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納得して覚えるための

日本史年代☆ゴロ合わせ(江戸時代)

 

                                         by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

1603 年:徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府をひらく。

☆ 泰平の  一夢(いちむ)を見よう  江戸幕府

 

1600年に関ケ原の戦いを制し、全国の大名に対する支配権を固めた徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。家康は、安定的な長期政権を目指し、徳川家を中心とする天下泰平の世を導くための施策(誰も将軍家に逆らうことができなくするような施策)に腐心した。徳川からの将軍は15代まで続き、265年にわたって江戸幕府による全国支配が続いた。この時代を江戸時代と称する。

  家康は、将軍就任のわずか2年後(1605年)に息子秀忠に将軍職を譲り、自分は「大御所」として権力を保持しつつ、江戸から駿府​(現在の静岡市。元々は今川氏の居地)へと移った。

(「一夢(いちむ)」という語は慣用的なものではないが許容してもらいたい。)

 また1605年、藤原惺窩から推挙された朱子学者・林羅山が家康に謁見し、わずか23歳で家康のブレーン​のひとりとなった。羅山は秀忠、家光にも仕え、羅山の代々の子孫も長く幕府の文教に携わることになる。

(余談だが、同じ1603年、イングランドではステュアート朝が始まっている。17世紀は、日本では徳川幕府の幕藩体制が敷かれた世紀であるが、イギリスはステュアート朝の王による圧政に対する市民革命の世紀、フランスはブルボン朝による絶対王政最盛の世紀である。)

[将軍]第1代・徳川家康(1603-05)

[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)

1609 年:薩摩藩が琉球を征服。

☆ 琉球に  人が群れ来る  薩摩から

 

琉球王国は、ポルトガルの東アジア進出などにより、中継貿易の拠点としての地位を低下させ、衰えを見せていた。薩摩の島津家久は、1609年に琉球を攻めて征服し、監視下に置いた。薩摩藩は琉球に、名目上は明への朝貢国の立場を続けさせながら、砂糖を薩摩に上納させたり、中国の物産を薩摩に送らせたりして巨利を得ることになる。あるいは、幕府が後に鎖国政策を強化するようになっても、薩摩藩はある意味において「海外」への接点を持ち続けていた、という見方もできるかもしれない。

[将軍]第2代・徳川秀忠(160523)

[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)

1612 年:禁教令の発令。(キリスト教の禁止)

☆「禁教に  異論人には  言えません

 

16世紀半ば以降、スペインやポルトガルからキリスト教の宣教師が日本に入ってきて布教活動を行い、国内にキリスト教信者を増やしていた。諸大名にとって、キリスト教徒自体の団結が、次第に脅威として認知されるようになった。また宣教師たちは、本国の植民地政策に協力的な行動を取る場合も多かった。そこで幕府は1612年に直轄領に禁教令を発令し、その翌年に全国にこれを拡げて、宣教師やキリスト教徒に対する迫害を始めた。幕府が出した禁教の御触れに異論など言えなかった信徒も多かったであろうが、迫害に屈しない信徒も一部には残り、殉教者も出続けた。

[将軍]第2代・徳川秀忠(160523)

[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)

1614 年:大坂の役(冬の陣)。

☆  戦乱の  落穂拾いよ  大坂で

 

関ケ原の戦いを制して江戸幕府による全国支配体制を確立した徳川家康であるが、彼はその後も、大坂に残る豊臣氏が再び勢力を持つことを恐れ、豊臣を潰すことを考え続けていた。家康は、豊臣氏が再建していた京都方広寺の梵鐘の銘文などについてクレームをつけ、これをきっかけとして1614年に両者の間に戦闘が起こった(大坂冬の陣)。豊臣側には真田幸村(信繁)等による巧みな戦術もあって、徳川方は大坂城を攻めきれず、一旦、講和が結ばれた。その後、家康は大坂城の外濠・内濠を埋めた上で、豊臣秀頼に国替えの要求を突き付けて、1615年に再度開戦に持ち込んだ(大坂夏の陣)。今度は徳川軍の攻撃に豊臣方の反撃が及ばず、豊臣秀頼​(23歳)が自害して大坂の役は終わった。そして大坂の役が終わったすぐ後に「武家諸法度」および「禁中並公家衆諸法度」が相次いで発布され、江戸幕府が諸大名や朝廷・公家を統制する仕組みが整えられた。家康は夏の陣の翌年、病死するが(75歳)、おそらく長年の懸案であった豊臣滅亡(という落穂拾い)を、最晩年に完遂したことになる。

​[将軍]第2代・徳川秀忠(160523)

[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)

    清(後金)、第1代・太祖(ヌルハチ:位1616-26)

1635 年:参勤交代制度の始まり。

☆ 大名の  疲労 見込んだ  参勤交代

 

徳川家康は最後に豊臣氏を滅ぼして、徳川家による国内支配の基礎を固めたが、その後も江戸幕府による支配体制の整備が続けられた。第3代将軍・徳川家光(任1623-51)は、1635年に諸大名に「参勤交代」を義務づけた。これは、各大名が妻子を江戸に置き、国元と江戸を1年交代で往復しなければならないという制度である(但し関東の諸大名は半年交替)。これは単に精神的に恭順を示すというだけのものではない。多くの家臣をつれての往復は、大名たちにとって多額の費用負担を伴うものであった。このように大名たちが力を蓄えないように疲弊させておく、ということも、参勤交代制度の意図するところであった。そして、この制度により、諸藩に内在する分権化の傾向は抑制され、国土が一体のものとして保持されたのである。

[将軍]第3代・徳川家光(162351)

[中国]清、第2代・太宗(ホンタイジ:位162643)

1635 年:海外渡航・帰国の全面禁止。

☆ 渡航禁止  異論 見事に  抑え込み

 

16世紀末以降、大名や大商人が東南アジア方面に貿易船を出すことが行われるようになり、1604年以降は幕府も日本船の信用のために「朱印状」を船に与えたりしていた。江戸幕府は当初から対外交易を閉ざそうとしていたわけではなく、17世紀前半には東南アジア各地に日本町が誕生、山田長政のようにタイで高官になるような人も現れた。しかし一方、幕府は国内にキリスト教が広まることには警戒感を持ち、特にスペイン・ポルトガルのような旧教国との交流には懸念を持つようになっていった。また幕府は、国内からのキリスト教の排除という目的以外にも、自由貿易の発達に伴い、自由経済を利用する大名や商人などの力が強まることで封建社会の基盤が動揺することを避けるという意味でも、海外との交流を制限する必要を認識するようになった。1610年代から徐々にヨーロッパとの行き来を制限する施策を進めてゆき、1635年には、日本人の海外渡航と、海外からの日本人の帰国を全面的に禁止するに至った。

[将軍]第3代・徳川家光(162351)

[中国]清、第2代・太宗(ホンタイジ:位162643)

1637 年:島原の乱。

☆ 弾圧に  異論 みんなで  島原の乱

 

島原半島と天草島(肥前・肥後。現在の長崎・熊本)は、一時期、キリシタン大名の有馬氏と小西氏の領地であった経緯から、キリスト教徒が多かった。幕府がキリスト教を抑圧する政策を進める中で、島原領主と天草領主は、領民に過酷な税を課し、キリスト教をきびしく弾圧した。これに対して、1637年に天草四郎時貞を首領として3万人を超える農民が加わる大規模な一揆が起こった。島原の乱である。幕府は九州の諸大名から12万人の兵力を動員して、乱を鎮圧した。幕府はキリスト教を、ますます危険視するようになり、この後、完全な鎖国体制を固めることになる。

 また、3年後の1640年に幕府は直轄領に宗門改(しゅうもんあらため)役を設置し、すべての人がいずれかの寺院の檀徒になることを義務づけた。これも国内のキリスト教を排除するための施策である。宗門改の制度は17世紀後半にかけて全国的に整備されてゆくことになる。

[将軍]第3代・徳川家光(162351)

[中国]清、第2代・太宗(ホンタイジ:位162643)

1641 年:鎖国体制の完成。(オランダ商館が長崎出島に移される)

☆ 家光が  異論 虐げ  鎖国する

 

1637年の島原の乱で、キリスト教徒の反乱をますます恐れるようになった幕府は、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年に、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移した。これを持って、日本の鎖国体制が完成する。日本人の海外との自由な交流は一切できなくなり、長崎奉行の監視下で細々と、オランダ・中国・朝鮮との交渉だけが許された。

[将軍]第3代・徳川家光(162351)

[中国]清、第2代・太宗(ホンタイジ:位162643)

1651 年:徳川家光死去。由井正雪の乱。

☆ 牢人の  不満 色濃い  由井の乱

 

1651年、第3代将軍・徳川家光が死去し、幼少の家綱が将軍職を継いだ。その直後、由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱が起こった。これは軍学者である由井が、牢人(浪人)たちの力を利用して倒幕を謀った事件であるが、事前に計画が漏れて3日で鎮圧された。(由井は奉行所の捕り方に宿を囲まれて自決。)徳川幕府のそれまでの武断的・強権的な政策により、武家諸法度違反などで改易処分(お家とり潰し)を受けた大名は多く、牢人も多くなっており、その不満が蓄積されていたわけである。幕府はこの事件を契機に武断的な抑圧政策を少しく改め、文治政治への転換をはかることになる。

​[将軍]第3代・徳川家光(162351)→ 第4代・徳川家綱(165180)

[中国]清、第3代・世祖 順治帝(位164361)

1657 年:明暦の大火。

☆ 明暦に  いろいろ困難  大火事で

 

1657年(明暦3年)1月、江戸本郷の本妙寺より出火し、火は広範に燃え広がった。「明暦の大火」は江戸時代最大規模の火災であった。江戸全市800町延長22里を焼亡、焼死10万人とも言われる。幕府の財政にも多大な負担を与え、この大火で焼失した江戸城天守が、その後再建されることがなかった。

(なお、この年、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂を始めた。〔1697年に本紀、すなわち帝王の事績を記述する部分がひと通り完成。1720年にその校訂本が幕府に献上される。〕これは漢文体で書かれ、神武天皇から南北朝統一までの百代の帝王の治世が扱われている。尊皇論を基調とし、幕末の思想に大きな影響を与えることになる。"最終的な完成"は1906年〔明治39年、水戸10代藩主の孫にあたる徳川圀順による。全402巻。

​[将軍]第4代・徳川家綱(165180)

[中国]清、第3代・世祖 順治帝(位164361)

1669 年:シャクシャインの戦い

☆ シャクシャイン  アイヌの異論  報われず

 

松前藩(北海道最南端部に儲けられた藩。青森・竜飛岬の対岸あたり)は、蝦夷地(北海道)のアイヌ族との交易の独占権を幕府に認められていた。アイヌに対して、米・布・鉄器などを高額で売りつけて、アイヌの漁獲物を安価で買い取っており、アイヌ側には不満が高まっていた。日高地方のアイヌの領主であったシャクシャインは、蝦夷地全域のアイヌ族に、松前藩に対する戦いを呼びかけ、1669年に蜂起した。初めアイヌ側に勢いがあったが、松前藩が幕府や東北諸藩の援軍を得て鉄砲も投入したため、アイヌは劣勢となった。シャクシャインは謀殺され、アイヌは降伏する。その後、アイヌ族は松前藩に従属させられることになり、蝦夷地も日本の一部という形になった。

​[将軍]第4代・徳川家綱(165180)

​[中国]清、第4代・聖祖 康煕帝(位16611722)

1687 年:生類憐みの令

☆「犬の保護  異論はないな!」と  犬公方

 

第5代将軍・徳川綱吉(任1680-1709)は、元禄の世にあって、初めは文治主義政策を推進して幕政を引き締めた。しかし後には側用人の柳沢吉保に政治をゆだね、頽廃の傾向を見せるようになる。自分の子供ができないことが、前世多殺の祟りのためと信じた綱吉は、1687年に家畜等の動物を捨てることを禁じる「生類憐みの令」を出した。綱吉が戌(いぬ)年生まれであったことから、特に野犬のための犬小屋もつくったりして、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた。動物を手荒に扱った者は厳罰に処せられた。綱吉の死まで、この異例の悪法は施行され続けた。(しかし当人の意図とは別として、考えようによっては、これは戦乱の世が終わった後も長く残存していた将軍家の武断的な性格を、その正反対のものに切り替える「意識改革」の法令とも言えるのかもしれない。人間同士の戦乱のない「泰平の世」でなければ、このような発想は決して出てこないだろう。)

​[将軍]第5代・徳川綱吉(1680-1709)

​[中国]清、第4代・聖祖 康煕帝(位16611722)

1702 年:赤穂事件(赤穂浪士の吉良邸討ち入り)

☆ 赤穂の  何故に討ち入り  吉良屋敷

 

1701年、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城で、高家筆頭の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかるという事件が起きた(動機は不明。「高家」は旗本の家格を表す。吉良の主な領地は三河国の吉良庄)。将軍徳川綱吉は城中の刃傷事件に激怒し、浅野内匠頭は切腹・所領没収となった。その後、浅野家の御家再興の望みもない状況に追い込まれた家臣のうち47名は、翌1702年に吉良邸に侵入し、「主人の仇」である吉良上野介を討ちとった。幕府は処分を協議したが、結局は正当な忠義の仇討ちと認めず、1703年に浪士たちに切腹を命じた。この事件は後に想像を交えて脚色され、人形浄瑠璃や歌舞伎で「忠臣蔵」として知られることになる(初演1748年)。

​[将軍]第5代・徳川綱吉(1680-1709)

​[中国]清、第4代・聖祖 康煕帝(位16611722)

1709 年:正徳の治。(新井白石が幕臣になる)

☆ 白石に  非難も多く  混乱も

 

第5代将軍・徳川綱吉が1709年に亡くなり、綱吉の甥の家宣(いえのぶ)が第6代将軍になると、その朱子学の師であった新井白石が幕臣に登用された。彼は文治主義政策を進め、経済・財政施策も行った。しかしそれは将軍の側近政治であったために大名や他の幕臣の抵抗があったり、理想主義的な施策と経済実態とが合わずに混乱を招く面もあった。白石は、次の第7代・家継(任1713-16)の代まで将軍を補佐した。彼の政治は「正徳の治」と呼ばれる。

(白石は学者として多方面にわたる著作を残しているが、ここでは『西洋紀聞』を紹介しておく。これは白石がキリスト教布教のために日本に潜入して捕えられたイタリア人宣教師シドッチを審問した内容をまとめたもので、この審問が行われたのが1709年のことである。これは鎖国後最初の西洋研究書であり、西洋の地理、風俗、文化、キリスト教などについて、白石自身の批評とともに記載されている。1715年に完成したが当時は鎖国政策下で公開されず、写本で流布するようになったのは1807年以降である。シドッチは切支丹屋敷幽閉され、1714年に衰弱死した。

​[将軍]第6代・徳川家宣(1709-12)〔~第7代・家継(1713-16)〕

​[中国]清、第4代・聖祖 康煕帝(位1661ー1722)

1716 年:享保の改革が始まる。(徳川吉宗が将軍になる)

☆ 吉宗が  一難 いろいろ  改める

 

17世紀後半、商品流通が発達すると、経済の仕組みが変わってきた。一部に裕福な商人が現れる一方で、農民や農民からの年貢の徴収に依存する武士は困窮するようになり、幕府の財政も逼迫するようになった。徳川吉宗が1716年に第8代将軍になると(当時33歳)、彼は幕府の財政の立て直しのために自ら諸改革に着手する。これが「享保の改革」と呼ばれる。側用人(そばようにん)政治を廃して有能な譜代大名・旗本を登用し、倹約令を出して支出を抑え、新田開発の奨励や定免法により収入の安定をはかった。農家の収入を増やそうと殖産興業策も進めた。財政・経済政策の他にも、吉宗は大岡忠相を江戸町奉行に登用して法制整備を行い、目安箱の設置・小石川養生所の設立など、庶民に向けた政策も重視した。しかし江戸ではなく紀州で育った吉宗の発想は大局的に見て、綱吉~新井白石の頃の文治主義を武断主義に戻し、広い意味での経済ではなく農村政策によって幕府財政を回復するという発想のもので(年貢率は四公六民から五公五民へと厳しいものに変わった)、経済を冷え込ませ、むしろ庶民を苦しめた面もあったようである。吉宗は1745年に長男・家重に将軍職を譲るが、家重は生来虚弱で言語不明瞭であったため、1751年に死去するまで政務を行い続けた。享年68歳。

​ 享保の緊縮経済の時代は、商人にとっても不況の波が寄せてくる時代であった。そんな中で、京都の商家に奉公した石田梅岩(1685-1744)は45歳のときに独自の思想(石門心学)を説き始めた。梅岩は仕事(商工業を含む)に対する勤勉さと、清貧な生活の価値を強調し、その思想は弟子たちによって全国に広められた。

​[将軍]第8代・徳川吉宗(1716-45)〔~第9代・徳川家重(1745-60)〕

​[中国]清、第4代・聖祖 康煕帝(位16611722)

1772 年:田沼意次、老中になる。

☆ 賄賂 受け  非難 名に負う  御老中

 

徳川吉宗亡き後、第9代将軍・家重(任1745-60)の時代に、幕府で頭角を現したのが田沼意次である。第10第将軍・家治(任1760-86)も、家重の遺言に従って田沼を重用した。田沼は1767年に側用人に取り立てられ、1772年に老中となった(兼任)。田沼は幕府の財政を改善するために商業・貿易を重視する政策を採り、蝦夷地の開発も手掛けた。商業資本を積極的に利用する政策は不正を生むこともあり、田沼の政治は賄賂政治と批判されるようになったが、単純に悪政と考えてよいのかどうか、評価は難しいところである。田沼の批判を先導したのは儒学を重んじる人たちであり、そのような人々は、商業や流通といった経済的観念に乏しいわけである。(田沼の時代、浅間山の大噴火や冷害による天明の大飢饉なども起こり、そういう面でも田沼は不運であった。)1786年、家治が死去すると、反田沼派の策謀により、田沼は失脚した。

(全くの余談だけれども、田沼の時代というのは、海の向こうではアメリカがイギリスから独立した時代である。1773年ボストン茶会事件。1775年独立戦争開始。1783年独立承認〔パリ条約〕。)

[将軍]第10代・徳川家治(1760-86)

​[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735-95)

1774 年:『解体新書』の出版。

☆ 解剖書  翻訳 一難  成し遂げる

 

徳川吉宗は、産業奨励の観点から実学を重視し、漢訳洋書の輸入制限を緩めたり、青木昆陽などにオランダ語を学ばせたりした。その結果、18世紀半ばごろから「蘭学」が発達しはじめることになる。1771年に前野良沢・杉田玄白らが、小塚原の腑分けを機として、西洋の解剖書の翻訳を計画した。彼らはドイツの解剖書のオランダ語訳を原書として選び、1774年に翻訳を完成させた。これが『解体新書』である。日本の医学・自然科学において画期的な意味を持つ成果と言える。

 『解体新書』はカタい蘭学の産物であるが、田沼意次の時代(老中:1772-86)には、黄表紙や洒落本など、享楽・娯楽的文学も流行を見せ、戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん。ペンネームだけれども、「山東」が姓という扱い)などが活躍、大田南畝(蜀山人)による狂歌も現れ、柄井川柳(からいせんりゅう)によるいわゆる「川柳」の撰集もつくられた。上田秋成(あきなり)による読み本『雨月物語』なども、田沼の時代に出た文学作品である。

[将軍]第10代・徳川家治(1760-86)

[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735-95)

1782 年:天明の大飢饉が始まる。

☆  天明に  一難  始まる  大飢饉

 

1782年(天明2年)に、東北地方を中心に冷害が始って米の収穫が激減し、大飢饉が訪れた。飢饉は5年間、続くことになる。この期間、洪水等も多発し、疫病なども流行し、全国の人口はで90万人以上減少したとされる。1787年には、窮民が江戸・大坂・京都などで米商人の蔵を襲う「天明の打ち毀し」も起こった。

[将軍]第10代・徳川家治(1760-86)

[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735-95)

1783 年:浅間山の大噴火。

☆ 浅間山  付近の住民  ひと悩み

 

天明の大飢饉の発生に続き、翌1873年には浅間山(現在の長野県と群馬県の県境にある)が大噴火をおこした。噴火は数箇月続き、噴火自体だけでなく、火砕流が吾妻川をせき止めて洪水が起こるなどの二次災害もあって、千人を超える犠牲者が出たようである。これらの天災は世情不安を引き起こし、民衆が、これらの天災さえ田沼意次の悪政によるものと非難する風潮も出てきて、田沼の立場は厳しいものになっていった。

​[将軍]第10代・徳川家治(1760-86)

[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735-95)

1787 年:寛政の改革が始まる。(松平定信が老中に就任)

☆  農民に 「鄙(ひな) 離れるな」と  定信公

 

田沼意次が失脚した翌年の1787年、各地の都市で「天明の打ちこわし」が起こる荒れた世相の下で、松平定信(第8代将軍・吉宗の孫にあたる)が老中に就任した。彼が6年ほどの老中在任期間に、第11代将軍・家斉(いえなり)を補佐して行った一連の改革は「寛政の改革」と呼ばれる。(元号は1789年に改まり寛政元年となった。)彼は商業重視の田沼政治を排することを試み、農民の出稼ぎを(鄙を離れるな、と)制限したり、江戸の不労者に帰村を奨励したりと農業復興政策を進めるとともに、倹約令など財政・気風の引き締めも行った。また朱子学を正学とする寛政異学の禁も実施して、思想の統制も試みた。(外国船に対する海防の重要性を唱えた林子平『海国兵談』〔1791年〕は"人心をを惑わす書"として発禁処分にされ、子平は蟄居させられた。)しかし経済実権を商人から取り戻せず、厳しい統制は庶民の反感も買うことになり、成果は上がらなかった。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735ー95)

1792 年:ロシア使節ラクスマンが根室に来航。

☆ ラクスマン  隣の国の  使節です

ロシアは17世紀後半のピョートル1世のころから東方にも進出して、中国(清)と国境条約を結ぶなどしていたが、18世紀後半の女帝エカテリーナ2世のとき、ロシアはさらに極東に向けてオホーツク海まで進出し、日本に外交使節として軍人ラクスマンを派遣した(1792年)。もはやロシアは日本にとって「隣の国」になっていたわけである。ラクスマンは日本人漂流民(アリューシャン列島に漂着して、その後ロシアに住んでいたらしい)を連れて根室に入港し、さらに翌年、松前まで赴いて、幕府から派遣されていた目付から、長崎への入港許可証を得ることができた。その後(1804年)この許可証を用いて、外交官レザノフが長崎に来航して日本に通商を求めてきたが、鎖国方針を取る幕府は要求を拒絶し退去させた。

 ところで、この翌年の1793年に松平定信が老中を辞し(失脚)、その後は第11代・徳川家斉が治める時代が50年近く続いた。この時代は文化的には、定信の「寛政の改革」の時期に抑圧された文芸(特に享楽的・通俗的なもの)が再び現れ、文化・文政年間(180430)を含む長期にわたって栄えることになる。一九『東海道中膝栗毛』(1802)、馬琴『南総里見八犬伝』(1814-41)、種彦『偐紫田舎源氏』(181542)、『蕪村七部集』(1808)、一茶『おらが春』など。また、美術では北斎や広重の風景版画などが、主に後期に現れた。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

[中国]清、第6代・高宗 乾隆帝(位1735-95)

1808 年:フェートン号事件。

☆ イギリス 威張れば  商館員は  恐れ入り

イギリスはナポレオン戦争の際、オランダが一時フランスの支配下に入ると、アジア方面のオランダ権益を奪おうという動きを見せた。1808年、イギリス軍艦フェートン号が、不法にオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、商館員を脅迫して薪水・食料を得て退去するという事件が起きた。幕府を驚かす事件であり、長崎奉行は責任を感じて自殺した。この頃から、イギリスやアメリカの船が日本近海に現れて、薪水・食料を強要することが多くなっている。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

1811 年:ゴロウニン事件

一番 遠い  国で捕まる  ゴロウニン

ラクスマンの来航(1792年)などで、北方の防備の必要性を感じた幕府は、西蝦夷を直轄地にしたり、千島や樺太の調査を進めるなどして、ロシアとの紛争も生じた。しかしゴロウニン事件の解決をきっかけにして、日露間の緊張は弱まった。これは1811年に千島列島の測量に来ていたロシア海軍軍艦の艦長ゴロウニンが、松前藩の役人との間で意思疎通の齟齬を生じてしまい、捕らえられて2年ほど抑留された事件である。ロシアにしてみれば、日本は極東のさいはての「一番遠い国」であっただろう。翌年、ロシアは択捉(えとろふ)航路を開拓した商人・高田屋嘉兵衛を抑留したが、ロシア側の意図を知った嘉兵衛は1813年に送還され、嘉兵衛の尽力によってゴロウニンが釈放されて解決となった。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

1821 年:『大日本輿地全図』の完成。

人は ついに  日本の形を  知ることに

 

伊能忠敬(いのうただたか。1745-1818年)は、酒造家の養子として家業に奉じていたが、50歳で家督を譲り、天文・暦法を学び始めた。1800年に蝦夷地沿岸測量の幕命を受けてから、12年を費やして全国の沿岸を測量し、その結果をもとに幕府天文方とともに日本全図を作成に携わった。彼の死の3年後の1821年、『大日本輿地全図』が完成した。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

1825 年:異国船打払い令。

☆ 打払い  異国の人は  不幸です

1808年のフェートン号事件の頃から。イギリス船やアメリカの捕鯨船なども頻繁に日本近海に現れ始めて、薪・水・食料などの補給を強要するようになってきた。幕府は1825年に、異国船打払い令を出し、清とオランダ以外の異国船をすべて撃退することを命じた。この後、実際に1837年には、漂流日本人の送還と貿易開始の交渉のために来航したアメリカ商船モリソン号が撃退される事件も起こった。

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

1833 年:天保の大飢饉が始まる。

☆ 天保の  人は散々  大飢饉

1833年(天保4年)から始まった、大雨による洪水や冷害による長期の飢饉は、天保の大飢饉と呼ばれる。1835年から1837年までが最も被害が大きな時期で、1839年頃まで続いた。多くの農民が餓死し、米価が高騰し、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。特に東北地方で、被害が深刻だったようである。大坂の大塩平八郎の乱(1837年)も、この飢饉が原因となって起こったものである

​[将軍]第11代・徳川家斉(1787-1837)

1837 年:大塩平八郎の乱。

人は皆  大塩 信じ  蜂起する

 

1830年代には天候不順が続き、毎年のように凶作となって深刻な飢饉が起こり、この飢饉は長期化した(天保の大飢饉)。農村でも都市でも困窮者があふれ、一揆・打ち毀しが頻発するようになった。1836年の飢饉は特に厳しく、大坂でも多数の餓死者が出た。しかし大坂では町奉行が貧民救済策を取らず、商人が米を独占して暴利をむさぼった。大坂町奉行の元与力、大塩平八郎は、庶民救済を奉行に願ったが容れられず、翌1837年に門弟や民衆を動員して蜂起し、商人を襲った。乱は即座に鎮圧されて、平八郎は自害したが、大坂という重要都市において元役人である武士が主導したこの乱の報は全国に伝わり、幕府や諸藩にも衝撃を与えた。  

[将軍]この年、第11代・徳川家斉から、第12代・徳川家慶(1837-53)へ将軍職を譲る。

1837 年:モリソン号事件。

☆ モリソン号  撃退 文句は  言わさな

1837年、アメリカ商船モリソン号が、日本人漂民4名の送還と対日通商の交渉のために浦賀に訪れようとした。日本では12年前に幕府から異国船打払い令が出されていたため、モリソン号に砲撃を仕掛け、江戸湾から撃退した。モリソン号は鹿児島湾に向かったが、ここでも砲撃を受けて、モリソン号は商会拠点のマカオへと引き返した。(16年後、アメリカの海軍軍人ペリーが、軍艦を率いて日本に現れ、高圧的に開国を迫ることになるが、アメリカは最初から高圧的だったわけではなく、この件に関しては、むしろ日本の方が暴力的であったと言える。)

[将軍]この年、第11代・徳川家斉から、第12代・徳川家慶(1837-53)へ将軍職を譲る。

1839 年:蛮社(ばんしゃ)の獄。

☆ 鎖国批判  早急(さっきゅう)に捕え  処罰する

モリソン号事件の翌年、渡辺崋山(蘭学者・南画家)や高野長英(蘭学者・蘭医)が、幕府が世界情勢を見ようとせずに鎖国政策を続けることを批判する書物を書いた。その翌年の1839年、幕府は彼らが中心となって蘭学や西洋事情を研究していた会合(世人はこれを「蛮社」と呼んでいた)の蘭学者たち26人を捕えた。これらの人に対する"吟味"には、"民間人"による国事の談義を嫌っていた老中・水野忠邦の意向が影響したようである。(水野忠邦は1836年に老中になり、この年〔1839年〕には老中首座になっている。)崋山は国元で永蟄居を命ぜられ、自殺を遂げた(1841年)、長英は永牢に処せられたが、獄火の際に脱し、諸所に潜伏した。しかし、やがて幕吏に見つかり自害した(1850年)。

[将軍]第12代・徳川家慶(1837-53年)

1841 年:天保の改革が始まる。

☆ 老中は  強いて改革  2年間

第11代将軍・徳川家斉(いえなり。任1787-1837)の下では、初め松平定信が寛政の改革を試みたが、定信自身は反感を持たれて6年ほどで退陣した。その後しばらく定信の政策は定信に登用された老中たち(寛政遺老)に引き継がれたが、これらの遺老が退くと、政務はなおざりにされ、幕府内の腐敗が進んだ。1841年に家斉が亡くなると、老中・水野忠邦はこれを機に綱紀粛正と幕府の権威の回復をはかり享保・寛政の改革に倣った諸改革を強引に進めようとした(天保の改革)。しかしながら経済財政政策は失敗し、人々の生活や風俗に対する厳しい統制は反発を呼び、幕府の直轄領を増やそうとする上知令は諸大名の激しい反対にあい、忠邦は1843年に失脚。天保の改革は、わずか2年で失敗に帰した。

(浪曲講談や、かつての民放時代劇において、享保の改革の頃の大岡忠相〔大岡越前〕と並んで"名奉行"として人気を博した「遠山の金さん」のモデル遠山景元が北町奉行を務めていたのは天保の改革の頃であった〔1840-43。後、南町奉行として1845-52〕。遠山には、町人の生活と利益を脅かすような水野忠邦の行き過ぎた法令の実施方針には反対するところもあったようで、それが"人気"が出る原因だったのかもしれない。)

​[将軍]第12代・徳川家慶(1837-53)

1853 年:ペリー来航。

☆ 軍艦が  浦賀に現れ  人は込み

 

1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航した。浦賀の港は外国の軍艦の来航という"事件"を見ようとする野次馬が集まって込み合ったかも知れない。ペリーは開国を求める大統領からの国書を提出した。翌年にはふたたび軍艦7隻を率いて来航し、条約の締結を強硬に迫った。幕府はその圧力に屈して日米和親条約を締結した。その後、幕府は相次いでイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を結ばされることになり、200年以上続いた鎖国体制は崩れ去った。

 1853年の最初のペリー来航の際、将軍は第12代・徳川家慶(いえよし)であったが、当時病床にあり、その年のうちに亡くなった。再来港のときの将軍は第13代・徳川家定であった。この頃、幕府で実権を握っていたのは、1843の水野忠邦失脚の際に老中に抜擢された阿部正弘である。

 ところでペリーはどういう航路で日本に来たのだろうか? 説明をしてもらわないと、何となく太平洋を渡って来たのだろうと思いがちではないかと思う。(私もそう錯覚していた。)ペリー艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州・ノースフォークから出航し、大西洋→アフリカ南端→南アジア→東南アジア→中国を経て日本に来たのである。出航は1852年11月24日。セントヘレナ島1853年1月10日。ケープタウン1月24日。セイロン3月10日。シンガポール3月25日。マカオ4月7日。上海5月4日。そして浦賀に来たのが7月8日(旧暦では6月3日)である。

​[天皇]第121代・孝明天皇(位1846-66)

[将軍]第12代・徳川家慶(1837-53)〔→ 第13代・徳川家定(1853-58)〕

1858 年:日米修好通商条約締結。安政の大獄。

☆ 通商を  井伊は拒まず  大獄へ

1854年に結ばれた日米和親条約の内容は、開港・領事の駐在・燃料や食料の提供などであったが、1856年、総領事として来日したハリスは、幕府に通商条約の締結を要求した。重ねてハリスは、清のアロー号事件(1856-60年。イギリスが清に戦争を仕掛けた)などを引き合いに出してイギリス・フランスの脅威を説き、条約調印を強く迫った。1858年に大老・井伊直弼は、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印してしまう。このことは開国に反対していた孝明天皇(121代)や公家・大名たちの反発を招いたが、同年、井伊は強硬に、反対派の公家・大名や志士たち多数を処罰した。これが「安政の大獄」と呼ばれる。​刑死や獄死した者は14名、その中には吉田松陰(斬罪)も含まれる。

 南紀派であった彦根藩主・井伊直弼が大老に就任したのは4月。大老就任前から、次期将軍として紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推しており、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推す一橋派との対立していたが、7月に死去した第13代将軍・定家は南紀派の推す徳川慶福を後継とする意向であった。10月に慶福が第14代将軍・徳川家茂(いえもち)として将軍に就任している。どうも直弼の頭では「一橋派」=「開国反対派」=「敵」となっていたようで、たとえば福井藩士橋本左内を斬罪に処した理由は、開国問題云々ではなく​(左内はむしろ開国派だった)、ただ一橋慶喜の擁立運動に関わったから、ということのようである。

[天皇]第121代・孝明天皇(位1846-66)

[将軍]第13代・徳川家定(1853-58)→ 第14代・徳川家茂(1858-66)

1860 年:桜田門外の変。

☆ 水戸の人は  群れて 直弼  討ち果たす

大老・井伊直弼は、日米修好通商条約の調印後、これに反対する勢力を抑えようとして、志士たちを弾圧したが(安政の大獄)、むしろ幕府の独善的な開国政策に反対する機運は高まりを見せた。水戸・薩摩の浪士は井伊直弼の暗殺を計画し、1860年3月に桜田門外において井伊を討つことに成功した。(桜田門は、江戸城内堀に造られたの一つ。現在の皇居の南側、東京メトロ〔地下鉄〕有楽町線で有楽町駅と永田町駅の間である。)この事件以降、幕府が独裁で政治を進めることは困難になった。

 ペリーの来航以降、阿部正弘に請われて幕政に関わり、攘夷論を主導してきた水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、前年に対立する井伊直弼によって蟄居処分にされて、もはや政治に関わることのできない立場にあったが、この年(1860年)の8月に死去している。斉昭が蟄居の身にあり、むしろ藩内の攘夷急進派を誰もコントロールできなくなっていた状況が、桜田門外の変の背景となったとする見方もあり得るようである。

(この翌年から米国では南北戦争が始まることになる〔1861-65〕。もし、ちょうどこのように幕末の時期に南北戦争が重なっていなければ、幕末~明治維新の時期における米国の日本への影響・干渉は、もっと顕著なものになっていたかもしれない。)

[天皇]第121代・孝明天皇(位1846-66)

[将軍]第14代・徳川家茂(1858-66)

1863 年:薩英戦争。

☆ 鹿児島湾  一番 無残に  砲火 受け

1862年、薩摩藩島津久光が、江戸に赴いた帰途、武蔵国の生麦村で、イギリス人数名を薩摩藩士が殺傷するという事件が起こった。(イギリス人が薩摩藩の行列を乱したという理由による。)イギリスは初め幕府を通して犯人逮捕と賠償を要求したが、薩摩藩はこれを拒否したため、翌1863年、イギリスは直接行動に出た。イギリス艦7隻が鹿児島湾に来て、薩摩の船を拿捕し、鹿児島市街に対しても砲撃を行った。薩摩は大きな被害を受けたが、イギリスもかなりの反撃を被って勝敗がつかず、結局は薩摩とイギリスの間で和解が成立した。以来、両者の関係はむしろ親密になり、事を傍観していた幕府の権威は失墜した。

(同年から翌年にかけて、長州のほうでも「下関事件」が起こっている。1863年、長州藩が下関海峡を通過中の米・仏・蘭の艦船を砲撃。攘夷派に対して懲戒的報復を加えたいと考えた、これら3国に英を加えた4国は、翌1864年に連合艦隊を派遣し下関を砲撃して、陸戦隊を上陸させ、長州藩を降伏させた。以後、長州藩は武備の近代化を図るようになる。)

[天皇]第121代・孝明天皇(位1846-66)

[将軍]第14代・徳川家茂(1858-66)

1866 年:薩長連合の密約。

☆ 薩長の  人は 無論  手を結ぶ

幕末から明治維新にかけて、薩摩藩と長州藩は重要な役割を担うことになる。しかし最初のうち、薩摩は朝廷・幕府の両方を立てる公武合体、長州は朝廷を重視し幕府と対立する尊王攘夷の立場を取り、両藩は対立関係にあった。しかし薩摩も薩英戦争の後は、イギリスに接近しつつ、非開明的な幕府を排した天皇中心の体制を志向するようになる。つまり薩摩は(攘夷については措くとして)尊王路線では長州と同じ立場に立つことになったわけである。一方、長州の尊皇攘夷派の志士は、1864年の池田屋事件、蛤御門の変、幕府による第1次長州征討などを経て、幕府に対する立場が追い詰められていった。こうなると無論、両藩の志士が手を結ぶことのメリットが出てくる。1866年、薩摩藩と長州藩は土佐藩の坂本龍馬などの仲介により、軍事同盟の密約を結んだ。反幕府のための薩長連合の成立である。幕府によるこの年の第2次長州征討は振るわず、同年の14代将軍・家茂(いえもち)の急死(旧暦7月)を理由に中止された。水戸藩出身の徳川慶喜(任1866-67)が第15代将軍に就任する(旧暦12月)。攘夷・公武合体派であった孝明天皇(121代)が崩御したのも、旧暦で言えば、この年の年末である。

[天皇]第121代・孝明天皇(位1846-66)

[将軍]第14代・徳川家茂(1858-66)→ 第15代・徳川慶喜(1866-67)

1867 年:大政奉還。

☆ 慶喜(よしのぶ)は  一度 やむなく  大政奉還

幕府では、将軍・家茂(いえもち)急死の後、徳川慶喜(よしのぶ)が第15代将軍となった。(慶喜は京都・二条城で将軍宣下を受け、在職中は畿内に留まった。)家茂の死によって長州征討は中止されたが、その収拾において長州の処分軽減を優先しようとした薩摩は幕府と表面的にも対立するようになり、薩長連合は幕府への武力征討を決意した。しかし土佐藩は薩長の思惑とは異なって公武合体の立場を取って、薩長による幕府討伐が始まる前に幕府が機先を制して政権返還をするように前藩主を通じて徳川慶喜に勧めた。慶喜はこれを受け入れ、1867年10月に朝廷に「大政奉還」の上表を提出した。慶喜は、これで徳川家が政権から降りるというつもりではなく、仕切り直しをして、朝廷の下に徳川主導の連合政権を作り直そうという意図があった。しかし薩長および朝廷内の岩倉具視などの討幕派は、慶喜の意図を封じるために、同年12月には「王政復古の大号令」を発して、一気に政変・新政府樹立の形をつくった。そして、大号令の同日夜に"新政府"(皇族・公家・旧藩主もメンバーに含まれる)による「小御所会議」が開かれた。ここで公武合体論は完全に抑えられ、徳川慶喜("新政府"から外されているので会議に参加していない)の官位内大臣)辞退および徳川宗家領の削封が決定した。これにより幕府側は新政府と対決せざるを得ない空気になり、翌年1月の「鳥羽・伏見の戦い」につながってゆく。

[天皇]第122代・明治天皇(位18671912)

[将軍]第15代・徳川慶喜(1866-67)

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