納得して覚えるための
日本史年代☆ゴロ合わせ(奈良時代)
by 樺沢 宇紀
◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。
◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働くような文言を選びました。
◆それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。
☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。
● 710年:平城京への遷都。
☆ 奈良の地に なんと立派な 平城京
持統女帝(41代)から皇位を継いだ孫の文武天皇(42代)は、在位10年で707年に崩御し(享年25歳)、藤原不比等はその母(持統の娘)の元明女帝(43代)を即位させた。元明女帝は710年に都を藤原京から、20キロほど北方の平城京(現在の奈良市のあたり)へ移した。藤原京も中国風の都城であったが、平城京はより本格的に唐の長安にならった区画都市で、東西約4.3キロ、南北約4.8キロと、藤原京の3倍ほどの規模があった。遷都の理由はよく分からないのだが(文武が若くして死去したからというわけではなく、文武の生前から遷都の検討は始まっていたらしい)、この年から、桓武天皇(50代)が京都の平安京へ都を遷すまでの84年間は「奈良時代」と呼ばれる。(最後の10年は都はすでに「長岡京」に移っていたけれども。更に細かいことを言えば、聖武天皇の時代に難波宮・恭仁京・紫香楽宮に遷都した時期もあるのだが。)この時代、称徳女帝(48代)までは天武系の皇統で、称徳崩御の770年から、皇統は再び天智系に戻る(49代光仁即位)。
[天皇]第43代・元明女帝(位707-715)
万葉集から小野老(おののおゆ)の次の歌(328)を引いておく。
<小野老朝臣> あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり
「あをによし」は「奈良」にかかる枕詞なので意味を意識する必要はないが、元々「あをに」=「青丹」は染料などに用いられた岩緑青(いわろくしょう)の古称で、奈良が岩緑青の産地であったことから「あをによし」が「奈良」の枕詞になったらしい。
● 712 年:古事記の完成。
☆ 安麻呂が いろんな人に 古事 伝え
『古事記』は、太古(天地開闢・神代)から推古天皇(33代)までの天皇家の物語を中心とする神話的・物語的な歴史書である。(ただし、記述が充実しているのは第21代・雄略天皇のあたりまでで、その後、特に第24代・仁賢天皇以降は物語的な部分がほとんどない。)その序に書かれた成立の経緯によれば、天武天皇(40代)の命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習した伝承を、太安麻呂(おおのやすまろ)が書き取って編纂したものである。712年に完成して元明女帝(43代)に献上された。(稗田阿礼は、実在の人物かどうかも怪しいくらいのものであるが、古事記の序文によれば「舎人」とあるので男ということらしい。)
[天皇]第43代・元明女帝(位707-715)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
ここでは古事記の中から、ヤマトタケルの国偲びの歌を一首、引いておこう。
<倭建命> 倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし
「まほろば」=「特別に優れた場所」、「たたなづく」=「畳み重ねたように幾重にも重なる」、「青垣 山隠れる」=「青々とした垣根のように周囲にある山々の中に籠っている」。「倭し」の「し」は強意の副助詞なので、「倭しうるはし」は「ヤマトこそ、この上なく素晴らしい」という意味になる。倭建命(やまとたけるのみこと)は第12代・景行天皇の皇子で第14代・仲哀天皇の父という位置づけの神話的英雄で、父の景行に命じられて西征・東征を行ったとされる。東征の帰途、伊吹の山(現在の滋賀・岐阜県境)の神から大氷雨を浴びせられて瀕死の体となり、ヤマトの地まで帰りつけずに、能煩野(のぼの:三重県亀山のあたり)で亡くなったことになっている。その死の直前に歌を四首詠んだが、そのうちのひとつが上に示した歌である。
● 720 年:日本書紀の成立。
☆ 舎人(とねり)親王 何を書いたか 日本書紀
日本書紀は、天武天皇(40代)が編纂を命じたとされる歴史書である。30巻からなり、舎人親王(天武天皇の第3子)が中心となって編纂されたとされる。720年に完成し、第44代・元正女帝(第42代・文武の姉)に献上された。太古から持統女帝(41代)までが扱われている。いわゆる「正史」であるが、もちろん記述内容が公平なものと見なせるわけではない。そもそも天武の命で編纂が始まり、天武の子が編纂に携わっていることから、天武系の皇統の"正統性"の記述が目的であったというのが、ひとつの見方である。ただしそれだけでなく、持統以後の"天武系"に深く関わって権力を強めていた藤原不比等の意向もある程度まで編纂作業に反映されたかも知れない。天武の意向だけを考えるならば、乙巳の変が美談として語られる必然性はないように思われる。
(奇しくも、ちょうどこの年に、藤原不比等が歿している。享年62歳。)
(だいたいこの頃までに律令制度が整備されたことから、有力皇族男子に対する呼称「――皇子」が、この
ころから「――親王」に変わる。天皇の極めて近縁の者〔主として直接の子〕などのうち"親王宣下"を受けた者が「――親王」となりそれ以外が「――王」という呼び方になるようである。)
付け加えると、日本書紀の続編にあたる『続日本紀』の編纂は、光仁天応(49代。位770-781)のときに勅命が下り、797年に完成している。これは文武天皇(42代)の最初から桓武天皇(50代)の前半まで(697-791年)を扱っているので、ここには奈良時代が始まる少し前から奈良時代のほとんど最後までの記述が含まれる。
[天皇]第44代・元正女帝(位715-724)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
● 723 年:三世一身の法の制定。
☆ 開墾の 難事 三代 報われる
大化の改新(645年)から始まり、大宝律令の制定(701年)をもって一応の完成を見た律令体制下では、大筋において公地公民の土地政策が採られた。基本方針としては、すべての農地を国家(朝廷)が管理し、私有地は(極力、限定的にしか)認めないはずであった。しかし人口が増加しても付与すべき耕作地は増えず、土地運営に支障が生じてきたので、政府は農民に土地の開墾を奨励することにした。開墾の動機付けのために、政府は723年に三世一身の法を制定し、新たに灌漑設備をつくって農地を開いた者には、三代(子・孫・曽孫)まで収公しないことを定めた。これは本質的に、律令制度の土台を脅かしかねない規定であり、実際、開墾能力のある有力貴族や寺社が大幅に(政府が班田できない)私有地を増やしてゆく最初の契機を与えるものになってしまった。藤原氏は当然、このような意図を持って、この法律の制定に深く関与していたであろうと思われる。この法律の制定は(少なくとも形の上では)律令国家の成立を支えたはずの藤原氏が、やがて律令制度を蝕む"病根"とも言えるような、私有の特権的な大土地(荘園)を持つ比類なき実力者になるための最初の礎にもなった。
[天皇]第44代・元正女帝(位715-724)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
● 724 年:聖武天皇の即位。
☆ 聖武帝 「何して暮らす?」と 光明子(こうみょうし)
天武(40代)の孫である文武(42代)の没後、文武の母である元明女帝(43代。707年即位)、および文武の姉である元正女帝(44代。715年即位)が"繋ぎ"のような形で即位し、文武の息子である聖武天皇(45代)に皇位を繋いだ(724年即位)。聖武天皇の妃、藤原光明子(不比等の娘)は、聖武天皇の皇太子時代に入内していたが、皇族出身でない者が皇后になるという前例がそれまで無かったことから、聖武の即位の時には夫人号を得て後宮に入り、立后に反対する長屋王が藤原氏から無実の罪を着せられて死んだ後に、立后が成って光明皇后となった(729年)。聖武は病弱で気弱な君主であり、彼が行った国分寺・東大寺の造営などは皇后の勧めによるものと伝えられている。万事において皇后(および藤原氏)からの"発言権"は、かなり強かったのだろう。(光明皇后は、本当の"信仰心"によるものかどうかは分からないが、仏教にかなり傾倒し、積極的に関与したことは事実のようだ。その善行を称えた「聖女伝説」が残されている。)
[天皇]第44代・元正女帝(位715-724)→ 第45代・聖武天皇(位724-749)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
万葉集から山部赤人(やまべのあかひと)の歌を一首、引いておく(919)。
<山部赤人> 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たづ)鳴き渡る
これは聖武天皇が即位した年(724年)の初冬のころ紀伊行幸を行い、これに供をした赤人が詠んだ歌である。「若の浦」は現在の和歌山市南部にある古くからの景勝地(現在の表記は「和歌浦」)。「潟をなみ」の「なみ」は「無み」で、「み」は原因・理由を表す接尾語なので「潟をなみ」=「干潟が無くなるので」という意味。「葦辺」は「葦の生えている水辺」。「さして」=「指して」=「目ざして、向かって」。「鶴鳴き渡る」は「鶴が鳴きながら渡って(飛んで)ゆく」という意味。
しかしながら「風景歌人」赤人の代表作としては、やはり、次の歌も引かないわけにはいかないだろう(万葉集318)。
<山部赤人> 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白(ましろ)にそ 富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける
光明皇后の歌も一首、引いておく(1658)。
<光明皇后> 我が背子(せこ)と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しくあらまし
「背子」はここでは「夫」の意味で聖武天皇を指す。「ふたり見ませば」=「二人で見れば」。「いくばくか この降る雪の 嬉しくあらまし」=「どんなにかこの降る雪のうれしいことか」。
● 729 年:長屋王の変。
☆ 何食わぬ 顔で 長屋[王]を おとし入れ
この当時、長屋王(ながやおう。天武天皇の孫。高市皇子の子)は、政府における非藤原系の有力者であり最有力の皇位継承候補者であった。聖武が即位してから、光明子の立后に反対したのも長屋王である。当時光明子の兄弟4人(不比等の息子たち)が政府内で権力を伸ばしており、彼らにとって長屋王は邪魔な存在であった。729年に、この藤原4兄弟が、長屋王に謀反の疑いありという無実の罪を着せて、自殺に追い込んだ。つまり長屋王を「おとし入れ」たのは藤原4兄弟である。長屋王の自尽の後、同じ年のうちに光明子は光明皇后となり、改元されて「天平」の時代(729-749年)が始まった。藤原4兄弟の権力はゆらぎないものになるかに見えたが、世の中では天平4年ごろから凶作・飢饉が始まり、天平5年には大地震も起こり、天平7年以降には天然痘の流行が始まるなど、天平時代は不穏な時代になっていった。藤原4兄弟は、天平9年(737年)に天然痘にかかって相次いで病没することになる。
(藤原4兄弟の死後、皇族出身の橘諸兄〔たちばなのもろえ。684-757年〕が一時期、聖武天皇の信任を受けて、唐から735年に帰朝していた吉備真備や玄昉をブレーンに採用して権勢を得た。しかし聖武が孝謙女帝に譲位するころ〔749年〕から、藤原仲麻呂が光明皇太后に抜擢されて権勢を振るうようになる。仲麻呂は不比等の孫、光明皇太后の甥にあたる。)
[天皇]第45代・聖武天皇(位724-749)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
万葉集から一首、引いておく(441)。
<倉橋部女王> 天皇(おほきみ)の 命(みこと)恐み 大殯(おほあらき)の 時にはあらねど 雲隠ります
これは長屋王が判決で自死を命じられた後に、倉橋部女王(くらはしべのおおきみ)が詠んだとされる歌。長屋王と倉橋部の関係は分かっていない(娘か?)。「天皇の命(みこと)恐(かしこ)み」=「天皇の命令を謹んで受け」、「殯(あらき)」は「もがり」、すなわち死後、埋葬までの間、死体を安置しておくことで、「大殯」はその敬称。よって「大殯の時にはあらねど」=「(まだ本来)亡くなってしまわれるような時ではないけれども」。「雲隠る」=「死ぬ」。「ます」は分かりにくいが一応、敬意の助動詞と考えて、「雲隠ります」=「亡くなられる/亡くなられた」といったところか。
● 741 年:国分寺建立の詔。
☆ 不穏な世 一挙に変えよう 国分寺
長屋王の変の後、国内は飢饉や疫病の流行による不穏な世相が続き、藤原広嗣の乱(不比等の孫・広嗣が吉備真備や玄昉の追放を求めて九州で起こした乱。官軍によって鎮圧され広嗣は斬られた。740年)のような内乱も起こった。(聖武天皇と光明皇后の間に皇位を嗣げる男子ができなかったことも"不穏"なことと捉えられたかもしれない。)聖武天皇(45代)は(光明皇后の勧めにしたがって)仏教による鎮護国家思想で社会をしずめることを考え、741年に国分寺建立の詔を出した。国ごとに国分寺・国分尼寺を立てて護国のための経典を読ませ、「仏だのみ」で世を平安にしようとしたわけである。当時の日本には66ヶ国があったので、132もの大寺院を建てさせ、そこに多数の僧尼を住まわせるわけだから、莫大な費用を要したはずである。国分寺の大部分は770年代に完成したようだ。
(仏教信仰によって現世の国家に安泰がもたらされるという考え方は、元々の仏教の考え方とは違うような気がするが、数ある大乗経典の中には、そういう内容を含むものもあるのだそうだ。キリスト教などでは早くから文書もあり、ローマ帝国時代のニケーアの公会議を皮切りに、どの考え方が正当で、どの考え方が異端であるかという判定が大元の権威者によって為されてきたが、仏教全体にはそういう制度が無かったために、わりと何でもありみたいなところがある。)
[天皇]第45代・聖武天皇(位724-749)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
● 743 年:大仏造立の詔。
☆「大仏で 難よ 去れよ」と 聖武帝
聖武天皇(45代)は、国分寺建立の詔の2年後の743年に、大仏造立の詔を出し、大仏の造立を始めさせた。鋳造作業は奈良で747年(?)に開始され、751年に完成。開眼供養は752年に盛大に行われた。聖武は749年に娘の孝謙天皇(46代。48代称徳と同一人物)に譲位を行っており、聖武は開眼供養の際には上皇として列席した。(あの大仏は『華厳経(けごんぎょう)』の本仏である毘盧遮那仏〔びるしゃなぶつ〕という、宇宙全体の真理と同一視される仏様であるらしい。東大寺は今も「華厳宗」の総本山である。)当時としては世界最大の金銅仏で、聖武と光明皇后の尋常でない仏教への入れ込みようがうかがえる。しかしながら国分寺・国分尼寺の建立にしても、この大仏造立にしても、当時としては国家財政をゆるがすほどの費用と労働力が必要だったはずで、しかも人民を苦しめている凶作や飢饉や疫病に対して何の"実効性"もない施策である。聖武が詔として「動植(すべての生命)がことごとく栄えることを欲する」「朕の富と権勢を使って大仏をつくる」と言ったとしても、民衆にも大きな負担がかかったことは確実だろう。(聖武や光明皇后の主観的な心理はどうであれ)現実に重税にあえぎ辛苦している当時の民衆はどのように感じたものだろうか? 日本で庶民に仏教が浸透し始めるのは、はるか後代の鎌倉時代以降のことである。(中世・近世に兵火にあい、現在の「奈良の大仏」本体は、後世に作られたものである。台座の一部のみ当初のものが残っている。)
また、日本の僧、栄叡(ようえい)・普照ら(733年に遣唐船で入唐していた)が、鑑真に対して戒律を伝えるための来日を最初に要請したのがこの前年の742年であるが、これは日本国内でも(私度僧ではなく)正式な僧位を与える制度を国家的に成立させたいという聖武天皇の意向を受けたものである。鑑真の渡航の試みは何度も失敗したが、754年にようやく平城京に入り聖武上皇・孝謙天皇に迎えられた。戒壇の設立と授戒について一任され、初めは東大寺に住する。759年に唐招提寺を建立。763年に76歳で死去。
[天皇]第45代・聖武天皇(位724-749)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
● 743 年:墾田永年私財法の発布。
☆ 墾田は 大きな資産 永久に
班田収授のための農耕地不足に悩まされるようになっていた奈良の政府は、723年の三世一身の法につづき、743年に墾田永年私財法を発布した。この新制度の下では、開墾者が開墾地を(面積を限って)永久に私有できることになった。これは律令制度の基調であった公地公民策の破綻を意味していた。一般の農民がこの新法の恩恵を受けたかというと、身分による厳しい面積制限もあり課税も受けるので単純な話ではなく、むしろ開墾能力を持ち、かつ大規模墾田を私有する特権を与えられた有力貴族や寺社などの"有力者"が人を使役しながら私有地を拡大させるようになった。(国家による重税に耐え切れなくなった人民は、どんどん口分田(班田)から逃げ出して、大規模な私有地を持つ有力者によって私的に使役される「公地公民制の"枠外"の労働者」になってしまう。有力者はそのような農奴的労働者を更に大がかりな開墾や耕作のための人員として使えるわけで、有力者の下では私有地も農奴も増え続ける。)後々"有力者"が、政府から免税などの特権を獲得して、多くの有力農民から農地の"寄進"を集めるようにもなった。10世紀以降には、中央政府から全く統制・関知できない、藤原氏などを筆頭とする"有力者"が持つ特権的私有地(寄進地系荘園)が圧倒的に全国に広がる状況が訪れる。"公地"は相対的に減り続け、生産性(収穫力)も悪かった。
[天皇]第45代・聖武天皇(位724-749)
[中国]唐、第7代・玄宗(李隆基:位712-756)
● 764 年:恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱。
☆ 邪魔な虫 討てずに 押勝 敗死する
惠美押勝(えみのおしかつ)は、光明皇后の甥(藤原4兄弟のひとり武智麻呂の子)で、元々は「藤原仲麻呂」である。最初は叔母の光明皇后(その娘の孝謙女帝即位〔749年〕の後は光明"皇太后")の信任を得る形で台頭してゆき、やがて758年、自分が手なずけておいた大炊王(舎人親王の子)を淳仁天皇(47代)として即位させることに成功。恵美押勝の名を賜り一時は圧倒的な権力を掌握した。仲麻呂(押勝)は子供の頃から優れた学才を示し中国の書物を深く学んでいたが、仏教文化よりも中国史や儒教思想に傾倒し、自ら皇帝のような専制権力者になることを望んだようである。国内権力だけに飽き足らず、新羅征討計画まで考えていた。(当時、唐は安史の乱の混乱期であって、新羅への影響力が弱まっていたということらしい。)ところが孝謙上皇から信任を得た僧、道鏡が力をつけてくると、押勝はこれと対立した。押勝にとって道鏡は「邪魔な虫」だったわけである。(むしろ孝謙上皇自身と押勝との対立があって、恵美押勝のほうが孝謙にとって「邪魔な虫」であり、孝謙が自らの意向を通すために道鏡を取り立てたということなのかもしれないが、実情はよく分からない。押勝の後ろ楯であった光明皇太后は、すでに760年に崩御していた。享年60歳)764年、押勝は兵を挙げて道鏡を討とうとしたが、鎮圧されて敗死した。このとき孝謙から仲麻呂誅伐の命を受けた要人のひとりが、地方豪族出身で学問で身を立て、仲麻呂によって久しく不遇をかこっていた吉備真備(きびのまきび)である。
(俗説・俗言としては、孝謙女帝が最初は藤原仲麻呂を"寵愛"していたが、「心変わりをして」その"寵愛"の対象を道鏡に変えたにすぎないということも言われる。信憑性のある話ではないだろう。)
[天皇]第47代・淳仁天皇(位758-764)→ 第48代・称德女帝(位764-770)
● 764 年:称徳女帝の即位。
☆ 孝謙が 「再度なろうよ 称徳に」
聖武天皇(45代)の娘である孝謙女帝(46代)は、758年に淳仁(じゅんにん)天皇(47代)に譲位していたが、恵美押勝の乱の平定の後、ほとんど押勝の"言いなり"状態であった淳仁を廃位として淡路に流し、764年に自らが重祚して称徳女帝(48代)となった。称徳女帝は、僧・道鏡に太政大臣禅師、法皇の称号を与え、道鏡はしばらくの間、藤原氏を抑えて権勢を振うことになった。また、称徳=道鏡体制の下では、恵美押勝の乱の鎮定に功があった非皇族・非藤原系の秀才・吉備真備も(高齢ではあったが)要職に就いて政治に携わった。この体制で称德は765年、中央の有力者による墾田開発(私有地開発)の加熱によって公地公民制が崩壊するのを防ぐために、寺社を除いて一切の墾田開発を禁じた。(称德が崩御し道鏡が左遷されると、この禁令は解除されてしまうが。)そもそも孝謙(称德)女帝は聖武と光明子の間に男子が生まれなかったせいで変則的に皇位に"就かされた"女帝で、自分に子供がなく、子供を持つことも許されない立場(独身女帝が結婚することは禁じられていた。皇位がどこに行ってしまうか分からないからである)に置かれた称徳女帝は、その出自にもかかわらず皇統にも藤原氏にも親近感を感じていなかったようである。宇佐八幡の神託と称して道鏡へ皇位を譲ろうとさえしたが、それは和気清麻呂らに阻まれて叶わず(769年)、その翌年に失意のうちに崩御することになる。
(道鏡は、戦前の教育では、皇統に関係のない出自でありながら天皇になろうとした極悪人という扱い方がなされていた。また、道鏡は"好色な"称徳の"愛人"であって、道鏡はその"寵愛"を権力のために利用したという俗説、"巨根伝説"も広く知られているが、もとよりこれらは信憑性のある話ではない。このような「性的スキャンダル」の風聞を除いて考えると、称徳女帝の意図は〔少なくとも重祚後は〕非皇族・非藤原の政治の実現ではなかったかとも思われる。)
[天皇]第47代・淳仁天皇(位758-764)→ 第48代・称德女帝(位764-770)
● 770 年:称徳女帝の崩御。光仁天皇の即位。
☆ 七難を 受けて 称徳 崩御する
藤原氏は、持統女帝(41代)のときから天武系の皇統との関わりを深くして権力を強めていったが、藤原氏とも皇統とも無関係な道鏡に権力を継承させようとした称徳女帝(48代)は、藤原氏にとって早々に排除したい存在であっただろう。宇佐八幡神託事件の翌年の770年に、道鏡は左遷され、称徳女帝は病没したが、病に倒れて以降、道鏡との連絡は途絶え(絶たれ?)、治療(看病禅師の招来)や平癒祈願など、まともに行われることはなかったらしい。(藤原百川が女帝への治療を妨害したことを示唆するような言い伝えもある。)つまり藤原氏が仕掛けた「七難(いろいろな困難・災難)」を受けたとも推測される。女帝の崩御後、藤原氏らはただちに道鏡を追放し、天智系の光仁(こうにん)天皇(49代)を立てた。(吉備真備は翌年〔おそらく身の危険を感じたためであろうが〕右大臣を辞し、それ以後のことは伝わっていない。称徳女帝は天武系最後の天皇である(皇位を継げる天武系の男子がおらず、女帝自身にも子はなく最後は女帝で終止符となったわけである)。光仁は天智天皇(39代)の孫にあたり、この後の皇統において天武系は完全に排除され、天智系が続くことになる。
(同じ770年に、阿倍仲麻呂が長安で死去している。享年73歳。仲麻呂は717年に吉備真備らとともに遣唐留学生として入唐。大学を経て唐朝に仕官、玄宗皇帝に重用され、李白や王維とも交友を持った。753年に帰国を試みたが、船が暴風に遭って戻され中国南方に漂着してしまったため、その後は帰国をあきらめ、再び唐朝に仕えた。)
[天皇]第48代・称德女帝(位764-770)→ 第49代・光仁天皇(位770-781)
百人一首から、阿倍仲麻呂の歌(7)を引いておく。(この人、氏名の漢字表記が一定しないのだが)
<安倍仲麿> 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
これは753年に仲麻呂が帰国を試みた際の送別の宴で詠んだ歌。月を見上げながら、あれは昔(遣唐使としてこの地に来る前に)春日の三笠の山から出ていた月と同じ月なのだよなぁ、という感慨を詠じている。遣唐使が出発するときに春日山のふもとで無事を祈る風習があったらしい。「ふり」は接頭語。「さけ」は「放け・離け」で、「対象を遠く離す」の意なので、「ふりさけみれば」=「はるかに見ると」ということである。
● 784 年:長岡京へ遷都。
☆ 悩ましい 寺社から逃れ 長岡へ
光仁天皇(49代)が781年に没し、その後、皇位を継いだ子の桓武天皇(50代)は、即位の3年後の784年に都を長岡京に遷した。光仁の即位の時点では、まだ天武系の復活の可能性が全く無いとも言えない状況であったが、桓武の時代にはその懸念もなくなった。遷都の理由は、強勢となった奈良の旧来の寺社勢力から離れての政治再建を目指したとも言われるが、本当の理由はよく分からない。(推測を述べるなら元々、平城京は"天武系の都"、東大寺は"天武系の寺〔仏教組織〕"であって、自分が天智系であることを強く意識していた桓武にとって、これらは当然、棄て去るべき対象だと思われたのではなかろうか?因みに天智天皇陵は京都・山科にある。なぜ飛鳥からも大津宮からも離れた山科にあるのか、その理由ははっきりしないけれども。)しかし遷都はしたものの、その翌年、新都造営にあたっていた長官(藤原種継)が暗殺されるなど政情不安や長岡京が2度の洪水に襲われるなどの災害もあり、わずか10年後、同じ桓武天皇によって平安京へ再遷都が行われることになる。なお、種継暗殺事件については大伴一族と桓武の弟である早良(さわら)親王の共謀とされ、大伴氏ら十数名が斬首、早良親王は流罪となり憤死する。暗殺事件そのものの真相は分からないが、桓武は弟の早良を排除したい理由がいくつかあったらしい。(そのひとつは桓武が自分の実子の安殿親王〔のちの平城天皇〕への皇位継承を望んだことだろう。)しかしこの後、桓武は"早良親王の祟り"を恐れることになる。
(この翌年の785年に、官吏であり歌人でもある大伴家持〔おおとものやかもち〕が死亡している。大伴氏は古代豪族の時代から有力・有名な氏族であるが、家持は藤原氏の勢力興隆の時期に生き、官吏としては不遇だったようである。万葉集全20巻の最後は家持の759年〔淳仁天皇の2年目〕の正月の歌で終わっており、万葉集の最終的な編集は〔もちろん家持以前に時代を遡って持統女帝の頃?から何段階かの編纂作業を経て〕家持が晩年の783年ごろに完了したと考えられる。ただし、万葉集の成立事情を記した資料は残されておらず、大伴氏の当時の難しい政治的境遇〔家持は上述の種継暗殺事件の少し前に死去しているわけだが、死後であってもその嫌疑に関し連座扱いとなった〕などから考えて、万葉集の存在が公にされたのは、桓武天皇崩御に伴い「恩赦」が行われた806年以降ではないかという説もあるようだ。)
[天皇]第50代・桓武天皇(位781-806)
上で言及した、大伴家持による万葉集最後の歌(4516)を紹介しておく。
<大伴家持> 新しき 年の初めの 初春(はつはる)の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
「いやしけ」の「いや」は強意の接頭語、「しけ」は「しく(重く)」=「重ねて起こる」の命令形。「今日降る雪の いやしけ吉事」は「今日、降っている雪のように、よいことが次々に起こりますように」の意。古代、都のあたりでは、雪はめでたいものとされ、特に正月の雪は豊年の予兆と考えられていたらしい。
しかしながら上の歌は、家持の歌の中では、さほど優れたものではない。家持と言えばこの歌と思える秀歌(万葉集4139)も一首、紹介しておく。
<大伴家持> 春の園 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
これは750年の春、家持が赴任先の越中で詠んだ歌である。
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