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《樺沢の訳書》No.7

素粒子標準模型入門 (2005/10)

W.N. コッティンガム(著), D.A. グリーンウッド (著),

樺沢 宇紀 (翻訳)

 

単行本: A5判, xvi+316ページ

出版社: シュプリンガー・フェアラーク東京

発行日: 2005/10/23

ISBN-10: 4431711759

ISBN-13: 978-4431711759

*2012年に版元が丸善出版に変更。

素粒子標準模型入門 (2012/7)

W. N. コッティンガム (著), D. A. グリーンウッド (著),

樺沢 宇紀 (翻訳)

 

単行本: A5判, xvi+316ページ

出版社: 丸善出版

発行日: 2012/1/20 (発売日: 2012/7/17?)

ISBN-10: 462106195X

ISBN-13: 978-4621061954

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◆ 原書

 W. N. Cottingham and D. A. Greenwood,

 An Introduction to the Standard Model of Particle Physics,

 Cambridge University Press, 1998.

 ISBN: 0-521-58832-4

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原書 底本

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原書 2nd ed.

◆概要

 本書は理工系の学部上級から大学院初年の学生を対象として、素粒子物理学における標準理論(最小の標準模型)の概要を本格的に解説した教科書である。読者の水準に充分に配慮をして、過度に専門的な内容に深入りすることを避けながら、大局的に要点を抑えた的確な構成と記述によって、標準模型の理論構造を明快に提示してある。また模型の正当性を支持する主要な実験結果も、よく整理した形で紹介されている。素粒子論の基礎を習得しようと考える理工系学生のみならず、おそらくこの分野に関心を持つ関連分野の研究者・技術者にとっても有用な、正統的で完成度の高い、優れた素粒子論の入門書である。

◆ 目次[→ 詳細

 第1章 素粒子物理の概観

 第2章 Lorentz変換

 第3章 Lagrange形式

 第4章 古典電磁気学

 第5章 Dirac方程式とDirac場

 第6章 自由空間におけるDirac方程式の解

 第7章 荷電粒子場の電磁力学

 第8章 場の量子化:量子電磁力学

 第9章 弱い相互作用:低エネルギー現象論

 第10章 自発的な対称性の破れ

 第11章 電弱ゲージ場

 第12章 レプトンのWeinberg-Salam理論

 第13章 Weinberg-Salam理論の検証

 第14章 クォークの電弱相互作用

 第15章 ウィークボゾンの強粒子崩壊

 第16章 強い相互作用の理論:量子色力学

 第17章 量子色力学の計算

 第18章 小林 - 益川行列

 第19章 量子異常

◆ 訳書中の図面サンプルなど→

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◆ 内輪話

①この書籍に対する訳者の見方

 素粒子論を通俗解説以上の水準で学びたい場合には、「場の量子論」の教科書に取り組まなければならないものと見なされてきた。(今も大勢はそうかもしれない。)この分野を専門的に学ぶ学生ならば、時間をかけてそうすればよいかもしれないが、これでは専門外の者が(理工系であっても)素粒子論の概要を学べるチャンスは事実上ないようなものだ。計算の技術的側面に煩わされて量子電磁力学を習得する前におおかた沈没、レプトンやクォークの理解にまで到達することはほとんど不可能だろう。

 本書は、上述のような観点から見て、極めて画期的な教科書だと私は思った。ダイヤグラム計算などの技術的な話は省いてある。しかし局所的ゲージ原理を指針として素粒子の標準理論のラグランジアンがどのように構築されているのか、(一般の理工系の学部学生程度の予備知識があれば、それなりに)きちんと納得できる構成になっている。分量も(訳書で)本文248ページと読破しやすい。手間のかかる計算技術を習得しなくても、小林・益川の3世代模型の骨組みとCP対称性の破れまでを"理解"することは可能なのである。

 また、本書のもうひとつの特徴は、模型を導くために必要であった重要な実験事実や、模型の正当性を支持する重要な検証実験の結果などに関する知見も、随所できちんと紹介していることである。在来の類書は理論か実験のどちらかに著しく記述が偏っているものがほとんどであり、本書は理論と実験結果の記述のバランスという観点からも、非常に優れた教科書であると言える。

 この訳書によって、素粒子の標準理論が一般の理工系学生にとって近づき難いものではなくなったと言うと訳者の手前味噌に過ぎるだろうか? ちなみに「標準模型」という術語がタイトルに入った和書は、この訳書の出版以前にはほとんど無かったと思う。

②翻訳作業

 原書を購入したのは1999年5月8日であった。手元の翻訳作業は2004年3月末に始めて、2005年6月に初稿が完成。記録は残っていないが、訳文チェック業者の指摘を踏まえた最終稿はおそらく2005年9月頃に完了したものと思われる。

  

③出版社との交渉

 最初、丸善(株)出版出版事業部へ話を持ちこんだ(1999年12月7日)。Sさんに対応して頂いたが、その後の様子から、あまり見込みがなさそうな印象であったので、丸善側の結論を待たずに12月27日にこちらから話を取り下げた。(Sさんは、どちらかというと物性関係の書籍の扱いが得意で、素粒子系の書籍にはあまり食指が動かないのかな、という印象が残った。)

 次にシュプリンガーへ・フェアラーク東京に話を持ちかけた。これがいつ頃であったか記録は残っていないが、デイヴィス『低次元半導体の物理』の訳出中であったはずで、2003年中だったろうか? 担当編集者がHさんのころで、話が滞ったような記憶は一切ない。順調に話を進めてもらっていたと思う。上述のように初刷り用の最終稿を2005年9月頃に引き渡し、10月23日に初刷りが発行されている。

 私の訳書すべての中でも、売上げは最も順調であった、シュプリンガー扱いの間に、少なくとも第4刷まで重版が行われている。

 シュプリンガー・ジャパンの和書事業からの撤退・丸善出版への移管に伴い、2012年1月から丸善出版が版元に切り替わった。丸善版初刷りの名目発行日は2012年1月20日になっているようである。丸善版の重版(第2刷)が、2013年1月30日に発行されている。

 2018年7月に、丸善版の第3刷が発行された。

 2020年12月に、丸善版の第4刷が発行された。このとき丸善出版の方針により、製作方法が旧来の方式から、イメージスキャンデータを元データとするPOD方式に切り替わった。販売方法に変更はないけれども。

(シュプリンガーから丸善出版に移管された際に、各書籍販売サイトで新たに準備された商品ページの書誌情報に不備や不足が生じている。商品説明は、アマゾン、楽天を除く主要7箇所で、ワンセンテンスだけの短いものにされてしまった。さらにeーhon、セブンネットに関しては、原著者名の表記の誤りと、訳者名の脱落が生じた。直接、および丸善出版を介して修正をお願いし、2019年6月には両者における原著者名の修正と、セブンネットには訳者名の追加をしてもらえたが、eーhonには結局、訳者名を表記してもらえないようである。)

 

④日本語タイトルについて

 直訳ではあるが、「the Standard Model of Particle Physics」を「素粒子の標準模型」ではなく「素粒子標準模型」と一語にしてしまった点は、必ずしも慣用的ではなかったかもしれない。しかしタイトルでは間延びした表現を避けたほうがよいと考えて、敢えてこのようにした。問題はないと思っている。

  

⑤訳語など訳出上の工夫・原書の誤植等の修正

 術語の訳語については、日本語としての分かりやすさを考えて、いろいろ工夫してある。

 「meson」「baryon」「hadron」などは、通例としては「メソン」「バリオン」「ハドロン」と音訳されることが多いが、カタカナ表記にしてしまうと表意機能の伴わない呪文のような単語になってしまうので、基本的に湯川秀樹・片山泰久編の岩波講座に倣って「中間子」「重粒子」「強粒子」のように訳出し、但し「重粒子」と「強粒子」に関しては、原語も意識してもらえるように、いちいち「バリオン」「ハドロン」とルビを付けることにした。「parton」も同様に「部分子」(パートン)である。「中間子」は訳語として定着しているので、初出のところだけ「メソン」とルビをふった。 「quark」と 「lepton」に関しては (例外措置として)音訳表記の「クォーク」「レプトン」を採用したが、前者は元々J・ジョイスが前衛的な小説中で用いた意味不明・訳出不能の単語であるし、後者は「軽粒子」とすると歴史的誤謬を含む術語になってしまうからである。

 「メソン」は間違いで、正しくは「メゾン」だと指摘する人が、ときどきいる。たしかに英語における「meson」の読み方は「メゾン」と濁らせるほうが普通のようだけれども、私の方針としては原音主義には過剰にこだわることなく、日本語として文化的に一定程度定着している表記・表現のほうを尊重することにしている。「メソン」という読み方は日本語としてある程度まで定着していると思うし、「メゾン」と表記すると むしろ仏語で「家・住居」の意味の 「maison」 が最初に想起されて具合が悪い。音訳表記に関しても、そういうことを踏まえた判断をしている。

 「hadronic decay」や「semileptonic decay」 といった術語については、私は慣用的な訳語があるのかどうか知らなかったが、上述の方針になるべく整合するように、「強粒子化崩壊」「半レプトン化崩壊」という訳語をひねり出した。意味は解りやすいと思う。

  加速器の素粒子衝突実験において、強粒子群が形成される 「jet」 を「噴射」と訳出したのも、たぶん私だけだろう。(「ジェット」とルビを打ったけれども。)「ジェット」としてしまうと、具体的な意味が全然、伝わらないと思う。日本人にとって「ジェット」は、漠然とした語感だけが蔓延している言葉であって、精密な術語として使用するのにふさわしくないと思う。

 ローレンツ変換を論じる際の「boost」は、単純に「推進」にしてしまうと必ずしも一定速度で進み続けるというイメージにならないような気がするし、そのままの音訳で「ブースト」にすると(ロケットのブースターなんかを連想して)加速しているようなニュアンスを含んでしまう恐れもある。「等速推進」という訳語を作り、「ブースト」とルビを付けることにした。

 原書では「Z particle」と「Z boson」の両方が混在しているが(Wも同様)、「particle」ではフェルミオンかボゾンか分からないし、どちらかというと前者のニュアンスが強くなってしまうので、訳語は「Zボゾン」に統一した。

 第9章や第12章に「lepton universality」という術語があり、直訳的には「レプトンの普遍性」だが、敢えて「レプトンの同格性」と訳出している。ここでの「universality」は本来的な含意を考えると、「レプトンの普遍性」というより「弱い相互作用の普遍性」と捉えるのが適切である。歴史的には、ミュー粒子(「第2世代」の粒子として始めて見いだされた粒子である)が発見されてその性質が詳しく調べられた結果、(質量は違うけれども)相互作用の仕方が全く電子とそっくりだった。このとき(フェルミ型の)弱い相互作用が電子に特有のものでないことが驚きであったわけで、弱い相互作用の「普遍性」の概念が生まれた。つまり「異なる世代のレプトンが関わる弱い相互作用の仕方の普遍性」を短絡した表現にあたるわけだけれども、これは「レプトン」が「普遍」だという言い方にすると、少々ニュアンスがずれてしまうと思う。「レプトンの・・・」という言い方を生かそうとするならば「普遍性」は避けたいということで、いろいろ悩んだ結果、「レプトンの同格性」と訳出することにした。

 16.3節にQCDの「quenched approximation」という術語が出てくる。仮想クォーク場を無視した近似という意味で、通常は「クエンチ近似」という訳語で済ませるところだが、「クエンチ」は平均的な日本人にとって、いまひとつニュアンスを掴みにくい感じがある。(辞書的には、動作を抑制する、静める、火を消す、熱した物を水中冷却する、などの意味であるが、どういうわけか、超伝導が突発的に常伝導になったり、液体ヘリウムが突発的に気化する励起現象も「クエンチ」と呼ばれていて、イメージが混乱する。)訳稿では「鎮静近似」として、「鎮静」に「クエンチ」とルビを振った。「鎮」は字義としては金属の重しによっておさえつけるという意味なので、つきつめて考えると語感のずれが無いとはいえないかもしれないが、「静近似」では収まりが悪いし、「鎮静」としても許容範囲ではないかと判断した。

 同じ16.3節に「the effective 'running' strong interaction coupling constant」という表現が出てくる。直訳的には「強い相互作用の ’走る’ 有効結合定数」となり、実際そのような訳語を採用している類書もあるのだが、やはり「 '走る’ 」は術語としてふさわしいとは言い難いと思う。ここでは「強い相互作用の"波数に依存する"有効結合定数」としておいた。

 

⑥仕上げ、製作不備、自戒・懺悔

 全体的な訳書の仕上がりに、大きな問題はなかったと思う。(もちろん多少の細々とした瑕はあって、重版の際に逐次、修正をかけましたが。)

 当初の訳では、問題14.6の解答図としてp.300に描いてある図の下の説明の部分が「uと書いたクォークは,uクォークもしくはtクォークとなり得る.」となっていた。これは、原書のミス(cが抜けている)をそのまま訳出してしまったものであり、「uと書いたクォークは,u, c, tクォークとなり得る.」と直すべきである。丸善版の第4刷で修正した。

 付録Dにおいて「Bjorkenスケーリング」に関する簡単な言及がある。「Bjorken」をどう読むべきか、いくつか日本語の文献をあたると「ブヨルケン」「ブジョルケン」「ビヨルケン」などの例があって一定していない。訳稿では「ブヨルケン」とルビを付けておいたけれども、後から考えると「ビヨルケン」という発音のほうが自然かもしれないという気もしないでもない。(よく分からない。)

 なお、不備ということではないが、強粒子(ハドロン)という術語に関して付けた訳註について言及しておく。訳出当時、話題になっていた「ペンタクォーク」の知識を補足する意図で、次のように書いている。

「・・・2002年に兵庫県播磨の放射光実験施設SPring-8の実験グループによる"ペンタクォーク"(5個もしくはそれ以上のクォークから成ると考えられる新たな強粒子)発見の発表があってから,重粒子・中間子以外の"エキゾチック・ハドロン"(多クォーク系)への関心が高まった.しかしその後,他のグループから懐疑的な意見も出ている」

これは当時の知見として妥当なものであるし、現在でも誤りではないので、重版の際にも敢えて手を加えていない。2002年に発見されたと考えられたのは(u u d d anti-s)であった。しかしこれは2005年にトーマス・ジェファーソン国立加速器施設が実験精度を上げた追試によって否定的な結果を出したことから、その存在がかなり疑問視されるようになっていた。(否定されたという受け止め方が多いかもしれない。)その後の情報としては、2015年に、CERNのLHCを用いた実験(LHCb実験)により、別のタイプのペンタクォーク(u u d c anti-c) を発見したという報告がなされた。 さらにLHCbからは、2019年に(u u d c anti-c)の別の共鳴モードを発見したという報告もなされている。今のところ、これらの結果を疑問視する意見はあまりないように見えるが、存在が確定したと断言してよいものかどうか、私としては何とも言えない。このような状況である。

 

⑦特に参考になった文献(リンク は amazon の商品ページ。リンクのないものは古書扱いです)

 ◈ 湯川秀樹, 片山泰久編、岩波講座 現代物理学の基礎[第2版]10 『素粒子論

 (岩波書店1978年)

 ◈ 坂井典佑、物理学基礎シリーズ 10『素粒子物理学』(培風館1993年)

 ◈ エイチスン, ヘイ(藤井昭彦訳)『ゲージ理論入門(Ⅰ/Ⅱ)』(講談社1992年)

 (原書 Vol.1Vol.2

 ◈ 渡邊靖志『素粒子物理入門 基本概念から最先端まで』(培風館2002年)

 ◈ 益川敏英『いま,もうひとつの素粒子論入門』(丸善1998年)

 ◈ 高林武彦『素粒子論の開拓』(みすず書房1987年)

​ ◈ 大槻義彦編『物理学最前線12』(共立出版1985年)所収、長島順清「ワインバーグ-サラム理論」

 ◈ 戸塚洋二、岩波講座 現代の物理学 10 『素粒子物理』(岩波書店1992)

 ◈ 南部陽一郎『クォーク 第2版』(講談社ブルーバックス1998)

⑧外部からの反応・評価について

 林青司先生には日本物理学会誌において、「結論として、大変良く練られた教科書で推薦したい」と、有難い書評をいただいた(上の「第三者による書評」の項を参照)。大学で講義の教科書・参考書として用いられている事例もあるようで、私の訳書の中では累計売上部数が最も多い。たとえば、京都大学理学部の「素粒子物理学2」という講義では、参考書の筆頭にこの訳書が挙げられている。

 松尾 衛 先生(中国科学院大 Kavli ITS)は、著書『相対論とゲージ場の古典論を噛み砕く』の中で本書について、

・・・素粒子標準模型に関する教科書では,様々な(しばしば初学者にとってはウンザリするような)技術的な内容が延々と展開されるものが多いのですが,この本は初心者に配慮した絶妙の構成で,標準模型のエッセンスを概観できるように工夫されています.

と紹介してくださっている。

 また、高校・大学生向けの物理参考書を多数お書きになっている橋元淳一郎氏は、ブログで「標準理論を要領よくまとめたテキストで、門外漢が勉強するには有り難い本である」とコメントしてくださっている。

 ウィキペディアの「微細構造定数」の項目では、参考文献として、この訳書が挙げられている。(私が記事を書いたわけではありませんよ。)

 

⑨この翻訳案件からの教訓

 上でも触れたように、この訳書は私の訳書としては初めて、日本物理学会誌の「新著紹介」欄に取り上げられて、専門家の先生から過分なまでに好意的な評価をいただくことになった。それまでは、私のような学者でもない者が、「専門」とも言えないような理論物理の本の翻訳をやることに意味があるのかどうか、そんなことをやる資格があるのかどうか、自分自身でも懐疑的なところがあった。私の訳書でも、本物の専門家から肯定的な評価を受けることもあり得ると分かったのは、精神面で大きな収穫であった。専門書の翻訳をやるのに肩書や役職は必要ではない。おそらく私の見識の範囲内で訳書の質さえ必要な水準をクリアしていれば、それは多少なりとも世の役に立つのだと、少し自信を持てるようになった。

◆「訳者あとがき」再録

 自然界の根源を探求する試みは,古代ギリシャの時代から人類の最も重要な知的フロンティアのひとつであり続けてきたが,素粒子物理学者たちは20世紀後半(1970年代)に"標準模型"を確立するに至った.対称性を破った複素スカラー場2重項を背景に据えて,基本フェルミオンとしてレプトン2種類,クォーク2種類 ×3色の"家族"(ファミリー)を3世代想定し,適当な局所的ゲージ対称性の要請に基づいてゲージボゾン場を導入するというだけの単純な模型に基づいて,重力を除く自然界の現象の広範な部分を原理的に記述できるようになったわけである.

 しかしながら単純な模型とは言っても,これをひと通り理解するのは,なかなか容易なことではない.一人の傑出した天才が理論体系を構築して"聖典"を纏めあげたニュートン力学などとは様子が違い,実に多くの,それぞれに傑出した研究者たちの様々な成果が統合され,集約された形で理論体系が成立しており,対象となる現象も,アプローチの方法も広範かつ多岐に及んでいる.標準模型は場の理論によって構築されているが,相対論的な場の量子論は本来的に煩瑣な計算手続きを伴うのみならず,"無限大"という原罪を負っており,理論的に座りが悪いことも状況を複雑にしている.このような事情の下で,標準模型の解説には,量子場を扱うための手の込んだ計算技術と抽象的な数理の話が必ず付いてまわることになり,初学者向けの素粒子論の教科書として手頃な良書は従来なかなか見当たらなかった.専門家向けの書籍であれば,多くの頁を使って,難しいことを難しく解説してあってもよいかも知れないが,学部上級か大学院初年程度の学生が通読できる教科書を想定するならば,むやみに大部では困るし,細部にこだわり過ぎたり題材過多であったりすると,むしろ本筋の部分や全体像が捉え難くなるという面もある.理工系学部のごく普通の学生が,予備知識もなくいきなり,Itzykson and Zuber の労作 Quantum Field Theory全700頁を(あるいは最近の学生ならWeinberg全3巻だろうか?)独力で読破するなどということは不可能に近いだろう.量子電磁力学を習得する前に力尽きて,SU(2) や SU(3) は遥か彼方といったところで沈没しかねないし,あの手の分厚い本は初学者にとってポイントを拾い読みするのも難しいようにできている.このような事情は大局的に見てあまり好ましいことではないと思う.素粒子物理に色々な形で関わる人々,関心を持つ人々が皆例外なく理論計算や量子場の"病理学"に精通しなければならないというわけでもないだろうし,最初から煩瑣な計算技術や,精妙な場の数理に足を踏み入れなくても,基本となる勘所を押さえることによって,素朴に理解できる事柄は随分ある.

 一方,読み易さを志向して書かれた素粒子論の書籍ももちろん存在するわけだが,従来のそのような書籍も素粒子論の本質を伝えることになかなか成功していないように見える.[読み易さ]≒[数式の少なさ]という考え方で基本的な数式とその説明を省いて手を抜いてしまうと,結局は一般向けの啓蒙書のように表層的な結果を紹介する"お話"になってしまい,論理的・演繹的な必然性が見えなくなる.

 本書は大学院初年向けの講義を下敷きにして執筆された素粒子論の教科書であるが,本書に目を通すと,標準模型の成立から一世代の時間を経てようやく機が熟し,完成度の高い“教科書”が現れてきたという印象を受ける.標準模型の理論構成の骨組みが,見通しのよい順序で明快に語られており,学部の学生でもそれなりに納得して読める記述がなされている.また標準模型の正当性を支持する実験事実についても随所で要領よく触れられており,数値もよく整理された形で提示してあって,その点でも読んでいて心理的に安心できる.本書の優れた構成には,おそらく原著者たちの豊富な教育経験や専門書執筆の経験が生かされているのであろう.著者たちがやみくもに自分の守備範囲を披瀝するのではなく,どこまでをどのように読者に解らせるかというイメージを明確に設定していることが見てとれる.ポスト標準模型へと話を無闇に拡げないことも,この種の本の執筆におけるひとつの見識と言ってよいだろう.また記号の使い方にも独自の工夫がなされており,数式も非常に見やすい.とにかく教科書としての読み易さという点で,本書は在来の類書に比べて格段の進歩を遂げているように思われる.本書はあくまで"ひとつの入門書"(an introduction)にすぎないにしても,まれに見る良質の入門書と言ってよいと思う.

 私は個人的な余技として物理書の翻訳に携わり続けているが,素粒子論の専門家ではないし,学生の頃から趣味として理論の専門書を読んできたとはいえ,理学部物理学科系統の教程で行われているような本式の大学・大学院レベルの物理学教育を受けた経験もない.それでも物理学に内在する基礎理論,統一理論,究極理論への指向性は感得できるし,初学者が専門書に何を求めるかということなら,むしろ専門家以上によく分かっている.本書の翻訳にあたっては国内の関連書籍にも目を通しながら,既存の訳語などはひと通り踏まえた上で訳出したが,どちらかと言うと玄人受けするというより,初学者向きの訳になっているのではないかと思う.表意機能の欠如した音訳カタカナ術語の氾濫を多少なりとも抑制し,慣用的な音訳語も尊重するために," \ruby{強粒子}{ハドロン} "のような表記法をかなり意識的に採用したが,このような配慮は,既存の類書にはほとんど見られないものである.

 先験的に与えるパラメーターが少ないとは言えず,繰り込み処方を不可避的に含み,重力理論が欠如している標準模型は,もちろん究極理論ではないが,人類が自然界に対する知的認識を進展させてきた歴史の中で,究極理論に到達するための重要な一里塚と位置づけられてよいものであろう.私ができることは,優れた研究者たちが築き上げた自然観を,翻訳という作業を通じて,できるだけ解りやすい形で若い方々へと紹介するくらいのものである.もとより"巨人の肩"という具合にはいかないにしても,私の訳書のことを,無いよりは有ったほうが多少は便利な踏み石という程度に思っていただければ訳者として満足である.若い人が本格的な知的フロンティアへ参画してゆくためのひとつの足掛りとして,本書を役立てて頂けるならば幸いに思う.

2005年9月

茨城県ひたちなか市にて                             樺 沢 宇 紀

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