《樺沢の訳書》No.5
ニュートリノは何処へ? -宇宙の謎に迫る17の物語- (2002/12)
ジョン グリビン(著), 樺沢 宇紀 (翻訳)
単行本: 四六判, viii+313+viページ
出版社: シュプリンガー・フェアラーク東京
発行日: 2002/12/10
ISBN-10: 4431709924
ISBN-13: 978-4431709923
◆ 原書
J. Gribbin,
The Case of the Missing Neutrinos - and Other Curious Phenomena of the Universe,
Penguin Books, 1998.
ISBN: 0-140-28734-5
◆ 概要
本書は、科学解説の名手ジョン・グリビンの17篇の科学エッセイを収めた、一般読者向けの宇宙科学入門書である。各エッセイは、地球近辺の話題から始まり、太陽の活動と、太陽ニュートリノ問題、超新星の観測、銀河系性の理論、さらには極微・極大の尺度における時空の様々な性質、インフレーション宇宙論から無数の宇宙を擁する「コスモス」の描像に至るまで読者の視野が徐々に拡がっていくように編集されている。豊かな想像を喚起するグリビンならではの語り口で、読者を宇宙の不思議の世界へといざなう。
◆ 目次
第1章 八進法と隕石と人類
第2章 われわれが呼吸している空気
第3章 次の氷河期
第4章 ダーウィンと相対性理論の予兆
第5章 われわれの太陽は正常なのか?
第6章 太陽収縮事件
第7章 ニュートリノは何処へ?
第8章 星屑の記憶
第9章 奇妙なパルサー
第10章 銀河の形成
第11章 アインシュタインが正しいことを証明した男
第12章 ブラックホールのことを最初に考えた男
第13章 宇宙の噴出口──ホワイトホール
第14章 時間と宇宙
第15章 空っぽの空間の重さの問題
第16章 素粒子物理と宇宙の最初の100分の1秒
第17章 インフレーション宇宙論入門
◆第三者による書評(敬称略)
・『日経サイエンス』誌 新刊ガイド:2003年2月号(短評)
・『月間天文』誌 Book Review:2003年2月号(短評)
◆ 内輪話
①この書籍に対する訳者の見方
これは私の訳書の中で唯一、専門書ではない通俗的な科学読み物。英国のサイエンスライター、ジョン・グリビンが1970年代~90年代に書いた宇宙関係の科学エッセイ17編を、1998年にまとめ直して編まれた書籍である。タイトルではたまたまニュートリノ(太陽ニュートリノ問題)が強調されているけれども、全体の題材は地球・太陽・太陽系・超新星・パルサー・銀河・ブラックホール・ベビーユニバース、インフレーション理論等々多岐にわたっていて、20世紀末頃までの話題を用いた手ごろな"宇宙学入門"であったと思う。内容的に古くなっている部分も含まれるのは、致し方なく、そういう心づもりで読む必要はある。しかしながら科学史上の話題を扱っている(古くても今でもそのまま読む価値がある)部分も少なくないし、各編とも興味深く読めるように工夫して書かれているので、今読んでも"読み物"として充分に楽しめる。訳者あとがきにも書いたが、この本を見る限り、原著者グリビンは、大部の科学解説本を書くよりも短いエッセイを書くほうが資質に合っているような気もする。彼のエッセイには、アイザック・アシモフの科学エッセイを彷彿させる部分も少しある。
②翻訳作業
訳出作業は2001年12月に始めて、2002年8月に初稿を引き渡している。訳文チェック業者からの指摘が戻ったのは10月9日で、10月末に修正原稿を引き渡した。この本に関しては、さらに最終段階で編集者(Hさん)からの指摘に基づき、TeX原稿の最終微修正がシュプリンガー側において施されている。シュプリンガーにおける最終稿の完成は、おそらく11月初旬であったものと推定される。
③出版社との交渉
最初、この案件は、岩波書店に持ち込んでみた。これが2001年1月14日。1月29日に断られている。新刊書として出すには、内容的鮮度として魅力がないという理由だったように記憶する。(主タイトルに「ニュートリノ」が含まれていながら、スーパーカミオカンデの話が入っていたわけではないので、まあそういう印象を持たれてもやむを得ない面が確かにあったけれども。)
シュプリンガーに打診を始めたのは2001年2月11日。迅速な対応とは言い難いものの、特に大きな問題はなく話が進んだようで、5月にシュプリンガーから訳書出版方針の決定を知らされた。原書出版社との訳書出版合意が成立したという知らせを7月23日に受けている。
翻訳作業は上述のように、2001年12月~2002年10月末。(スーパーカミオカンデによるニュートリノの質量発見の話は、第7章の章末の"訳者補遺"の中で短く触れた。)この最後の時期にシュプリンガー側の担当編集者がOさんからHさんに交代し、提出した訳稿の最終調整はHさんが行った。そして、2002年12月10日に出版。
(偶然ではあるが、出版当時は小柴昌俊博士のノーベル物理学賞〔および田中耕一博士のノーベル化学賞〕の受賞に沸いていた時期で、「ニュートリノ」をタイトルに入れた書籍が続々出てきていた。この訳書、あと半月ほど早く出版できたなら、売れ行きの勢いがずいぶん違っていたかもしれないという気もするが、まあ仕方がない。岩波書店の編集部は、何かを思っただろうか?)
2011年末に、シュプリンガー・ジャパンが和書事業から撤退する際、残念ながら丸善出版へ移管される書籍として選ばれなかったので、現在は絶版になっている。
④日本語タイトルについて
最初、主タイトルの案として、直訳的に『ニュートリノ行方不明事件』を考えていたが、シュプリンガー側の意向を容れて、『ニュートリノは何処へ?』に変更した。これはこれで、むしろよかったと思っている。サブタイトルの『宇宙の謎に迫る17の物語』は、まあ原書のサブタイトルとは離れた私のオリジナル。
⑤訳語など訳出上の工夫・原書の誤植等の修正
原書は、各章の章タイトルの後、そのまま本文が始まる形になっているが、これはすこし取っつきにくい印象を与えるかもしれない。そのように考えて、訳書では各章の章扉のページに、それぞれワンセンテンスの惹句(内容紹介)を付けた。
原書の第1章の末尾は 「Plus ça change, plus c'est la même chose」というフランス語の格言みたいな文で終わっている。最初、訳稿でもそのままフランス語を書いておけばよかろうと思ったのだけれども、担当編集者からここも日本語にしろと注文をつけられた。フランス語なんて(一応、第2外国語だったけれども)私にはほとんど分からないので、この要求には閉口した。仏和辞典は持っていたけれども、そのものずばりの文例は出ていない。こういうものをインターネットで調べる手段があったのかどうか、当時の私はその方面にも疎くて分からなかった。各単語の意味と、第1章全体の内容的な流れを参考にして大いに悩み、原著者が末尾に英語ではなく敢えてフランス語の格言を書いているという雰囲気を反映させるために漢文の書き下しっぽく「世ハ転変スルモ、因果ハ不変ナリ」という「超訳」をでっち上げた。まぁ結果的に、そこそこ意味は合っていたようである。
⑥仕上げ、製作不備、自戒・懺悔
第3章に 「Foraminifera」 という海中生物の名前が出てくる。石灰質の殻を伴うアメーバ様の原生生物(の一群)であって、「有孔虫(ゆうこうちゅう)」という慣用的な訳語がある。有孔虫は、カンブリア紀以降化石として多くみつかり、示相化石、示準化石として重視される。しかしながら私はそういった方面の知識が足りず、この訳書では「フォラミニフェラ」と音訳してしまった。知識不足かつ調査不足。今ならインターネット〔ウィキペディア等〕で容易に調べられるだろうが、訳出当時はまだネット環境的に難しかったのか、それともむしろ、私自身にネット利用のスキルも無かったということだろうか?
ちなみに原語の「Foraminifera」は、foramen(穴)+ -fer(含む)という意味。
⑦特に参考になった文献(リンク は amazon の商品ページ。リンクのないものは古書扱いです)
◈ I.アジモフ『輝け太陽』(社会思想社現代教養文庫1983年)
◈ 川崎雅裕『謎の粒子 ─ ニュートリノ』(丸善1996年)
◈ S.W.ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』(ハヤカワ文庫1995年)
◈ 佐藤文隆『量子宇宙をのぞく』(講談社ブルーバックス1991年)
⑧外部からの反応・評価について
日経サイエンス誌に、私の訳書の紹介(短評だけれども)が載ったのは、後にも先にもこの本だけである(2002年末に発売された2003年2月号)。確か帰省するとき、新幹線の中で日経サイエンスに目を通していてこの短評を見つけ、びっくりした記憶がある。短いので、全文を紹介させてもらおう。
「宇宙科学がテーマだが、エッセーに仕立てられているので、硬派な内容ながら語り口は柔らか。新しい観測データや理論の登場によって、それまでの宇宙の姿が書き換えられていくのだが、1つの発見はまた新たな難問を生み出す。複雑なパズルのように謎が入り組んでいくサイエンスの世界がよくわかる」
また、ウィキペディアの「地球の年齢」の項目の記事には、参考文献として、この訳書が挙げられている。(私が記事を書いたわけではありませんよ。)
⑨この翻訳案件からの教訓
この本は、私の訳書の中では唯一の「通俗もの」である。この方面にも関心はあり、できればそういう方向性にも私の訳業を拡げていきたいという気持ちはあった。しかし、本書は(それなりに売れたけれども)この種の本としては全然「成功」という水準には届かなかった。その後もこの案件とは別に、ファインマンものとかナノテクものとか通俗的な訳書出版の企画を、いくつかの出版社に持ち込んでみたりしたが、結局、私はその方面には運がなかったみたいである。
◆「訳者あとがき」再録
一般の人々(特に十代の若い人)は、何によって、自然科学に対する関心を持つようになるものだろうか。高校までの理数系の教育は、残念ながら科学の本質的な魅力を充分に感じさせてくれるものとは言い難いように思う。中学生までの段階で、科学への潜在的な嗜好を育むような環境要因も重要であると思うが、それはここでは措いておく。高校生以上の知的レベルに達した若い知性に対して、基礎科学の本質的な魅力を語りかけるものがあるとすれば、それは何なのか?
私の考えでは、おそらく一般向けの良質の科学解説書が、重要な役割を担っていると思う。「良質の」という意味は、次の三つの条件が満たされているという意味である。
(a)記述が平明である。
(b)科学の本質を正しく伝えている。
(c)一般読者の知的関心を刺激し、満足させるための配慮がなされている。
(a)の平明な科学解説という条件だけを考えるならば、これを満足するものは珍しくないのかも知れない。しかし(b)と(c)の条件を同時に満足させる能力を併せ持つ科学解説の書き手は稀少である。正統的な研究者が書く科学解説は、(b)の条件を満足することに成功しても、大抵は(c)の条件に欠け、一般の読者を獲得できるような魅力に乏しい。また主に取材活動に基づいて素人的な視点から解説を書くような職業的なライターの科学解説は、(c)の条件をうまく満たしていても、(b)を犠牲にして本質を歪めている場合が多い。
私の場合は、高校生の時分からアイザック・アシモフ(一九二〇~九二)の書いたものを読んできたことが、重要な意味を持ったと思う。アシモフはSF作家・科学解説者であると同時に、ボストン大学の研究者としての経歴も持ち、広汎な知識に基づいて良質の科学解説を量産し続けた「偉大なる解説者」(ザ・グレート・エクスプレーナー)(カール・セーガン評)であった。私の場合、基礎科学の理念のようなものを理解する素地さえ、かなりの程度、アシモフの科学エッセイによって培われていたようにも思う。ああいう下地が自分の中になければ、大学では工学系の学科に籍を置きながら理学部の講義を聴講してみたり、自分なりに理論物理の専門書を読みかじったり、後に、『フィジカル・レビュー・レターズ』誌などに論文を載せて、一時、ささやかながら科学の前線に参画するということも無かっただろう。そして念のため付け加えておくならば、山高昭(やまたかあきら:一九二七~九二)のような優れた翻訳家がいたおかげで、日本の高校生も、さほど敷居の高さを感じることなく、気軽にアシモフのエッセイを読むことができたわけである。
本書の著者、ジョン・グリビンは、ケンブリッジで天体物理学の博士課程を修め、科学雑誌『ネイチャー』の編集に携わってから、盛んに一般向けの科学書を出すようになった英国のサイエンス・ライターで、すでに二〇冊を超える邦訳書も出ている。また現在はサセックス大学の客員研究員でもある。この経歴から判るように、グリビンも正統的な研究者としての素養と、啓蒙的なライターとしての資質を兼ね備えている。序文で述べられているように、本書は、グリビンが習作として『グリフィス・オブザーバー』誌に投稿してきた天文関係の短い科学エッセイを編み直したものである。各章が独立した短いエッセイなので、関心のあるところだけを拾い読みすることもできるが、全体を通じて地球近辺から太陽・銀河・全宇宙とその起源までを一望に収めることができる独自の宇宙学入門書にもなっている。新しい話題ばかりでなく、科学史上の話題も取り上げている点や、多面的にいろいろな話題を関連づけ、空想的な仮説にも言及しながら大局的な自然観を提示してくれる点など、アシモフのエッセイを彷彿させるところもある。また私の個人的な感想としては、グリビンという書き手はまとまった分量の解説書を書くよりも、むしろ本書に収められているような短編エッセイのほうが、資質に合っているのではないかという気がする。各篇とも筋運びに趣向を凝らした力作であり、本書は科学エッセイを読む醍醐味を堪能させてくれる一冊になっていると思う。
専門書でない一般向けの文章の翻訳は初めてなので、専門書ではあまり馴染みのない語彙や変則的な言い回しの訳出には、予想外に苦労をさせられたが、この翻訳が、良質の科学エッセイの魅力を伝える一助になることを願うものである。父、奥雄(いくお)には訳稿に目を通してもらい、表現上の不備を指摘してもらった。シュプリンガー・フェアラーク東京株式会社には、いつもながらの助力をいただいている。勤務先の(株)日立ハイテクノロジーズの方々にも、いろいろ配慮をいただいている。ここで御礼を申し上げたい。
最後に、このような紙面に必ずしも似つかわしくないかもしれないが、訳者の父、奥雄と母、泰子に対して、改めて感謝の意を表したい。彼ら自身は理系の専門的な教育を受けた経験を持たないわけだが、それでも、もし私がこのような翻訳の仕事を通じて、読者の方々に自然科学の魅力の一端を伝えることができているとすれば、それは昔読んだアシモフのエッセイだけでなく、おそらく私が子供の頃に、彼らが与えてくれた環境に負う所も多いに違いないのである。
二〇〇二年 八月
樺 沢 宇 紀