交正常化が行われ(友好のしるしに中国から日本へパンダが贈られ上野動物園に来た)、そのときの共同声明を基調として、1978年に日中平和友好条約が結ばれた。
【日】1978年は昭和53年。上述の日中平和友好条約調印のほかに、成田空港開港。キャンディーズ解散。TBS『ザ・ベストテン』放映開始。
● 1979 年:ソ連のアフガニスタン侵攻。
☆ アフガンで 幾難 苦境の ソ連軍
1978年、アフガニスタンには共産主義のアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する反政府武装勢力が蜂起し、ほぼ全土を支配した。これに対してソ連が翌1979年に軍事介入を開始して、10年後の撤収まで長い戦闘が続いた。ソ連は政府に新たな大統領を立ててこれを支援を行い、アメリカは反政府の抵抗勢力側を支援した。ある意味で、ベトナム戦争と逆のような構図である。このような状況がタリバンという組織を醸成する背景ともなった。また、このときCIAなどが侵攻へ対抗させるために訓練したイスラム義勇兵が、アルカイダの起源になったともいわれる。
(西側諸国はソ連のアフガン侵攻への抗議として1980年のモスクワオリンピックをボイコットした。)
【日】1979年は昭和54年。上越新幹線の大清水トンネル貫通。NECがパソコン「PCー8001」発表。ソニー、携帯ヘッドホンステレオ「ウォークマン」発売。
● 1980 年:イラン=イラク戦争が始まる。
☆ 引くは お終い 8年続いた イラ=イラ戦
1980年9月、イラクはイランの空軍基地10ヶ所の爆撃を行い、イラン=イラク戦争が始まった。原因は単純ではなく、シャトル=アラブ川の使用権の問題、スンナ派(イラクの政権)とシーア派(イラン)の対立、革命で成立したイランの新体制に対する警戒感、イラクで政権を掌握したサダム=フセインの野心などが複合的な要因として働いたものと思われる。米ソはそれぞれの思惑からイラクを援助。両国とも、なかなか手を引くわけにはいかずに戦争は長引き、ようやく1988年に国連の調停により停戦が実現した。停戦直後にイランのホメイニが死去する。
(日本でタレント業をやっているサヘルという女性はイラン出身。イラン=イラク戦争で孤児となり、8歳のとき養母とともに日本に来たとのことである。)
【日】1980年は昭和55年。日本の自動車生産台数が世界1になる。翌年、福井謙一、ノーベル化学賞を受賞。
● 1987 年:ソ連で、ペレストロイカ(改革)が始まる。
☆ 民主化へ 幾夜(いくや)も悩んで ペレストロイカ
1987年、ロシア革命70周年記念軍事パレードにおいて「民主主義、平和、改革(ペレストロイカ)、加速」の看板が掲げられ、「ペレストロイカ」の語はソ連に広く浸透した。共産党書記長のゴルバチョフが社会主義の枠内での改革を提唱したものであるが、国民の意識の高まりは、むしろソ連の体制を崩壊させる方向に向かった。1991年にソ連は崩壊する。ソ連崩壊は、1989年のベルリンの壁の崩壊とともに、世界の構造が大きく転換することを表す象徴的な出来事であった。
【日】1987年は昭和62年。国鉄の分割・民営化が行われ、JR.発足。
● 1991 年:湾岸戦争。
☆ 湾岸で 一苦 悔いなし 多国[籍]軍
イラクは、イラン=イラク戦争によって国家財政が極度に悪化し、サダム=フセインは原油価格が低下して外貨をかせげない状況に苦慮していた。イラン=イラク戦争停戦2年後の1990年、イラクは石油の増産を続けていた隣国クウェートに侵攻、これに対して、翌1991年1月には多国籍軍がイラクへの爆撃作戦を開始、湾岸戦争が始まった。2月には多国籍軍がクウェートを解放、停戦が成立した。停戦後のイラクは多国籍軍の監視下に置かれるものの、サダム=フセイン政権は存続した。
【日】1991年は平成3年。バブル景気の崩壊が始まる。
● 1993 年:ヨーロッパ連合(EU)の発足。
☆ 国境を 低く下げよう EUで
ECが発展して1972年に成立した拡大ECは、さらに発展の動きを見せて、1993年にヨーロッパ連合(EU)が発足した。21世紀に入ると、東欧の国からも加盟国が出るようになる。加盟国間の垣根は低くなり、域内自由化が進められているが、その後、問題・課題もいろいろ出てきている。2015年現在、加盟国数は28ヶ国になっている。
【日】1993年は平成5年。細川連立内閣成立。新幹線「のぞみ」が山陽新幹線で運行開始。
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