top of page

納得して覚えるための

日本史年代☆ゴロ合わせ(平安時代)

 

                                         by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。

◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

794 年:平安京へ遷都。

☆ 不安なく  世を治めよう  平安京

 

桓武天皇(50代)は、784年に奈良から長岡京への遷都を行っていたが、その10年後の794年に、平安京への遷都を行った。(長岡京を棄てた理由ははっきりしない。私としては、長岡京にいる桓武にいろいろな亡霊〔特に9年前に藤原種継暗殺事件の罪を着せられて憤死した桓武の弟、早良親王の怨霊〕が現れて、どんなに慰霊祭をやっても消えなかったからという説が、心理的な動機として説得力があると思う。長岡京は風水説(陰陽道〔おんみょうどう〕)に合っていないけれども、平安京は風水説に適合しているのだそうで、当時、自然環境や"霊的環境"を整えるための考え方として、風水説はかなり重視されていたようだ。しかしこの亡霊説に対しては否定的な学者が多いらしい。)ここが以後、約400年間、政治の中心地となり、皇室の本拠という意味合いでの都としては、1000年以上続く都となった。「平安」京という名前には、改めて確立した"天智系"の治世において平和・平穏な世の到来を祈念する意図が込められていた​のではなかろうか。

 桓武は、蝦夷征討以外の国内統制面では、律令の兵役による軍団を廃して、代わりに郡司の子弟等から採用した少人数の健児(こんでい)を用いるなど(792年)軍事縮小・廃止策をとった。しかし皮肉なことに、かえってこのような方向性の施策によって政府による治安維持力は著しく弱まり、世の中全般の治安状態は平安時代全体を通じて悪化していった。このあたりが(荘園の発達に伴う律令的な人民・土地政策の崩壊と併せて)後世における武士階級成立のひとつの遠因になっているという見方もできるようである。(武士というのは、発生起源的に言えば、自衛力・自警力を備えた在地の農地管理者およびその配下の武装農民だというのが、有力な考え方である。)

(「鳴くよウグイス」という語呂が有名すぎるほど有名だが、歴史的な含意を見いだせない文句なので、敢えて採用しないことにした。)

​[天皇]第50代・桓武天皇(位781806)

801 年:アテルイの降伏(坂上田村麻呂、陸奥の蝦夷の鎮圧完了)。

☆ 田村麻呂  晴れ晴れ 一声  勝利 告ぐ

 

光仁天皇(49代)のころから、東北では陸奥の蝦夷(えみし)が反乱を起こしていた。第50代・桓武天皇の政策としては、遷都や新仏教の興隆(最澄・空海とも804年に唐に派遣され、前者は翌年、後者は2年後に帰朝。両者〔特に後者〕は8世紀に唐で広まった密教を日本に伝えることになる。最澄の天台宗の根本仏典は法華経なので顕教というイメージが強いのだが、"天台密教〔台密〕"などという言葉もあって、そのあたりは微妙のようでもある)などと並び、蝦夷の征討に注力したことがよく知られる。(おそらく、古来の朝廷による実効勢力範囲の東端は、新潟[越の国]-群馬・栃木[毛の国]-茨城[常陸の国]あたりまでで、今の東北地方にいた蝦夷は未征服の「辺境異民族」という感じだったのだろう。)桓武から征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は、801年に蝦夷の鎮定に成功し、蝦夷の首領アテルイを降伏させた。(田村麻呂は敵将のアテルイに対して、ある意味で敬意を持つようになっており、アテルイの助命を帝に願い出るつもりであったが、アテルイは公家たちによって早々に処刑された。)田村麻呂は翌802年に、現在の岩手県南部奥州市のところに胆沢(いざわ)城を、803年にはさらに北の現在の盛岡市のところに志波(しわ)城を築いた。9世紀後半までには東北地方のほとんどが朝廷の勢力範囲に入った。

 余談だが、京都の清水寺は元々、田村麻呂の私寺で、810年に嵯峨天皇の勅許が下って公認の寺院になったものらしい。

[天皇]第50代・桓武天皇(位781806)

810 年:薬子の変。蔵人頭の設置。

☆ 政争は  波濤(はとう)のごとし  薬子​(くすこ)の変

 

桓武天皇(50代)の没後、その第1子の平城(へいぜい)天皇(51代。位806-809)、そして第2子の嵯峨天皇(52代。位809-823)が相次いで皇位を継いだ。平城は病気のために嵯峨に譲位したのであるが、その後、平城上皇は藤原薬子寵愛し​(薬子は藤原種継の娘で、平城の妃の母親)、その言に動かされて嵯峨天皇と対立、ひそかに事を起こし重祚する計を立てた。(平城は譲位後、平城京に移り住んでおり、平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った。)しかし朝廷は事前にこれを察知したので嵯峨天皇は機先を制し、平城の挙兵の動きに対しても兵を出してこれを防止し、薬子を自死に追いやった。これが「薬子の変」である。このとき​、太政官を通じた正規の執行手続きでは天皇側で(上皇に対して)秘密を守ることが難しいことが認識され、太政官とは別に、天皇に直属して機密事項を扱わせる「蔵人所(くろうどどころ)」が設置された。その長官として蔵人頭(くろうどのとう)が置かれ、最初の蔵人頭として、藤原冬嗣ら2名が任じられた。(「波濤」は大波の意味。)

 この頃から律令政治の元来の「令」にはない官職、あるいは重複するような官職が、実情の推移に応じて設けられるようになっており、蔵人頭はその代表例である。もうひとつの重要な例が検非違使(けびいし)で、これは都の警察業務を担ったが、次第に裁判なども扱うようになった。(検非違使の設置とともに律令制として本来的に警察・裁判業務を司る「刑部(ぎょうぶ)」は形骸化した。あるいは「刑部」が形骸化したからこそ検非違使を設置してその業務にあたらせる必要が出てきた、と見るべきかもしれない。)また奈良時代から出されてきた格(きゃく。律令条文の補足・追加)や式(業務細目)なども嵯峨天皇の時代に整理・編纂され、820年に成立した(弘仁格式)。

​[天皇]第52代・嵯峨天皇(位809-832)

古今和歌集から、平城天皇の歌(90)を引いておく。

 <奈良帝> ふるさとと なりにしならの 都にも 色は変らず 花は咲きけり

ここでの「ふるさと」は「旧都」の意。旧都になってしまった奈良(平城京)にも昔と同じように花は咲くのだなぁ、という感慨を歌っている。この歌がいつ詠まれたのか定かではない。平安京に遷都してまだ間もない頃に奈良の旧京を訪れたときなのかもしれないし、平城は譲位後、そして薬子の変の後も平城京に住んだので、その期間の作なのかもしれない。

858 年:清和天皇の即位。藤原良房が実質的に摂政になる。

☆ 良房(よしふさ)は  乞われて 清和の  補佐をする

 

858年、文徳(もんとく)天皇(55代。第52代・嵯峨天皇の孫にあたる)が崩御し、その子の清和天皇(56代)が9歳で即位することになった。このとき太政大臣であった外祖父にあたる藤原良房は、その後866年に正式に「摂政」の命を受けることになるが、即位の時点から実質的に摂政の役を務めていたと考えられている。藤原氏によるいわゆる「摂関政治」は、ここが最初の起点である。摂政というのは「天皇の完全な代理」であって、元来は皇室の人間が就くべきものなのだが、そのポストに「人臣」が初めて就いたのだから、極めて異例なことが起こったと見るべきである。

(文徳は、第1皇子の惟喬〔これたか〕親王に皇位を継がせたかったが、藤原良房から、良房の娘である明子が産んだ第2皇子惟仁〔これひと〕王のほうを立太子させるように圧力をかけられて、それに従わざるをえなかったようである。惟仁は9歳で即位して清和天皇になった。文徳天皇は同年〔858年〕、32歳で「突然発病し急死」したとされるが、前後の経緯を見ると、藤原氏による暗殺だったのではないかと邪推したくもなる。)

 話は前後するが、良房は842年の承和(じょうわ)の変(第53代・淳和天皇の子である恒貞親王が廃太子、道康親王〔後の第55代・文徳天皇〕が立太子となった政変。道康親王は第54代・仁明〔にんみょう〕天皇と、良房の妹・順子の子である)や866年の応天門の変(内裏の入り口の応天門が炎上、放火が疑われた事件)などを利用して、伴氏、橘氏、紀氏など他の有力氏族を退け、藤原氏の勢力を強めた。

​[天皇]第55代・文徳天皇(位850-858)→ 第56代・清和天皇(位858-876)

​[摂政]藤原良房(858-872年、正式には866-872年)

古今和歌集から、藤原良房の歌(52)を引く。

 <前太政大臣> 年(とし)ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし

これは自分の娘である皇后(藤原明子)の部屋で、花瓶に挿されている桜の花を見て詠んだ歌。つまり「花」というのは直接的には眼前の桜のことなのだが、娘の明子とイメージを重ねているのであろう。「物思い」は「思いわずらい・憂い・心配」。つまり、自分が歳をとったといっても、皇后になっている娘の明子が姿を見れば自分には何の心配もないのだと満足感にひたっている歌である。

 良房に排除された喬親王の歌も古今和歌集から引いておく(74)。

 <惟喬親王> 桜花 散らばちらなむ 散らずとて ふるさと人の 来ても見なくに

「なむ」は相手の動作の実現への希望を表す終助詞なので、「散らばちらなむ」=「散るならば散ってほしい」。「ふるさと人」は、昔自分がいたところに住んでいる人の意。ここでは僧正遍昭をさす。「来ても見なくに」=「来て、見てくれるわけでもないので」。惟喬は29歳で出家し、京の北郊の小野に住んでいたので、そこで詠んだ歌であろう。遍昭は京に住んでいた。

少々唐突ではあるが、清和天皇との"関連"で在原業平(ありわらのなりひら)の歌も引いておく。(古今和歌集に収められ​〔747〕、『伊勢物語』の中でも用いられている歌である。)

 <在原業平朝臣> 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして

これは、かつて業平と逢瀬を重ねたが、その後、清和天皇の後宮に召されて今はもう逢えなくなってしまった女性(藤原高子)のことを、業平が思い返している場面の歌である(と解釈される)。歌そのものは「自分は変わらないのに月や春は昔とは変わってしまったのか?」という意味で、状況が変わってしまったことを「月」や「春」を用いて象徴的・情感的に嘆じている。

 在原業平は、父方で言えば平城天皇(51代)の孫。母方で言えば桓武天皇(50代)の孫。第53代・淳和天皇のとき(826年)兄・行平とともに臣籍降下。古今和歌集に30首、勅撰和歌集に87首が入集した著名な歌人でもあり(六歌仙のひとりである)、陽成天皇(57代)の下では蔵人頭を務めてもいる。失脚した惟喬親王と親しかったようである。伝説的に、美男の代名詞のように言われる。​(しかし折角の話を台無しにするようだが、実は業平の高子へのアプローチは純粋な恋愛感情によるものではなく、高子の清和への入内を阻止することで藤原氏の勢力を牽制しようという、政治的意図があったのだという説もあるのだそうだ。​本当のところは分かりませんが、平安貴族の世界、難しそうですね。)

『伊勢物語』は恋愛事の記述を中心とする一代記的な歌物語で、主人公は「男」としか書かれていないが、(おおむね)在原業平のことだと考えられている。作者不詳で成立年代や成立過程も明確ではないが、『竹取物語』と並んで最初期の仮名文学と見なされる。

884 年:光孝天皇の即位。藤原基経が(事実上の)関白になる。

☆ 光孝(こうこう)が  囃して 基経(もとつね)  関白に

 

清和天皇の子の陽成(ようぜい)天皇(57代)のとき、外伯父藤原基経(良房の甥にあたる)が摂政として政治を行っていた。陽成には素行に欠陥が少なくなしとされ(あるいは基経には陽成を退けたい特殊な理由があったのかもしれない)、藤原基経は884年に陽成天皇を廃し、奏請により光孝天皇(58代)を即位させた。光孝は、陽成の祖父・文徳(55代)の弟で、このとき55歳。この年、あらゆる奏上は今後、藤原基経に言上してその指示を受けよとする詔が出され、これが実質的な「関白」の始まりとなった。ただしこれは「事実上の」関白になったということであって、基経が正式の関白になるのは3年後の887年のことである。この年、光孝天皇が崩御して宇多天皇が第59代として即位。宇多天皇は基経に「関白」の詔を出した。

 やがて、幼少の天皇には藤原家から摂政が、成長後には藤原家から関白が付くことが常例となる。摂政・関白の制度は遙か明治まで続く。(平安時代よりもずっと後代では、「摂関家」ではない例外的な出自の関白として、豊臣秀吉〔位1585-91年〕の例が有名である。)

[天皇]第57代・陽成天皇(位876-884)→ 第58代・光孝天皇(位884-887)

​[摂関]藤原基経(摂政876-884年)→ (関白884-890年、正式には887-890年)

百人一首から陽成院の御製(13)と光孝天皇の御製(15)を引いておく。

 <陽成院> つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける

「みなの川」は筑波山から桜川に流れる川(桜川は霞ヶ浦に注ぐ)。これは後に陽成院の妃のひとりになる綏子内親王(光孝の娘)に贈った恋歌。相手に対して深まる恋愛感情を、川の水の流れが深い淵を形成することに例えているわけである。陽成は実際に筑波に行ったわけではなく、伝聞に基づく知識として都でも共有されているイメージを、歌に利用したということらしい。
​ <光孝天皇> 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手(ころもで)に 雪は降りつつ

当時「若菜節句」という、せり・なずな等の新芽を食して邪気をはらうという風習が宮中行事としても行われており、そのための若菜を(即位前の光孝が)贈呈する際に添えた歌。光孝は文化人として優れ、風雅を好んだ人物のようである。

894 年:遣唐使の廃止。

☆ 唐 乱れ  白紙に戻す  遣唐使

 

唐は、8世紀半ばの安史の乱以降に衰え始め、9世紀の後半には黄巣の乱なども起こって、かなりの混乱と衰退をきたしていた。二百数十年にわたって唐の文化を大量に摂取し、また独自の国風文化の兆しも現れつつあった日本にとって、さらに多大の犠牲を払って遣唐使を派遣し唐に学ぶ必要性も薄くなった。菅原道真(すがわらのみちざね)の建議により、894年に遣唐使は廃止された。中国では907年に唐が滅び、5代(華北における5王朝の交代)の時代を経て960年に宋が建ったが、その後(私貿易ではない)公的な交通が宋との間で始まるのは11世紀、平清盛が積極的に日宋貿易を行うのは12世紀後半のことになる。

​[天皇]第59代・宇多天皇(位887897)

 

百人一首から菅原道真の歌(24)を引く。

 <菅家> このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみぢ)のにしき 神のまにまに

「幣」というのは、神に祈るときに捧げる布や紙を細かく切ったものなのだそうだ。「神のまにまに」は「神の御心のままに」の意で、その後ろに付くべき「受け給へ」のような言葉が省略されている。旅の途中において道祖神に対して詠まれた呪術的な歌で、幣の代わりに手向山の美しい紅葉を受け取ってください、という趣旨。

901 年:菅原道真の左遷。

☆ 左遷され  苦を一身に  天満宮

 

光孝天皇(58代)の子で、藤原氏を外戚としない宇多天皇(59代。位887-897)は、藤原基経の没後(891年~)、摂政・関白を置かず、藤原氏を抑えようと、学者の家系の菅原道真(すがわらのみちざね)を登用した。道真は蔵人頭(891年~)から右大臣(899年~)にまで昇ったが、左大臣・藤原時平らの策謀によって901年に太宰権帥に左遷され、失意のうちに903年に大宰府で没した。(宇多天皇は897年に「何故か」第60代・醍醐天皇に譲位をしていたのでこれは醍醐の時代。醍醐天皇は外祖父に藤原高藤を持つ。藤原時平は基経の息子である。)その後、世の中で疫病の流行や異常気象など不吉が続いたが、これが人々によって、道真の怨霊によるたたりとして恐れられ、その鎮魂がはかられた。919年に、道真の墓所に社殿が竣工され、これがやがて大宰府天満宮となる。遅れて京都にも社殿が造られて北野天満宮となった。(一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られたのは987年のことだから、ずいぶん長い間、たたりを恐れられ続けたわけだ。)後世、天満宮は「学問の神」としての道真信仰のための神社に転化してゆく。

​[天皇]第60代・醍醐天皇(位897-930)

『拾遺和歌集』から菅原道真の歌を引く(1006)。

 <贈太政大臣> 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな

これは太宰府への左遷が決まった道真が都を発つときに、大事にしていた梅の木を前にして詠んだ歌。「東風」は文字通り東から吹く風だが、この場合は東からの春風。「おこす」は「遣す」=「こっちへよこす」なので「匂ひおこせよ」は「匂いを(風に乗せて太宰府まで)送り寄こしなさいよ」の意味。末尾を「春な忘れそ」としている文献もある。生前の道真のポストは右大臣→太宰権帥だったわけだが、その死の90年後、鎮魂のために太政大臣を贈られた。

 併せて、道真左遷を首謀した左大臣・藤原時平の歌を古今和歌集から引いておく(230)。

 <左大臣> 女郎花(をみなへし) 秋の野風に うちなびき 心一つを たれに寄すらむ

これは、傍目には本心では誰が好きなのか分からない女性を風に揺れうごくオミナエシに例えて、いったい誰が本命なのだろう?という気持ちを詠んだ歌。こういう形で男の嫉妬心を表現した歌は、わりと珍しいかもしれない。

902 年:延喜の荘園整理令。(班田実施の最後)

☆ 荘園を  整理してくれ  増やさずに

 

7世紀後半に整備された班田収授の制度は、8世紀後半から維持が難しくなってゆき、戸籍に記載されている班田農民は激減する一方、有力者(大貴族・大寺院)の荘園が有力農民を取り込んで拡大していった。農民としても、租税を免除された荘園領主に開墾地を寄進して名目上その支配下に入れば(荘園領主への上納はあるにしても)国の重税からは逃れられるわけである。第60代の醍醐天皇(位:897-930。源氏物語における光源氏の父、桐壺帝のモデルと言われる)の時代は「延喜の治」と理想化して呼ばれることもあるが(「延喜格式」の編纂も行われた。「格」は907年、「式」は927年に完成。)、実情としては公地公民制を基調とする本来の律令体制の崩壊がはっきり現れてきた時代であった。政府は902年に「延喜の荘園整理令」を出して違法な荘園の停止を命じたり、班田の励行施策を試みたりして体制の立て直しを図ったがかなわず、この年が班田実施の最後の年になってしまった。この後、政府は律令国家としての本来の土地・人民の直接支配を断念して、それぞれの地方の国司に、それぞれの国の統治をゆだねるようになってゆく。国司による収税の方法も次第に律令的な形のものではなくなっていった。

[天皇]第60代・醍醐天皇(位897-930)

905 年:古今和歌集の編纂。

旧例 これまで  和歌を選んだ  古今集

醍醐天皇(60代)の詔により、紀貫之(きのつらゆき)らによって古今和歌集が編纂された。905年に完成。全20巻、万葉集の時代以降の1100首が集められている。四季の歌が6巻(巻1~巻6)、恋の歌が5巻(巻11~巻15)と大きな部分を占める。9世紀には勅撰集として漢詩集が編まれていたが、9世紀末に遣唐使も廃止され(894年)、10世紀に入ると国風文化が重視されるようになる中で、勅撰集も漢詩を集める旧例を排して、初めて和歌集が編まれることになったわけである。漢詩・漢文を書く知識人の代表格であった菅原道真の死(903年)と入れ替わるように、紀貫之という文学者が登場してきたことは象徴的である。古今和歌集から、鎌倉時代初期に編纂された新古今和歌集までの8つの勅撰和歌集は「八代集」と総称され、これらに収められた歌は和歌の規範とされた。

 古今和歌集の成立には、単なる文学・文化的傾向の変化の象徴というだけでなく、日本語の歴史における一大転換点という意味合いもある。つまり、このとき初めて「仮名(かな)」が日本語を表記する正式な文字として扱われたのである。それまで伏在的に発達してきた「仮名」は、「真名(まな)」=「本当の文字(正式な漢字)」に対して、あくまで非公式な部分で補助的・便宜的に用いられる「仮の名」(この場合の「名」は文字の意)であった。この時点から日本語は、日本語を表記するための「仮名」という文字を正式に獲得したと見ることができるのである。

​(なお紀貫之は930-934年の期間、土佐の国司〔土佐守〕に任じられて赴任しているが、土佐から京への帰途〔2ヶ月ほど〕の出来事を主な素材として貫之が著したのが、国文学史上最初の仮名書きの日記文学『土佐日記』である。旅の道中で草稿を書き、帰京後に修正・清書をしたようである。)

[天皇]第60代・醍醐天皇(位897-930)

参考までに、百人一首から紀貫之の歌(35)を引いておく。(出典はもちろん古今和歌集。)

 <紀貫之> 人はいさ 心も知らず 古里(ふるさと)は 花ぞ昔の 香(か)ににほひける

貫之の従兄弟にあたり、貫之と共に古今集の撰者のひとりでもあった紀友則の歌(百人一首33)も、是非とも引いておこう。(友則は、古今集の完成を見ずに没した。)

 <紀友則> 久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

「しづ心」は、静かに落ち着いた心の意。下の句には、疑問を表す副詞が省略されていて、「しづ心なく 花の散るらむ」は「(どうして)静かな心を持たず、(桜の)花は(あわただしく)散ってゆくのだろう」という意味。

ここで、日本の「国歌」の元歌になっている、次の歌(詞書きは「題知らず」)にも言及しないわけにはいかないだろう(古今和歌集343)。

 <よみ人知らず> わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いはほ)となりて 苔のむすまで

さざれ石(小石)が、長い時間をかけて巌(大きな岩)に成長するという迷信を背景として知らなければ意味が分からないだろうけれども、まぁ単純に「わが君」の長寿を願っている歌である。「君」を天皇と断定できるわけでもないようである。天皇であるならば、それを伏せなければならない理由もないような気もするが。(まぁ元歌の意味がどうであれ、「君が代」、私は嫌いではないですけれどもね。明治維新政府があわてて国歌を作らなければならなかったとき、少なくとも歌詞に関しては国内の文化遺産はたっぷりあったわけで、"ベストの選択"ではなかったかもしれないけれども、悪くなかったと思う。音楽面に関しては、黛敏郎は絶賛し、芥川也寸志は批判していた。まぁ評価は人それぞれでしょうね。)

939 年:平将門の乱。

☆ 将門が  愚策に陥り  討ち取られ

 

889年、第59代・宇多天皇の勅命により桓武天皇の曾孫にあたる高望王(たかもちおう)が「平」姓を賜与されて臣籍降下し(→「平高望」)、898年に上総(かずさ。千葉県南部)の国司(受領)に任官、3人の息子をつれて現地に赴き、子孫はその地に土着した。平将門(たいらのまさかど)は高望王の孫にあたる。(後の平清盛は、将門の従兄弟で対立関係にあった平貞盛の子孫である。)将門は下総(しもうさ。現在の千葉県北部)を拠点として武士団を形成していたが、国司に反抗していた地方豪族への肩入れが発端となって、939年に反乱を始めた。ほどなく常陸(ひたち。茨城県)、下野(しもつけ。栃木県)、上野(こうずけ。群馬県)の国府を攻略して、自ら新皇(しんのう)と称し、京都の中央政権に対して東国の独立を宣言した。翌940年、朝廷は将門を朝敵と見なし、征東大将軍を派遣したが、その到着の前に、将門は敵対する関東武士たち(平貞盛・藤原秀郷ら)に攻められ、下総で討ち取られた。乱は平定された形になったものの、この頃から地方武士勢力の実力が認識されるようになり、地方武士に対して、必ずも中央の貴族の支配が及ばない状況も徐々に増えていくことになる。

 地方武士の不満の大局的な背景には、中央政府筋(国司など)や、その筋から既得権を与えられて優遇されている人々(貴族・寺社など)への従属的依存をのがれた形で自分たちの農地を運営することができないという事情があった。しかしこの頃はまだ、武士の側にしても政府・貴族側に迎合して利権に間接的に与るほうが得策と考える者がおそらく多数派だったわけで、将門が京都政権からの独立を達成し維持できるほど武士団を大規模に結束させ得る良策を見出すことも、まだ不可能だったと言えるのであろう。

(東京の神田明神には、大黒、恵比寿とともに将門が祀られているのだそうだ。将門が加えられたのは鎌倉時代末期のようだが。)

​[天皇]第61代・朱雀天皇(位930-946)

969 年:安和(あんな)の変。

☆ 高明(たかあきら)  黒くないかも  あんなの変

967年に、醍醐天皇(60代)の第14皇子であった村上天皇(62代)が崩御すると、3親王(憲平、為平、守平)の中から憲平が即位し(第63代・冷泉​〔れいぜい〕天皇)守平親王が皇太子になった。その後、969年(安和2年)、為平親王の夫人の父で、非藤原系の左大臣、源高明(みなもとのたかあきら)が為平擁立の陰謀を(密告があって)疑われ、大宰府へ左遷された。(「源氏」というと後に武家政権を打ち立てたイメージが強いけれども、元来は「源」姓を賜って臣籍降下した"元皇族"であって、藤原氏などと同等の貴族として朝廷で高官に就いていた時期もあるわけである。高明は醍醐天皇の第十皇子で、7歳で臣籍降下した。『源氏物語』はフィクションだが、主人公の光源氏はまさにそういう人物である。)この疑獄事件を、安和(あんな)の変と称する。この種のことは、藤原氏が他の勢力を除くための常套手段として繰り返されたことなので(菅原道真とだいたい同じパターンである)源高明への疑惑が黒かどうかは疑わしいが、この事件の後、藤原氏北家の勢力は不動のものとなった。「あんなの変」は、「安和の変」と「あんなのヘン(不自然)」の意味を掛けてある。

​[天皇]第63代・冷泉天皇(位967969)→ 第64代・円融天皇(位969984)

​[中国]北宋、第1代・太祖(趙匡胤:位960976)

988 年:尾張国解文による提訴。

☆ 暴政の  苦は忘れない  尾張の民

 

延喜の荘園整理令が出された902年が最後の班田実施の年となり、それ以降はもはや律令的な中央集権体制の維持は不可能であった。そこで政府は京都から地方に赴任した国司に税の徴収と統治をゆだねるようになっていったため、国司は元来の律令行政官という立場よりも、ある程度自由に自らの利益・利権を追求できる存在になった。そのような状況下において、国司の中で国府においてトップにあたる受領(ずりょう)の中には、強欲に私服を肥やす者も現れ、各地方において受領がその暴政を郡司や農民から訴えられる例も多かった。尾張守の藤原元命(もとなが)は988年に、郡司百姓によって暴虐を訴えられ、その提訴内容が「尾張国解文(おわりのくにのげぶみ)」として伝えられている。この時代の地方行政の性質の一面がうかがわれる。

(乱暴な言い方をすると、このころの「受領」というのは元来、都ではあまり出世の見込みがない中級クラス以下の「貴族」が、摂関家などにゴマをすって地方の「行政長官」として任命しても​らい、その掌握地域の国衙領から存分に収益を搾取して財をなす一方で、人を集めて土地開拓を行ない私有地を作って増やしてゆくという存在であったらしい。〔もっとも律令制度的に、誰もが​大規模な"私有地"を持てるわけではないので、その"私有地"は名目上、中央の有力貴族が持つ荘園だということにしてもらうわけだが。〕そして、行政任期が切れても私有地を都に持ち帰るわけにもいかないので、そのまま土着する場合が多くなる。こういう形で地方に来た"元貴族"やその子孫たちが、私有地の自衛人員として地元豪族の力を集める形で地方武士集団を形成していく。清和源氏・桓武平氏など、有名な姓を持つ武家のルーツは、おそらくこのような感じである。)

 さらに下って11世紀末、院政が始まる頃になると、国司制度を変形させた「知行国制」が広まることになる。これは"院近臣"(上皇に近しい受領や后妃・乳母の一族など)と呼ばれるの中から、特定の個人を「知行国主」として任じ、その国からの収益の大部分を取得させる制度である。知行国主自身は国守にならず、子弟や近親者から国守を任命し、目代(もくだい。地方官のこと)を現地に派遣して支配を行った。貴族への俸禄支給が有名無実化する中で、貴族が収益を確保するための仕組みである。国守はそれまでの国司と同様に任期制であったが、知行国主のほうは終身制度であったようだ。

​[天皇]第66代・一条天皇(位986-1011)

1016 年:藤原道長が摂政になる。(後一条天皇即位)

☆ 道長は  とうとう無敵  摂政に

 

996年より左大臣として権勢を振っていた藤原道長は、1016年に三条天皇(67代)から後一条天皇(68代)へ皇位を譲位させて、自身は摂政になった。(道長は後一条の外祖父にあたる。)藤原道長と、その子、頼道は、後一条・後朱雀(69代)・後冷泉(70代)の3代、およそ半世紀にわたり、摂政・関白として政治を支配した。この期間が藤原摂関政治の絶頂期と言える。(ただし頼道は、「一家三立后」を実現した父の道長とは違って婚姻政策にあまり熱心ではなく、後冷泉に入内させた唯一の娘・寛子が子を産まなかったので、後冷泉の次には藤原氏を外祖父に持たない後三条(71代)が天皇なる。大局的にはこのことが、藤原摂関政治から院政への移行の予兆となる。)

 ところで、紫式部が仕えた一条天皇(66代)の中宮・彰子は、道長の長女である(1000年に立后。そして一条と彰子の間の子が後一条と後朱雀)。道長は紫式部をスカウトしたわけで、ある意味で道長は紫式部のパトロンであったとも言えるし、あるいは男女の関係もあったかもしれない。紫式部は道長の誘いを断ったという意味のことを書き残しているが、本当のことを書いたと言えるのかどうか?ずっと断り続けたのかどうか?断定はできないようだ。もっとも、そのような関係があったとしても、それは道長の摂政就任よりも前の話のはずで、紫式部の没年が(不明ながら)この1016年という説もあるくらいだ。道長は自分の孫の摂政になったという形なのだから、摂政就任時にはそれなりの年輩(51歳)になっていたわけである。(なお、和泉式部も彰子の下に出仕した時期があり、それは紫式部の出仕時期とかなり重なっているようである。)

「中宮」というのは(厳密な定義はややこしいのだけれども、とりあえずは)「皇后」の意味と考えればよい。一条天皇には中宮が、定子と彰子の2人あって、定子のほうに仕えていたのが清少納言である。ただし中宮・定子の没年は1000年のことで、そのすぐ後、清少納言は宮仕えを止めている。清少納言と紫式部が、宮廷文化の中でどの程度「接触」があったのかはよく分からないが、どちらも頼朝の摂政就任よりは前の時期の宮廷女官であって、前者のほうがある程度(かなりの程度?)年上だった。​(定子は道長の姪にあたるわけだが、道長は娘の彰子を通じた外戚関係を策していたわけで、定子は道長から圧迫を受ける関係であった。)

​[天皇]第67代・三条天皇(位101116)→ 第68代・後一条天皇(位101636)

​[摂関]藤原道長(摂政1016ー17年)

まずは、百人一首から、三条天皇の御製(68)を引いておこう。

 <三条院> 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

これは三条天皇が(道長に強いられて)譲位する際、もしくは譲位を決意した際に詠んだ歌とされている。眼病を患ったという事情もあったとはいえ、在位期間はわずか4年半ほどであった。歌の意味は「もし自分の意に反して長生きするようなことがあったなら、(今見えている)夜中の月をさぞかし恋しく思い出すことだろう」という意味になる。しかし三条院はその後、長生きすることなく、譲位の翌年(1017年)に42歳で崩御した。

(道長の「望月」の歌は有名すぎるから、まぁ書く必要もないだろう。)

百人一首における紫式部の歌(57)と、清少納言の歌(62)も参考までに。

​ <紫式部> めぐり逢いて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半(よは)の月かな

 <清少納言> 夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ

紫式部の歌は、もちろん誰かを「月」に見立てているわけだが、ここでの「誰か」は男女関係のある男というわけではなく、たまたま久しぶりに、わずかばかり逢う機会があった幼友だちということらしい。

 清少納言の歌は王朝サロンにおいて男(藤原行成)とのやりとりで、機知をはたらかせて応酬した歌なのだそうだ。そういう背景の事情と、『史記』に記されている中国の戦国時代の「鶏鳴狗盗」の故事を知っていないと歌の意味合いが全然解らないし、そういうことを調べてみても、私としては教養が足りないせいか、優れた和歌とも思えない。私の感覚では、優れた和歌というのは和語の世界の中で閉じていて、中国の古典に典拠があるなんて邪道のような気がするし、女性が男性を露骨に「ゆるさじ」なんて命令口調で言うことを(宮廷内のちょっとしたやりとりとしてはありえたとしても)優れた和歌として藤原定家が敢えて選び取ったということについては何となく違和感も感じてしまうのだが。関心のある方は自身で詳しく調べてみてください。

 和泉式部の歌も百人一首から引いておく(56)。

 <和泉式部> あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな

これは和泉式部が病床にあって、世を去る前にもう一度、いとしい人に逢いたいという気持ちを詠んだ歌。"恋多き女"和泉式部が最後に誰に逢うことを望んだのか、それは不明である。

1051 年:前九年の役。

☆ 陸奥の国  異例 強引  前九年

 

10世紀以来、各地で旧来の豪族や国司の子孫が土着化した豪族などを中心に、自衛のために武装した有力農民が次第に連合して成立した武士団が勢力を持ちつつあったが、陸奥むつ。主に岩手県のあたり)では在地豪族の安部氏(俘囚〔ふしゅう〕すなわち朝廷に服属した蝦夷という見方が強いようである)の勢力が強大となり、国司と争うようになった。1051年に安部氏が蜂起(南境の衣川〔平泉のあたり〕を越えて南へ侵入)すると、源頼義が陸奥守に任じられ、追討に向かうことになる。(頼義は清和源氏の祖にあたる清和天皇の孫・経基王〔つねもとおう〕のさらに曾孫。経基王は臣籍降下〔→源経基〕の後、938年に武蔵〔今の東京と埼玉の地域〕の国司(受領)に赴任し、「平将門の乱」のきっかけをつくった人物のひとりである。頼義の父親である頼信は、河内国に本拠地を置き、清和源氏の一流である「河内源氏」の租とされる人物。頼信は摂関家に近づき中央での地位を高めていたようである。これ以降、源氏の"主流"はほとんど河内源氏の系統で、鎌倉3代将軍・実朝まで続いているし、その後もそこからの分流として足利氏や新田氏がある。)頼義は子の義家とともに関東の武士を率いて東北に向かい、安部氏と戦った。(頼義・義家は頼朝の5代前・4代前にあたる。)1057年に安部頼時を討つも、その子の貞任、宗任が引き続き抵抗を続けて戦いは異例に長引いたが、出羽(でわ。主に秋田県のあたり)の在地豪族・清原氏(どちらかというと俘囚ではないという見解が多いらしいが、はっきりしない)の助けも得て強引に安部氏と戦い続け、1062年にようやく平定に至った。いつからいつまでを九年として「前"九年"の役」と呼ばれるようになったのか、はっきりしていない。

 なお、前九年の役と直接の関係はないが、この頃、日本の仏教において末法思想が広まり、阿弥陀仏を信仰する浄土教が盛んになり始めている。(浄土教の考え方が広まり始めたのは、これよりかなり早い時期なのだが〔源信の『往生要集』は985年〕、末法思想によって浄土教の信仰は強められた。)末法思想というのは、仏陀の入滅から正法の時代(千年)、像法の時代(千年)を経て、仏法が完全に衰退する末法の世が到来するという考え方であって、当時の日本では1052年に末法の時代に入るという説が信じられていた。藤原頼通が宇治の平等院に建てた鳳凰堂(10円硬貨のデザインになっている)も阿弥陀堂であり、1053年に完成しているが、あれは「西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような」建築物ということになっている。都の貴族の目には地方武士団の内乱なども「世の乱れ」と映ったかもしれない。しかし浄土宗はその後、徐々に庶民にも広まり、地方にも拡がっていくことになる。

​[天皇]第70代・後冷泉天皇(位1045-68)

​[摂関]藤原頼通(摂政1017-19年)→ (関白1019-75年)

1083 年:後三年の役。

☆ 義家は  踏破 三年  陸奥の国

 

前九年の役の後、陸奥・出羽では清原氏が(安倍氏の旧領を併せて)勢力を拡げていたが、内紛(兄弟間の抗争)が起こった。1083年に陸奥守を拝命した源義家はこれに介入し、込み入った経緯があるけれども結果的に清原清衡​(きよはらのきよひら)を助けて1087年に内紛を平定した。義家が清衡についた1086年から、凱旋上洛の1088年までの期間を見て「後"三年"の役」と呼んでいるらしい。前九年・後三年の役によって、源氏は(結果的に東北地方において期待したような"見返り"を得ることはできなかったのであるが)関東における武家の棟梁としての信用を得ることになった。

 清原清衡は、前九年の役で安倍氏側につき、敗れて処刑された藤原経清(在地豪族であるが、ルーツは中央の藤原氏につながっているらしい)の遺児で、経清の死後は母親とともに清原に養われていた。後三年の役の結果、奥州の支配者の地位を手に入れた清衡は姓を戻して"藤原清衡"となった。これが奥州藤原氏の栄華の端緒であり、子の基衡、孫の秀衡まで3代100年にわたり栄華を誇ることになる。(4代目泰衡のときに源頼朝に滅ぼされる。)

 ここから雑学。現在のような「納豆」の起源について正確なことは分かっておらず、信憑性が怪しまれる伝説のような納豆起源説もいろいろあるが、その中のひとつとして(前九年の際なのか後三年の際なのかはっきりしないのだけれども)源義家にまつわる話がある。義家軍は、戦闘中に軍馬に与えるための携帯飼料として、煮豆を藁に包んだものを従者に身につけさせていた。それを(何らかの状況のしからしむるところにより)かなり時間を経た後に開けてみたら発酵してして納豆になっており、義家もしくはその家来が美味であることを発見した。これが納豆の起源であるという説。東北・北関東の各地に、細部は違うけれども概ねこのように義家が関わる納豆発祥の伝承が残されているとのことである。

​[天皇]第72代・白河天皇(位1072-86)

​[中国]北宋、第6代・神宗(位1067-85)。1067-76に(副)宰相・王安石の改革

1086 年:院政の開始。(堀河天皇即位、白河天皇が上皇になる)

☆ 白河が  先例は無視  院ひらく

 

白河天皇(72代)は、1086年に幼少の堀河天皇(73代)に譲位して、上皇になった。白河上皇(白河院)は、御所において、先例のない"政務機関としての"「院庁」を開き、天皇の後見役として実権を握る「院政」を始めた。(白河の父の後三条天皇〔71代〕も院政を考えていたようだが、譲位後わずか半年で崩御したので〔1073〕着手するところまでいかなかったようである。)これは天皇家の、摂関家藤原氏からの干渉を排するための試みと見ることもできる。(後三条天皇は藤原氏の外孫ではなかったが、白河自身も、その子の堀川も藤原氏の外孫だったので、この話の成り行きには少々理解し難い面もあるのだが。白河自身が天皇ではなく上皇〔父権〕の立場で権力を掌握しようとしたことが、結果的に「反藤原摂関家」勢力の支持を集めることにつながり、「院政」という体制が安定したということだろうか。​それと、後三条天皇が1069年に出していた徹底した「延久の荘園整理令」がある程度の成果を上げ、摂関家の経済基盤が揺らいだことも、背景要因として挙げられる。)白河院は、摂関政治の下では恵まれなかった中・下級貴族の勢力を利用し、また武士団(北面の武士)を組織するなど権力を強化した。(この「北面の武士」は、初めての「公的な」武士の登用と言ってもよいようである。)白河上皇の後にも、鳥羽(74代)・後白河(77代)が上皇として院政をしき、後白河上皇が崩御する1192年まで、3上皇がおよそ100年にわたって院政の下で実権を行使した。このため摂関家の勢力は衰えていった。(白河の子の堀河天皇は在位中に比較的若い年齢〔29歳〕で崩御したので「堀川院政」の時代はなかった。鳥羽は白河の孫、後白河は鳥羽の第4皇子だけれども、これらの関係性は複雑で、実は単純に「3上皇による院政の継承」とも言い難い部分がある。煩瑣なので説明は省くが、それが保元の乱の背景にもなっている。歴史作家の永井路子によれば、「(院政期には)天皇家自体が非常に家庭小説的になってきますね」)

 ところで、白河院に対して積極的にアプローチをした武士のひとりが平正盛(清盛の祖父)である。その子、平忠盛(清盛の父)も白河院-鳥羽院に重用され、官職に就くことに成功している。こう見ると、院政という政治形態が、平氏台頭の土壌を提供したという見方も可能かもしれない。(真偽は不明であるが、平清盛は白河院の落胤ではないかという説がある。)当時、源氏のほうが平家よりも摂関家に接近している関係性があって、摂関系の影響に対抗したい院の立場としても、平氏が接近してくるのは好都合だという面も背景としてあったようである。

​[院]〔第72代→〕白河上皇(院政1086-1129)

​[天皇]第72代・白河天皇(位1072-86)→ 第73代・堀河天皇(位1086-1107)

白河上皇の御製を一首、新古今和歌集から紹介する(1906)。

 <白河院御哥> さきにほふ 花のけしきを 見るからに 神の心ぞ そらにしらるる

これは白河院が熊野大社に参詣する道すがら、桜の花の盛りを見て詠んだ歌。したがって、ここの「神」は熊野権現である。つまり下の句は、熊野の神様の心が空(の様子)から分かる、という意味。

1156 年:保元の乱。

☆ 武士の世に  いい頃合いか? 保元は

12世紀なかごろ、皇室では鳥羽上皇(74代)の次世代の皇位に関して、複雑な状況があった。鳥羽の長子の崇徳(75代。1141年に父の鳥羽上皇によって弟の第76代・近衛へと譲位させられている。近衛は1155年に崩御)と第4子の後白河(77代)の間に、近衛の崩御後、対立関係が生じた。鳥羽の祖父・白河院まで遡るような複雑な「家族的」経緯があるのだが、崇徳上皇としては後白河天皇を廃し、自分の子を天皇に即位させて自分が実権を持つ上皇になりたかった​し、当然そうなるべきだとも思っていた。)一方、摂関家藤原氏にも兄弟間の争いが生じていた。鳥羽上皇が1156年(保元元年)に崩御すると、これらの対立が絡んだ形で、崇徳上皇-藤原頼長側と後白河天皇-藤原忠通(ただみち)側の両勢力が、それぞれ武士勢力を集めて衝突を起こした。藤原通憲(みちのり。法名は信西〔しんぜい〕)は後白河の近臣の立場で後白河側についた。後白河側が平清盛・源義朝(頼朝の父)などを動員して勝利し、崇徳は隠岐に流され、崇徳側についた藤原頼長・源為義・平忠正は殺された。(源為義は義朝の父、平忠正は清盛の叔父にあたる。武士も同族同士の対立はあってあたりまえなので単純な「源氏」とか「平氏」という括り方は誤解を招く面もある。)

(崇徳上皇は隠岐にて8年後に亡くなるが、朝廷の自分に対する非情な扱いに怒り、「皇を取って民となし民を皇となさん」​(つまり、皇室↔民の政権交代をおこしてやるぞ、の意)という皇室への呪詛の言葉を残した。以後の武士の台頭に伴う社会の動乱は、「大魔王」となった崇徳上皇のタタリのように、人々によって受け取られた。)

​[院]〔第74代→〕鳥羽上皇(院政1129-56)

​[天皇]第77代・後白河天皇(位1155-58)

​[中国]南宋、第1代・高宗(位1127-62)

参考までに、百人一首から崇徳院の御製(77)を引いておく。崇徳がかなり和歌を好んだことは確かで、元来は風雅を愛する人物であったのかもしれない。この歌などは、御製としては最も知られた秀歌と見なす人も少なくないのではないだろうか。

​ <崇徳院> 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

​「瀬を早み」=「川瀬(の流れ)が早いので」、「せかるる」=「せきとめられる」

1158 年:後白河上皇の院政が始まる。(二条天皇の即位)

いい子は即位  上皇になる  後白河

 

1156年の保元の乱で勝利を収めた後白河天皇(77代)は、1158年に息子の二条天皇に譲位し、後白河上皇として院政を始めた。後白河上皇は二条(78代)・六条(79代)・高倉(80代)・安徳(81代)・後鳥羽(82代)の5朝にわたり院政を行った(~1192年)。1169年には剃髪して、後白河「法皇」とも呼ばれることになる。平氏・源氏などの武士が台頭し、鎌倉幕府が成立するまでの世にあって、後白河は時々の情勢に応じていろいろ態度を変えながら、皇室の権力の頂点に立って影響を及ぼし続けた。

(1001体の千手観音立像で有名な京都・嵐山の三十三間堂は、元々は後白河上皇の命で1164年頃に天台宗寺院内に建てられた仏堂である。その後、鎌倉時代に一旦、火災で焼失して再建された。火災の際に消失を免れたのは千手観音立像は1001体中124体で、残りは鎌倉時代以降に「復興事業」として作り直されたもののようである。)

​[院]〔第77代→〕後白河上皇(院政1158-79、1181-92)

​[天皇]第77代・後白河天皇(位1155-58)→ 第78代・二条天皇(位1158-65)

​[中国]南宋、第1代・高宗(位1127-62)

後白河上皇の御製を、新古今和歌集から一首引いておく(146)。

 <後白河院御哥> をしめども 散りはてぬれば 桜花 いまは梢(こずゑ)を ながむばかりぞ

「をしめども」は「惜しめども」。桜の花は残念ながらすっかり散ってしまっているので、ただ(花のない)枝先を眺めるしかないなぁ、という意味の歌。

 ついでに言及すると、新古今和歌集などに多数の歌が採録されている式子内親王(1149-1201年)は、後白河の第3皇女である。百人一首から89番の歌を引いておこう。

 <式子内親王> 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

「玉の緒」は(自分の)「命」の意。「ながらへば」=「生きながらえると」。「忍ぶること」=「秘密にしておこうという気持ち」。つまり、心に秘めていなければならない恋愛感情が(心が弱って)つい表に現れてしまいそうだ、という独白の歌である。藤原定家の日記『明月記』には、式子内親王に関する記述がしばしば見られるのだそうで、定家とかなり深い関係にあったのかもしれない。(「式子」は通常、便宜的に「ショクシ」とか「シキシ」などと読まれているけれども、本当は「のりこ」なのでしょうね。)

1159 年:平治の乱。

☆ 兵 挙げた  人々 御苦労  平治の乱

 

1156年の保元の乱では、後白河天皇の側についた源義朝と平清盛が武士勢力の中で勝利を収めたわけだが、3年後に起こった平治の乱は、結局のところ、この両者の間の争いである。1158年に後白河上皇が院政を始めると、その近臣の間に対立が起こり、1159年(平治元年)に近臣のひとり藤原信頼が、源義朝と結んで信西(藤原通憲)-平清盛を攻めた(12月)。信西は殺されたが、平清盛がこれに反撃を行って、信頼-義朝の勢力を滅ぼした。この後、武家勢力における平清盛の地位は高まった。この乱は3年前の保元の乱とともに、皇族・貴族の争いにおいても、むしろ加担する武士の実力の実質的な重要性が明らかになった事件と見ることができる。大敗を喫した義朝は東国への逃亡の途中、尾張で家人の裏切りに合って殺された(1160年2月。旧暦では1月)。義朝の三男で、義朝の軍勢に加わった源頼朝は逃亡途中に義朝とはぐれ、平氏に捕らえられた。本来ならば処刑されるところであったが、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆国へ流された。当時、頼朝は14歳であった。

[院]〔第77代→〕後白河上皇(院政1158-79、1181-92)

​[天皇]第78代・二条天皇(位1158-65)

​[中国]南宋、第1代・高宗(位1127-62)

1167 年:平清盛が太政大臣になる。

☆ 平家人(びと)  いろんなポスト  ひとり占め

平治の乱の後、平清盛は異例の昇進をとげ、1167年には太政大臣になった。他の平家一族も高位高官にのぼり、平家は官職を独占して全盛時代を迎えた。清盛は武士勢力の中から台頭したわけだが、結局は既存の貴族政治の制度の中に入り込んで偉くなることを考え、後の源頼朝のように、武家のための新たな政治体制を構築しようというところまでは考えが及ばなかったように見える。娘の徳子を高倉天皇(80代)に入内、立后(1172年)させ、その子・安徳天皇(81代。位1180-85)の外戚の地位を狙うなど、婚姻政略は、かつての藤原氏にも似ていた平氏は短い栄華を誇った後、すぐに滅ぼされてしまうことになるが、「驕れる者」だから短期間で滅ぶことになった、という単純なことではないだろう。

[院]〔第77代→〕後白河上皇(院政1158-79、1181-92)

​[天皇]第79代・六条天皇(位1165-68)

1179 年:平清盛、後白河上皇を幽閉。(治承三年の政変)

☆ 捕えられ  日々 泣く上皇  後白河

 

平治の乱の後、平清盛は異例な昇進を遂げて権力を握り、平氏が官職を独占しはじめたために、後白河上皇やその近臣との対立が生じた。1177年に、後白河上皇と近臣藤原成親・僧の俊寛が、平家打倒を謀って失敗した(鹿ヶ谷の陰謀)。後白河と平清盛の関係は危険な状態に陥り、その後も複雑な緊張状態が続いたため、清盛は1179年に数千騎の大軍を擁して上洛し、強硬手段に出た。後白河院の近臣貴族39人を解官。後白河上皇を幽閉した(11月)。そして平家の一門を各国の受領に任じ、平氏の知行国は全国66ヶ国中、反乱前の17ヶ国から32ヶ国になった。清盛の権勢は頂点に達したが、平氏にあまりに権力が集中したため、反対勢力の結集を促すことにもなった。

(1181年1月に、後白河院政は再開することになる。これは同月の高倉院の崩御を受けた措置。1180年2月から1年弱の期間、形式的には高倉院政期であった。)

[院]〔第77代→〕後白河上皇(院政1158-79、1181-92)

​[天皇]第80代・高倉天皇(位1168-80)

1180 年:治承・寿永の乱が始まる。

☆ 治承・寿永  人々「やれ!」と  立ち上がる

 

平清盛を頂点とする平氏の専制に対して、地方武士団・貴族・寺院などの不満が大きくなると、1180年(治承〔じしょう〕4年)に後白河上皇の皇子、以仁王​(もちひとおう)と源頼政は、平氏打倒の兵を起こし、諸国の武士に決起を呼びかけた。この2人の挙動はほどなく平家に知られて、兵を差し向けられ両者とも敗死する。しかしこの事件を重視した平清盛は、諸国の源氏を対象とする追討令を発した。こうなると各所の源氏も兵を挙げざるを得なくなる。伊豆に流されていた源頼朝や、木曽義仲(頼朝の従兄弟にあたる。頼朝と立場が違い、どちらかというと敵対関係なのだが。"木曽"は現在の長野県南西部の木曽町で、義仲はここで育った。)などが兵を挙げ、徐々に各地の武士団が加勢する状況になってゆき、また寺社勢力も反平家を掲げて蜂起するなどあって、全国的な内乱が5年にわたって続いた。これを「治承・寿永の乱」と呼ぶ。(「源平の戦い」と呼ばれることもあるが、実情としては単純な源氏vs平氏という構図ではないので学術的にはこの言葉はあまり使われないようである。そもそも頼朝を担ぎ上げた北条氏というのは"伊豆平氏"であって、元を辿れば清盛の"伊勢平氏"と同族である。北条氏以外にも関東在住で頼朝側についた地方の"平氏"はたくさんあった。つまり大局的には、中央で"半貴族化"した一部の平氏〔および後白河法皇に代表される公家政権〕と、地方武士団との戦いだったわけである。また1184年1月には木曽義仲と頼朝の派遣軍が戦って〔つまり源氏vs源氏の主導権争い〕義仲が敗れて死ぬということも起こった。)平清盛は1181年に病没し(享年64歳)、平氏の中心勢力は敗北して西国へ追われ、1185年に長門の壇ノ浦で滅亡した。

[院]〔第80代→〕高倉上皇(院政1180-81)

[天皇]第80代・高倉天皇(位1168-80)→ 第81代・安徳天皇(位1180-85)

1185 年:壇ノ浦の戦い。

人々は  これにて終わり  壇ノ浦

 

平氏は攻められて都落ちをして西国へ逃れていったが、1185年に源頼朝の命を受けた源範頼・義経らが平氏を長門の壇ノ浦に追い詰め、平氏を滅ぼした(3月)。平氏の人々の運命はここで潰えたわけである。(平氏が"擁立"していた8歳の第81代・安徳天皇は『平家物語』によれば、二位の尼〔平時子。清盛の未亡人〕に抱かれて海に没した。安徳天皇は清盛の孫にあたる。ただし『吾妻鏡』では安徳を抱いて没したのは按察使局伊勢〔あぜちのつぼねいせ〕となっているのだそうだ。これは平時子や、その娘であり高倉天皇皇后の建礼門院徳子に仕えた人物。)この後、東国の武士団を統率した源頼朝の権力拡大を恐れた後白河上皇は、頼朝と反目し始めた義経に要請されて頼朝追討の院宣を出したが(10月)、義経は船団が暴風で難破し部下をほとんど失うというアクシデントに見舞われ、逃亡するしかない状況になってしまった。後白河は院宣を"義経"追討に切り替えざるをえなくなり、頼朝は兵を率いた北条時政を使者として京に送って義経らの追捕と軍費(兵糧米)徴収のためという名目で、守護・地頭の任命権などを上皇に認めさせた(11月)。頼朝はこれを踏まえて、​ここから全国への支配権を握ってゆくことになる(当初は頼朝の知行国平家から没収した所領などからだが。ちなみに治承・寿永の乱の最中、先鋒をきって京都に入っていた木曽義仲と後白河法皇が対立を始めた頃に、頼朝は官位を流罪前のものに戻され、東国の荘園・公領の回復が認められていた〔1183年10月〕)。守護は言わば"地方警察長"、地頭というのは正式かつ実質的な一定権限を持つ「地権者」と言えなくもない土地(荘園・公領)管理者の地位であって(もちろん荘園領主への徴収年貢の上納義務はあるが)、これを武士の側で任命できるということは、武士の世の制度的な基礎基盤への布石になる。(「地頭」という農地の現地管理の役職は、それ以前から自然発生的に置かれることはあったわけだが、朝廷ではなく武家の棟梁である頼朝が、それを"公職"として"任命"できるようにしたというところがミソである。)

[院]〔第77代→〕後白河上皇(院政1158-79、1181-92)

[天皇]第81代・安徳天皇(位1180-85)→ 第82代・後鳥羽天皇(位1183-98)

​   〔後鳥羽の即位は変則的に行われたので、在位期間が安徳と重なっている。〕

※ 本ホームページを御覧の方への御注意:

このページの作成に利用したホームページ運営元の方針により、このページをそのまま印刷することは不可能となっているようです。印刷をしたい方は、お手数ですが、テキスト部分のコピー&ペーストや、Print Screen機能などにより、内容を他のファイルに移して印刷してください。

↓ 書籍[等]販売サイト トップページへのリンク ↓

ハイブリッドhonto中ロゴ.png
e-hon中ロゴT.png
本は本屋HonyaClub.jpg
訪問者数(UU)
bottom of page