納得して覚えるための
日本史年代☆ゴロ合わせ(室町・安土桃山時代)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 1336 年:足利尊氏、光明天皇を立てる。南北朝分裂時代の始まり。
☆ 尊氏(たかうじ) 勇み 無理やり立てた 光明帝
建武の新政を始めた後醍醐天皇(96代)は、自身の権威だけに過剰に執着して、武士を重用しようとしなかったので、政府内部の対立に対しても地方の反乱に対しても有効な施策を打てずに混乱を招いた。足利尊氏は1335年、北条時行による鎌倉幕府再興のための反乱(中先代〔なかせんだい〕の乱。鎌倉幕府滅亡までの北条を「先代」、これに比して最後の「先代」北条高時の子である時行を「中先代」と呼んだ)の討伐のため関東にいたが、これを鎮圧(8月)した後、後醍醐政権に反旗を翻すことを決意(10月)した。(この後、複雑な戦闘経緯があるけれども省略する。1336年5月には湊川〔神戸〕で足利尊氏・直義〔ただよし〕軍と後醍醐方の新田義貞・楠木正成軍が戦って後者が敗れ、正成は自刃、義貞は敗走した。)1336年6月に尊氏は京都を制圧し、持明院統の光明(こうみょう)天皇を立てて、後醍醐天皇に和議の形での譲位を迫った。後醍醐は和議に応じたように見せかけておいて(11月)、南方の吉野に逃れ(12月)、朝廷を開いてしまった。ここから京都の北朝と吉野の南朝で2天皇が対立する南北朝時代が始まる。また同年、尊氏は建武式目を制定しており、この年を室町幕府(足利幕府)成立の年とする見方がある。
(「室町幕府」の呼称は、後に尊氏の孫の第3代将軍・義満が、京の室町に御所を設けて政治の中心にしたことに由来する呼称であって、本当は最初から「"室町"の幕府」だったわけではないが。)
(現在の皇室は北朝系であるが、江戸時代の水戸学では三種の神器の所在などを根拠に南朝が正統とされ、これが明治政府に影響を及ぼしたため、戦前までの偏向した皇国史観教育においては南朝が正統として扱われた。北朝を立てた足利尊氏は、"天皇になろうとした"道鏡や、天皇に代わる"新皇"と称した平将門とともに、皇国史観の下では3大悪人という扱い方をされていた。)
[北朝]第2代・光明天皇(位1336-48)
(註:弘元の変の後、醍醐が失脚していた間の光厳〔こうごん〕天皇〔位1331-33〕が北朝第1代という扱いになっている。尊氏はこの年〔1336年〕、この光厳"上皇"に、光明天皇を任命させた。光明は光厳の弟である。)
[南朝]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)
● 1338 年:足利尊氏が征夷大将軍に任じられる。
☆ 尊氏(たかうじ)が いざ 都にて 将軍に
京都で光明天皇を立てた足利尊氏は、その2年後の1338年に光明天皇から征夷大将軍に任じてもらい、一応は京都に新たな「幕府」が置かれる体制となった(尊氏34歳)。しかしながら幕府内部で間もなく尊氏の勢力(いうなれば武断派)と、その弟の直義(ただよし)の勢力(文治派)の深刻な対立が生じ、また幕府の外には吉野の南朝の勢力が残っており、3勢力の抗争は収まらなかった。「南北朝時代」のその後のことを大まかに眺めておくと、1350年に極めて複雑な「観応の擾乱」が始まり、結局は尊氏が直義を追討して鎌倉に追い、延福寺に幽閉された直義の急死(1352年)によってこの擾乱は幕を下ろす。しかし直義派の武士の抵抗はその後も長く続いた。尊氏は1358年に病死(享年54歳)。第2代将軍義詮(よしあきら。任1358-1367)の時代には多少は幕府内の抗争が抑制される傾向も見られたが、政権が充分に安定するには至らなかった。南朝の後醍醐天皇は、尊氏が北朝側から将軍に任じられた翌年の1339年に死去するが、南朝の天皇はその後にも3代続き、1392年の「南北朝合一」まで政治的に不安定な状況が残り続ける。
(新田義貞は京都で尊氏に敗れた後、北陸方面で勢力挽回を図っていたが、1338年、藤島の戦いで北朝側の斯波高経と戦って戦死している。藤島は現在の福井市。)
(後醍醐の崩御後、尊氏と直義は、僧・夢窓疎石の勧めにより、後醍醐の菩提を弔うために天竜寺建立を決め、その資金調達のために1342年に天竜寺船を元に派遣した。)
(学校教育では、室町時代の始まりを、尊氏が光明帝を擁立した1336年よりも、この尊氏が征夷大将軍に任じられた1338年としている場合が多いようである。)
[北朝]第2代・孝明天皇(位1336-48)
[南朝]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)
[将軍]第1代・足利尊氏(任1338-58)
● 1350 年:観応の擾乱。
☆ 観応の 確執の意味 これ 不明
観応の擾乱は、大雑把に言えば足利尊氏の勢力と、その弟・直義(ただよし)の勢力が対立し、直義の死去(自然死説と毒殺説があるようだ)をもって終結に向かった一連の抗争事件であるが、その経緯は大変複雑である。ここでは1350-1352年と考えておくが、始まりを1349年と見なす場合もある。尊氏は優れた軍人であるが、政務の能力としては直義のほうが優れており、両者は軍事と政務を分担する形で幕府の運営をしていた。元々、両者は協力関係にあったわけだが、尊氏の右腕として権力を伸ばした高師直(こうのもろなお)と直義の間に反目が生じ、尊氏も成り行き上、直義の勢力と対立せざるをえなくなったということのようだ。背景としては、直義は政治思想が保守的で、朝廷・公家も後醍醐の建武の新政以前の落ち着いた秩序の中で存続することを理想としたようだが、そういう立場から見ると高師直のような武断的で武士の権利を従来よりも拡大しようとする考え方は「横暴」と見えたということが言えるのかもしれない。抗争の経緯の中で、初めは直義が、後には尊氏が南朝の勢力と結ぶという意味不明の驚くべきことも起こっていて、権力機構が尊氏・直義・南朝と3つあって絡み合うわけだから話は複雑である。その後も尊氏は、室町幕府の権力を一本化することができなかった。
[将軍]第1代・足利尊氏(任1338-58)
● 1352 年:足利尊氏が、最初の半済令を発布。
☆ 尊氏が 当座の御都合 半済令
「半済」(はんぜい)とは、守護が、国内の荘園・公領に対して、年貢(律令制の範囲外の領主への上納)の半分を徴収する権限のことである。(「守護が」というところに意味がある。荘園を持つ公家にとって、既にある地頭による「損失」とは別口での「損失」であるし、今度は荘園に関する財政権が地方行政のトップによって一括して大幅に奪われてしまうわけである。)足利尊氏が、弟、直義(ただよし)と戦ってこれを死に至らしめた観応の擾乱(1350-1352)では、近江・美濃・尾張において特に戦闘が激しかった。このため尊氏は1352年に(当座の都合をつけるために)これらの3国に関して1年限りで、守護に対して軍事兵粮の調達を目的とした半済を認める「半済令」を初めて出した。この後、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望するようになり、この制度は全国に拡がって永続的なものになってゆく。1368年の応安の半済令では荘園自体を半分割して、その一方を所領を占拠している守護側武士が支配できることになった。さらに、荘園全体を守護のほうが支配し、年貢の一部を守護から荘園領主に渡すという「守護請」も行われるようになった。鎌倉時代の守護は、軍事・警察権だけを持つ存在であったが、次第に経済機能も伴って荘園・公領への侵出も進み、国衙の機能を吸収した地域(国)の支配者になっていった。(奈良時代以降の「公領+荘園」という土地制度は、鎌倉時代に武家政権による干渉が始まってから揺らぎ始めていたが、半済令以降、完全な崩壊に向かったわけである。)このようにして生まれた新しいタイプの守護を「守護大名」と呼ぶ。守護大名は国人(こくじん)と呼ばれる地方有力者を被官(家臣)にしたが、元々守護とその領国全域との間に封建的な結びつきが確立していたわけでもないので、国人には自立の気風が強いものも多く、国人一揆などが起こる場合などもままあった。そういう面で守護大名による支配体制は、後の戦国大名による領国制ほど徹底したものではない。
[将軍]第1代・足利尊氏(任1338-58)
● 1378 年:足利義満、京都の室町に花の御所をつくる(造営開始)。
☆ 室町で 人 皆(みな) 花の 御所を見る
足利尊氏の孫にあたる3代目の将軍足利義満(任1368-94)は、12歳の時に将軍に就任。最初は管領・細川頼之(よりゆき)の補佐を受けるが、1378年に京都の室町に「花の御所」と呼ばれる壮麗な邸宅の造営を始めて(1381年に完成)、それ以降はそこを政治を行う拠点として、自ら政治権力の確立に乗り出すようになった。(1379年に細川頼之が失脚して、斯波義将〔しばよしまさ〕が管領となったが〔康暦の政変〕この後義満は義将を頼らず自らの権力を強化してゆく。)幕府成立当初から絶えることのなかった騒乱も、義満が力を発揮し始めると次第に収まりを見せてきて、幕府の統治機構も義満の時代までに概ね整えられた。義満は、祖父の尊氏や父の義詮と違って明確な絶対権力への志向を持った人物であり、皇室の権威までを自在に脅かす存在になってゆく。それは義満の母親が皇室の血統で、義満は北朝第5代の後円融天皇と従兄弟の関係にあり、彼にとって皇室は「仰ぎ見る」ような存在ではなかったことが、ひとつの心理的要因として働いていたものかも知れない。後円融と対立・威圧し、後円融の崩御(1393年)の後は、事実上の上皇のような立場になって、北朝第6代の後小松天皇をほぼ完全に傀儡にしてしまった。
[北朝]第5代・後円融天皇(位1371-82)
[将軍]第3代・足利義満(任1368-94)
[中国]明、第1代・太祖 洪武帝(朱元璋:位1368-98)
● 1392 年:南北朝の合一。
☆ いざ 国を 再び ひとつに 合一だ
足利幕府初代将軍・尊氏(任1338-1358)は政治的な力量が充分とは言えず、2代将軍・義詮(よしあきら。任1358-1367)は、それなりに有効な施策も打ったものの、短い治世において成果を出すことはできなかった。このような事情で室町時代の混乱が続いたが、3代将軍・足利義満(任1368-1394)は政治的な"統率力"(と野心)を持つ将軍となった。義満は、吉野の南朝に和平を呼びかけ、1392年に南北朝の合一を実現した。(実態としては平和的な合一というより、義満が三種の神器を"うまく"南朝から北朝に戻させて、南朝の権威と権利を奪うための策を弄し、それを成功させた、ということのようだが。)とにかく、これにより、半世紀以上にわたって国の権威が分立していた南北朝の混乱に一応の終止符が打たれ、安定な権力構造が取り戻されたと言える。
[院]〔北朝第5代→〕後円融上皇(位1382-93)
[北朝 → 合一]第100代・後小松天皇(位1382-1412)
[将軍]第3代・足利義満(任1368-94)
[中国]明、第1代・太祖 洪武帝(朱元璋:位1368-98)
● 1401 年 :足利義満が、日明貿易を始める。
☆ 明の意思を 容れて従属 日明貿易
14世紀後半、中国ではモンゴル人による元が滅ぼされ、明が興った。この頃、倭寇が中国沿岸を犯しており、明は日本に使節を送って禁止を求め、南朝の皇子、懐良(かねよし)親王がこれに応じて外交を開いていた。室町幕府3代将軍・足利義満は(ただし1394年に息子の義持に将軍位を譲り、このときはもう天皇の臣下ではない身分になっていたが、むしろ政治の実権は強めていた)、これに対抗して1401年に明に使者を送り、明から「日本国王」の称号を与えられて外交の主導権を得ることに成功し、日明貿易が始まった。(明から交付された"勘合"と呼ばれる合札を用いたので「勘合貿易」と呼ばれる。)明の意向としては、日本との対等な関係を認めるはずもなく、この貿易は、日本国王が明の皇帝の臣下の立場で行う朝貢貿易の形で行われた。そういう意味では、日本側にとって従属的・屈辱的な外交・貿易であったわけだが、義満としては貿易による利益とともに、「日本国王」という形での権威を得ることが目的だったようだ。このようなことも踏まえて義満は着々と権力を強化してゆき、皇位の簒奪さえほとんど達成しそうな状況を実現していったが、1408年の春に突然病に倒れて死去した。第4代将軍・義持は義満のような強権を手中に収めることはなく、日明貿易は義持のときに、朝貢形式に対する国内批判を受けて一時中断した。第6第将軍・義教(よしのり)のときに貿易が再開されることになる。再開後は、義満のときよりも少し自由な貿易協定が成立した。
[将軍]第4代・足利義持(任1394-1423)、義満は出家をして自由身分。
[中国]明、第2代・建文帝(朱允:位1398-1402)
● 1408 年:足利義満、急死。
☆ 義満が 意思を果たせず 急逝し
晩年の足利義満は、武家勢力を完全に支配下に置いたのみならず、官の人事権や僧侶の人事権をも手中に収め、皇室も逆らうことのできない存在になっていた。そして最後の仕上げとしては、後小松天皇に強要して息子の義嗣(よしつぐ)を養子にさせ、その義嗣に譲位をさせて自分は上皇となり、「足利天皇家」を実現するつもりだったらしい。(後小松天皇の落胤とされる一休宗純が1399年頃、幼少で出家させられているのも、あるいは義満の「計画」に関係したことだったのだろうか?)1408年4月25日、義満は義嗣を、親王の格式に準拠する形で元服させた。しかしその3日後ににわかに発病し、1週間ほどであっけなく亡くなったのだそうである(享年51歳)。20年後、6代将軍・足利義教(よしのり)が登場するまで、将軍が有力守護を統制できず、室町幕府は求心力を失った状態が続くことになる。
[将軍]第4代・足利義持(任1394-1423)
[中国]明、第3代・成祖 永楽帝(位1402-24)
● 1428 年:正長の土一揆。
☆ 正長の 年に始まる 土一揆
「一揆」とは元々、国士(地方武士)が上位支配層に対して団結するという意味であったが、15世紀には世相が大きく乱れ、下層民が団結する「土一揆」が頻発するようになり、「一揆」の意味も徐々に拡大・転用されてゆく。1428年(正長元年)に畿内で起こった正長の土一揆(正長の徳政一揆とも言う)は、最初の大規模な土一揆である。室町時代、第3代将軍足利義満の死後、第4代義持(任1394-1423)は有力な守護大名たちの勢力の"調整役"として幕府の安定の保持につとめたが、幕府の権威は衰退、そして次の第5代義量(よしかず)は病弱で、在職わずか2年ほどで1425年に病没した。正長の土一揆が起こったのは、義量の没後、将軍職が空位となって、幕府がほとんど機能していなかった時期にあたる。専制的・強権的な性向を持つ第6代の足利義教(よしのり)が将軍に就任するのは翌1429年のことである。
律令制の時代から鎌倉時代中期まで、農民層は基本的に「お上」(支配層)が律令官吏であろうと荘園領主(貴族等)であろうと武士行政官(守護・地頭)であろうと、「お上」の支配下で搾取されるばかりで反抗する力も手段もほとんど持ち得なかった。鎌倉時代後期から農民層の中でも多少の自治的な社会組織性が生じてきていたようだが(惣村)、農民による大規模な「土一揆」が起こるようになったことは、本質的な社会構造の変貌を意味している。特に、半済令以降の時期における「公領+荘園」制度の急速な崩壊過程において、名主(みょうしゅ)と呼ばれる有力農民を中心とする農民の団結と反抗が可能になったということであろう。農民たちは借金苦にあえぎ、土一揆は「徳政」すなわち債務免除を要求するものが大多数であった。つまりこの時代、貨幣経済が農村にもかなり浸透していたわけである。
[将軍]第5代・足利義量(任1423-25)と第6代・足利義教(任1429-41)の間の空位期間。
● 1429 年:琉球王国の成立。(北山・中山・南山の統一)
☆ 三山(さんざん)の 人よ 憎むな お互いに
沖縄では、14世紀中ごろから、北山・中山・南山の3つの小国家(まとめて三山と呼ばれる)が形成されていたが、1429年に尚巴志(しょうはし)がこれらを統一し、琉球王国が成立した。琉球王国は、明や日本と国交を結ぶとともに、朝鮮・東南アジアとも交易を行って繁栄した。
[将軍]第6代・足利義教(任1429-41)
● 1441 年:嘉吉の乱。(足利義教暗殺)
☆ 義教(よしのり)暗殺 必死で よい策 嘉吉の乱
足利6代将軍義教(第3代・義満の四男)は、義満の死(1408年)以降に弱体化してしまっていた室町幕府の支配体制を将軍主導で強固なものにしようと考え、正長の土一揆の翌年に将軍に就任(1429年)してから、専制的な権力集中のための施策を強硬に行った。当時強大な軍事・政治・利権勢力であった延暦寺を攻略し、九州(大友氏・大内氏・少弐氏の騒乱状態を収めた)や関東の支配(京都の幕府としばしば対立した関東の拠点・鎌倉府の足利持氏を討った)にも成功したが、その苛烈な性格は諸侯から恐れられた。義教を恐れた赤松満祐(みつすけ)は1441年(嘉吉元年)に密かに策を練り、義教を「結城合戦(関東の結城氏ら諸豪族の反乱を平定した合戦)の戦勝祝賀のため」と偽って自邸に招き、暗殺に及んだ。これを嘉吉(かきつ)の乱と呼ぶ。義教の死後、室町幕府は再び弱体化し、国内は乱世へと移行してゆく。
[将軍]第6代・足利義教(任1429-41)
● 1467 年:応仁の乱が始まる。
☆ 戦(いくさ)十年 一世(ひとよ) むなしい 応仁の乱
室町幕府では、第3代将軍・足利義満が1408年に病気で急死した後、第4代・第5代のあいだは将軍と有力大名の間の勢力が均衡していたが、第6代将軍・足利義教(よしのり。任1429-1441)が専制政治を強行して有力な守護(赤松満祐)に殺害されてから室町幕府の弱体化が進んでいた。1467年に起こった応仁の乱は、幕府の管領家(畠山・斯波)の家督相続にまつわる争いと、第8代将軍・義政の弟と子の間の家督相続に関する対立が絡みあって、これに乗じて幕府の実権を握ろうとした細川・山名の両氏が東軍・西軍に分かれて争った戦乱である。細川方(東軍)には24ヶ国の守護が、山名側(西軍)には20ヶ国の守護がついた。(足利義政は弟の義視〔よしみ〕に将軍を継がせようとしたが、義政の妻・日野富子は自分の子の義尚〔当時は赤ん坊なので義尚自身は対立の当事者ではない〕に将軍を継がせようと画策し、山名などの多くの武将を味方に付けた。おそらく政治活動に対する資質も熱意も乏しかった義政に比して、藤原北家系の日野家出身で学問に秀でた富子のほうが優れた政治的能力を発揮していて、かなり強い実権を握っていたらしい。)十年後の1477年に和議が結ばれて、一応の終結を迎えたが、これ以降、室町幕府は完全に権威を失い、各地域において完全に分権状態が成立してしまい、多くの"戦国大名"が割拠する戦国時代が始まった。「大名」の領地の内部では「荘園」が完全に排除され、封土に置き換わっていった。(結局、9代将軍には義尚が1473年に9歳で就任。89年没。)
8代将軍・義政は、政治には全く関心のない、根っからの「文化人」であったようだ。1472年には将軍職を子の義尚に譲り京都東山に引退。戦乱をよそに能楽・絵・茶の湯などを愛好、美術工芸に発展の機を与えた。将軍として評価されるところはないが、一方では「東山文化」を象徴する人物であり、派手さのない日本らしい近世文化の源流をつくった功労者とも言える。
[将軍]第8代・足利義政(任1449-73)〔~第9代・足利義尚(任1473-89)〕
● 1485 年:山城の国一揆。
☆ 国人の 意思は公言 山城で
応仁の乱が一応の終息を迎えた後も、しばらくは各地で守護大名同士が小競り合いを続けていたが、一方で地方の国人(在地の土豪的領主層)たちは、混乱の中で自分たちの権益を守ろうとした。南山城(京都府南部)では畠山氏の跡目争いで畠山義就(よしひろ)と畠山政長の抗争が続いていた。1485年、南山城の国人、名主たちは宇治で集会を開き、両畠山軍の国外退去等を決議し、南山城の自治を行うことを決めた。両畠山軍はその団結力に押されて退去し、その後、8年間にわたって南山城は「中立国」となった。行政・警察・選挙が国人たちによって行われたが、内部対立が起こって崩壊に至った。
山城の国一揆に3年遅れて加賀の一向一揆も起こっている(1488-1580)。ここでは一向宗(浄土真宗)の宗徒と国人が手を結んで守護・富樫政親(とがしまさちか)を打倒し、1世紀近く、織田信長による石山合戦の終結のころまで加賀に本願寺領国が続いた。この時代、他の各地でも本願寺によって組織化された一向宗徒による一向一揆が起こったが(越中・越前・三河・畿内・尾張・紀伊など)、やはり信長の石山戦争終結(石山本願寺側が降伏する形で和約)を最後に消滅した。
[将軍]第9代・足利義尚(任1473-89)
● 1491 年:北条早雲、堀越公方を滅ぼし、伊豆を得る。
☆ 早雲が 意欲ひとつで 伊豆を取り
関東で、鎌倉公方は(足利氏同士で)古河公方と堀越公方に分裂、関東管領上杉氏も分裂し、国人をまきこんで争っていた。京都から下ってきた浪人(素浪人というわけではなく出自は伊勢氏で、駿河に下向してきたことから"浪人"と見做されたようだが)の北条早雲は、駿河守・今川義忠の下で手腕を発揮し、混乱に乗じる形で、1491年に堀越公方を滅ぼして伊豆を奪った。さらに、大森氏を攻めて小田原(相模)に進出し、その後、北条氏は子・孫の代にかけて、関東の大半を支配するようになる。北条早雲は「最初の戦国大名」とも見なされる人物である。(いわゆる「後北条氏」の祖。「後北条氏」は戦国時代最末期、1590年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで続くわけで、その意味では戦国時代全体を象徴する存在と言えるかもしれない。)室町幕府の支柱をなし、幕政制度と一応の連なりを保持していた守護大名は、応仁の乱以降に没落してゆき、自分の領地内に対して完全な支配権を持つ戦国大名が次々と各地に出現するようになる。(戦国大名の成立の仕方には、大きく分けて守護大名を打倒して成り立つ下克上タイプと、守護大名が自己変革して戦国大名に移行するタイプがあった。)
● 1523 年:寧波の乱。
☆ 遣明の 渡航に惨劇 寧波(ねいは)の乱
これは、有力守護大名である細川氏(背景に堺商人)と大内氏(背景に博多商人)が、日明貿易の権利をはげしく争い、1523年に中国の寧波(「ねいは」と読んでも「ニンポー」と読んでもよい。揚子江河口のすぐ南に位置する)で衝突を起こした事件である。背景としては、足利将軍家が弱体化して、貿易の統制力も保持できない状態になっていたということだろう。大内氏が正使として遣明船を派遣すると、細川氏も既に無効となった勘合符を持たせて遣明船を派遣。先に大内の遣明船が入港したが、細川方は明の入港管理所に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。大内は細川方を襲撃したが、明の官憲が細川方を支援。大内側は細川側の使者を殺害、明の役人をも殺害して逃げ去ってしまった。乱の後、明においては細川の賄賂授受に関わった役人が処罰され、日明貿易は大内氏が独占する形になったが、大内氏も衰えて1540年と1549の2回の遣明船を出すにとどまり、勘合貿易は途絶えた。公的使節による貿易がなくなった後は、中国商人と密貿易を行う日本人商人が多くなり、これが後期倭寇の活動へとつながってゆく。
● 1536 年:天文(てんぶん)法華の乱。
☆ 法華の乱 山門宗徒の 非行 見ろ!
鎌倉時代に説かれた日蓮の教えは、初めは東国武士に支持されたが、やがて西方にも進出し、都市の公家や商工業者にも信仰を拡げた。京都で勢力を強めていた日蓮系の法華宗が、1536年(天文5年)に延暦寺(山門)に対して宗教問答を呼びかけ、法華宗側が延暦寺側を論破した。(延暦寺の天台宗も法華経を根本仏典と位置づけているわけだから、形としては法華経を信奉する勢力同士の応酬だったわけである。)幕府もこの「勝敗」を認定してしまうと、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。延暦寺側は総勢6万人を動員して京都の法華衆2万を攻め上げ、京都は下京の全域および上京の3分の1ほどを焼失。京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。このころ室町幕府の支配がいかに脆弱で、古くからの宗教勢力がいかなる暴力的団体であったかということを象徴する事件と言えるであろう。
(「山門」について余談。天台宗の中で、比叡山の山上にある延暦寺は「山門」、比叡山の麓〔滋賀県大津市〕の園城寺〔三井寺〕は「寺門」と呼ばれる。山門派と寺門派は密教に対する考え方が違うらしい。両者は思想的に対立するだけでなく、歴史的には互いに武力でも抗争するような政治的敵対関係にもあった。)
● 1543 年:鉄砲の伝来。
☆ 鉄砲伝来 一騎打ちは 以後 止(よ)さん
1543年、中国(明)と交易を行っていたポルトガル船が、日本の種子島に漂着した。島主の種子島時尭(ときたか)はポルトガル人から鉄砲を入手し、製法を家臣に学ばせた。このときからポルトガルと九州諸地との貿易が始まった。戦国時代の後期に日本に入ってきた鉄砲は、国内の戦争の方法を大きく変えることになる。鉄砲隊を組織した織田信長軍が、武田勝頼の騎馬隊に大勝した長篠の戦い(1575年)は特によく知られている。
● 1549 年:イエズス会宣教師ザビエルの日本上陸。
☆ ザビエルが 以後 よく教える キリスト教
16世紀、西欧ではルターやカルヴィンなどによる宗教改革運動が起こり、カトリックが強い批判を受けるようになった。これに対してカトリック側にも刷新運動(反宗教改革)が起こり、1534年にはイグナチウス=ロヨラらによりイエズス会が設立される。イエズス会はヨーロッパ以外の地域への海外布教活動も積極的に行った。ロヨラの同志であるスペイン人宣教師フランシスコ=ザビエルは東方伝道を志し、1542年にインドのゴアに到着、マライ半島・モルッカ諸島での布教の後、1549年に鹿児島に上陸した。2年あまり日本において布教活動を行った後、ゴアに戻り、最後に中国での布教を試みるが、入国できずに広州港外の上川島で1952年に病没した。享年46歳。
なお、この前年(1548年)、美濃の斎藤道三が娘の帰蝶を織田信長に嫁がせている。テレビドラマなどで有名な道三と信長の「正徳寺の会見」は、その5年後の1553年であった。
● 1560 年:桶狭間の戦い。
☆ 信長が いい頃を見て 桶狭間
戦国時代の後期、各地に戦国大名が並び立つ中で、全国統一に向けて抜きんでる存在となったのが尾張(現在の愛知県西部)の織田信長であるが、1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いは、信長が最初に名を上げた戦いである。当時駿河(現在の静岡県中部)の今川義元は、西の遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)を合わせ、更に西進して尾張に侵攻してきていた。今川軍は、当初、総勢2万5千とも言われる大軍であったが、信長は2000ほどの兵を用いて、地勢と天候状況をうまく利用して今川義元の本隊(5000ほど)に密かに迫り、絶好のタイミングで桶狭間にいた義元本隊に奇襲攻撃をかけて、今川義元を討ち取った。(桶狭間は現・愛知県豊明市のあたり。名古屋市街地の南南西15キロほどのところ。信長は当時27歳。)信長は、敵方であった三河の徳川家康と同盟を結んで東にそなえ(清州同盟、1562年)、続いて斎藤道三亡き後の美濃(岐阜県南部)の攻略に成功して(1567年)尾張・美濃の2国を収める大名になった。井ノ口の地は、"岐阜"と改称され、信長は清州から岐阜へ移った。(清洲は尾張国の中心地。現・愛知県清須市。愛知県北西部)
なお、この翌年の1561年には、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の間で「川中島の戦い」の最終合戦(第4次合戦)が行われている。(1次:1553年、2次:1555年、3次:1557年。)
● 1568 年:織田信長の京都入り。足利義昭を将軍に立てる。
☆ 信長が 京にのぼるに いい頃や
室町幕府13代将軍・足利義輝は、両細川氏や、細川家臣の三好氏・松永氏らによる抗争の中にあって、将軍としては有名無実の存在として翻弄され続け、1565年に松永氏に殺された。このとき義輝の弟で一条院門跡であった義昭(当時は覚慶)も松永氏に一旦幽閉されたが、逃れることに成功し、各地の大名に京都回復を依頼した。1567年に美濃を支配下において岐阜に移った信長は、翌年の1568年、足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を第15代将軍に立てた。(第14代・義栄は三好氏によって1568年に擁立されたていたが、在任わずか7ヶ月であった。)この段階では、信長にとっても将軍の権威を借りることが有利という判断であったわけだが、これは一時的なものであった。やがて1573年には、信長と対立するようになった義昭を信長は攻めて京都から追放し、室町幕府を滅ぼすことになる。
[将軍]第15代・足利義昭(任1568-73)
● 1570 年:姉川の戦い。石山合戦が始まる。
☆ 姉川以後も なお休みなく 石山へ
織田信長は、美濃からさらに西方への勢力拡大を図り、1570年6月に北近江(現在の滋賀県北部)の浅井氏と、越前(福井県東部)の朝倉氏の連合軍を、近江の姉川(琵琶湖の北西側。長浜に近い)で破った。また、同年9月、信長と浄土真宗石山本願寺との間で10年にも及ぶ石山合戦が始まることになる。(本願寺勢力は、当時最大の宗教的武装勢力である。)信長が幕府(足利義昭を立てたのは2年前)の権威を利用して寺社に矢銭を請求していたことなども背景にあるだろうが、直接のきっかけは、信長が三好氏征伐に乗り出し、三好氏が石山本願寺を頼ったことにある。(石山本願寺は現大阪城本丸の地にあった。)本願寺側が摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃して、戦端がひらかれた。1580年に本願寺が屈服して石山戦争は終結した。
(「**本願寺」と称する寺は各地にいろいろあるが、主だったものは浄土真宗の寺である。浄土真宗の源流は、親鸞が入滅したとされる京都にあるわけだが、石山本願寺は、浄土真宗の中興の祖・蓮如が形としては一旦、山科に隠居した後に大坂方面への布教を考え、1496年に建てて居所とした大坂御堂が起源となっているようである。石山本願寺は1580年に信長に屈して〔というか形としては「和議が成立」して〕退去させられた直後に出火し〔放火?〕寺内町全域が焼失したらしい。1583年にその跡地に秀吉が大坂城を建てたわけである。石山本願寺勢力内部には和議の話が出てから対立が生じていたのだが、石山退去後に複雑な経緯を経て京都に移り、西本願寺と東本願寺に別れることになった。)
[将軍]第15代・足利義昭(任1568-73)
● 1571 年:比叡山延暦寺の焼き打ち。
☆ 寺社勢力 焼き打ちされて 以後 泣いた
比叡山(京都市街の北東、琵琶湖南部の西)の延暦寺は、平安時代に最澄が開いた天台宗の総本山であるが中世以降の寺社は、単なる宗教組織ではなく、さまざまな特権や経済利権をもち、自衛のための強大な軍事力(僧兵)も備えた地域勢力であった。信長にとって、自分と敵対する武力が邪魔であったことはもちろんだが、寺社の持つ経済利権なども、信長の「楽市・楽座」のような自由商業振興策とは本来的に対立する性質のものであった。姉川の合戦以後も、敗れた浅井・朝倉側はまだ余力を残しており、延暦寺の僧兵や本願寺の一向一揆の勢力がこれを支援したため、織田勢との抗争が続いていた。この状況に業を煮やした信長は寺社勢力の排除を図って、1571年に比叡山を攻めて焼き打ちを強行し、その兵力を壊滅させた。延暦寺は一旦消滅、信長は他の寺社領も没収して重臣に配分するなど、寺社勢力に対する強硬な施策を続けた。
[将軍]第15代・足利義昭(任1568-73)
● 1573 年:室町幕府の滅亡。
☆ 京 追われ 将軍 義昭 以後 涙
織田信長に奉じられて1568年に室町幕府将軍になった足利義昭は、その後、信長が勢力を強めると信長に対立するようになり、また信長にとっても義昭はもはや不要な存在となった。1573年7月、信長は自分に対して挙兵した義昭を破って京都から追放し、室町幕府を滅ぼした。これをもって室町時代は終わり、この時点から江戸幕府成立までの期間は、安土・桃山時代と呼ばれる。"安土"(あづち)は信長の居城・安土城(琵琶湖東岸の南の方、近江八幡のあたり。1579年天守完成)に、"桃山"は豊臣秀吉の居城・伏見城(京都市街の南、伏見区。1594年、比較的晩年の秀吉が隠居宅として入った城である)が後に桃山と称されたことに因んでいる。
(1573年の4月に武田信玄病没。8月に信長と朝倉義景の間で一乗谷の戦い〔一乗谷の場所は現在の福井県福井市〕があり、朝倉義景は一乗谷から逃れる途上で家臣に裏切られて自刃。また、8-9月に信長と浅井長政の間で小谷城の戦いがあり〔小谷城の場所は現在の滋賀県長浜市〕、9月に浅井長政は城内で自害し落城。その直前に長政が、自分の所に嫁いでいた信長の妹・お市の方と3人の娘を織田軍にひきわたす場面はドラマではお馴染みのシーンである。)
[将軍]第15代・足利義昭(任1568-73)
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)。1572-81は宰相 張居正による改革
● 1575 年:長篠の戦い。
☆ 騎馬隊の 一行 難攻 鉄砲に
織田信長は、室町幕府を滅ぼした後、朝倉氏(越前)と浅井氏(北近江)を滅ぼした(1573年)。その一方で、東方では、将軍足利義昭が信長と険悪な関係になって以降、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を領する武田氏は、義昭の側に立ち、織田・徳川と敵対して徳川の三河(愛知県東部)を攻めるようになっていた。武田信玄は1573年に進軍途中で病死するが、信玄の子・武田勝頼は1575年5月に三河を攻め、家康の属城長篠を囲んだ(長篠は現・愛知県新城市)。遅れて現地に入った織田軍は、鉄砲隊を効果的に用いた戦術で武田軍を崩すことに成功し、織田・徳川軍は圧倒的な勝利を収めた。これが「長篠の戦い」である。かつて無敵とうたわれた武田の騎馬隊も鉄砲隊相手に難攻を余儀なくされ、敗れ去ったのである。このあと武田氏の勢力の衰えははなはだしく、1582年に信長は武田氏を滅ぼすことになる(同年、信長も本能寺の変で死去するが)。
(長篠の戦いの後、信長は越前一向一揆への侵攻を決め、織田軍は8月に越前に乱入。9月には一向衆は越前から完全に駆逐された。)
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)。1572-81は宰相 張居正による改革
● 1582 年:本能寺の変。
☆ 信長が 一顧「犯人 光秀か?」
織田信長は、長篠の合戦の翌年(1576年)に、琵琶湖畔で安土城の築城を始め、1580年に石山本願寺を10年越しで屈服させ、1582年3月には甲斐の武田氏を滅ぼした。(越後の上杉謙信は既に1578年に死去。遠征準備中に城内の厠で倒れて昏睡状態に陥り、そのまま没したのだそうだ。その後の上杉は後継者争いで勢力を失った。)そして同年、備中(現在の岡山県西部)で毛利と戦っていた羽柴秀吉の援助に、まず明智光秀を向かわせた。その後、信長自身は上洛し、京での定宿の本能寺に滞在した。このときの信長の上洛の目的は不明なのだが、公卿や僧侶たちと茶会を催したりしている。自分自身が備中に行く前に何かやっておくべきことがあったのだろうか? しかし備中に向かっているはずの明智光秀に突如本能寺を攻められて、信長は死去した(6月2日未明。享年49歳)。本能寺にあって配下から襲撃を知らされた信長は、一瞬考えて「謀反の犯人は光秀か?」と思い当たるものが、あるいはあったかもしれない。信長は、寺に火を放って自害したとされるが、その首は見つからなかった。信長の最後を見た生存者はいなかったであろうから、ドラマで見るように末期に「人間五十年~」と「敦盛」を舞ったかどうかも分からない。
羽柴秀吉(46歳)は、本能寺の変の知らせをその翌日に受けると、交戦中の毛利軍と直ちに和議を結んで畿内に向かい、京都の山崎のあたりで光秀軍と激突することになった(6月13日。山崎の戦いとも、天王山の戦いともいう。京都中心部から南西13キロのあたり)。光秀の最期がどのようなものだったのか正確なことは分からないが、落ち延びようとする途中で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で殺された、という話が伝わっている。(首は翌日、秀吉の軍に回収された。)
信長が死んだとき、全国のおよそ3分の1の支配を確保していたわけだが、その後は秀吉が主導して統一事業を引き継ぐ形になる。秀吉が小田原の北条を倒して全国平定を成し遂げるのは、8年後の1590年であった。
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
● 1585 年:豊臣秀吉が関白に任ぜられる。
☆ 秀吉は 以後 やんごとなき 関白に
織田信長が1582年に本能寺の変で倒れた後、結果的にその後を継ぐ地位に立ったのは、信長の重臣のひとりであった豊臣秀吉であった。本能寺の変の報を受けると、戦闘中の毛利と即座に和を講じて京都に向かい明智光秀を山崎の戦いで討った。翌1583年には、やはり信長の重臣のひとりであった柴田勝家と争ってこれを破り、信長の後継者の地位を固めた。さらに、徳川とは一旦戦うも(小牧・長久手の戦い。1584年。尾張北部を中心とする各地で合戦が行われた)和議を講じ、長宗我部をくだして四国を平定し(1585年)、九州の島津を従え(1587年)、小田原の北条を滅ぼし、東北の伊達を服属させて(1590年)、1590年頃までに全国統一を成し遂げることになる。その間、秀吉は1585年に関白に、翌1586年には太政大臣に任じられ、その権威を固めた。
(念の為の注釈。「やんごとなし」は非常に身分が高いという意味。「止む事なし」の変化。)
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
● 1588 年:刀狩令の発令。
☆ 刀狩で 以後 阻まれる 農民一揆
豊臣秀吉は、全国統一に向けた戦略を進めながら、国内を安定的に統治するための施策にも着手する。代表的なものが、太閤検地と刀狩である。検地は、明智光秀を打ち取った山崎の戦い(1582年)の後から、順次征服地に家臣を派遣する形で進められた。これは農地を全国共通の基準で掌握する作業であり、租税の基礎となる。この秀吉による検地が最終的に全国に及んだことにより、朝廷による古い律令的地方行政の遺制や、荘園の慣行の残滓が、ついに日本から一掃されることになる。1588年に発令された刀狩は、武士以外の人々の持つ武器類を没収する措置である。農民一揆を防止し兵農分離を進めることが主要な目的であったが、僧侶からも武器類を没収し、寺社勢力から武力を奪ったことも重要である。秀吉は、さらに1591年の身分統制令で身分を固定化したが、これが江戸時代の身分制度の基礎固めになった。
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
● 1592 年:文禄の役(朝鮮出兵)。
☆ 文禄に 異国に攻め入る 諸大名
豊臣秀吉は、1590年頃に、ほぼ全国統一を達成したが、その少し以前から、海外進出も考えるようになる。彼は最終的に明の征服を想定し、まず1587年に朝鮮国王の入貢と、明への手引きを求めたが、明と冊封関係にあった朝鮮はこれを拒否した。これを受けて秀吉は、まず朝鮮を武力制圧することを考え、出兵の準備を始めた。1592年(文永元年)、主として西日本の諸大名による15万の大軍が、釜山から攻め込んだ。初めのうちは勢いがあったものの、朝鮮の抵抗や明軍の朝鮮援軍派遣などもあって、戦局は滞る。1593年からは明との和平交渉に入ったが、1596年に交渉は決裂する。
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
● 1597 年:慶長の役(朝鮮出兵)。
☆ 朝鮮で 一行 苦難 慶長の役
文禄の役の後、明との交渉が1596年に決裂すると、翌1597年(慶長2年)に豊臣秀吉は再び14万の兵を朝鮮に送り込んだ。日本軍は再び苦戦を強いられ、その次の年には秀吉が病死(享年62歳)したために、全軍撤退となった。
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
● 1600 年:関ケ原の戦い。
☆ 家康が 異論を 抑えた 関ケ原
徳川家康は、最初は今川氏に従う三河(現在の愛知県東部)の小大名であったが、桶狭間の戦い以降、織田信長に協力しつつ東海で勢力を保持した。1590年から豊臣秀吉の命で関東に移って、関東最大の大名となり、秀吉の家臣として五大老の筆頭となった。秀吉が1598年に死去すると、家康(このとき57歳)が伏見城において実権を握るようになった。これに対して、秀吉の腹心であった五奉行のひとり石田三成が家康の排除を策して小西行長らとともに挙兵を策し、1600年、全国の大名が家康側・三成側に分かれての天下分け目の関ケ原の戦いになった(関ケ原は、現在の滋賀県・岐阜県の県境に近い岐阜県側)。両軍それぞれの構成に関していろいろ見どころはあるが、秀吉の子飼いの武将であった福島正則や加藤清正が三成を嫌い家康側についたことは興味深い。三成勢は統率を欠き、小早川などの裏切りも出て惨敗、わずか6時間ほどで家康軍の大勝が決した。関ケ原の戦いの後、徳川家康は三成に味方した諸大名を厳しく処分し、家康の支配への異論を、ほぼ完全に抑え込むことに成功した。
[中国]明、第14代・神宗 万暦帝(位1572-1620)
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