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納得して覚えるための

日本史年代☆ゴロ合わせ(鎌倉時代)
                                         by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

1192 年:源頼朝、征夷大将軍になる。

☆ 武家による  いい国つくろう  鎌倉で

 

1185年に平氏が滅ぼされた後、後白河上皇は、源義経に源頼朝を討たせようとして失敗し、逆に頼朝に軍を向けられて頼朝に守護・地頭の任命(補任)権などを認めることになった。(守護は諸国に置かれる治安維持・統制のための官職。地頭は荘園・公領に置かれて土地管理・年貢徴収・検断等の権限と義務を持つ官職。地頭は最初、頼朝自身が配下から寄進されていた荘園や平家から没収した所領への任命から始まり、後の承久の乱以降に全国的に任命範囲が拡がることになる。)頼朝は、武家政権の基盤を固めてゆき、"謀反人"義経をかくまった奥州藤原氏を1189年に滅ぼして支配権を確実なものにした。(もっともその時すでに義経は、後白河の命を受けた藤原泰衡〔第4代〕によって殺されていた〔正確には追い詰められて自害していた〕のだが。頼朝としては東北地方の巨大独立勢力をつぶしておきたかったわけである)。1192年に後白河上皇が死去すると、頼朝​(当時46歳)は朝廷から征夷大将軍に任じられた。歴史学者それぞれの立場によって違いはあるが、この年を鎌倉幕府の成立年と見なす考え方がある。征夷大将軍というのは、元々遠隔地(蝦夷の地)へ派遣する軍隊組織の統率者であって、中央政府の権限を現地で「代行」するような権限を持ち得る地位だった。頼朝は朝廷から"依頼"される形で(東国の)「武家政権」を作るためにその地位を得て利用することに成功したわけである。 頼朝は将軍就任後7年目の1199年に死去した。享年53歳。落馬したことが原因とも言われるが、確実なことは分からない。

[天皇]第82代・後鳥羽天皇(位118398)

[将軍]第1代・源頼朝(任119298)

1203 年:北条時政、政所別当になる。(執権政治の始まり)

☆ 鎌倉を  いつも治める  北条氏

1199年に源頼朝が死去した後、頼朝と妻・北条政子の子である頼家が18歳で家督を継いだが(第2代将軍への宣下は遅れて1202年)、一方で北条氏は有力御家人による合議制を始め、むしろ頼家を実質的な実権から遠ざけた。1203年に頼家が病気になると、政子の父にあたる北条時政は、頼家の後ろ盾である比企一族を滅ぼし、将軍・頼家を廃し、その弟の実朝(12歳)を第3代将軍に立てて、自ら政所の別当(長官)となった。頼家は伊豆国修禅寺に幽閉され、翌年、北条氏によって殺害される。(この事件は、明治から昭和初期にかけて活躍した作家・岡本綺堂の戯曲『修善寺物語』の題材になっている。)

 北条時政の後を継いだ(継いだというより、実情としては1205年に対立が生じて時政側が敗北・失脚し、以後、時政は1215年の死去まで10年間、幽閉されていたのだが)時政の子・義時は、1213年から政所と侍所の別当も兼ねるようになり、この職は「執権」と呼ばれた。鎌倉幕府では、北条氏が執権職を世襲し、実権を把握し続けた。実朝は1219年に頼家の子に暗殺されて源氏の将軍は3代で途絶える。それ以降は鎌倉に形式的に藤原将軍や皇族将軍が迎えられて、鎌倉幕府の実権は常に北条氏の下にあった。

[院]〔第82代→〕後鳥羽上皇(位11981221)

​[天皇]第83代・土御門天皇(位11981210)

​[将軍]第2代・源頼家(任120203)→ 第3代・源実朝(任120319)

​[執権]第1代・北条時政(任120305)

ここで、百人一首から、源実朝の歌(93)を引いておく。

 <鎌倉右大臣> 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまの小舟(おぶね)の 綱手(つなで)かなしも

「もがもな」は願望の終助詞「もがも」+詠嘆・願望の終助詞「な」。「常にもがもな」は「変わらずにいてほしいものだなあ」の意味になる。「あま」=「漁夫」。「綱手」は「綱手縄」、つまり引き船に付けてある船を引くための綱ということらしい。「かなしも」はここでは、しみじみと情趣を感じるというような意味。実朝の正室は京の公家の娘(後鳥羽に入内している坊門局と姉妹関係)で、実朝はその影響から東国の武士でありながら京の文化に親しみを感じていたらしい。後鳥羽の側も一時期、これを利用し、実朝を通じて幕府への影響力拡大を図っていたようである。実朝暗殺の"真の黒幕"が誰なのかはっきりしていないが、父の頼朝がせっかく朝廷から独立した武家のための武家政権の端緒を開いたのに、実朝はそれに逆行して朝廷との協調・従属路線を進めようとしていたわけで、御家人のうちの誰が黒幕でも(たとえば北条?)不思議はない。

 実朝は藤原定家から万葉集を贈られたということもあり、その歌風は万葉風であるとされる。明治時代の歌人・俳人である正岡子規は、万葉集を称揚し、紀貫之以降の和歌を批判した人であるが、源実朝の万葉風の歌は推奨したそうである。

1205 年:新古今和歌集の成立。

☆ 新古今  いつも励行  本歌取り

新古今和歌集は、後鳥羽上皇の命により、藤原定家らが編纂した勅撰和歌集であり、いわゆる「八代集」の最後の歌集である。1205年に成立した。(ただしその後も手入れがなされている。)全20巻、1970首ほどが集められている。藤原定家は平安文学の広範な実りを集約して後世につないだ、日本文学史において重要な文人である。和歌の分野においては「本歌取り」の価値を積極的に肯定し、そのルールを作って本歌取りの技法を定着させたことも、彼の功績のひとつに数えられる。もちろん全部が全部、本歌取りにしようというわけではないが、新古今和歌集の中に本歌取りの秀作も多く含まれている。

[院]〔第82代→〕後鳥羽上皇(位11981221)

[天皇]第83代・土御門天皇(位11981210)

[将軍]第3代・源実朝(任120319)

​[執権]第1代・北条時政(任120305)→ 第2代・北条義時(任120524)

参考までに百人一首から藤原定家の歌(97)を引いておく。(百人一首自体、定家撰説が有力である。)

 <権中納言定家> 来ぬ人を まつほの浦(うら)の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ

「まつ」の部分が「(人を)待つ」と「松帆{の浦)」(淡路島北端にある海岸の地名)の掛詞になっている。「藻塩」は海水を滲みこませた海藻を焼き、水に溶かして煮詰め、精製した塩。「こがれ」は、藻塩「こがれ」ることと、身が(恋心に)「こがれ」ることの掛詞になっている。つまり、待てども来ない恋人を思って身をこがしているという心情を、うんと技巧的に表現した歌である。(私などは、ちょっと技巧に走りすぎているのではないか?という感想を持つけれども、この「技巧的」というのも、新古今和歌集の特徴のひとつである。ただし上の歌が収められているのは新古今和歌集ではなく『新勅撰集』〔1235年完成〕であり、小倉百人一首〔成立年不明〕は、これより後に現在の形になったのであろう。)

1221 年:承久の乱。

☆ 都の人に  ついてはゆけぬ  上級(承久)だ

 

平氏が安徳天皇(81代)を擁して西に逃れた後、1183年に即位した後鳥羽天皇(82代。安徳の異母弟にあたる。2歳差。即位時は4歳)は、後白河法皇没後数年、関白・九条兼実に政治を任せた後、兼実が朝廷での勢力を失うと親政を始め、1198年より譲位して院政を敷いていた。上皇は皇室領荘園を再びまとめ、西面の武士をおいて軍事力も強化し、幕府との対抗姿勢を強めていた。他方、鎌倉幕府では1219年に3代将軍が殺害されて源氏正統は断絶したが、執権の北条義時(時政の子)が京都から九条頼経(兼実の曾孫。父は道家、母は頼朝の姪の子である)を将軍に迎えて幕府を存続させた。(実は幕府から朝廷には"親王"を迎え入れたいと要求していたのだが、後鳥羽はこれを受け入れず、代わりに2歳の九条三寅〔頼経の幼名〕を出したのである。)この状況を踏まえて後鳥羽上皇は1221年(承久3年)に、機内や西国の武士、寺社勢力、東国武士の一部をも味方に引き込み、北条義時追討の院宣を下して兵を挙げた。(鎌倉の御家人の中には当初、北条が"朝敵"とされたことに動揺する者もあったが、当時まだ存命〔65歳〕の北条政子が「〔源氏の〕三代将軍の遺跡をまっとうすべし」と演説して御家人たちを鼓舞したことが『吾妻鏡』に記されているのだそうだ。)東国武士の多くは(やっぱり都のお公家さんの考えにはついてゆけぬということで)北条側についた。幕府は義時の子、泰時や、弟の時房の軍を京都に送り込んで勝利をおさめ、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇は配流、仲恭天皇(85代)は廃位にされている。この後鳥羽上皇による鎌倉幕府討伐の失敗は、承久(じょうきゅう)の乱と呼ばれる。このときまで鎌倉幕府の支配範囲は主に東国のみであったが、承久の乱以後、西国を含む全国にまで幕府の支配が確立することになる。(鎌倉幕府はこの勝利により、朝廷側の所領約3千箇所を没収したが、それらの土地は西日本にあった。新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住していったのだそうだ。)また、この事件は、元来は皇室の外戚でもなく貴族でもなく、名目上は天皇から任じられている将軍を「補佐」する役目というだけの東国武士にすぎない北条氏が、事実上、天皇や上皇のポストに自在に干渉して「処分」を下してしまうことが可能であったという逆転現象で​あり、日本史上、前代未聞の出来事であった。

[院]〔第82代→〕後鳥羽上皇(位11981221)

[天皇]第84代・順徳天皇(位1210-21)

    → 第85代・仲恭天皇(位1221)→ 第86代・後堀河天皇(位1221-32)

​[執権]第2代・北条義時(任120524)

 

参考までに、百人一首から後鳥羽院(99)と順徳院(100)の御製を引いておく。ただし両方とも承久の乱より前に詠まれた歌であるが。

 <後鳥羽院> 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

「をし」は「いとしい」の意。

 <順徳院> ももしきや 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

「ももしき」は「皇居・宮中」の意。「しのぶ」は「忍ぶ」と「偲ぶ」の掛詞。前者「忍ぶ」は、古い軒端に生えている草をある程度擬人化して捉えていて、草がじっと耐えているように見えているということのようだ。「しのぶにも なほあまりある」は「いくら偲んでも偲びきれない」という意味。皇室の権威が盛んであった「昔」を偲んだ歌である。

1224 年:北条泰時、執権に就任。

☆ 泰時が 「全部にしよう  支配地を」

条泰時は、承久の乱を収めたのち、父・義時の死により鎌倉に戻り、1224年に第3代の執権職に就いた。承久の乱の後、鎌倉幕府は六波羅探題による朝廷の監視と、西国への統治体制を強めた。泰時の時代に朝廷に対する鎌倉幕府の優位が明確になり、鎌倉政権による国内ひとまとめの支配体制が固まった。(少々苦しいけれども「全」→「ぜん」→「せん」→「千」と思ってください。

(「六波羅探題」の「六波羅」は、現在の京都市東山区の六波羅蜜寺〔"踊り念仏"の空也ゆかりの寺と伝わる〕近辺の地域名。平清盛がこの地を拠点としたこともある。「探題」は元々は仏教界において"お題"を出題して問答を判定する立場の権威的職位を指す言葉だが、鎌倉幕府ではそれが転用されて、重要な地方政治を管掌し、種々の問題を裁定する役職名として用いられた。承久の乱後、戦後処理と朝廷監視のため北条泰時北条時房の2人が六波羅の北と南に駐留したのがその始まり。後にはモンゴル襲来の対策にあたる「鎮西探題」「長門探題」なども設けられた。)

 泰時は、真の武家政治を確立した人物と見做され、武家政治史上、最も偉大な政治家として挙げられる場合もある。また、人格的にも優れていたという肯定的な評価が多くなされており、武家からも公家からも民衆からも人望が厚かったとされ、その善行を伝える逸話も多い。泰時は信仰的には、華厳宗中興の祖と称される明恵(みょうえ)に深く帰依した。

​[執権]第3代・北条泰時(1224-42)

1232 年:貞永式目(御成敗式目)の制定。

☆ 貞永式目  人(ひと)  文(ふみ)により  裁かれる

 

承久の乱以後、鎌倉幕府では北条氏一族が要職を占めて、安定した発展期を迎えることになった。北条泰時は1232年(貞永元年)に貞永式目を制定した。これは武家社会での慣習にもとづいて、紛争をさばくために定められたものである。内容は社寺・守護地頭・知行・検断・譲与などにわたり、51ヶ条からなる。武家によって制定された最初の体系的な法典であるが、その基本思想として泰時は「道理」(健全な常識)というものを重視した。

(このような法典が作られることになった大きな背景要因として、承久の乱以後、幕府の勢力が西国にまで広がり、地頭として派遣された御家人と、公家などの荘園領主・現地住民との法的なトラブルが増加したことが挙げられるだろう。幕府の「問注所」が扱う裁判の大部分が土地に関係するトラブルだったようで、鎌倉幕府の体制にとって「土地」というのがキーワードである。)

​[執権]第3代・北条泰時(1224-42)

1272 年:後嵯峨上皇の崩御。持明院統・大覚寺統の対立の始まり。

☆ 後嵯峨なく  人に 何言う? 両統で

 

1272年に後嵯峨上皇(天皇として88代)が崩御すると、皇室は嫡子の系統(持明院統)と次子の系統(大覚寺統)にわかれて、皇位や皇室荘園の相続をめぐる争いが始まった。嫡子・後深草(89代)の後、大覚寺統に移って2代(90代・亀山、91代・後宇多)、持明院統から2代(92代・伏見、93代・後伏見)が出た。後伏見のときに鎌倉幕府の調停(1301年)により、以後は両統交互に即位するという方針が成立した(両統迭立)。しかし、やがて大覚寺統の後醍醐天皇(96代)のときに両統迭立が崩れ、2天皇が両立する南北朝時代(1336-92年。持明院統→北朝、大覚寺統→南朝)が訪れることになる。

[院]〔第88代→〕後嵯峨上皇(位124672)

​[天皇]第90代・亀山天皇(位1259-74)

​[執権]第8代・北条時宗(1268-84)

1274 年:文永の役(元寇)。

☆ 文永で  人に為し得ぬ  防衛戦

 

13世紀、モンゴル族がアジアの広大な領域を征服・支配するようになり、中国では1271年にモンゴル族の国「元(げん)」が建国された。元は更に周辺地域にまで支配を拡げようとし、1274年(文永11年)に最初の日本侵攻を実施した(文永の役)。元軍は博多湾に上陸し、幕府は九州に所領を持つ御家人を動員してこれを迎えた。元の集団戦法や兵器に対して日本軍はあまり有効な反撃ができなかったようだが、たまたま大風雨の元軍への影響もあり、撃退に成功した。

[執権]第8代・北条時宗(1268-84)

1281 年:弘安の役(元寇)。

☆ 弘安に  人には言えぬ  防衛戦

 

鎌倉幕府は文永の役の後、元の再度の襲来にそなえて、博多湾沿岸に石塁を構築するなど防備体制を強めていた。元は、文永の役の7年後の1281年(弘安4年)、再び日本の攻略を計画し、朝鮮半島からの東路軍と中国本土からの江南軍の2軍を出して博多湾に迫った。日本軍は、幕府の統制の下、西国武士を中心によく戦ったが、慣れない相手との戦いに、人には言えないような苦労もあったであろう。元軍は、日本軍に上陸を阻まれているうちに、再び大暴風雨による損害が出て、敗退することになった。

 元寇において多くの御家人が、多くの犠牲をはらって戦ったが、没収地が得られない防衛戦であったために、幕府は充分な恩賞を出すことができなかった。これがひとつの大きな要因となって、幕府の"北条氏体制"(得宗体制​。得宗〔とくそう〕は北条氏の嫡流を意味する)は御家人からの信用を徐々に失い、鎌倉幕府の衰退、滅亡へとつながってゆく。

[執権]第8代・北条時宗(1268-84)

​[中国]元、第1代・世祖(フビライ:位1279-94)

1318 年:後醍醐天皇の即位。

☆「一切は  朕(ちん)の意向」と  後醍醐 即位

 

皇室では、1272年の後嵯峨上皇崩御の後、嫡子系の持明院統と、次子系の大覚寺統の対立が続いていたが、1318年に大覚寺統から後醍醐天皇(96代)が即位した。後醍醐天皇は、自ら政治権力に執着した最後の天皇と言ってよいであろう。(朱子学に入れ込んでいて、自分以外の人はすべて自分の"臣"なので周囲すべての人々が自分に従うのが当然のことだと考えていたようである。)この後、いろいろな曲折・浮沈があり、後醍醐は鎌倉幕府を滅ぼして親政体制を作るが(1333年)、3年足らずで足利尊氏により京都を追われて吉野に逃れ、独自に"政権"を立てた(これを南朝と呼ぶ。南北朝の始まり)。後醍醐天皇は京都の北朝に対して形勢の挽回を図り続けたが、かなわずに1339年に没することになる。

(念の為、補足しておくと、「朕(ちん)」というのは、天皇だけが用いる一人称代名詞である。「一切の政治は、朕(自分)の意向でやるぞ」というのが、後醍醐天皇のスタンスであった。)

​[天皇]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)

1324 年:正中の変。

必殺 失敗! 計画もれた  正中​(しょうちゅう)の変

 

2回の元寇の後も、幕府の政治権力は北条氏にますます集中し(「得宗専制政治」と呼ばれる。得宗〔とくそう〕は北条氏の嫡流を意味する)、これに対する御家人の反発は次第に高まっていた。また、この頃、農業技術・農村経済の発達にともなって、畿内を中心とする各地に「悪党」と呼ばれる新興の武士集団(領主層)が現れ、彼らは鎌倉幕府や既存の荘園体制に抵抗する活動を徐々に始めていた。(「悪党」というのはもちろん当時の体制側から見た一律の呼称であり、元弘の変以降、後醍醐天皇側につくことになる"忠臣"楠木正成なども、区分としては「悪党」と見做されるわけである。)後醍醐天皇(96代)は、このような状況を見て討幕の計画をひそかに進めたが、この計画の情報は1324年に幕府側に漏れてしまい、失敗に帰した。しかし、この後も後醍醐は討幕の画策を続けることになる。

[天皇]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)

1331 年:元弘の変。

☆ 元弘に  隠岐に流され  悲惨 災

 

後醍醐天皇(96代)は、正中の変の後も討幕の画策を続けた。7年後の1331年(元弘元年)、寺社勢力を味方につけて挙兵を企てたが、密告によって六波羅探題に察知されてしまう(4月)。後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山で挙兵した。これに呼応して楠木正成も河内国の赤坂城で兵を挙げた。笠置山は幕府の討伐軍に攻められて陥落し(9月)後醍醐は捕らえられる。赤坂城の正成は幕府軍に可換な反撃を行ったが、長期戦は無理と見て城に火を放ち、姿をくらました(10月)。持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位し、後醍醐は翌年、一旦、隠岐に流された。(すぐに脱出することになるが。)

[天皇]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)

1333 年:鎌倉幕府滅亡。建武の新政が始まる。

悲惨 散々  鎌倉 滅んで  建武の世

 

元弘の変における倒幕の動きは収まったかに見えたが、1年あまり後、後醍醐の皇子護良(もりよし?/もりなが?何故か文献によって読み方が違う)親王や楠木正成らが蜂起し(1333年1月?/2月?)、正成が摂津国金剛山の千早城で幕府軍に対して果敢な防戦を続けるうちに、各地で倒幕の機運が触発されていった。後醍醐も隠岐を脱出して伯耆国(ほうきのくに。今の鳥取県西部)の船上山の戦いをしのぎ、ここから全国へ討幕の綸旨を発した。幕府軍の大将として反乱鎮圧に派遣されていた足利尊氏も、状況を見て鎌倉幕府に背き、六波羅探題を攻略。関東でも新田義貞が鎌倉を攻めて北条一族を滅ぼし、1333年5月に鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇は6月に京に戻って、新たな政治に着手した。これは(1334年に「建武」と改元されたので)「建武の新政」と呼ばれる。しかし後醍醐の意図は、幕府も院政も摂関政治もすべて否定して、天皇自らの独裁的な親政を実現することだった。後醍醐の考え方は武士社会の慣習を全く無視しており、武士勢力もこれに抵抗したので悲惨な社会的混乱を引き起こした。「建武の新政」は、わずか3年たらずで終わることになる。

​(因みに、足利尊氏も新田義貞も"源氏"であって、遡ると後三年の役の源義家につながる。​後醍醐は倒幕における武家の武功に報いることなどほとんど無かったが、尊氏と義貞だけは"出自の良さ"のために​少しだけ優遇された。

[天皇]第96代・後醍醐天皇(位1318-39)

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