納得して覚えるための
日本史年代☆ゴロ合わせ(大正・昭和時代)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆〔それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。〕未実施。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1912 年 (T1):明治天皇崩御。大正に改元。第一次護憲運動。
☆ 大正天皇 漢詩が得意に あらせられ
明治天皇は1912年(明治45)7月に崩御し(満61歳)、即座に大正天皇が践祚した(満34歳)。元号は「大正」へ改まった。ただし即位の礼が行われたのは1915年(大正4)であるが。大正天皇は病弱でもあったが、性格的にも立憲君主という地位にはあまり向かなかったようで、むしろ文人として優れた人物だったのかもしれない。歴代天皇の中では突出して漢詩を好み1367篇もの漢詩を作った。ただし和歌も(確認されているもので)456首残されており、それらの出来も高く評価されるもののようである。
この年の12月、第2次西園寺内閣が総辞職し、第3次桂太郎内閣が発足。これに対して立憲国民党の犬養毅や政友会の尾崎行雄を中心として「閥族打破・憲政擁護」を訴える第一次護憲運動が起こり(つまり、ここでの「憲」は「憲法」ではなく「憲政」)、全国に拡がった。桂内閣は翌1913年(大正2)2月、わずか3箇月で辞職に追い込まれ、「桂園時代」(1901-13)はここで終りを迎える。(具体的な運動が拡がったのは1913年なので第一次護憲運動が起こった年を1913年とする場合もあるようだ。)桂のあと、薩摩出身で海軍の山本権兵衛が、政友会を与党に内閣を組織することになる(大正政変)。
いわゆる「大正デモクラシー」を、いつからいつまでと捉えるかという問題には諸説あって、決まった正解はない(ので試験でそういう設問はないだろう)が、その名の通り「概ね」大正年間(1912-26)と捉えておいても、ひとつの見方として悪くはないだろう。すなわち、第一次護憲運動の頃(1912)から、第二次護憲運動(1924)・普通選挙法成立(1925)の頃まで。なお、憲法学者・美濃部達吉が天皇機関説・政党内閣支持を唱えた『憲法講話』を公刊したのも1912年(大正元年)のことである。(機関説が政治的に攻撃を受ける"天皇機関説事件"が起こるのは、かなり後の1935年〔昭和10〕になる。)
[首相]西園寺公望(2次:1911-12)、桂太郎(3次:1912-13)
[中国]清、第12代・宣統帝(溥儀:位1908-12)
● 1914 年 (T3):第一次世界大戦が始まる。
☆ 行く年 くる年 大戦なかなか 終わらない
第一次大戦は、大局的に言えば帝国主義国家間の衝突であるが、バルカン半島におけるパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立の形で始まった。1914年(大正3)6月、ボスニアを訪れていたオーストリア皇太子がセルビア人青年に暗殺されるという事件が発端となり、ドイツ・オーストリア・トルコなど(同盟国)と、ロシア・フランス・イギリス・アメリカなど(連合国)の大戦争に発展した。1918年(大正7)にドイツ内部が瓦解して11月に休戦が成立、ようやく第一次大戦が終わった。
日本はイギリスがドイツに宣戦したことを受けて、日英同盟に基づく形でドイツに宣戦し(大正3)、中国におけるドイツの足場である青島(チンタオ)や、ドイツ領南洋諸島の一部を占領した。また1915年(大正4)の対華21箇条の要求の中で、山東省のドイツ利権の継承等を中国に認めさせ、1917(大正6)にはイギリスとの間でドイツ権益の継承を確認した。またアメリカとも1917年に石井ランシング協定を結び、アメリカにも日本の中国における特殊権益を認めさせた。
この大戦によってアジア市場から後退したヨーロッパ列強に替わって、日本の商品(綿布など)が進出した。世界の船舶不足のために日本の造船業なども躍進し、空前の「大戦景気」が訪れた。
[首相]大隈重信(2次:1914-16)、寺内正毅(1916-18)、原敬(1918-21)
● 1915 年 (T4):対華21箇条の要求。
☆ 中国に 一句 一言 突きつける
第一次世界大戦が始まると、列国はヨーロッパを主戦場として戦闘を繰り広げた。日本は、列国が中国問題を手を出す余力がない状況を中国進出の好機と見て膠州湾(ドイツ租借地)を占領、1915年(大正4)に対華二十一ヶ条の要求を袁世凱政府に提出した。そこには山東におけるドイツ権益の接収、東北・モンゴル東部など広範な権益の要求が含まれていた。袁世凱政府は、はじめは拒否する姿勢を示したものの、日本からの最後通牒をつきつけられて、やむなく承認した。これにより中国の対日感情は悪化した。
[首相]大隈重信(2次、1914-16)
● 1916 年 (T5):吉野作造、民本主義を提唱。
☆ 民本を 説く人 迎える 民の声
「民本主義」は、(明治憲法のように)主権在民ではなく、主権が君主にあっても、民主的な政治を肯定する思想である。東京帝大教授の吉野作造は1916年(大正5)に発表した論文において憲政を論じ、普通選挙と政党内閣制の実現を主張した。さらに吉野は1918年(大正7)に「黎明会」という組織をつくって、全国的な啓蒙活動を始めた。吉野の主張は知識層を通じて広く社会運動に影響を及ぼしたと言えるだろう。
[首相]大隈重信(2次:1914-16)、寺内正毅(1916-18)
● 1918 年 (T7):原敬(はらたかし)内閣成立。
☆ 原敬 政党政治を 説く人は
日本で初の政党内閣というと1898年(明治31)の隈板内閣であるが、この内閣はわずか4か月で退陣してしまって、その後は長州閥の軍人政治家・山県有朋が首相になっている。初の「本格的な」政党内閣と言われるのは大正時代の原敬内閣である。1918年(大正7)、長州閥の軍人である寺内正毅が首相をつとめる内閣は、米価の高騰によって起こった米騒動などで批判を受けて総辞職した。(米価の高騰の原因として、シベリア出兵に関連した米の買い占めがあったようである。1917年にロシアに革命が起こり社会主義政権ができたことを受けて、これに懸念を持ったアメリカが1918年に「チェコ兵救援のために」出兵を提案すると、日本はこれを名目に大陸における勢力拡大を意図してシベリアや満州に多くの兵を派遣した。)それまで元老が推すかつての藩閥の人物を天皇が総理に任じる慣行が続いていたのだが、この桂内閣総辞職の際に元老も政党政治を認め、同年、政友会の総裁である原敬を首相とする内閣が成立した。原は藩閥に属しておらず(盛岡出身)衆議院議員であって爵位の拝受も固辞していたので、最初は「平民宰相」と呼ばれて民衆の期待を集めた。しかし、原の実際の政治姿勢の立ち位置は「平民」の立場というより富裕層(財閥・政商など)のそれであって、原の政治はいわゆる「カネの政治」の原点だという見方もできる。平民に対して政策的には冷淡で、普通選挙に反対したりした。原は1921年(大正10)、東京駅で原の政治姿勢に批判的な考えを持つ青年駅員に刺殺された。
[首相]原敬(1918-21)
● 1920 年 (T9):戦後恐慌。
☆ 終戦後 特に おかしい 株相場
第一次大戦中、日本は好景気に沸いたが(大戦景気)、1918年(大正7)に大戦が終わり、ヨーロッパ諸国から再びアジアに商品が流れ込むようになると日本経済の状況は一転した。1919年(大正8)には貿易が輸入超過に転じ、1920年(大正9)には株が暴落して戦後恐慌となった。この頃から10年以上日本ではいろいろな要因のために不況が続き、不穏な空気が醸成されてゆくことになる。
[首相]原敬(1918-21)
● 1921 年 (T10):ワシントン会議。
☆ ハーディング 引く武威 相談 ワシントン
1921年(大正10)、ハーディング(共和党。民主党ウィルソンの次の米大統領)の提唱で、ワシントン会議が開かれた(~翌1922年)。海軍軍縮問題と、極東・太平洋地域問題が主な議題であった。(アメリカの真意としては、日本が極東・太平洋地域で、現状以上に勢力を拡大しないように、釘をさしておきたいということだったのではなかろうか。第一次大戦中に、この地域のドイツの進出先を日本が奪い、中国への干渉も進めたのだから。)米・英・日・仏・伊各国の主力艦保有量が5:5:3:1.67:1.67と定められた。また、対華二十一ヶ条は破棄され、中国の主権尊重・領土保全を約した九ヶ国条約が結ばれた。太平洋諸島に関して現状維持を日・米・英・仏間で定めた四ヶ国条約も締結され、日英同盟は解消された。
[首相]高橋是清(1921-22)
● 1923 年 (T12):関東大震災。
☆ 民衆は 特に みじめに 大震災
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。これを関東大震災と呼ぶ。(現在9月1日が「防災の日」とされているのは、この震災の日付による。)被害地域は東京と神奈川を中心とする関東地方全域で、ある推定によれば被災者約190万人、死者・行方不明者約10万5千人におよんでいる。これは政治状況的タイミングとしては、加藤友三郎が8月24日に首相在任のまま大腸癌で死去し、山本権兵衛が第2次内閣の組閣を開始した直後のことであった。この震災によって、1920年(大正9)の戦後恐慌に追い打ちをかけるように、深刻な「震災恐慌」が発生した。銀行の持つ手形が決済不能に陥り(震災手形)、政府は銀行救済策として日銀に特別融資をさせたが、その決済が進まない状況が続いた。
[首相]加藤友三郎(1922-23)、山本権兵衛(2次:1923-24)
● 1925 年 (T14):普通選挙法・治安維持法成立。
☆ 選挙に併せ 特に こだわる 治安維持
1923年(大正12)、関東大震災後の社会不安の中、第2次山本内閣は虎ノ門事件(社会主義者による摂政宮狙撃事件。皇太子裕仁はあやうく難をのがれた)の責任を取って総辞職した。その後、西園寺の推薦によって1924年(大正13)元日に清浦圭吾に組閣の大命が下った。清浦は貴族院に大きく偏重した組閣を行ったため、憲政会・政友会(の一部)・革新倶楽部が「超然内閣」反対を唱え、第2次護憲運動をおこした。政府は議会を解散して総選挙に打って出たが、憲政会が大躍進を果たし、憲政会の加藤高明を首相とする3党(憲政会・政友会・革新倶楽部)連立内閣が組織された。2年後の1927年には憲政会と政友本党が合併して民政党が誕生する。(政友本党は1924年に政友会からの脱党者によって成立した党。政友会は、党全体として護憲の動きができなかったが、個人レベルでは高橋是清のような護憲派もいたので、このあたりはかなりややこしい。)
加藤内閣は、第2次護憲運動の流れに沿って1925年(大正14)に普通選挙法(25歳以上の男子に衆議院議員の選挙権)を成立させたが、同時に治安維持法も制定した。背景としては3年前(1922年)にソヴィエト社会共和国連邦が成立し、この年に日ソ国交が樹立されたことから、国内での共産主義者の活動と勢力拡大が懸念されたという事情がある。なお、加藤高明は幣原喜重郎を外相に任じた。幣原は日本の外交を対外協調路線に転じて、欧米列強との強調・中国への干渉の抑制を基本方針とした。「幣原外交」の方針は、1927年(昭和2)に陸軍出身の田中義一が首相になった時から、対外強硬路線へと転換してゆく(1927-28年の山東出兵など)。なお、治安維持法は1928年に緊急勅令によって改訂され、最高刑が死刑へと引きあげられた。
[首相]加藤高明(1924-26)
● 1927 年 (S2):昭和金融恐慌。
☆ 銀行が 重苦 担って 金融恐慌
第一次世界大戦が1918年(大正7)に終結すると、日本では大戦景気が終って貿易が輸入超過に転じ1920年(大正9)に戦後恐慌が発生した。さらに1923年(大正12)の関東大震災で、経済は打撃を受けて不況が続き、中小銀行の経営状態は悪化していた。1926年(大正15)12月25日に大正天皇が崩御し、昭和天皇が即位、時代は昭和へ移行する。
1927年(昭和2)に蔵相が衆院予算委員会の答弁で渡辺銀行に関して失言をしたことをきっかけに金融不安が一挙に表面化し、取り付け騒ぎがおこって銀行の休業が続出した(昭和金融恐慌)。さらに政府が関与する特殊銀行である台湾銀行の救済策をめぐって枢密院が政府と対立し、時の若槻内閣は総辞職した。次の組閣の大命を受けた田中義一は高橋是清を蔵相に起用し、支払猶予令と現金供給よって金融恐慌を一旦鎮静化させた。
しかし1929年(昭和4)にはアメリカから世界恐慌が始まり、日本経済は1930年(昭和5)の金輸出解禁措置断行の影響と併せて再び大きな打撃を受け、昭和恐慌に突入することになる。
(前年1926年の年末に改元されて昭和が始まっているわけだが、この頃の世相は、全般に陰鬱なものだったようである。作家の芥川龍之介が服毒〔睡眠薬〕自殺をしたのも1927年7月のことであり、これも陰鬱な時代に入ってゆくことを暗示する象徴的な事件だったと見えないこともない。)
[首相]若槻礼次郎(1次:1926-27)、田中義一(1927-29)
● 1927 年 (S2):山東出兵。
☆ [張]作霖と 特に 仲良く 山東出兵
中国(中華民国)で国民党を率い、打倒軍閥・打倒帝国主義を唱えていた孫文が1925年に病没した後、蒋介石が国民党を主導した。蒋介石が率いる国民革命軍は翌1926年(日本では昭和元年)に、その拠点である広州から北方軍閥の征討(北伐)を開始する。この頃、北京では奉天派(満州)軍閥の張作霖が力を持っており、これが親日的であって、日本はこれを利用していた。日本の田中義一内閣は、張作霖を北伐軍から守るために(日本人居留民の保護という名目で)1927-28年(昭和2-3)に3度の山東出兵を行った。1928年の第2次出兵の際には、済南(さいなん。北京の南、約330キロのところ)において日本軍と中国国民革命軍の間に武力衝突が起こった(済南事件。衝突のきっかけについては、日本側と中国側で主張が全く異なっている)。日本軍が済南城を占領し、蒋介石の革命軍は済南を避けて北上したが、これを契機に中国における排日運動が激化した。
[首相]田中義一(1927-29)
● 1928 年 (S3):張作霖爆殺。
☆ 関東軍 引くには引けず 張 爆殺
中国北方軍閥の張作霖は、蒋介石の北伐軍からの攻勢に押されて1928年(日本は昭和3)に北京を去り奉天に向かった。(張作霖は北京付近で北伐軍と最後の一線を交えることも考えたようだが、日本の田中内閣は張作霖が敗れて北伐軍が作霖を追って満州になだれ込む混乱を避けたいという意図から、作霖に帰順をを促したようである。)しかし奉天に入る直前に、張作霖は列車ごと爆殺された。これは日本の関東軍が勝手に起こした事件であるが、田中義一首相は北伐軍が起こした事件として発表し、真相を日本国民に知らせなかった。爆殺の動機は、張作霖が親日から親欧米に方針を切り替える動向を見せたためとも言われるが、要は関東軍が満州に混乱状態を起こし、それを実力で制圧して日本の権益保護をより確実にしようということだったようだ。張作霖の息子、張学良は、張作霖の宿敵であったはずの国民党と手を結び、排日の態度をとることになる。関東軍による満州支配に向けた動きは、1931年(昭和6)の満州事変へとつながってゆく。
[首相]田中義一(1927-29)
● 1930 年 (S5):昭和恐慌。
☆ 金 解禁 戦(いくさ)を 導く 昭和恐慌
日本では1917年(大正6)以降、金の輸出を禁じていた。しかし第一次世界大戦後、欧米各国が金本位制を復活させたので、日本の財界からも欧米にならって金本位制を復活させ、経済を整理することを望む声が出るようになり、1930年(昭和5)に浜口雄幸内閣は金輸出の解禁を断行した。しかし旧平価を切り下げずに解禁を行ったため、むしろ輸出減少と国内産業の不振を招いてしまった。折悪しく前年にアメリカで始まった世界恐慌の影響も出始めて日本は深刻な恐慌状態に陥り(昭和恐慌)、企業の倒産や人員整理が相次いで失業者が激増した。この頃から、日本は軍部が台頭する時代に入っていく。
この恐慌の際に、松下電器製作所(パナソニック)の創業者・松下幸之助(1894-1989)だけは従業員を解雇しないという方針を貫いた。これが終戦後に国内の各企業に拡がった「終身雇用制」の考え方の源流であったようだ。まぁ終身雇用なんか既に過去のものだろうけれども。
[首相]浜口雄幸(1929-31)
● 1930 年 (S5):ロンドン会議。
☆ 軍縮で 戦(いくさ)を 見直せ ロンドン会議
対外強硬路線をとり、張作霖爆殺事件の責で総辞職した政友会・田中義一内閣の後を受けて1928年(昭和3)に成立した立憲民政党・浜口雄幸内閣では、田中外交を批判してきた幣原喜重郎が再び外相に就任して、再び強調外交路線を進めようとした。
1930年(昭和5)に開催されたロンドン会議は、ワシントン会議で設定された建艦中止期間満了を受けて開かれた軍縮会議である。主力艦の制限期間を1936年まで延長するとともに、補助艦に関して米・英・日がそれぞれ10:10:7とすることが追加された。条約締結の際に日本国内では、軍部や右翼から政府が兵力量を制限する条約に調印したのは「統帥権の干犯」(天皇の軍事決定権限の侵害)にあたるという批判が巻き起こった。(このとき、明治憲法には軍に対して文民統制を働かせる仕組みが全く入っていないという致命的な欠陥を、軍部・右翼が発見してしまったわけである。)批准は何とか実現したものの、これで日本国内では協調外交路線が潰え、右翼が台頭してゆくきっかけとなってしまった。このロンドン条約の期限満了時に持たれた会議では、イタリアが参加せず、日本が英米と同等を主張して決裂、再延長はなかった。
浜口は1930年11月、東京駅で右翼団体の男に銃撃されて、翌年8月に死亡する。そして9月に満州事変が起こり、幣原協調外交は終焉を迎えることになる。
[首相]浜口雄幸(1929-31)
● 1931 年 (S6):満州事変。
☆ 東北で 一苦 災難 満州事変
日本では、第一次世界大戦時の大戦景気の後、1920年代には戦後恐慌~関東大震災~世界恐慌の影響~金解禁による昭和恐慌と、経済の混乱と不況が継続し、社会不安がつのった。そのような世相の一方で、軍部の勢力が「世界最終戦論」などを掲げて台頭し、大陸での権益意識を強めて暴走を始めるようになる。中国東北地方では、張学良が排日運動を続けていたが、1931年(昭和6)に日本の関東軍は柳条湖で南満州鉄道の爆破事件を起こし、これを張学良の東北軍による工作と発表して軍事行動に入った。(首相の若槻礼次郎は不拡大の方針を採ろうとしたが、内閣・軍部・世論をコントロールできなかった。)翌年には、関東軍はほとんど東北部全土を占領して満州国を成立させ、1933年(昭和8)5月に中国と停戦協定を結んだ。満州の政治・軍事の実権は、実質的に日本の関東軍が完全に握ったわけである。しかし一方で、中国は、1932年に満州事変を日本の侵略行為として国際連盟に提訴しており、それを受けてリットン調査団(リットンは団長のイギリス人の名前)が日本を非難する報告を行っていたため、1933年3月に日本は国際連盟からの脱退を表明することになった。
不況と「対外進出・拡張主義」との関連については、いろいろな捉え方があるだろうが、ひとつの観点として、戦前の庶民の多くが、かなりの程度収入を搾取されていて、自力の経済力や購買力を持ちえない小作農民であったという事情を見るべきであろう。そのような社会構造の下で、国内需要によって経済を回すことは不可能であり、たとえば一次大戦のように他所で戦争があればその特需で潤うこともあり得るが、そうでなければ自国の拡張主義に傾かざるを得ない面があった。(そういう社会構造を是正できなかったのかという責任の所在を決めるのは難しいけれども。)国の拡張主義は軍部・政府や財界など支配者層の意向だけでなく、経済的閉塞状況に閉じ込められている庶民の視点からも、経済を良くし、自らにも経済活動(例えば、外地で「ひと旗揚げる」)の機会を与えてくれる魅力的なものとして映っていたようである。満州事変から太平洋戦争までの日本の拡張主義には反省すべき点が多々あるけれども、拡張主義自体は近代以降、第2次大戦の終戦まで欧米列強があたりまえのようにやってきたことであり、日本だけが(あるいは同盟国側だけが)異常な侵略国だったという捉え方は、あまりに日本にとって酷だという気もする。米国がワシントン条約以降にいろいろ日本の進出を阻む施策を打ってきたのも、世界の「平和」のためというわけではなく日本よりも自国がアジアに進出して利権を得たかったからであろう。
[首相]若槻礼次郎(2次:1931)、犬養毅(1931-32)、斉藤実(1932-34)
● 1932 年 (S7):五・一五事件。
☆ 五・一五 青年 戦(いくさ)に 突き進む
1920年代の長く深刻な不況下で、軍部の若手将校(貧しい農村の出身者も多かった)などの中には、日本のゆきづまりを重く意識し、その原因を既存の権力機構(元老や政党、財閥)の腐敗によるものと見なして「実力」による国家改造を志向する人々が現れてきていた。そのような勢力の急進的な活動が、ロンドン軍縮問題と満州事変を契機にして活発になった。そして1932年(昭和7)に、海軍青年将校の一団が、政党内閣を否定して犬養首相を官邸で射殺するという事件が起こった(犬養は即死ではなかったが当日深夜に死去)。その日付を採って五・一五事件と呼ばれる。この事件の後、元老の西園寺公望は軍部の意向を容れて、犬養が属してしていた政友会の人間ではなく(そしてもちろん民政党の人間でもなく)海軍大将・斎藤実〔まこと〕を首相に指命した。そうして「挙国一致内閣」が組織され、太平洋戦争が終わるまで政党内閣は復活しなかった。
[首相]犬養毅(1931-32)、斉藤実(1932-34)
● 1933 年 (S8):国際連盟脱退(を通告)。
☆ 日本は 戦(いくさ) 見据えず 連盟脱退
日本の関東軍は1931年(昭和6)に満州事件を起こし、翌1932年にはほとんど東北部全土を占領して満州国を成立させた。満州国の政治・軍事の実権は関東軍が完全に握ることになったが、一方、中国は1932年に満州事変を日本の侵略行為として国際連盟に提訴しており、これを受けて連盟はリットン調査団を派遣。その調査報告にもとづき、日本軍に満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告が、1933年2月に国際連盟の臨時総会に提出された。これが採択されたことを受けて1933年(昭和8)3月に日本は国際連盟からの脱退を表明した。(発効は1935年。)日本は国際社会から孤立してゆき、見通しの立たない戦争の道に入り込んでゆくことになる。
(この年〔1933年〕の2月20日、作家・小林多喜二が特高警察に逮捕され、その日にうちに拷問を受けて死亡するという事件が起こった。〔警察発表では死因は心臓麻痺とされたが。〕多喜二は1929年に『蟹工船』を発表してプロレタリア文学の旗手として注目を集めてから、特高警察によって要注意人物としてマークされるようになり、数回の逮捕も経験した。1932年春から身を隠して活動を行していた。)
[首相]斉藤実(1932-34)
● 1936 年 (S11):二・二六事件。
☆ 遠く見ろ 二・二六の 皇道派
1936年(昭和11)2月26日、北一輝の国家社会主義思想の影響を受けた皇道派の青年将校が、約1400人ほどの兵を動員して蜂起した。(皇道派の基調として当時の社会に対する"義憤"があった。不況下で国民、特に農民が貧窮する一方で、一部の財閥が巨利を貪り、政治家たちは国民のことを考えないという状況。これを実力行使によって変えなければならないと、近視眼的に考えたわけである。)将校たちは、首相官邸や警視庁などを襲撃、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害、永田町一角は4日間にわたり占拠された。首謀者たちは「天皇親政」をかかげていたわけだが、天皇は彼らの意向を拒否し、結局彼らは「叛乱軍」として武力鎮圧された。天皇のことも国家の実情も見えていなかった人々による、近視眼的な蜂起事件と言うべきかもしれない。(15名ほどの将校が死刑となり、翌年には北一輝も死刑に処せられた。)皮肉なことに、この後、軍部内は皇道派と対立していた統制派(テロによるクーデターには反対し、政・官・財界と結び合法的手段による覇権確立をめざす)が支配権を握り、軍国主義を推し進めていくことになる。また同年、軍部の意向で軍部大臣現役武官制(陸軍大臣・海軍大臣を現役の軍人から出さなければならない)が23年ぶりに復活してしまい、軍部の賛成を得ずには組閣ができなくなった。
[首相]岡田啓介(1934-36)、広田弘毅(1936-37)
● 1937 年 (S12):日中戦争。南京事件。
☆ [国共]合作で 戦(いくさ) 長引く 日中戦争
満州事変以後も、中国の華北部へのさらなる進出を狙っていた日本の軍部は、1937年(昭和12)7月に北京郊外の盧溝橋で起こった演習中の日本軍と中国軍の衝突をきっかけとして、中国との間で全面交戦状態に入った(日中戦争)。中国側ではこれに対抗するために、国民党と共産党の間で第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成された。日本軍は首都・南京を占領したが、国民政府軍は場所を移しながら、英・米・ソ連などの援助を受けて、徹底的な抗戦を続けた。日本の軍部は、この戦争を短期で終わらせられると踏んでいたのだが、その目論見どおりにならなかったわけである。日本は4年後、太平洋戦争にも突入し、日本が敗戦を迎えるまで日中戦争も泥沼状態で継続した。
なお敗戦後に、中国や連合国から、1937年12月に日本が南京に入ったとき、日本軍は30万人以上にも及ぶ中国人を虐殺したという主張がなされた(南京事件もしくは南京大虐殺)。しかしその実態が実際にはどのようなものであったのか、明確な全体像は不明であり、現在でも犠牲者数に定説はない。
[首相]近衛文麿(1次:1937-39)
● 1939 年 (S14):ノモンハン事件。
☆ 国境の 戦(いくさ)苦しい ノモンハン
日本の関東軍が起こした満州事変によって1932年(昭和7)に成立した満州国は、それまでのモンゴルとのフルンボイルの南方の国境について、従来の境界から10-20キロほど広い国境線を主張した。このため、この地域はモンゴルを衛星国とするソ連と、満州国を建てた日本との間の国境係争地となっていた。1939年(昭和14)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の間で発生した国境警備隊の交戦がきっかけとなって、日ソ双方が兵力を派遣し、大規模な戦闘になった。戦車火砲の力の差が甚だしく日本側の完敗に近い結果に終わり、ソ連・モンゴル側の主張する国境線がほぼ維持された。停戦合意が9月15日に成立。
ナチスドイツがソ連(スターリン)と独ソ不可侵条約を結んだのは、ノモンハン事件で日ソが交戦中の8月23日であり、独ソの条約締結は日本に衝撃を与えた。ドイツは9月1日にポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まることになる。
[首相]平沼騏一郎(1939)、阿部信行(1939-40)
● 1941 年 (S16):太平洋戦争勃発。
☆ 日本は 引く用意なし 対米戦
日本が1937年(昭和12)から始めた日中戦争は泥沼化していたが、陸軍を中心とする意向により、ドイツ・イタリアとの連携を強化しつつ、さらに積極的に南方へ進出しようという方針がかたまった。ドイツは1939年9月にポーランドに進撃し、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が始まっていたが、フランスがドイツの侵攻に敗れたことに乗じて日本はフランス領インドシナへと進駐し(1940年〔昭和15〕9月)、さらに日独伊三国同盟を結んで、1941年(昭和16)7月には南部フランス領インドシナまで進駐した。(日本のインドシナ進駐の動機としては、資源の確保〔実際すぐに、米国主導の「石油禁輸措置」に苛まれることになる〕もあるが、日本の観測として、日中戦争に手こずらされる背後には、米・英・ソなどの列国による蒋介石政権への援助があるのではないかという推測があり、インドシナ地域はその最重要ルートの経地と考えられていたということもあるようだ。)日本の南進を阻止したいアメリカは、日本に対して石油禁輸措置をとり、さらにハル・ノートを提示(11月27日)して中国・仏印からの全面撤兵などの強硬な要求を突き付けてきたので、日本は同盟国側としての対米開戦が避けられない状況に追い込まれる。日本は1941年(昭和16)12月8日に、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。
(なお、1941年9月から1942年4月にかけて、スパイ組織の構成員が多数逮捕されるという事件が起こっている。これは首謀者の名前から「ゾルゲ事件」と呼ばれる。ゾルゲはドイツの新聞の特派員という肩書きで1933年〔満州事変後の時期〕に日本に来ていたのだが、実際はソ連のスパイであって、諜報団を組織して1941年まで活動を行なっていた。日本政府の対ソ方針に関する機密情報をスターリンに伝えていたわけである。ゾルゲらの刑は1942年に確定し、1944年にゾルゲの死刑が執行された。)
[首相]東条英機(1941-44)
● 1942 年 (S17):ミッドウエー開戦。
☆ ミッドウエー 遠く 死にゆく 日本兵
日本は「大東亜共栄圏」の建設(欧米列強の植民地支配からのアジアの開放)を唱え、1941年(昭和16)12月の対米開戦の後、戦争初期にはマライ半島・香港・マニラ・シンガポール・ジャワ・スマトラ・フィリピンおよび太平洋上の諸島(ソロモン諸島など)・ビルマなど、広く東南アジア-太平洋地域への進出・占領を進めた。しかし日本軍の勝利が続いたのは半年ほどにすぎず、1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦で大敗を喫してから戦局は日本に不利になり、アメリカの本格的な反撃が始まる。(ミッドウェー島の位置は、地図上で日本からハワイを直線的に結ぶと、その2/3くらいのところ。)1944年(昭和19)11月には、日本本土への攻撃が始まった。
[首相]東条英機(1941-44)
● 1945 年 (S20):敗戦。(太平洋戦争終結)
☆ 日本は 引くよ 降参 敗戦だ
1944年(昭和19)7月にはサイパン島が陥落し(サイパンは日本の南方、グアムの近く。大雑把に言えば本州とニューギニアの中間あたり。緯度はだいたいマニラと同じ)、米軍は10月にはフィリピン(レイテ島)に上陸、また、44年11月からは米軍機による本土への空襲も始まっている。米軍は、翌1945年(昭和20)2月には硫黄島(東京-サイパンの中間あたり。緯度はだいたい台北と同じ)、4月1日には沖縄本島への上陸を開始した(戦艦大和は4月6日に沖縄に向けて出撃したが、翌7日に鹿児島南方の南シナ海で米軍の攻撃を受けて撃沈。沖縄戦は7月初めに「完了」)。5月には同盟国のドイツが無条件降伏をしたので、もはや日本は全く孤立した状況になっていた。軍部が本土決戦に突入しようとする一方で、鈴木貫太郎内閣はソ連を仲介とする和平工作も模索していたが、実は、ソ連は既に2月のヤルタ会談(米英ソ)における密約で、日ソ中立条約を破棄して対日参戦する予定を決めていた。米英ソの3国は7月に再びポツダム会議を行い、日本に向けて降伏を促すポツダム宣言を発表した(宣言は米英"中"の対日宣言として出されている)。さらに米軍は「戦争を早く終わらせるために」8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下した。そして8月8日にソ連は(中立条約を破って)日本に宣戦布告をし、満州・朝鮮などへ侵攻を始めた。日本は8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国側に通告し、翌日の1945年(昭和20)8月15日の玉音放送をもって、戦闘を停止した。9月2日、東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で、日本は降伏文書に署名した。
[首相]鈴木貫太郎(1945)、東久邇宮 稔彦王(1945)
● 1950 年 (S25):(朝鮮戦争勃発)警察予備隊創設。
☆ マッカーサー 一句 号令 警察予備隊
終戦直後(1945年〔昭和20〕8月末)から、サンフランシスコ平和条約が発効する1952年(昭和27)までの間、日本は、米国のマッカーサー司令官が率いるGHQ(連合軍総司令部)による統治を受けた。GHQは当初、日本を無力な国にする方針を採った。しかし、世界の動向として米ソの冷戦時代が始まり、それぞれ「陣営」の拡充を志向するようになると、占領政策も方針が変わり、日本にそれなりに国力を持つ自由主義陣営の一員としての役割を期待するようになった。朝鮮半島では終戦後、米ソそれぞれの複雑な干渉の下で、1948年(昭和23)に南部には大韓民国(韓国)、北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立したが、1950年(昭和25)に北朝鮮が南朝鮮に攻め込んで、朝鮮戦争が始まった。ソ連(および中国)が北朝鮮を、米国を主とする国連軍が南朝鮮を支援した。日本は国連軍の基点となり、このときGHQの指令によって、日本に警察予備隊が新設された。警察予備隊は、後に自衛隊(陸上自衛隊)になる。
[首相]吉田茂(2-5次:1948-54)
● 1951 年 (S26):サンフランシスコ平和条約・日米安保条約調印。
☆ 講和から 特急 強引 安保まで
自由主義陣営と社会主義陣営の対立は、東アジアでも朝鮮戦争の勃発(1950年〔昭和25〕)によって顕在化し、米国は日本に対して、東アジアにおける自由主義陣営の拠点としての役割を望むようになった。そこで日本を自立させるために、対日講和条約の締結を急いだ。1951年(昭和26)サンフランシスコ講和会議において、日本と米国を中心とする48箇国との間で、サンフランシスコ平和条約が調印された。ただし同時に日米間で、日米安全保障条約も調印され、これによって日本は米軍の国内駐留を認めることになった。この日米安保の路線は現在も続いているわけだが、評価するのが難しい。政治的な立場によって評価は全く異なるものになる。
[首相]吉田茂(2-5次:1948-54)
● 1952 年 (S27):戦後日本の独立(サンフランシスコ平和条約発効)。
☆ 独立の 一句 公認 サンフランシスコ
1951年(昭和26)に調印されたサンフランシスコ平和条約は翌1952年(昭和27)4月28日に発効した(同時に日米安全保障条約も発効)。これで連合国軍による7年間の日本占領は終了し、日本は独立を回復した。(ただし沖縄は引き続き米国の施政下におかれ、沖縄が返還されるのは20年後の1972年〔昭和47〕になる。)また、同年、日米行政協定も締結され、日本は米駐留軍への基地提供と費用分担を義務づけられた。
この条約発効直後の5月1日には、労働者の祭典・第23回メーデーが開催されたが、一部の参加者が暴徒化して、開催場所として政府から禁じられていた皇居前広場へ向かってしまった。(単純に皇居前という場所を重視したからなのか、あるいは条約反対という意志を持つ一部の左翼的団体が煽動したのか、理由はよく分からないけれども。)これに対して、労働者たちによる騒動を過剰に警戒していた当局は武装警官隊を派遣し、デモ隊との大規模な衝突が起こった。警官隊は催涙ガス弾や拳銃発射などの実力行使に及び、2人の死者と千数百人の負傷者が出た。これは「血のメーデー事件」と呼ばれる。この事件を受けて、政府は同年7月に破壊活動防止法を制定し、公安調査庁を設置した。
[首相]吉田茂(2-5次:1948-54)
● 1954 年 (S29):自衛隊・防衛庁発足。鳩山内閣(日本民主党)誕生。
☆ 防衛に 行くぞ 行進 自衛隊
GHQの指令によって1950年(昭和25)に創設された警察予備隊は、平和条約が発効した1952年(昭和27)に、自衛力増強を重要課題のひとつと位置付ける吉田内閣の下で、保安隊として改組された。そして1954年(昭和29)、日米間でMSA(相互安全保障)協定が締結されると、保安隊を旧海軍の残存部隊からなる海上警備隊と統合し、航空部隊を加える形で自衛隊が設立された。これに併せて防衛庁が発足した。
GHQの終戦直後当時の意向を色濃く(ほとんどそのまま)反映させる形で1946年(昭和21)に制定された現行の日本国憲法では「戦争の放棄」と「戦力不保持」がうたわれているが、現在の政府見解では自衛隊の存在は他国との戦争のためではなく自衛のための組織なので合憲という位置づけになっている。しかし自衛隊が合憲か違憲かという問題は現行憲法の文面だけからすると微妙すぎて、専門家でも意見が分かれる難問である。1950年代から保守勢力側によって憲法改正の主張が続けられ、革新勢力はむしろ再軍備反対の観点から「平和憲法」を擁護する主張をした。改憲は行われずに現在に至っている。
(この年〔1954年〕の3月に第五福竜丸の被爆事件が起こっている。第五福竜丸は遠洋マグロ漁船で、当時はマーシャル諸島近海で操業していたが、マーシャル諸島のビキニ環礁で米軍が行なった水爆実験によって発生した多量の"死の灰"〔放射性降下物〕を浴びることになり、乗組員23名全員が被爆者となってしまった。〔福竜丸は米軍が設定した危険水域の外にいた。米軍の爆発規模の推測と事前警告が不適切だったのである。〕1名が半年後に死亡し、残りの乗組員も後遺症に苦しめられたが、アメリカは一貫して「被爆が直接の原因ではない」という態度を取り続けたようである。)
[首相]吉田茂(2-5次:1948-54)、鳩山一郎(1-3次:1954-56)
● 1955 年 (S30):自由民主党結成(自由党+日本民主党)。55年体制の始まり。
☆ 保守両党 特急 交合 自民党
1946年(昭和21)に首相に就任して、終戦後の政治を主導してきた自由党の吉田茂は、しかし平和条約締結後、戦犯として服役したり公職追放されていた政治家が復帰してくると、同じ保守勢力ながら、そのような勢力から反発を受けることになって、1954年(昭和29)に内閣総辞職に追い込まれた。このときの日本民主党が結成され鳩山一郎が内閣を組織した。ところが1955年(昭和30)、革新勢力のほうで、4年前から分裂状態にあった社会党の両派の再統一が実現した。これに対する危機感もあって、保守派のほうも保守合同へと動き、同年自由民主党が結成された。ここから、保守の自由民主党が議席の3分の2程度を占める安定政権を維持し、革新の主力として社会党がこれに対峙するという55年体制が、30年以上続くことになる。
[首相]鳩山一郎(1-3次:1954-56)
● 1956 年 (S31):日ソ共同宣言。国際連合加盟。
☆ モスクワに 鳩山そろそろ 行く頃だ
1954年(昭和29)に吉田茂内閣の総辞職をうけて、反吉田勢力を中心とした民主党の総裁、鳩山一郎が内閣を組織した。鳩山内閣は「自主外交」を謳い、社会主義国との関係改善も積極的に進めた。ソ連との交渉は、北方領土問題で難航したが、1956年(昭和31)10月に鳩山首相自らがモスクワに行き、日ソ間の戦争を終結する日ソ共同宣言に調印した。
日ソ共同宣言の結果、それまで日本の国際連合加盟を拒否してきたソ連が、加盟の支持に転じることになり、1956年(昭和31)12月に日本は国際連合への加盟が認められた。
この宣言をどう評価すべきかは、難しいところである。国連加盟につながり、社会主義国とも国交が始まった点は肯定的に評価すべきかもしれないが、そもそも戦争末期、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って侵攻してきたことの責任は、うやむやにされてしまっている。北方領土については、日本は4島の返還を要求していたが、ソ連は国後・択捉については「解決済み」とする立場を取り、歯舞・色丹についても「条約締結後」とし、その後、北方領土問題は60年以上を経て、まったく解決の見通しが立たない。ソ連による日本人捕虜に対する「シベリア抑留」の問題(50万人以上が連行されて厳寒環境下での苛酷な労働を強いられ、5万人以上が死亡)なども、ほとんど不問になってしまった。
(別の話だが、この年〔1956年〕に原因不明の奇病「水俣病」が初めて報告されている。熊本大学医学部は早くから、地元の化学会社「日本窒素肥料」〔後の「チッソ株式会社」〕から排出される物質が原因である可能性を指摘していたが〔そして後に「日本窒素肥料」が排出する有機水銀による海産物汚染が原因と確定するのだが〕、政府が日本窒素肥料からの排水が原因だと正式に認めたのは、ようやく1968年のことである。)
[首相]鳩山一郎(1-3次:1954-56)
● 1960 年 (S35):新安保条約調印・批准。安保闘争。
☆ 岸内閣 一苦労をして 総辞職
サンフランシスコ平和条約の際に日米間で結ばれた日米安全保障条約は、米軍が日本を防衛する義務が書かれていないなど不平等な面があり、不備も少なくないものであった。1957年(昭和32)に首相となった岸信介は、重要政治課題のひとつとして日米安保条約の改定に取り組んだ。日米交渉は1958年(昭和33)に始まり、1960年(昭和35)1月に新安保条約が調印されることになる。しかし、この条約締結に関しては、国内で賛成意見と反対意見の激しい対立が生じており、5月に衆議院で条約批准が強行採決されると、安保反対を叫ぶ革新勢力や学生(全学連)が激しい抗議活動を展開した。安保批准案は参議院の議決なしに6月に自然成立し、その直後に岸内閣は総辞職をした。
岸信介の辞職を受けて首相となったのは池田勇人(いけだはやと)であった。池田は東京オリンピックの年(1964)まで首相を務めることになるが、外交についてはあまり動かずに、「所得倍増計画」を打ち出して、ひたすら国内向けの経済政策に注力することになる。池田が日本に高度経済成長時代をもたらしたと言っても過言ではないと思う。池田退陣の理由は喉頭癌であったらしい。
(同じ年〔1960年〕の1月から11月にかけて、三井鉱山・三池炭鉱〔福岡県大牟田市〕において大争議が行なわれている。これはエネルギーの石炭から石油への転換期において、会社側が示した炭鉱夫大量解雇の方針をめぐって起こった大規模な労使間争議である。ただし、会社側は全面闘争には批判的な組合員に「第二組合」を結成させたりして、第一・第二組合間の抗争などもあったし、前者は左翼活動家の温床になっているという側面もあった。最終的には政府〔中央労働委員会〕が調停に入る形で妥結に至ったが、実質的には組合の敗北であった。)
[首相]岸信介(1957-60)
● 1985 年 (S60):プラザ合意。
☆ 円高を 説くは 五か国 プラザ合意
1980年代、レーガン政権下の米国は貿易赤字が膨らみ続け、米ドル相場が不安定になった。特に対日貿易赤字が深刻であった。1985年(昭和60)、G5(米、英、仏、西独、日)蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨーク市のプラザホテルで開かれ、米ドルの安定化のための協調的なドル安策を採ることで合意がなされた。これは実質的には円高ドル安への誘導に日本が合意させられたということであった。この合意による為替相場の変化と、これに応じて行われた日銀の金利政策の進め方が主な誘因となって、翌1986年(昭和61)末からバブル景気が始まることになる。(1991年〔平成3〕2月にバブル崩壊。)
[首相]中曽根康弘(1-3次:1982-87)
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