top of page

納得して覚えるための

日本史年代☆ゴロ合わせ (弥生・大和時代)

 

                                         by 樺沢 宇紀

 

◆なるべく5音、7音を基調とした唱えやすいものにしてあります。

◆事件・出来事の内容について、なるべく適切な連想が働く文言を選ぶようにしました。

それぞれに対して簡単な説明文をつけてあります。

 

☆暗唱のために声を出して唱える際には、カギ括弧で括った部分を省いて唱えて下さい。

57 年:倭の奴国王の使者が後漢に朝貢、印綬を授かる。

☆ 奴国王  こんな印綬を  与えられ

 

『後漢書東夷伝』には、紀元57年に倭の奴(な)の国王の使者が後漢の光武帝の下へ朝貢し、印綬を与えられたことが記されている。(「印綬」の「綬」は組みひも、すなわち糸を組合わせて作られた紐のこと。つまり下賜された印章には、それを身につけるための洒落た紐が付属していたということだろう。)当時、おそらく北九州を中心とする西日本地域に「倭人」による小国が多数分立しており「奴国」はその中のひとつであった。江戸時代に福岡の志賀島で、農夫によって金印が発見されたが、これが奴国王が光武帝から下賜された印章であろうと考えられている。つまり、この推測が正しいならば「こんな印綬」の「印」は、辺が2.3センチほどの方形で、重さ100グラムほどの「漢委奴国王」と彫られた金印である。

[中国]後漢、第1代・光武帝(劉秀:位25-57)

248 年:邪馬台国の女王、卑弥呼の死去(?)。

☆ 倭の女王  卑弥呼にも死は  訪れる

 

倭では2世紀後半に大乱状態が生じたが、3世紀に呪術的な女王、卑弥呼を「共に」立てることによって小国の統合体が形成されたらしい。邪馬台国は「女王の都する所」であった。卑弥呼は239年に魏に使者を送って「親魏倭王」の称号を得たが、他方、卑弥呼の国(勢力?)は、その南側にある狗奴国と緊張関係にあり、戦争も起こったようである。卑弥呼は(具体的な経緯・原因は不明だが、おそらく248年頃に)死去し、しばらく混乱の後、再び女王(壱与)が立った。266年に倭の女王(壱与?)が晋に遣使したという記録があるが、それから5世紀初めまでの百数十年間、倭(日本)に関する文献的な記録は途絶えてしまう。

『魏志倭人伝』における記述の矛盾のために、邪馬台国が(1)九州にあったのか、(2)畿内にあったのか不明であるし、その後に文献的な空白時期(謎の4世紀)が生じたために、3世紀の邪馬台国と5世紀以降の大和王朝とが(A)直列的な関係にあるのか、(B)全くの別王朝なのか、ということも分かっていない。たとえば(1,A)の組合せで、九州にあった邪馬台国が畿内に移って大和王朝になったと考えるのが「邪馬台国東遷説」である。この立場を採るならば「神武東征」の物語(神武天皇が九州から東に向かい、大和の地に入って周囲を平定し、人皇第1代として即位した)は実際にあった「東遷」の記憶を〔再構成して〕伝えているものだとも考えられるし、さらに遡れば、卑弥呼に関する伝承が伝説化して日本神話の天照大神の話になったという仮説も考慮し得ることになる。「岩戸隠れ」の神話(太陽神であるアマテラスが天の岩屋に閉じこもったら世界が真っ暗になって・・・  という話)は日蝕の経験から生まれた神話ではないかという見方は古くからあり、卑弥呼が死去した年として有力視される248年は、古天文学によれば日本で皆既日蝕が観測された年にあたるのだそうだ。ただし仮にこの筋書きを採るにしても、「直列的な関係」という点については、王朝交代説〔皇統がすっきりとした万世一系ではないという考え方〕などとの兼ね合いでかなりの含みを持たせて考えなければならないとも思われるけれども。

391 年:倭軍が朝鮮半島へ侵攻。

☆ 倭の侵攻  碑文の文言  作為なし

現在の中国吉林省に「広開土王碑」と呼ばれる石碑がある。これは高句麗の第19代の王である広開土王の業績を称えて5世紀初めに建てられた碑とされている。その記述によれば、391年から、倭が(百済・新羅を破った上で?)しきりに攻めてきた。これを広開土王が400年に撃退したという。かつて、この碑文の文言は旧日本軍が朝鮮進出を正当化するために行った碑の改竄・捏造の産物だと主張する朝鮮人研究者もいたが、そういう作為的改竄・捏造説は、現在ではほとんど否定されていると見てよい。日本の『記紀』で扱われている「三韓征伐」の話(第15代・応神天皇の母にあたる神功皇后が新羅出兵を行って朝鮮半島の広範囲を制圧、新羅・百済・高句麗の「三韓」を服属させたという話)は歴史ではなく神話ではあるが、暗示的な意味において多少の符合が感じられなくもない。

 ところで4世紀後半の時点で、大和盆地を拠点とする政権が本当に、はるばる朝鮮半島まで派兵をするだけの勢力と動機を持ちえたのか、いまひとつ分かりにくい印象もある。独自の古代史研究でも知られた作家(故)松本清張は、このときの高句麗側が言及している「倭」の軍とは、大和朝廷から派遣された軍ではなく、九州北部の倭種と、朝鮮半島南端部(加羅)にいた倭種の連合軍だったのだろうという推測を述べている。この頃、畿内にあった「政権」は(仮にそのルーツが九州もしくは朝鮮半島と何らかのつながりがあったとしても)周辺土着部族への工作を行っている程度の地方勢力にすぎず、大陸側から見た「倭」は、主として九州北部と朝鮮半島南端部に分布して相互に強い連帯感を持っていた倭種を指していると見るわけである。(仮にそう考えると、「三韓征伐」の神話で神功皇后が北部九州と関係が深いように感じさせる部分があるのも、何やら暗示的と言えるかもしれない。)

413 年:「倭の五王」の外交の始まり。讃?が東晋に遣使。

☆ 中国に  良いみつぎ物  倭の五王

 

晋書』によれば413年、倭国から中国の東晋への遣いが(高句麗からの遣いと共に?)訪れ、貢物を献上したという。これがいわゆる「倭の五王」による中国との外交の端緒である。420年には東晋の武将・劉裕が宋(420-479年)を建てることになり、その後は宋に対する遣使となるが、これが5世紀中、宋が終わる頃まで続く。最初の倭王「讃」は一説には第15代・応神天皇(『記紀』によれば第14代仲哀と神功皇后の子。第16代・仁徳、第17代・履中を充てる説もある)、最後の倭王「武」は第21代・雄略天皇である​(「武」による最後の遣使は502年)。古代史の諸説の中には、皇室の系譜の中で第15~25代を巨大古墳群で特徴づけられる「応神王朝?」として区切る見方があり、この見方によれば、倭の五王とは応仁王朝における主要な帝王として捉えられる。ただし応神天皇は実在しなかったのではないかという説もあったりして不明瞭な部分は多いけれども。(そして6世紀前半、第26代・継体天皇〔即位507年?〕から「継体王朝?」が始まって現在まで続く。)

527 年:磐井の乱。

いつになく  行く手をはばむ  磐井軍

(日本書紀によれば)第26代・継体天皇の時代の527年、大和王朝の軍が、新羅から侵攻を受けた朝鮮半島南部の倭人の領土(任那?の一部?)を回復するために出兵しようとしたところ、新羅が筑紫地方の国造磐井氏に妨害を要請し、磐井氏はそれを受けて大和軍と交戦してその進軍をはばんだ。大和王朝側から平定軍が派遣され(物部麁鹿火〔もののべのあらかい〕が軍を率いた)、翌年、磐井氏は敗北した。具体的な事柄の真偽は不明であるが、「継体王朝?」の初めの時期に、北九州勢力による大規模な反乱(あるいは抗争)が起こり、大和政権が平定に成功したということであろう。

 この事件を、どのように捉えるべきなのか、実はよく分からない。大和政権による国内への支配体制の確立・強化のプロセスを示している、というのがひとつの見方である。しかし、もうひとつの見方として、ここのような大規模反乱が(平定できたとはいえ)起こったこと自体は、むしろこの時期における大和王権の衰退を反映しているのかもしれない。つまり、一旦は畿内以外の地域にまで強大な力が及ぶ政権を確立した「応神王朝?」は、その末期から「継体王朝?」初期の時代にかけて、支配力を相対的に低下させていたと見るわけである。後者の見方を採るならば、35年後の562年(第29代・欽明天皇のとき)に任那を失うという出来事も、これと同列線上の文脈で捉えるべきなのかもしれない。

[天皇]第26代・継体天皇(位507?-531?)

538 年:仏教の公伝。(戌午〔ぼご〕説)

☆ 仏教伝来  蘇我氏ひとりが  御参拝

6世紀、百済の聖明王から第29代・欽明天皇(第26代・継体の子。27~29代は兄弟間の皇位継承ということになっている。但し欽明と、その2人の兄は母親が違っていて、確執があったらしいのだが)に仏教(仏像や経論)が伝えられたとされており、これを仏教の「公伝」と称する。(おそらくそれ以前にも、朝鮮半島からの帰化人たちによる私的な形での流入はあったであろうが。)この日本への仏教公伝には538年説と552年説があり、前者のほうが有力視されている。(しかしながら、欽明の即位はおそらく539年か540年なので、538年説ですっきり前後の辻褄が合うわけでもないのだけれども。)欽明天皇自身は仏教の文物などに感銘を受けたようだが、「これを礼すべきかどうか」と中央豪族たちに問うたところ蘇我氏は受容を強く推奨、物部・中臣氏は異国の「蕃神」の受容に強く反対して意見は完全に割れてしまった。欽明自身は仏教への帰依を止め、代わりに蘇我稲目(いなめ)に仏像を授けて一旦は私的な信仰を許可したが、崇仏派・廃仏派の対立は続くことになる。

 蘇我氏は『記紀』によれば、神功皇后の下で三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけのうちのすくね/たけしうちのすくね)を祖とすることになっているが、​これは神話であって、本当の出自ははっきりしない。百済からの渡来人と考え、蘇我満智(武内宿禰の孫・稲目の曾祖父)を百済の5世紀頃の高官、木満致(もくまんち)と同一視する仮説があるが、資料的に裏付けることは難しいようである。​しかし蘇我氏が、他の有名な豪族たちの定着よりも比較的遅い時期に(遅い分、かえって当時の朝鮮における最新知識や技術を伴って)渡来してきて定着したという考え方には一理ありそうである。​とにかく、欽明の前までは「大伴・物部」が2大豪族という感じであったが、欽明の頃に大伴氏(金村)が失脚して、これと入れ替わるように蘇我氏(稲目)が台頭して「蘇我・物部」2大豪族という状況に移行したようである。

[天皇](?)第29代・欽明天皇(位539?-571?)

562 年:任那が新羅によって滅ぼされる。

☆ 欽明の  ころに任那は  滅ぼされ

「任那」(みまな)は古くから朝鮮半島南部に存在した倭人の領土で、大和王朝の出先機関も置かれていたとされるが(『日本書紀』によれば)ここが562年に新羅によって完全に滅ぼされた。第29代・欽明天皇の時代である。しかしその後も任那の地奪還への執着は、大和王朝内部で代々の悲願として続いてゆく。(後に、欽明の孫にあたる聖徳太子なども朝鮮出兵を計画し、弟に命じて実行しようとした。)大和王朝の南朝鮮への執着は、単なる出先機関・出先拠点の確保という観点から説明できるのかどうか、少々曖昧な感じもある。定説ではないが、任那(加羅)は単なる出先ではなく、そもそも天皇家の祖先の出身地だったのではないか(つまり祖先の郷里の土地を取り戻したいということだったのではないのか)という考え方もある。天皇はかつて大王(おおきみ)と呼ばれていた時代があるが、大王の「王(きみ)」は「金(キム)」から来ているのではないかという推測を、作家の豊田有恒が書いている。仮説としては面白い。

​(さらに、任那にいた天皇家の祖先をもっと遡ると、元々は東アジア大陸北方〔満州〕にいたツングース族で、それが朝鮮半島を南下してきたのではないか、というのが江上波夫による「騎馬民族説」の基本構想である。)

[天皇]第29代・欽明天皇(位539?-571?)

58年:用明天皇崩御。崇仏戦争(物部守屋の変)。

☆ 崇仏戦[争]  物部敗退  講和な

皇室の系譜の中で、最初に仏教に帰依し、仏教を公認した天皇は、欽明天皇の子にあたる第31代・用明天皇(蘇我稲目の孫・聖徳太子の父でもある)であった。しかしその在位は2年足らずと短く587年に崩御した。用明帝崩御の直後に、蘇我馬子(仏教公伝の際に仏教受け入れを主張した稲目の子である)は崇仏派の泊瀬部(はつせべ)皇子を、物部守屋は廃仏派の穴穂部(あなほべ)皇子(どちらも欽明の子だが用明・推古とは異母。ちなみに「-皇子」は「-[の]おうじ」と読んでも「-[]みこ」と読んでもよい)を後継候補として立て、同年に両派間の戦争が起こった。(蘇我氏の血をひく若い聖徳太子は崇仏派として参戦した。)結果は蘇我氏が完全な勝利をおさめ、(両者の間に講和などはなく)物部氏一族は中央から排除された。同年、馬子の意向で泊瀬部が即位、第32代・崇峻天皇となる。これは廃仏派の完全敗北・消滅であると同時に、蘇我氏の影響力を決定的なものにした出来事であった。後々、645年に乙巳の変で滅ぼされるのは、馬子の子・蝦夷(えみし)と孫・入鹿(いるか)であって、このときまで蘇我氏は極めて強い権力を持った。

(しかし実は、仏教の受容の問題がこの戦争の主な原因だということについては、否定的な見方をする研究者も多いらしい。古くからの有力豪族である物部氏が仏教に対して好意的でなかったことは事実だったとしても、おそらくこのとき既に仏教は、帰化人を中心としてかなり国内に広まっており、この時点で「国策」として廃仏を決するというのは非現実的だった。つまり単に当時、大和に3大勢力〔天皇家・蘇我氏・物部氏〕があり、その勢力争いとして、比較的新興勢力であった蘇我氏と天皇家〔両者は姻戚関係が進んでいた〕が結んで物部氏を一掃したというだけのことであって、崇仏派/廃物派という話は日本書紀の執筆者による潤色と見るわけである。)

​[天皇]第31代・用明天皇(位585?-587?)→ 第32代・崇峻天皇(位587?-592)

​[中国]隋、第1代・文帝(楊堅:位581-604)、但し中国統一は589年。

592 年:推古天皇の即位。

この国を  治められるか  推古女帝

 

592年、第32代・崇峻天皇(欽明の子)が蘇我馬子の謀略によって殺害された。このとき本来、次の天皇の最有力候補は聖徳太子(厩戸皇子〔うまやどのおうじ〕)だったはずだが、同年、女性である第33代推古天皇(欽明の子で、​異母兄にあたる第30代・敏達の[元]皇后でもあった)が即位し日本初の女帝となった。何故、異例の女帝即位となったのか不明であるが、推古は当時おそらく幼少であった自分の子の竹田皇子を天皇にしたいがために、それまでの繋ぎという意図で即位したのではないかという推測もある。(竹田皇子は早逝したらしく、天皇にならなかったが。)女帝に国が治められるか危ぶまれたかも知れないが、推古は甥にあたる聖徳太子を翌593年に摂政に任じて政務にあたらせることになる。ただし聖徳太子が顕著な政治手腕を示し始めるのは600年頃以降である。​推古女帝は75歳という、当時としては異例の長命で628年に崩御することになるが、聖徳太子は、その6年前の622年に49歳で没しており、天皇にはなれなかった。(原則、古代~近世までの年齢表記は"数え"の年齢とする。)

(推古朝における政策の実質的な掌握・推進者は、聖徳太子ではなく蘇我馬子だったのではないかという見方も一部にはあるようだ。推古にとって馬子は叔父にあたるが、「推古-馬子密通説」などというものもあるらしい。日本書紀の記述は、蘇我氏を貶める方向にかなりのバイアスがかかっている可能性があるので、本当のところは分からない。それに、普通はほとんど強調されないけれども、そもそも聖徳太子という人物は父方の祖母も母方の祖母も蘇我稲目の娘だという「蘇我系」の血筋の人であって馬子は太子にとって大伯父にあた​〔さらには、太子の夫人のひとりは馬子の娘であって、馬子は太子にとって義父でもある〕、太子は血筋的には後の中大兄皇子などとは違って蘇我と張り合わねばならない理由は無いわけである。そうすると、はたして太子は老練な政治家・馬子の意向とは別のところで政治をやることができたのか?書記において"聖人"としてまつりあげられている太子に関する記述は、むしろ編纂者の何らかの意図・作為によるもではないか?という疑いが出てくるわけで、仮にそういう疑念が正しいのであれば、蘇我氏〔少なくとも馬子〕は日本書紀の記述が伝える印象とはずいぶん違って優れて開明的な政治家だったのだろう、ということになるわけだが。ちなみに馬子の没年は推古崩御2年前の626年。生年は不明なのだが、推古の叔父であるし、第30代・敏達天皇のころから53年間も大臣として執政を行ったのだから、相当の高齢であっただろう。

[天皇]第32代・崇峻天皇(位587?-592)→ 第33代・推古女帝(位592-628)

[中国]隋、第1代・文帝(楊堅:位581-604)、但し中国統一は589年。

607 年:遣隋使の派遣。

☆ 妹子(いもこ)らが  群れなしてゆく  隋の国

 

聖徳太子(厩戸皇子)は、607年に小野妹子らを隋に派遣した。妹子は(おそらく太子が書いた)「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや否や・・・」という国書を、隋の第2代皇帝の煬帝(ようだい)に渡した。煬帝は失礼な文面と怒ったが、当時煬帝が計画していた高句麗遠征のために、当面は日本を味方につけておくのが得策と考えて、翌年、日本に使節をよこした。この使節の帰国の際、第2回の遣隋使(608年)が同行し、最後の第3回遣隋使は614年に派遣された。中国では、618年に隋が滅んで唐が起こったが、遣唐使は630~894年にわたり16回派遣され、菅原道真の意見により終わりを迎えた。(『隋書倭国伝』には、小野妹子よりも7年前の600年にも、倭から隋の初代皇帝楊堅に使いが来たことが記されている。これも聖徳太子による派遣だったのかもしれないが、何故か日本書紀にはその記述がなく、その詳細な事情は不明である)上述の"第2回の遣隋使"も小野妹子が派遣されたが、これとともに高向玄理(たかむこのげんり)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)旻(みん)などの留学生も隋へ渡った。彼らはかなり長期滞在して隋末から唐の初めまで(李淵・李世民時代)の中国を経験し、旻は632年、玄理請安640年に帰国。その後、彼らは国内の官人に新知識を伝え、それが大化の改新に少なからず影響を与えたと考えられている(玄理旻は改新政府の政策ブレーンもつとめた)

 聖徳太子は593年に摂政に任じられたとされるが、自ら顕著な活動を始めるのは600年頃以降のようである。601年に斑鳩宮造営(飛鳥の地からは北北西に20キロほど。随分離れている)、602年に新羅征討計画を推進(途中で中止となるが)、603年に冠位十二階の導入、604年に十七条憲法の制定など。これらの一連の事績を見ると、600年における「第0回?の」遣隋使派遣(詳細に隋で何を言われたのかは分からないけれども)の結果が、その後の太子による「国作り」政策の強い動機付けになったと見るのが自然かもしれない。また後に太子は、文化面でも仏教に関しては「三経義疏」(法華勝鬘維摩の3仏典の注釈解説書。615年)を著したり、歴史に関して蘇我馬子とともに「国記」「天皇記」を編纂(620年。後世に残っていないが)を編纂したりしている。

[天皇]第33代・推古女帝(位592-628)

​[摂政]聖徳太子(位523-622)

[中国]隋、第2代・煬帝(楊広:位604-617)

● 645 年:乙巳の変。(大化の改新」の始まり?)

☆ 蘇我 無用! 強引に討ち  大化の世

蘇我馬子が587年に崇仏戦争に勝利してから蘇我氏の力は強まり、馬子の子・蝦夷(えみし)や孫・入鹿(いるか)にもその勢いは継承された。入鹿は643年に聖徳太子の遺児であり有力な皇位継承候補のひとりでもあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め殺すようなことまでしている。(山背にも蘇我の血が入っていて、入鹿が山背を退けた理由はいまひとつ不明確であるが。)横暴を極める蘇我氏に不満を持っていた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。当時20歳)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、645年に蝦夷・入鹿父子を滅ぼし(入鹿を直接殺害、蝦夷は自害した。これを「乙巳の変〔いっしのへん〕」と呼ぶ)、初めて「大化」という元号を立て、都を飛鳥(奈良盆地の南端あたり)から難波宮(なにわのみや。現在の大阪市中央区)へ移した。(わずか8年後に中大兄は再び都を飛鳥に戻すけれども。)そして翌646年、中大兄皇子を中心とする新政府は改新の詔を発して​、公地公民制に立脚した皇室を中心とする中央集権体制を確立するための施策に着手した。正史によればこのようになるけれども、これは後代の天皇家側からの見方であるから、公平な見方かどうかは分からない。①存外、蘇我氏は開明的で有能な政治家の家系であり、そのためにこそ、むしろ保守的であった皇室の一部と中臣氏(後の藤原氏)にとっては邪魔な存在だったということかも知れないし、②逆に中大兄に好意的な方向で考えるなら、蝦夷や入鹿は馬子(626年没)のように開明的ではなくて、唐から帰った留学生(高向玄理、南淵請安、旻など)が630年代以降にもたらした新知識に触れた比較的若い貴族たちからは、もはや蘇我氏は旧態依然とした"豪族政治家"にしか見えなかったということかもしれないし、③実は、本質的には政治方針や政治姿勢の対立という話ではなくて、ただ単純に、蘇我氏vs皇室の権力・実力の闘争が前者優勢で来るところまで来た時点で、後者が乾坤一擲の逆襲をやった(中臣氏はたまたま後者についた)というだけなのかもしれない。(もう少し中大兄皇子の個人の感覚に即して言えば、うかうかしていれば自分も山背大兄王と同様に蘇我氏によって殺される可能性があって、どうしても機先を制する必要があると感じたかもしれない。当時、蘇我氏は古人皇子を擁立しようとしていた。古人は舒明天皇の第一皇子で馬子は外祖父、入鹿は従兄弟にあたる。)

 そして、一般的な学校教育における歴史の授業から受ける印象では、乙巳の変以降、中大兄皇子が実質的に「改新」政策を主導したように思われるが、中大兄が即位して天智天皇となるのは23年も後の668年である。この間、孝徳天皇(36代。天智の叔父)、斉明女帝(37代。天智の母)が皇位を嗣ぎ斉明が没してから(661年)も7年間は中大兄は即位しなかったわけで、政治の実情はどうだったのかはっきりしないようである。たとえば一説として、乙巳の変の直後は孝徳がむしろ主導的に改革政策を進めようとしたのだが、しばらくすると斉明-中大兄による、むしろ"反動的"なクーデター(653年)に遭ったという考え方もあるようだ。また、そもそも646年に改新の詔が出されているのか?改新政策が始まっているのか?と疑う研究者もいるようで、「大化の改新」が実態として何時から何時までなのかもはっきりしていない。一応は645-650年(大化年間)もしくは645-701年(大宝律令制定まで)とするのが穏当なところか。(まぁ学問としての歴史学において「従来の通説は**だが、実は**だった」という学説は特に古代史においてはいくらでもあるわけで、そういうものだと考えておくのがよいのだろう。)

​[天皇]第35代・皇極女帝(位642-645)→ 第36代・孝徳天皇(位645-654)

​[中国]唐、第2代・太宗(李世民:位626-649)

658年、有間皇子(孝徳天皇の皇子)の謀反計画が露見し、絞首刑に処せられるという事件が起こった。これはおそらく中大兄皇子が皇位継承のライバルである有間を排除するために謀ったものであろうと推測される。有間が逮捕され(斉明天皇と中大兄が行幸中の紀伊へ?)連行される途中で「自ら傷みて」詠んだ歌が万葉集に2首載っている(141、142)。

 <有間皇子> 磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む

「磐代」は熊野へ向かう道の境で、旅の安全祈願として枝を結ぶ風習があった。(有間はふたたびその結び目を見る機会が来ることを願ったが、結局その願いは叶わなかったわけである。)

 <有間皇子> 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る

「笥」とは「食器」全般を表す言葉。

663 年:白村江の戦い。

☆ 相手方  ろくろく見ないで  白村江

 

日本は中大兄皇子(後の天智天皇)の下で、朝鮮半島の百済を救済するために(というか、既に660年に新羅に滅ぼされた百済の残存抵抗勢力に味方をして百済を復活させるために)水軍を派遣したが、相手となる新羅は唐と結んでおり、663年に白村江の戦いにおいて日本は唐の軍に大敗して、百済は完全に新羅の支配下に入った。新羅が唐と結んでいたことは、日本の方も分かっていたわけだが、やはり相手の戦力を見誤って無謀な戦いをした、という見方もありうるだろう。

 何故、日本(大和政権)が百済救援にこだわったのか(百済の遺臣たちからの救援要請はあったものの)単に当時の政治情勢を見ても想像し難いところがある。朝鮮半島に日本の「友好国」がなくなることは、現代の地政学的感覚で見ればそれなりに半島からの「危険」が高まる面がある。しかし当時の状況としてそれほど切迫した事態だったと言えるのか門外漢には分かりにくい。それに、超大国の中国と戦火を交えて負けてしまっては、むしろ中国からの直接の脅威を招くばかりで元も子もない。皇室のルーツが朝鮮半島にあるかもしれないという話は、現在のところ証拠のない異説であるが、あるいは心情的にそういう事情の関与もあり得るだろうか。任那が滅ぼされた後は、大和朝廷は百済と関係を深めていたようである。

[天皇]不在(中大兄皇子、称制)

​[中国]唐、第3代・高宗(李治:位649-683)。但し655年以降は皇后となった則天武后が政治に携わったようである。

ここで参考までに、万葉集から額田王の歌(8)を示す。

 <額田王> 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮(しほ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

この歌は661年に大和政権が百済救援のための船団を組織して西へ向かった際に、途中で立ち寄った伊予の熟田津(現在の愛媛県松山付近)から再び船団を出航させるときに、斉明女帝の代わりとして額田王が詠んだ歌であると考えられている。「かなひぬ」は「望み通りになった」の意。末尾の「な」は意志・希望を表す終助詞で「漕ぎ出でな」は「漕ぎ出そう」の意。

しかしながら斉明はこの後、筑紫の"大本営"に入ったときに急死してしまう。同行していた中大兄は大和へ戻り、改めて司令官を任じて3波の倭軍を順次派遣したわけだが、結果は上述の通りであった。)

668 年:天智天皇の即位。

☆ 天智天皇  無論 やります  国防を

 

中大兄皇子は(通説に従うならば)大化の改新のときから孝徳(36代)、斉明(37代)の皇太子として改新政策に携わり、斉明が661年に没した後も皇太子のまま政務を続け、668年にようやく即位して第38代・天智(てんじ)天皇となった(即位時43歳)。皇太子時代に白村江の戦い(663年)で唐・新羅を敵にまわして敗北を喫したことから、唐からの脅威に怯えて国防強化策を進めた。九州に防人(さきもり。九州防衛のための兵)を置き、水城(みずき。太宰府防衛のために、博多湾沿岸から筑紫平野に通じる平地の最狭部をふさぐように造られた、堀を伴った直線的な土塁)を築き(664年)、さらに西日本各地に城を建てた(665-667年)。即位前年の667年に、都を飛鳥から近江大津宮(おうみおおつのみや。現在の滋賀県大津市。琵琶湖南端付近)に遷したことも、防衛体制のためという意味合いであろうし、670年に日本初の戸籍(庚午年籍)が作られたのも、徴兵のための基礎資料の整備ということであっただろう。

​[天皇]第38代・天智天皇(位668-671)

​[中国]唐、第3代・高宗(李治:位649-683)、皇后:則天武后

百人一首の最初の歌に、天智の御製として、

 <天智天皇> 秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ

が採られている。しかしこれはおそらく万葉集にある民謡的な原歌からの訛伝で、天智自身の作ではないだろう。(優れた為政者である帝が農民の苦労をしのんで詠んだ歌ということになっているようだけれども、史実から窺い知れる天智の人物像とは、かなり食い違っているような感じがしませんか?)本当の天智の歌風は、大和三山(香具山・畝傍[うねび]山・耳成[みみなし]山)を擬人化した妻争い伝説を歌った万葉集の次の長歌(13)などが、本来のものではないかと思う。

 <中大兄皇子> 香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争いき 神代(かむよ)より かくにあるらし

         古(いにしへ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

「をし」=「いとしい」、「しかにあれこそ」=「そんなふうだからこそ」、「うつせみ」=「現世、この世」。(別段、洗練された秀歌という印象ではない。しかしながらこの歌には、天智-額田王-天武の三角関係を暗示していると解釈できないわけでもないというところがあって、そういうゴシップ的というか、芸能記事的な面白さはあるけれども。額田王については、すぐこの後に言及する。もっとも、この歌も本当に中大兄が詠んだものか分かったものではないという見解もあって、それを言い出すときりがないが。山(の神様)を人格化して捉えるのは、ある種の地霊信仰として古代ではありふれた感覚だったかもしれないし、そうであれば山と山が争うという伝説的発想が古くからの民謡となっていても不思議はない。丸谷才一の雑文からの受け売りだが、現代の相撲の力士の醜名に「**山」といったものがあることの淵源は、この中大兄の御製とされる歌(およびその反歌14)なのかもしれない。つまり相撲というのは山の神様同士とか、山の神様と海の神様の争い(力くらべ)などの神話的イメージを模した神事の名残りと捉えるわけである。

 さらに、ここでは近江遷都に因んで、万葉集から、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌(18)を紹介しておく。

 <額田王> 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや

「しかも隠すか」=「そんなふうに隠してしまうのか?」、「心あらなも」=「(雲にも)思いやりがあってほしい」、「隠さふ」=「隠し続ける」。助動詞「べし」を必要・義務の用法とみれば「隠さふべしや」は「隠し続ける必要があるのですか?」といったところか。つまり近江に移る途上、懐かしい三輪山をもう一度望見したいのに雲に隠れてしまって見えないことを嘆いている歌である。あるいは、単に懐かしいということより、三輪山の神である大物主が祟らないように歌で鎮めるという、ある種の呪術的儀式のような意味合いで詠まれたものかもしれない。初期万葉歌人の代表的存在である額田王は、はじめ大海人皇子(天武天皇)の妻であったが、後に大海人の兄の中大兄(天智天皇)に召されて後宮に入ったという話も伝わる。さらに後には、持統の行幸に供した際の歌もあり、全部本当だとすると、かなり微妙な立場に居続けた人と言えそうである。もう一首、額田王が天智天皇を想って詠んだ歌(万葉集488)も紹介しておく。

 <額田王> 君待つと わが恋ひをれば わが屋戸(やど)の すだれ動かし 秋の風吹く

672 年:壬申の乱。

☆ [皇位]継承は  無難にゆかず  壬申の乱

天智天皇(38代)と、その弟である大海人(おおあま)皇子は、何らかの理由で特別な対立関係にあったらしい。671年に天智天皇が病没すると(享年46歳)672年に天智の息子の大友皇子(明治時代に諡号をおくられて第39代・弘文天皇とされる)に対して、天智の弟の大海人皇子が兵を挙げ、東国​(この場合の"東国"は美濃・尾張くらいまでを指すようだが)や大和豪族の協力を得て、大友の近江朝廷を倒した。これが「壬申(じんしん)の乱」である。翌673年に大海人皇子は飛鳥の地で即位して第40代・天武天皇となった(天武は生年不明なので年齢は分からない)。この後、称徳女帝(48代)が子を残さずに770年に崩御して、天智系の光仁天皇(49代)が即位するまで約100年のあいだ、天武系の皇統が続く。そして光仁以降になると、逆に天武系が完全に退けられて、天智系の皇統が続いてゆくことになる。天智と天武は、正史の記述によれば共に舒明天皇(34代。第30代・敏達の孫)と皇極女帝(35代。もしくは重祚して37代斉明女帝。第30代・敏達の曾孫)から生まれた兄弟とされているが、実は天武の素性は"正統"なものではなく、両系の間の確執は単純な兄系と弟系の確執ではないのではないか、といった興味深い異説もいろいろある。

(ここでは「無難」を「むなん」と読む。「ぶなん」でなく「むなん」という読み方も許容される。)

[天皇]〔第39代・弘文天皇(位671-672)?、但し日本書紀に即位の記録なし〕

​[中国]唐、第3代・高宗(李治:位649-683)、皇后:則天武后

天武天皇の歌を、万葉集から引く(27)。

 <天武天皇.> よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見

意味は「立派な人がよい所としてよく見て"よし(の)"と言った、この吉野をよく見るがいい。よき人たち(おまえたち)よ、よく見よ」。天智天皇の最晩年(671年10月)、自分の子の大友皇子に皇位を継がせたい天智からの謀略に陥れられたり暗殺されるかもしれないという危険を察した皇太子・大海人皇子(後の天武天皇)は、自分は出家すると称して近江朝から吉野に退去した。天智はその年の12月の死去し、翌672年6月、大海人はクーデターの意を決して吉野から出立、行軍を始めることになる。そういうわけで吉野は天武天皇にとって壬申の乱の起点となった感慨深い地のわけだが、上の歌はそれから7年の後(679年)の5月5日、天武が6人の皇子(草壁・大津・高市・河島・忍壁・芝基)を伴って吉野宮に行幸した際、皇子たちが(同腹異腹にかかわらず)互いに助け合うと盟約したことを受けて詠んだ歌。天武の喜びがストレートに表現されている。(但し、皇后であった鵜野皇女〔後の持統女帝〕の意向はこれとは別で、我が子である草壁こそが重要であったため、天武崩御直後、大津皇子に悲劇が起こってしまうが。)

 もう一首、引いておく(103)。

 <天武天皇.> 我が里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後​(のち)

「降らまく」の「まく」は、推量の助動詞「む」の「ク語法」ということらしいので、「降らまくは後」は「おそらく降るのはもっと後になるだろう」という意味。古代の大和地方では、雪はめでたい物という感覚があって、天武は大原に住んでいる藤原鎌足の娘に対して、自分がいる飛鳥浄御原のほうが早く雪が降ったぞ、そっちはまだだろう、と自慢しているような内容である。秀歌というより幼稚な戯れ歌みたいな印象だが、強大な力を持つ武人・軍人・政治家であった天武にも、一面において、そういうふうに機転を利かせて戯れ事を言うような感じもあったのかな?とも思う。ここでは紹介しないけれども、額田王とのやり取り(20、21)からも、少々似たような雰囲気が感じられなくもない。

 今度は柿本人麻呂による秀歌(万葉集30)を引く。

 <柿本人麻呂> 楽浪の 志賀の辛崎 幸(さき)くあれど 大宮人(おほみやひと)の 舟待ちかねつ

これは「近江荒都歌(おうみこうとか)」と呼ばれる歌のひとつ。壬申の乱の際に近江大津の宮は焼亡し、おそらくはそれからかなり年月を経た後に人麻呂がその地を通る機会があり、かつての都が廃墟となっている光景を目にして詠んだ歌である。楽浪(ささなみ)は琵琶湖の西南岸地域、志賀(しが)は現在の大津市の北部、唐崎(からさき)は、大津の宮が置かれた地。「幸く」=「変わりなく」、「大宮人」は宮中に仕える人。「待ちかねつ」=「待ちかねてしまった」。かつて大宮人が遊ぶ舟で華やかなにぎわいを見せていたはずの唐崎の地で、(自然の景色は)何も変わらないけれども、いまはもう(大宮人が乗った舟を見たいと待っていても舟が来ることもなく)待ちかねてしまったと嘆く気持ち、荒涼感を歌っている。

 同様に、近江の古都を偲ぶ歌をもう一首(万葉集266)。

 <柿本人麻呂> 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

​「汝(な)」=「おまえ」、「しのに」=「しんみりと」。

676 年:新羅の朝鮮半島統一。

☆ 唐 頼り  無難 無理なく  新羅の統一

4~7世紀の朝鮮半島では北部に高句麗(こうくり)、南東部に新羅(しらぎ)、南西部に百済(くだら)の三国が並び立っていた。これを三国時代と称する。(南端部に任那〔加羅〕もあったが、これは弱小勢力だった。)7世紀なかばに唐と結んだ新羅は、唐の援軍を得て、百済を660年に、高句麗を668年に滅ぼした。そして676年には、半島内に駐留して新羅自体にも支配を及ぼそうとする唐の勢力を排して、朝鮮半島の統一を達成した。(つまり新羅としては、外交政略として唐を「頼り」はしたが、頼り切っていたわけではない。)その後、新羅は唐の脅威に対して、謝罪外交でしのいだり、渤海(698年建国)の動向を利用しながら、半島支配を維持した。10世紀に高麗が出るまで、新羅による朝鮮半島の支配は続く。日本との間で頻繁に使節の往来が行われたが、その関係はギクシャクした面もあったようである。

​[天皇]第40代・天武天皇(位673-686)

​[中国]唐、第3代・高宗(李治:位649-683)、皇后:則天武后

690 年:持統天皇の即位。

☆ 天武 逝き  労苦を厭わぬ  持統女帝

 

天武天皇(40代)は686年に崩御した。その直後、後継として有力とも見られた第3子(ただし、鸕野〔うの〕皇后との間の子ではない)大津皇子は謀反の疑いをかけられて自害し、天武と鸕野の間の子である草壁皇子が(鵜野の称制を介して)次の天皇となるはずであった。しかし草壁が689年に急逝してしまったため(享年28歳)、鸕野は690年に第41代・持統天皇として即位した(即位時46歳)。持統女帝は天武の妃でもあったけれども、元々、天智の娘でもあって、天智系/天武系という観点からは位置づけが判りづらい人である。(天智は鸕野を含む4人の娘を"弟"の天武に嫁がせている。そもそもこれも分かり難いのだけれども。天武は天智にとって"弟"というより懐柔しておきたい外部の実力者という感じなのだろうか?) そして持統自身、政務を遂行したとされるが鎌足の子・藤原不比等が(天智の娘である)持統天皇に政略的に近づいていったという事情もからんできて話は複雑である。持統朝では律令体制の整備を進める裏で、藤原氏が実権を掌握して権力基盤を固めていったようである。持統は自身の子の草壁を皇位につけられなかったわけだが、697年(53歳)まで天皇位にとどまり、自らの孫の文武天皇(42代)に皇位を譲ることに成功した。(天武の第一皇子で〔持統の子ではないけれども〕持統の下で太政大臣を務めていた高市〔たけち〕皇子は、この譲位前年の696年に死去している。高市皇子の死去の経緯は不明なのだが、もしかすると持統が謀った暗殺だったのではないかと疑いたい気分にもなる。)

 日本神話の「天"孫"降臨」、すなわちアマテラスの孫のニニギノミコトが葦原中つ国を統治するために高天原から降臨したという話は(アマテラス系の神が降臨するという神話は元々あったにしても、部分的な改変という形で)持統-文武の関係が投影されたものではないか、という説がある。

​[天皇]第41代・持統女帝(位690-697)

​[中国]隋(周)、則天武后(位690-705)

大津皇子(おおつのみこ)が天武の死後、即座に謀反の罪で自死に追い込まれたのは、自分の子である草壁の即位を望んだ持統が手を回した結果であろうと考えられており、全くの無実の罪だった可能性もある。万葉集から大津皇子の辞世の歌(416)を引いてみる。

 <大津皇子> 百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

「磐余」は奈良盆地南部の橿原~桜井あたりの古地名。「雲隠る」は「死ぬ」ということ。「百伝ふ」は純粋に慣用として「磐余」に付いている枕詞で「百」とか「伝」に実質的な意味は全くないようである。

もう一首、万葉集から柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌(48)を引いておく。

 <柿本人麻呂> 東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

これは10歳の軽皇子(後の文武天皇)の狩りに同行した人麻呂が詠んだ歌。「かぎろひ」は、明け方の曙光のこと。軽皇子を曙の光にたとえ、その反対側で沈み行く月を亡くなった草壁皇子に見立てて追慕している歌である。柿本人麻呂は、詳しい素性は不明なのだが、主として持統-文武時代に宮廷歌人として活躍した万葉集を代表する歌人。後に「歌聖」と呼ばれた。

694 年:藤原京へ遷都。

☆ 藤原へ  労苦 しのんで  遷都する

 

藤原京は、日本で最初の本格的な中国風の都城であった。持統女帝(41代)の時代に飛鳥からほど近い北方に造営され、694年に遷都が行われた。造営の意は天武(40代)にすでにあって、その遺志を継いだとも言われるが、真の動機はよく分からない。(「藤原京」という名前からして、藤原氏の何らかの意向があったということだろうか?もっとも当時「藤原京」と呼ばれたわけでなく、この呼称は後世の学者が"仮称"として用いたものが定着したらしいのだが。)長く律令政治の中心地となるかと思いきや、わずか16年後の元明女帝(43代)のときに、再び平城京への遷都が行われることになる。

[天皇]第41代・持統女帝(位690-697)

[中国]隋(周)、則天武后(位690-705)

万葉集から持統女帝の御製(28)を引いておく。

 <持統天皇> 春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)干したり 天(あめ)の香具山

藤原京は大和三山(耳成山畝傍山香具山)を周囲に眺める位置に造成されており、持統は藤原京でこの歌を詠んだのではないかとも思われる。単純に考えると洗濯物が干してあるのを見て夏の到来を感じた、というふうにも読めてしまうけれども、「白栲の衣」は単なる衣ではなく祭祀用の装束であろうという見方もある。更に持統が当時の政治の中心的人物であることを考えると、あるいは背後にもっと深い意味があるのかもしれない。

698 年:渤海の建国。

☆ 渤海 建国  高句麗人が  報われる

 

中国東北地方(朝鮮半島北方)にあった高句麗は、668年に唐と新羅に滅ぼされたが、高句麗人(と言われる)大祚栄が、その後の唐の弱化に乗じて698年に渤海を建国した。渤海は10世紀に遼に滅ぼされるまで続き、渤海からは(渤海と接している唐・新羅との対抗上の意味で)しばしば日本に使節を送って来たようである。

​[天皇]第42代・文武天皇(位697-707)

[中国]隋(周)、則天武后(位690-705)

701 年:大宝律令の制定。

☆ 大宝[律令]で  なお 一層の  集権化

 

大化の改新の後、律令国家の構築が進められ、具体的な律令の編纂も天智天皇(38代)の近江令(天智が即位した668年)以来、天武(40代)・持統(41代)の時代も続けられた。(飛鳥浄御原令が689年施行。)そして697年に持統女帝から譲位を受けた持統の孫の文武天皇(42代)の時代、藤原不比等らにより編纂作業が進められ、701年(大宝元年)に大宝律令が制定された。(持統は翌702年に崩御する。)これを持って、大化の改新以降すすめられてきた律令政治の制度の整備が、概ね完成したことになる。中央組織としては二官(太政官・神祇官)八省(中務省,式部省,治部省,民部省,兵部省,刑部省,大蔵省,宮内省)が設けられた。地方行政区は国(だいたい現在の県レベル)-群-里という形で分けられ国を収める国司には中央貴族が派遣された。国司は、基本的に4等級(〔かみ〕、介〔すけ〕、〔じょう〕、〔さかん〕)の人員で構成され、任期制(交代制)であった。以前からの豪族が特権を与えられた官職に就いて貴族となり、一方、人民は班田収受法(土地の私有を許さず政府が田地を分割貸与する。"班"は"分ける"という意味である)によって「国家」から直接管理される形になり、重い税負担を負った。その税制度の基本が「租庸調」で、「祖」は田地にかかる穀物納税、「庸」は労役、「調」はその土地の産物の納入を義務づけたものである。しかし官位の高い貴族などは、課税を免除されたり、職部田〔しきぶでん〕、功田〔こうでん〕など土地の私有が許される制度も盛り込まれていて、要するに"有力者"に都合のよいダブル・スタンダードな法体系であった。

 結局、大化の改新以降、藤原氏が律令制度の導入・整備を推し進めた真の目的は、①旧来の豪族が持っていた権力や経済力(私有地)を一旦は手放させ、なるべく"リセット"に近い状態にしてから、できるだけ自分たち(だけ)が圧倒的な権力や経済力(広大な私有地)を持てる体制に持ち込む、②皇位継承の手続きを明確にして、自分たちの皇室に対する婚姻策をやりやすくする、という2点だったのではなかろうか。

​[天皇]第42代・文武天皇(位697-707)

[中国]隋(周)、則天武后(位690-705)

万葉集から一句、「調」に関わる歌(3373)を引いておく。

 <東歌> 多摩川に さらす手作り さらさらに 何ぞこの子の ここだ愛(かな)しき

東京に「調布」という地名があるが、これは「調」として「布」を納めていたところ、という意味である。歌の序詞の中に出てくる「手作り」は、「手織りの麻布」という意味で、まさにこの「布」のことである。現在の東京の中心地は、後に徳川家康が都市開発をした東側の地域になっているけれども(皇居は江戸城跡である)、律令時代の「武蔵の国(だいたい東京都と埼玉県を合わせた領域)」の中心地は、もっと西よりで、​「府中」が「国府」の所在地だった。ちなみに「府」という漢字の元々の字義は「物をしまっておく建物」という意味で、それが転じて「宮廷の文書・財宝を収める建物」→「役所の行政文書を収める建物」→「役所・官庁の所在地」と変遷したようである。現代の行政区域である「大阪府」「京都府」の「府」もそういう筋の用法である。他方「県」の元々の字義は「処刑された人の首を木にかけておく」というような意味みたいで、なかなか怖い。本来は「中央」から干されてつるされるようなポジションという含意なのか、あるいは人民に対して、刑罰を行う主体という意味合いなのか・・・?

 上の歌だけでは、律令時代の庶民は穏やかに生活していたのかな?という誤解を与えそうなので、"社会派歌人"山上憶良(660-733年)の「貧窮問答歌」なども見ておいたほうがよいかもしれない。長歌で下層役人と庶民の悲惨な生活を描写しているが、ここではその反歌(万葉集893)だけを引いておく。

 <山上憶良> 世間(よのなか)を 憂(う)しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

「やさし」は、動詞「痩す」に対応する形容詞。「身が痩せ細るように辛い」の意味である。

708 年:和同開珎の発行。

☆ 造っても  何故 流行らぬか? 和同開珎

 

708年、武蔵国秩父郡で産出された和銅(純度の高い稀少な自然銅)が朝廷に献上され、そのことから元号が「和銅」と改元された。その708年、朝廷は唐の鋳貨にならって、和同開珎を製造し発行した。これは日本で最初の流通貨幣と言われる。その他にも政府は貨幣を発行し普及をはかったが、一般には物品による取引きが行われており、急速に貨幣経済が進むということはなかった。この時代の鋳貨の使用は主として畿内に限られ、他の地域ではあまり流通していない。

​[天皇]第43代・元明女帝(位707-715)

※ 本ホームページを御覧の方への御注意:

このページの作成に利用したホームページ運営元の方針により、このページをそのまま印刷することは不可能となっているようです。印刷をしたい方は、お手数ですが、テキスト部分のコピー&ペーストや、Print Screen機能などにより、内容を他のファイルに移して印刷してください。

↓ 書籍[等]販売サイト トップページへのリンク ↓

ハイブリッドhonto中ロゴ.png
e-hon中ロゴT.png
訪問者数(UU)
bottom of page