納得して覚えるための
日本史年代☆ゴロ合わせ(明治時代)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1868 年 (M1):鳥羽・伏見の戦い。五箇条の御誓文の公布。
☆ 鳥羽・伏見 五箇条 続き 人は狼狽
1867年12月の討幕派による強引な新政府樹立に対して、幕府側に武力による反撃の気運が高まった。徳川慶喜自身は武力衝突を極力避けたかったようだが、結局は御所警護の薩摩藩兵との開戦を決定せざるをえなくなった。1868年1月、京都で武力衝突が始まったが、幕府側は「鳥羽・伏見の戦い」に敗れてしまう。徳川慶喜は逃れて江戸に戻ったが、新政府は4月には江戸を占領した(有名な勝海舟と西郷隆盛の会談は3月13日と14日に行われており、江戸城明け渡し〔江戸無血開城〕は4月21であった)。他方において、新政府は同年1月に海外に王政復古を伝え、3月には新政府の基本姿勢を示す「五箇条の御誓文」を公布していた。7月に江戸を東京と改称し、9月に「明治」と改元した。国内の急速な激変に戸惑い、狼狽した人々も多かったであろう。
幕末期、幕府を支援したのはフランス、薩長を援助したのはイギリスであったが、当時フランスはナポレオン三世による第二帝政の末期であった(1970年に失脚)。他方イギリスはヴィクトリア女王の下で覇権国家の地位を保持しており、明治前半は保守党ディズレーリと自由党グラッドストンにより国政が充実した時期であった。幕末の薩長と幕府の間の内戦期において、結果的に両陣営とも列国からの「本格的な」援助を受ける形にならなかったことは、おそらく日本にとって幸運だったのだろう。もし、このときの情勢が違って列国からの本格的な介入を招いていたならば、日本列島全体がまとまった独立国になれず、インドのようにまるごと植民地化されたり、アヘン戦争以降(さらには日清戦争以降)の清のように、列国による事実上の分割支配を受けることになる危険性も高かったのではないかとも思われる。「明治維新」というのはそれこそ「革命的」な国の変革であったわけだが、そもそもその動機付けの要因としては(「人民の権利意識」のようなものではなく)ひたすら外国からの脅威に因っていたわけで、辛くもその点は踏み外さずに済んだわけである。
● 1869 年 (M2):蝦夷地を北海道と改称。開拓使を置く。
☆ 開拓の 人は 労苦の 北海道
明治政府は1869年(明治2)に、蝦夷地を北海道と改称し、未開地域の開拓を行う機関として開拓使を設置した。当初、開拓使は東京に設置され、2年後の1871年(明治4)には札幌に移された。これは政府の農業政策の一環でもあり、大農場制度の導入が図られることになる。
(なお、1868年4月の江戸城無血開城の後も、旧幕府軍の残党や、幕府派の東北諸藩は新政府軍への抵抗を続けた〔戊辰戦争〕。1869年5月、函館の五稜郭開城によって、戊辰戦争は終結した。新選組の近藤勇は既に1868年の4月に千葉県で新政府軍に捕縛され、5月には斬首されていたが、土方歳三は1969年5月、五稜郭の戦いの最末期に戦死した。)
● 1871 年 (M4):廃藩置県。
☆ 知藩事 罷免 不平 言わない 人はない
明治政府は、中央集権体制を確立するためには、各地方の大名が分権性の強い形で地方行政を行う旧制度を改める必要があった。1869年(明治2)に政府はまず各藩に対して"一旦"、藩の領地と領民(戸籍)を政府に奉還することを命じて(版籍奉還)、旧大名を政府から「知藩事」(地方官)に任じる形にして藩政を続けさせた。しかしこの体制では、まだ旧体制が温存され、各藩でも不満が高まった。そこで政府は1871年(明治4)に「廃藩置県」を断行した。知藩事はすべて罷免され、新たな地方官(府知事・県令)が政府により任命された。罷免されて東京居住を命じられた知藩事(旧大名)たちは、新政府の強引なやり方に対して、大いに不平が募ったことであろう。
また、別の話だが、この年(1871年)に明治政府は「通貨条例」を定め、「円」を基準とした新たな貨幣制度を発足させた。また翌年(1872年)には正貨と交換できる銀行券(兌換〔だかん〕銀行券、すなわち正式な紙幣)を発行させることを意図して、渋沢栄一らが「国立銀行条例」を制定、第一国立銀行などを設立した。しかし、ただちに兌換制度を確立することは容易ではなかった。
● 1871 年 (M4):岩倉使節団の米欧派遣。
☆ 米国は 是とは言わない 岩倉に
明治新政府の欧米に対する外交課題は、幕府から引き継いだ不平等条約の改正であった。政府は1871年(明治4)に、不平等条約改正のための予備交渉と、欧米近代国家の諸制度・文化の視察を目的として、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)を大使とする大使節団(政府要人および留学生総勢107人)を欧米に派遣した。最初にアメリカに対して条約改正交渉を行ったが、その目的は達せられなかった。使節団は10ヶ月をかけて欧米の政治・産業状況を視察して、翌年帰国した。(道中、1869年に出来たばかりのアメリカ大陸横断鉄道やスエズ運河も経験した。)副使として木戸孝允・大久保利通・伊藤博文なども同行。このときの留学生の中には津田梅子(米)がおり、中江兆民は司法省出仕として同行、パリ・リヨンに滞在した。アメリカに留学生として来ていた新島襄は、使節団の訪米時、木戸孝允に語学力を買われ、通訳に任用されて各国に同行することになった。
● 1871 年 (M4):日清修好条規の締結。
☆ 清国が 嫌とは言わない 修好条規
明治政府が成立すると、日本政府と清の間に国家間条約が無い状態になってしまい、改めて条約締結が必要となった。日本は清に使節を送り、1871年(明治4)に日清修好条規を締結した。("修好条規"という名目だが実質的には通商条約であった。)実は日本は、最初、日本側に有利な不平等条約の案を提示したのだが、清の李鴻章(りこうしょう)が反対し、相互に領事裁判権を認める対等な条約が結ばれることになった。清国の側も、嫌だとは言わない条約内容に落ち着いたわけである。(日本はこれに不満で、条約批准は翌々年になる。)
● 1872 年 (M5):学制の発布。
☆ 学制発布 明治の人は 何 習う?
明治新政府は、近代国家として、国民教育制度も構築する必要があった。1871年(明治4)に文部省が設置され、翌1872年(明治5)には、フランスの学区制などを採用した、全国での統一的な学制が制定され、公布された。小学校教育の普及は、特に急務であった。富国強兵策を進めるためには、全国民を一律に、基本的な読み書きができて、優秀な兵や優秀な労働者になり得る人材にする必要があったわけである。
(ちなみにこの年、福沢諭吉『学問のすゝめ』の初編が出版されている。その後6年間のあいだに、十七編まで刊行された。)
なお、小学校の教育制度に対する考え方については、その後、政府内外においていろいろ曲折があり、画一的な強制主義と放任主義の間で態度が揺れた。試行錯誤の後、最終的には1886年(明治19)に森有礼(ありのり)文部大臣の下で「学校令」が公布され、学校体系が整理された。その後、国民教育は発展してゆくことになるが、これと並行して政府による国家主義重視の教育方針がしだいに強められた。1890年に「教育勅語」が発布されて全国の小学校で読まれるようになったが、ここでは「忠君愛国」が強調され、天皇への忠誠と国家への奉仕が求められている。
(高度な専門教育に関しては、1877年〔明治10〕に「東京大学」が設立されている。1886年〔明治19〕に「帝国大学」に改称。1897年〔明治30〕に、「京都帝国大学」が創設されたため、「東京帝国大学」に改称。)
● 1873 年 (M6):征韓論政変(明治6年の政変)。
☆ 征韓論 嫌な裁定 政変劇
新政府は明治初年から朝鮮に国交を求めていたが、鎖国の方針を採っていた朝鮮は、これを拒絶していた。1873年(明治6)に、政府内で西郷隆盛・板垣退助らが征韓論(朝鮮出兵)を唱えた。これには、新政府に対する士族の不満を、対外侵攻によって逸らす目的もあった。しかし岩倉使節団に参加して欧米視察を経験していた大久保利通・木戸孝允らは、国内体制の整備を優先すべきとして、征韓論を否定した。この結果を不服として、西郷・板垣を含む政府首脳・軍人・官僚、約600人が職を辞するという一大政変が明治政府に起こった。これが征韓論政変である。2年後、政府は朝鮮に迫って開国させることができたが、一方で西郷の下野は、4年後の西南戦争(西郷を首領とした鹿児島の士族中心の大規模な反政府反乱)につながることになる。
● 1873 年 (M6):徴兵令の公布。
☆ 徴兵で ひと花 咲かす 人もあり
富国強兵策を採り、国民皆兵による近代的な軍隊の創設を図る政府は、1873年(明治6)に徴兵令を発布した。長州の大村益次郎が構想し、山形有朋が実現したものである。これにより士族・平民の別なく、20才に達した男子が一律に兵役を負うことになった。ただし国民皆兵と言っても、戸主・学生などや、一定の代人料を支払う人は免役され、主として農家の次男以下が兵役を負った。軍事が士族の特権ではなくなり平民も兵としてひと花咲かすチャンスが生じたとはいえ、基本的には労働力を奪われる農民にも歓迎されない制度であった。それでも、これで明治国家としての軍事的基礎が固められたことになる。
● 1873 年 (M6):地租改正条例公布。
☆ 小作の人は 涙に暮れる 地租改正
明治政府は発足当初、幕府時代の旧態依然な年貢制度をそのまま継承したために地租収入が安定せず、さらに廃藩に伴って諸藩の債務を引き継がざるを得なかったため、国家財政は苦しい状況にあった。そこで政府は田畑永代売買の禁令を解き、地券を発行して土地の所有権を明確化してから、1873年(明治6)に地租改正条例を公布した。これで一応、全国一律の規準で金納を義務付ける近代的な租税制度に移行したようにも見えるが、同時に小作制度と高率小作料も旧慣どおりに認める内容であったため、特に小作人にとっては、依然として多分に封建的要素を残した厳しい制度であった。頻繁に農民一揆が起こり、1877年(明治10)に政府は地租の引き下げを行うことになる。
● 1874 年 (M7):民撰議院設立建白書の提出。
☆ 征韓派 民撰 望まぬ 人は無し
1873年(明治6)の征韓論政変で下野した征韓派の前参議たちは、士族の不満を背景にして政府批判の運動を始めた。この運動の中で、1874年(明治7)に板垣退助・後藤象二郎らは、政府の専制を排した国会による政治を求め、「民撰議院設立の建白書」を左院に提出した。この建白書の提出を契機として、自由民権運動が起こることになる。
● 1874 年 (M7):屯田兵制度の制定。
☆ アメリカの 人の話で 屯田(とんでん) 実施
蝦夷地を北海道と改称して、開拓使を置いた明治政府は、北海度の地へのアメリカ式の大農場制度の導入を考え、1874年(明治7)に「屯田兵」の制度を設けた。「屯」は「集める」の意味で、「屯田(とんでん)」は辺境の地に兵士を集めて住まわせ、平時は農業に従事させ、戦時は兵士として戦わせる制度のことである(古くは漢の武帝の時代に例がある)。北海道に集められた屯田兵は、農地の開拓に従事した。政府は翌々年の1876年(明治9)にマサチューセッツ農業大学のクラークを招聘し(9ヶ月滞在)、その尽力を得て札幌農学校を創設した。
● 1875 年 (M8):新聞紙条例の制定。
☆「嫌なこと 書くな」と 新聞 取り締まる
1874年(明治7)の板垣退助らによる民撰議院設立建白書の提出以来、自由民権運動が急速な高まりを見せた。政府内にも徐々に立憲政治に向かうべきとの議論もあって、1875年(明治8)4月には立憲政体樹立の詔が出され、草案を起草する動きも始まった。しかし早い改革を期待する民権論者たちは、新聞・雑誌において政府を盛んに攻撃するようになっていた。そこで政府は同年6月に、新聞紙条例などを制定し政府批判の言論を厳しく取り締まった。
(直接の関係は全くないが、この年、新島襄〔にいじまじょう〕によって「同志社英学校」〔同志社大学の源流〕が設立されている。新島は、キリスト教主義大学設立の志を抱いており、全国の主要な雑誌・新聞に「同志社大学設立の旨意」を掲載して協力を訴えていた(新島の主張は別に政府批判ではなかったから、新聞紙条例に抵触することはなかったであろう)。しかし生前、大学の設置には至らなかった〔1890年死去〕。その後、曲折を経て1912〔明治45〕に「同志社大学」が設立される。ただし、この時はまだ「専門学校令」による学校。「大学令」に基づく大学になるのは1920年〔大正9〕である。)
● 1875 年 (M8):樺太・千島交換条約。
☆ 樺太は 一番 難攻 あきらめた
幕末以来、樺太はロシアとの間で領有権が決まっておらず、懸案になっていた。ロシアは樺太占領の動きを強め、日本では征韓論政変後に樺太無用論が相対的に勢力を強める動きがあった。1875年(明治8)に明治政府はロシアと「樺太・千島交換条約」を結び、千島全島を日本が領有する代わりに、樺太における権利をすべて放棄するという形で問題を決着させた。ここでの「千島全島」というのは、現在の「北方4島」だけではなく、これを遥かに越えて、カムチャツカ半島の先端部分の直前まで。これらのすべての島が日本の領有となった。
● 1876 年 (M9):秩禄処分。
☆ 財政上 いやな禄制 廃止する
華族・士族への家禄と王政復古の功労者への賞典禄(両者を秩禄と呼ぶ)の支給は、明治政府の財政において支出の30%も占めて大きな負担となっていた。政府は1876年(明治9)に、金禄公債証書を与えて華・士族の禄制の全廃に踏み切った。これを秩禄処分と称する。同年に「廃刀令」も出され、士族の不平はいっそう高まった。
● 1876 年 (M9):日朝修好条規。
☆ 修好条規で 朝鮮 いやな 胸の内
1868年(明治元年)に明治維新がおこった日本は、欧米にならって富国強兵につとめ、対外的にも動きを見せるようになる。1875年(明治8)、日本の軍艦が朝鮮沿岸で演習を行った際に、江華島付近で砲撃された。これを機に日本は鎖国を続けてきた李氏朝鮮に迫り、翌1876年(明治9)に日朝修好条規を締結、釜山などの開港、公使・領事の駐在・領事裁判権などを認めさせた。朝鮮としては内心、不本意であったであろう。日本は李氏朝鮮の宗主国を自任する清と、対立する関係になった。
● 1877 年 (M10):西南戦争。
☆ 西南の 人は七難 負け戦
明治新政府の政策の下で特権を失ってゆく士族には不満がつのり、反政府暴動が相次いで起こった。その最後にして最大のものが、1877年(明治10)に西郷隆盛を首領とし、鹿児島県の士族が中心となって起こした西南戦争である。2月に始まり、戦乱は半年に及んだが、結局は政府軍に敗れ、西郷は自刃した(享年51歳)。これが鎮圧された後、もはや士族の武力による反乱はほとんど起こらなくなり、反政府勢力は主として自由民権運動へと動くことになる。
西南戦争の際に、明治政府側の兵員資材の海運輸送を請け負ったのが、三菱財閥の祖、岩崎弥太郎であった。(当時は「郵便汽船三菱会社」。)ここから弥太郎の飛躍が始まった。
(かつての西郷の盟友で、明治政府を主導してきた大久保利通は、この翌年の1878年、明治政府のやり方に不満を持つ6人の士族によって暗殺された〔紀尾井坂の変〕。享年49歳。)
● 1879 年 (M12):琉球処分(沖縄県を強制設置)。
☆ 琉球の 人は泣く泣く 沖縄人
江戸時代、琉球は島津の支配下にあったが、清国との微妙な関係も持っていた。明治政府は琉球を日本領とする方針を採り、まず1872年(明治5)に琉球藩を置き、1879年(明治12)にはこれを廃して沖縄県を強行設置した。これを琉球処分と呼ぶ。
● 1880 年 (M13):集会条例。
☆ 民権派 党派 ばれると 集えない
1877年(明治10)に西南戦争で反政府側が敗北し、全国的にも不平士族の武力的反乱や、政府の新しい行政施策への反感による農民一揆の多発が収まってくると、代わって言論による組織的な民権運動が展開しはじめ、国会開設を求める動きが広がった。政府は初めのうち、これを抑えようとして1880年(明治13)に集会条例を定め、民権派の言論・集会・結社を規制した。しかしそれでも(1881年の「開拓使・官有物払下げ事件」などもあって)政府に対する批判が高まっていった。(「開拓使・官有物払下げ事件」とは、薩摩出身の開拓長官・黒田清隆が、同郷の政商・五代友厚(ごだいともあつ)らに、官有物を不当に安い価格で払い下げようとしたことが発覚した事件である。問題発覚と同年に起こった「明治14年の政変」において、払い下げは中止となった。
● 1881 年 (M14):明治14年の政変・国会開設の勅諭。
☆ いち早い 勅諭を出して 時 かせぐ
民権運動が高まると、政府内でも大隈重信(佐賀藩出身。「肥前」〔=だいたい現在の佐賀県と長崎県を合わせた地域〕出身という言い方もできる)などは国会の即時開設を主張し、薩長派の伊藤博文(長州藩出身)などと対立するようになった。1881年(明治14)に薩長派は大隈を罷免し、伊藤らを中心とする政権を確立したが(明治14年の政変)、世論に対応するために、憲法制定の基本方針を決し、国会開設の勅諭を出して9年後(1890年〔明治23〕)の国会開設を公約した。国会開設が決まったことを受けて、同年、板垣退助(土佐藩〔高知県〕出身)を党首とする自由党が成立。翌年(1882年)には大隈重信を党首とする立憲改進党が結党された。在野の民権運動の流れを汲む前者(自由党の発端は不平士族による不満であったが、党の基盤は地方農村となっていった)がもっぱら自由の主張に力点を置いたのに対し、それまで明治政府に直接関わってきた大隈が率いる後者は、都市の実業家や知識層の支持を得て、政府の具体的な各政策への批判なども積極的に試みた。この後、大正~昭和(戦前)までの主要政党の流れを極めて大雑把に捉えるならば、板垣の自由党の系統は藩閥勢力と合流して保守本流を形成し(政友会。1900~)、大隈の改進党系統はこれに批判する対抗勢力を形成した。(1927年に民政党が結成され、政友会との2大政党制が一時的に成立する。)
なお同年(1881年)、松方正義(まさよし)が大蔵卿に就任し、いわゆる「松方財政」の諸施策が始まった。翌1882年には"中央銀行"としての「日本銀行」が設立され、銀本位制に立脚する銀行券(紙幣)制度が整えられたりしたが、一方で松方は国家財政の確立を意図して緊縮財政策をとったために、物価が著しく下落し、全国的な不況を生んでしまった。(地租は定額制が維持されたために、自作農の小作への没落と、大地主への土地集中が進んだ。)
● 1882 年 (M15):伊藤博文ら、ヨーロッパへ憲法調査。
☆ 博文が 一番はじめの 憲法調査
政府は1882年(明治15)に、伊藤博文らをヨーロッパに派遣し、憲法の調査にあたらせた。伊藤はウィーンやベルリンで、主としてドイツ式の憲法理論を学び、翌年帰国して憲法制定と国会開設の準備を始めた。政府には、天皇が強い権威を持つ国家制度を制定したいという意図があり、皇帝が〔名目上〕強い権限を持つドイツ憲法の考え方と、親和性があったのである。
(ちなみに同1882年に、松方財政の一環として、中央銀行としての日本銀行が設立されている。この後、それまでの各国立銀行は普通銀行に転換することになる。)
(大隈重信によって、東京専門学校〔早稲田大学の前身〕が設立されたのも1882年であった。)
● 1883 年 (M16):鹿鳴館、落成。
☆ 鹿鳴館の 人は優しい 外交官
1883年(明治16)に日比谷に設けられた鹿鳴館は、内外上流人用の社交機関として使われた洋風の建物である。西洋風の夜会が行われ、華美な舞踏会等が盛んに催された。諸外国との不平等条約の改正を意図する井上馨が、欧化文明国の体裁を示すための社交場として、外国要人接待に利用した。
● 1884 年 (M17):甲申事変。
☆ 清国を 頼るの嫌やし 甲申事変
日朝修好条規(1876年〔明治9〕)による朝鮮の開国後、朝鮮国内では一旦、親日派が台頭したが、これに対する反発も起こり(壬午〔じんご〕事変、1882年〔明治15〕)、朝鮮政府は清国派となった。親日改革派は1884年(明治17)、清仏戦争(1884-85)の勃発を好機と捉えて日本の援助を得てクーデターを起こしたが、清国軍が派遣されたために失敗に終わった。これが甲申事変である。日本と清の関係は不穏なものになったが、翌年、日本は当面の衝突を避けるために、清と天津条約を結んだ。(伊藤博文が天津に派遣されて、李鴻章との間で条約を締結。日清両国は朝鮮から撤兵することになった。)
● 1884 年 (M17):秩父事件(農民が負債減免を求めて蜂起)。
☆ 秩父にて デフレ嫌やし 蜂起する
1881年(明治14)に大蔵卿に就任した松方正義は、財政・紙幣整理に着手し、日本銀行を設立し、銀本位の貨幣制度を整えた。しかし緊縮政策のために物価の下落が起こり不況が全国に拡がった。1882年頃から生活難に苦しむ農民が各地で騒擾を起こすようになり、1884年(明治17)には埼玉県秩父地方で数万人の農民が負債の減免を求めて蜂起、鎮圧に軍の出動を要するまでの事件になった。
(これらの騒擾との関係を政府から疑われ、弾圧を恐れた自由党は、同年〔1884年〕に解党した。しかし国会開設が近づいた1887年には再び民権派の結集が図られるようになり、この年には三大事件建白運動が起こった。三大事件とは、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の回復の3つの要求のことで〔「事件」の語感が、現代とは違いますね〕、これらの要求が建白書を通じて政府に対して表明され、はげしい陳情運動が展開された。)
なお、別の話であるが、この頃(1884年ごろ)から官営の鉱山の政商(三井・三菱・古河など)への払い下げが進められるようになり、これが後々の財閥の基礎となった。)
● 1885 年 (M18):天津条約(朝鮮における甲申事変後の日本と清の間の条約)。
☆ 天津で 揉めるの嫌や! 鴻章と
朝鮮において、親清派の政府に対する親日派のクーデターが失敗した甲申事変の後、日本と清の関係は悪化した。これを打開するために、日本は翌1885年(明治18)に伊藤博文を派遣し、清の李鴻章との間で天津条約を結んだ。この条約により両国は朝鮮から軍を引き上げ、再度朝鮮へ派兵する場合には互いに通知することが取り決められ、両国間の対立は棚上げされる形になった。
なお、世界史にも「天津条約」が出てくるが、これはアロー号事件の事後処理のため、1858年に清が英・仏・露・米と結んだ条約であって、別のものである。
● 1885 年 (M18):内閣制度創設。伊藤博文が初代総理に就任。
☆ 内閣で 一番はここ 総理の座
1883年(明治16)に憲法調査から帰国した伊藤博文は、新たな政治体制づくりに取り掛かった。1885年(明治18年)に太政官制を廃して内閣制度を創設し、初代総理大臣に伊藤自身が任命を受けて就任した。(明治政府は当初、「太政官制」などという制度を打ち出し、天皇中心の、ある意味では"律令的"な政体への回帰を志向していたわけですね。)当時の伊藤は45歳。
(関係ないけれど、坪内逍遥〔つぼうちしょうよう〕の『小説神髄』は1885年の刊行。二葉亭四迷による最初の言文一致体小説『浮雲』は3編から成るのだが、1887年〔明治20〕から刊行が始まっている。)
[首相]伊藤博文(1次:1885-88)
● 1889 年 (M22):大日本帝国憲法発布。
☆ アジアでの 憲法発布 いち早く
1886年(明治19)ごろから憲法制定準備が伊藤博文を中心に進められ、1889年(明治22)2月に大日本帝国憲法が公布された。(施行は翌年11月。)アジアにおいて制定された憲法としては、3年先行して1886年のトルコのミドハト憲法があったが、これは制定翌年に露土戦争が起こって廃された。持続的に施行された憲法という意味では、大日本帝国憲法がアジアで初の憲法と言える。
大日本帝国憲法は欽定憲法(君主〔天皇〕が制定し、国民に下賜するという体裁のもの)で、天皇の権威と、それをよりどころとする政府の権威が極めて強いものではあったが、それでも国民にも法律の制限範囲内において一定の自由が認められた。選挙にもとづく「帝国議会」が制度として出現し、一定程度の民意が国政に反映されるようになった意義は大きい。
ただし総理大臣は帝国議会が決めるのではなく、天皇が任命するという形で、各国務大臣も天皇に対してのみ責任を負うとされ、民意の反映は限定的なものであったけれども。また「貴族院」と「参議院」の二院制が採用され、前者はほとんど選挙に依らずに議員の身分を得ていたので、その意味でも「民意」が全面的に通る制度ではなかった。首相の黒田清隆は、政府の製作は政党によって左右されてはならない(!)という「超然主義」を表明した。
憲法制定と併せて、諸諸の法典の編纂も、1890年頃までに、一応は済んだ。ただし書法典の公布・施行は、明治20年代から30年代を通じて、徐々に行われた。
(なお、1880年代半ばごろから新しい貨幣・金融制度がまわりはじめ、1886-89年〔明治19ー22〕あたりには紡績・鉄道などの企業勃興が活発になった。1889年には官営より民営鉄道のほうが、営業キロ数が上回ったのだそうだ。ただし日露戦争後の1906年には、政府の軍事・経済上の方針として、鉄道国有方が公布され、主要な民営鉄道17社が政府により買収・国有化されることになるが。)
[首相]黒田清隆(1888-89)
● 1890 年 (M23):第1回衆議院議員総選挙、第1回帝国議会。
☆ 憲政へ 飛躍を象徴 初選挙
1890年(明治23)に第1回衆議院議員総選挙が行われ、民権派(民党)の立憲自由党・立憲改進党が衆議院の過半数を占めた。
なお、この年、明治・大正期を代表するジャーナリスト徳富蘇峰(1863-1957)が『国民新聞』を創刊。(雑誌『国民之友』は3年前の1887年〔明治20〕に創刊していた。)以後40年間にわたり社長・社筆を続けることになる。蘇峰は一般には、はじめ平民主義・欧化主義を唱えていたが、日清戦争開戦時(1894年)から日本の対外膨張の必要を説くようになった。日清戦争後に行った海外取材旅行を経て、国内の政界と関係を持つようになって、右傾化したと言われる。
[首相]山県有朋(1次:1889-91)
● 1894 年 (M27):日英通商航海条約調印(領事裁判権撤廃・税権一部回復など)。
☆ 陸奥宗光 イギリス相手に 一番 苦心
日本が幕末に欧米諸国と結んだ条約は、相手国の領事裁判権(治外法権)などを含む不平等条約であった。そのためアヘンを密輸したイギリス人が無罪にされたり、イギリス汽船に乗っていた日本人乗客を、船が難破したときに船中遺棄したイギリス人船長・船員が重刑に処せられずに済まされる、といったことが起こっていた。第二次伊藤内閣の外務大臣に就任した陸奥宗光は、1894年(明治27)にイギリスとの間で、領事裁判権(治外法権)の撤廃・最恵国待遇の相互平等・税権の一部回復などを内容とする日英通商航海条約の締結に成功した。(イギリスは、ロシアの東アジア進出を警戒して、日本に対しては、やや好意的な態度を取るようになっていたのである。ロシアのシベリア鉄道起工は1891年。)これに続いて他の欧米各国との条約も改正され、対外的な不平等は大幅に解消されることになった。これらの条約は1899年(明治32)から施行された。
[首相]伊藤博文(2次:1892-96)
● 1894 年 (M27):日清戦争。
☆ 日本の 飛躍 示そう 日清戦[争]
日朝修好条規の締結(1875年〔明治8〕)以降、李氏朝鮮に対して宗主権を持つという立場の清と日本の間に、潜在的な対立関係が続いていたが、李氏朝鮮内部でも考え方が分かれて内争が続いた。1894年(明治27)、朝鮮において日本と西洋の駆逐を主張する東学等の乱が起こり、朝鮮の閔(びん)妃は清に助けを求めた。清の出兵に対抗して日本も出兵、これをきっかけに日清戦争が始まった。翌年、日本が勝利して下関条約が結ばれ、朝鮮の独立の承認と併せて、日本は巨額の賠償金とともに、遼東半島や台湾などを獲得した(ただし遼東半島は同年の三国干渉〔露・仏・独による講和内容への干渉〕で返還させられることになるが)。明治維新から、わずか27年で対外戦争に勝ち、日本の国力の飛躍を初めて海外に示した戦争であった。巨額の賠償金は、軍備拡張や産業振興に用いられることになる。なお日清戦争の結果、中国(清)との冊封関係が解消された李氏朝鮮は、国号を「大韓帝国」に改めた(1897年)。歴史的に、ずっと中国を宗主国と仰いできた朝鮮が、自らを「帝国」と称するなど、まことに驚嘆すべきことであった。
日清戦争後、欧州各国は競って清へ進出し"租借"を始めることになる。清では海外からの露骨な干渉に対する反感が高まり、1900年には「義和団事件」が起こっている。これは"扶清滅洋"を掲げる白蓮教徒系の結社が、山東に蜂起して北京に入り列国公使館区域を占領し(それに呼応して清朝も各国に宣戦)、それに対して日英米露仏独伊墺の8ヶ国が連合軍を組織して、公使館と居留民を救ったという事件である。以後、さらに欧米各国による清の半植民地化が進んだ。
[首相]伊藤博文(2次:1892-96)
● 1901 年 (M34):八幡製鉄所、操業開始。
☆ 製鉄は 特例 いきなり 国産化
日本では1980年代後半から紡績を中心に産業革命が始まり、1890年代には繊維産業を中心とした資本主義も成立した。(つまりイギリスのように、まず資本の蓄積と資本主義成立があって、その後に産業革命が起こったというのとは、逆のパターンである。)しかしさすがに、民間で重工業に手を出すことは、まだ困難であった。政府は軍備拡張を急ぐために、重工業の基礎となる鉄鋼の国産化策を採り、下関条約による賠償金を投下して、1901年(明治34)に官営の八幡製鉄所(北九州市)を設立した。2月に火入れが行われ、同年、操業が始まり、日露戦争の頃までに生産を軌道に乗せた。(鉄鉱石は清国から輸入。)
日本の貿易は、輸出に関しては主に繊維関係を中心としてある程度の活気を呈するようになってはきたものの、軍需品や重工業原料・資材などは大幅に輸入に頼らざるを得ず、構造的に輸入超過の状況が続いた。特に日露戦争(1904-05年)の後、第一次世界大戦(1914-18年)の前まで、日本の国際収支は危機的な状態にあった。
[首相]伊藤博文(4次:1900-01)
● 1904 年 (M37):日露戦争。
☆ 両国が 重苦をしのぶ 日露戦[争]
1904年(明治37)、日本は旅順(遼東半島先端)にいたロシア艦隊に奇襲攻撃をかけて、日露戦争を始めた。日本にとってロシアの極東での南下政策は、安全保障上の脅威であったからであるが(1900年の北清事変〔義和団事件〕の際に、ロシアは満州を事実上占領してその後も駐兵を続け、さらに朝鮮半島への進出を目論んでいた。1902年の日英同盟締結も、このような動向を意識してのことである)10年前の日清戦争のとき、ロシアが主導する三国干渉で、一旦は獲得した遼東半島を返還させられたことへの遺恨もあった。(三国干渉以降、「臥薪嘗胆〔がしんしょうたん〕」という標語が日本の国民の間で盛んに言われたようだ。あえて薪の上に臥して痛みに耐え、あえて苦い胆を嘗めることも辞さずというくらいの強い気持ちでロシアから受けた屈辱を決して忘れるなという意味である。この言葉自体は中国のBC5世紀の故事にちなむ。)日本は陸・海で連勝したが財政難、ロシアも国内が革命さわぎ(第一次ロシア革命)で共に戦争継続が困難となり、翌1905年(明治38)に米セオドア=ルーズベルト大統領の調停でポーツマス条約を締結、日本の戦勝という形で終結した。ここでの「ポーツマス」はアメリカ東岸北部ニューハンプシャー州の港町。イギリス南端部のポーツマスではない。日本は韓国に対する監督権を認められ、旅順・大連〔遼東半島南端部〕の租借権や樺太の南半分などを獲得し、翌年設立される「南満州鉄道」にあたる鉄道(主線は長春ー旅順間鉄道)の利権も得たが、賠償金は取れなかった。(2年後の1907年には日露協約も締結され、ロシアの南下の脅威は一応、収まった形になる。)日清戦争から日露戦争までの期間、日本の思想界は対外膨張主義と国家主義が主流であった。しかし日露戦争の勝利によって、国民の間に明治以来の国家目標は一応、達成されたという空気が出てきて、国家主義(国家目標優先主義)を疑問視する傾向も現れるようになった。これに対して政府は1908年に「戊申(ぼしん)詔書」を発布して、国民道徳と、節約・勤勉による国力の強化の必要性を強調した。
日露戦争前から大正時代の初めまで(1901-13)、山県有朋に推されていた陸軍の桂太郎(政党人ではない)と、伊藤博文を継いで立憲政友会(主に旧・自由党の系統)を率いていた西園寺公望が交互に(桂-西園寺-桂-西園寺-桂)政権を担当したので、国内政治の観点からは「桂園(けいえん)時代」と呼ばれている。ある意味では明治憲法下で安定した立憲君主制(天皇が首相を任命する)が実現した時代であった。その一方で、日露戦争の勝利の後の世相としては、政権のあり方に対する世論の見方の微妙な変化(藩閥・元老政治への不信、政党政治への期待)も伏在したようである。
[首相]桂太郎(1次:1901-06)
● 1910 年 (M43):日韓併合。
☆ 幾十年 朝鮮 悩ます 日韓併合
日露戦争後、日本は日韓協約を結んで韓国(大韓帝国)の内政・外交への発言権を強めていった。1905年(明治38)には統監府を置いて保護国化、内政権の掌握を進めた。1909年(明治42)、統監の伊藤博文(享年69歳)が反日独立運動家の安重根に暗殺されると、翌1910年(明治43)日本は韓国合併条約を結んで日韓併合を強行し、統治体制を強化した。日本の朝鮮半島統治は、このあと35年間続く。
日本は朝鮮統治にあたって、極めて稚拙な同化政策(日本語、創氏改名、神社神道などの強制)を行ってしまった。韓国における反日感情は(世代による濃淡はあるだろうけれども)現在まで残り続けている。
[首相]桂太郎(2次:1908-11)
[中国]清、第12代・宣統帝(溥儀:位1908-12)
● 1910 年 (M43):大逆事件。
☆ 社会主義に 重苦となった 大逆事件
日露戦争の危機が迫るころから、幸徳秋水らの社会主義者たちは戦争反対を国民に呼びかけ、社会主義や無政府主義運動が強まった。1910年(明治43)に政府は秋水ら26人を、天皇の暗殺を企てたとして逮捕・起訴した。翌年、全員が有罪判決を受け、12名に死刑が執行された。これを大逆事件と称する。
大逆事件の話では、幸徳秋水の名前が筆頭に出てくるので、何となく明治政府による「社会主義(および無政府主義)」に対する弾圧という印象を受けてしまうけれども、そういう印象はかならずしも正確なものではないかもしれない。刑死した12名の中には大石誠之助(社会主義者ではあったがキリスト者でもあり医師)、内山愚童(曹洞宗の僧侶)があり、高木顕明(真宗の僧侶)も獄中死している。本来、旧刑法における「大逆罪」は、天皇および皇室の人に危害を加えたり、加えようとしたりすることに関する罪のはずなのだが、明治政府の勝手な運用で、要するに「戦争反対」を唱えて影響力を持った人々を排除する目的で使われたみたいである。弾圧を受けなかった日本の仏教の僧侶たちが、日露戦争の頃にどんな様子だったかというと、「戦勝祈願」なんかをやっていたらしい。
(1910年には、有島武郎・志賀直哉・武者小路実篤〔むしゃのこうじさねあつ〕らによって、文芸・美術雑誌『白樺(しらかば)』が創刊されている。『白樺』における諸作品では、個人の尊重や人道主義が重要視された。上述の大逆事件とはまるで関係ないようにも見えるが、日露戦争前後からの国家主義への疑念や個人主義重視の空気の中では、戦争反対派と白樺派は一脈通じている部分もあるのかもしれない。コジツケかもしれませんが。)
[首相]桂太郎(2次:1908-11)
[中国]清、第12代・宣統帝(溥儀:位1908-12)
● 1911 年 (M44):税権の完全回復。
☆ 寿太郎は 説く「いい関係 結ぼう」と
日英通商航海条約(1894年〔明治27〕)等が各国と結ばれ、領事裁判権(治外法権)の撤廃が実現された後も、対外的な不平等を完全に解消するための努力が続けられた。1911年(明治44年)には、小村寿太郎外相の下で、税権(関税自主権)の完全回復が成し遂げられた。これをもって、日本は条約上、欧米列国と対等の地位を得たことになる。(逆に言えば、幕末以来、半世紀近い間、日本は不利な条約に苦しめられ続けたわけである。)
国内政治的には、この年(1911年)、きわめて不徹底な内容ながら「工場法」が制定されている(施行は1916年)。これは日清戦争の頃に資本主義が成立して以降、1890年代後半には資本家と、工場内などで働く賃金労働者の間の階級対立が徐々に見られるようになり(片山潜や幸徳秋水などの社会主義者もこの頃に活動を始めている)、1900年前後からは労働者の団結と反抗がかなり顕在化していたので、その激化を抑えようという政府の意図に基づく社会政策である。(一方で政府は1900年に治安警察法を制定して、労働運動を取り締まるというムチの政策もやっている。アメである工場法のほうは資本家が反対したので、制定がずいぶん遅れた。)
なお、別の話だが、この年に中国では辛亥革命が始まり、翌1912年には清朝が倒れて中華民国が成立する。(つまり辛亥革命は、たまたま日本の明治末年と同時期に起こったわけだ。)このとき日本国内には、中国、特に南満州への権益の強化のために、内政干渉を主張する者もあったが、日本政府は列国の意向を考慮して不干渉の立場を取った。
[首相]桂太郎(2次:1908-11)
[中国]清、第12代・宣統帝(溥儀:位1908-12)
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